第2章 眠レル森ノ少女と壊レタ家族11
咲人は軽く飛び跳ねて屋上へ戻ると、燃え上がる山に向かって駆けていく。
英利は彼を追おうとはしない。
(――優しい夢)
唄子は唇を動かして、咲人の言葉をなぞった。
『――忘れて。優しい夢だけを見ていて』
昔、「綺麗な人」が泣きじゃくる唄子にそう言った。
熊と遭遇した日。
父が熊のような怪獣になって襲いかかってきた、と唄子は勘違いして、叫んで、叫んで、走って逃げた。
すると、目の前に「綺麗な人」が降り立ってきて唄子を見つめた。
(その人が言ったんだ。優しい夢だけを見ていてって)
次に目を開けると、唄子は救急車の中だった。
救急隊員に「綺麗な人が助けてくれた」と唄子が言ったそうだ。
「……ちょい、竹村」
「胸は小ぶりで、ちょうど良いと思う」
英利の腕が、ちょうど唄子の胸の上を横断していた。
殴ろうとしたが、英利は簡単に避ける。
彼は唄子の前に立って、浴衣の開いた胸元からスマホのカバーを取り出した。
「はい。返せって言っただろ」
「本体の方は?」
「いるのは、ストラップだけだろーが」
英利は、それぐらい分かっていると言う顔をした。
唄子はカバーを受け取って、新しいスマホに付けてポケットに入れる。
「アヤは?」
「長老の元へ行った後、成吾と筒獣の捕獲に向かっている」
「もう、わたしは一人で逃げられるよ。竹村は、二人を助けに行かないと……」
「君が必要だ」
唄子を握る英利の手の力が強くなる。同時に唄子の眉間に皺が寄った。
「あの筒卵は咲人の意志を宿した。筒卵は、宿主の記憶を溜め込んでいく装置のような働きを持つ。咲人の意志が内部にあるから、前回、君は助かった」
「もっと詳しく言いなよっ」
すると英利は、面倒くさいという顔になってから、もう一度口を開く。
「咲人は幼少のころ病弱だったために、なかなか筒獣の狩りに連れていってもらえなかった。彼より、俺の方が先に狩りに行っていたくらいだからな。よほど、家の者達から信頼されていなかったんだろうよ」
それが聞きたいんだろう、という顔をして英利が唄子を見る。
「はじめて彼が筒獣を倒したのは15歳の時だ。金山市郊外の住宅地付近で、偶然、筒獣に遭遇した」
終わりを言われるまでもなく、結論が分かった。
「君は、咲人が初めて救った人間で、彼を表舞台に引っ張り出した立役者だ。咲人にとって、君は宝物だ。守るべき存在なんだ。そのため君の存在を知っているのはごく少数だ」
(熊を倒してくれた人は咲人――)
なんて皮肉な現実だろう。
これがお伽話なら咲人は立派な王子様になっているはずだ。
なのに、咲人は悪いことをするお姉さんの部下らしい。
「だから、俺は君を利用する」
「はぁぁぁっ?」
少年の言葉に耳を疑った。
「あんた、わたしを助けにきたんじゃないのっ?」
「そんなこと一言も言ってない」
「言わなくても、守るもんでしょっ」
「……えー」
いつも通り、唄子は英利にイラッとしてきた。
「いいか、お嬢には戦う気力がない。相手が実の姉と従兄だからだ。成吾は戦い方を知らない。無茶しているだけだ。だから唄子くん、俺は君をつれていって、敵を錯乱させることに決めた」
ヒーローがヒロインを助けてくれない。これが現実なのだ。
(ま、いいや。だって、そこにいるのは……わたしの友達だもの)
「で、わたしは何をしたらいいの。出来ることならやってやるぞ。友達の命かかってんだもん」
ふんぞり返って訊ねると、英利はあくどい笑みを消して唄子に顔を近づけてきた。
真摯な瞳が唄子の姿をとらえる。
「ただ俺の側にいればいい。俺に庇われて、俺に泣きついて、俺に抱きついていればいい。そうしたら、俺は君の為に、なんだってしてやる」
最後の言葉は囁き声だった。
触ってみたいと思わせる柔らかな猫っ毛が、唄子の額に当たる。
キスされそうな距離だ。唄子は魅入られて動けない。
目の前にいるのは、きっと悪魔のメフィストファレスだ。
なんとか彼の視線を避けるように俯こうとしたが、節の目立つ長い指に邪魔された。
英利が唄子の顎を掴んで上向かせる。
「――君を、守るよ」
「それ、さっきの言葉のせいで信じられない」
「あー、やっぱり?」
「それに、アンタはアヤの姉ちゃんの婚約者なんでしょ」
「まぁね」
「くそったれ」
言い返しながらも顔の筋肉が変に強ばって、しっかり声が出なかった。
なんて男だろう。
こんな事態で、守るなんてセリフを恋人でもない女に言えるなんて。
「時間がない。行くぞ」
頭がこんがらがったまま、唄子は中庭の出入り口から炎の山へと向かう。
手を引くのは、たぶらかすのが上手いメフィストファレスだ。
ヒーローでも王子様でもない。
(男なんてっ)
唄子は走りながら思う。
(やっぱり男なんて、バカヤローだ!)




