第2章 眠レル森ノ少女と壊レタ家族10
咲人の袖をおろした左肩は包帯で覆われている。
唄子はスマホで、綾女と連絡を取ろうとした。
だが、指が上手く動かなかった。
緊張すると指が動かなくなるのは子供の時からだった。
110番を押せない指が、歯がゆかったのを今でも覚えている。
咲人は三階建ての建物から、ふわっと飛び降りる。
重力なんて関係ないのか、膝をつこうともしない。
「……なんのようかな?」
唄子は虚勢を張って、咲人をにらみつける。
相手は怪我人だ。なんとかしたら勝てるかもしれない。
しかも、彼女は善人ではなかった。
成吾のバッグのショルダーを右手で握りしめ、近づく咲人に向かって振り回す。
狙うは怪我をしている左肩だ。
しかし、咲人に唄子の攻撃は通用しなかった。
バッグを振り回している内に、咲人は目の前から消えていた。
「大人しくしなさい!」
耳元で咲人の怒声がし、真後ろから右腕が伸びて口を塞がれた。
「ぐぁっ」
拘束する腕が緩み、咲人が地に尻を着く。
唄子が咲人の顎と喉仏に頭突きを連打したのだ。
「……今時の女子をなめんな!」
言い放ってから、自分の歯が震えていることに気がつく。
咳き込む咲人を眺めながら、唄子は後ろに下がろうとした。
だが、もう身体が萎縮して動けない。
唄子は小さく首を振りながら、脚をなんとか動かそうとする。
(来ないで、そんな目で見ないで、怒らないで)
「こっちに来なさい」
咲人が立ち上がり、鋭く唄子を睨んで腕を伸ばしてくる。
唄子の背が校舎の壁に当たった。
前を見つめたまま、手で校舎の窓を探る。
窓には鍵がかかっている。逃げられない。
「うたこは、わるいこと、なにも、してないよ」
恐怖に締め上げられた喉で訴えかける。
父親が咲人と重なる。
(怖い、怖い。コワイッ)
現実はいつも理不尽なのだ。
暴力を行使する相手の都合で、唄子は簡単に踏みにじられてしまう。
咲人の手が唄子の右腕を掴んで引っ張り、後ろへねじり上げる。
「いたいっ」
「静かにしていれば、悪いようにはしない」
「……もう、しているだろ」
誰かの声が聞こえたと思ったら、背後で鈍い音が炸裂した。
咲人の顔を肘打ちし、その瞬間に唄子を自分の胸に引き寄せる人――白い浴衣を着た英利だ。
鮮やかなどんでん返しに、悲鳴も歓声もでてこない。
ただ出てきた言葉は、一言……。
「もっと早く来てよ」
「我が儘なお姫様だな」
いつも通りに小馬鹿にしている返答で、唄子は少しホッとする。そのまま彼女は英利の左腕にしがみついて、浅く速い呼吸運動を繰り返した。
「回復が早いですね」
咲人は打たれた右目を手で押さえて、英利をやぶにらみした。
「そっちこそ。怪我人は大人しく介護されておくべきだろ」
「いつ動けるように? 僕が逃げ出すときにはまだ水の中だったはずです」
「だから咲人は駄目だって言うんだ。治癒の池ならいくらでもあるのに、わざわざ君の前を選んだのはなぜだと思う? 見張るために決まっているだろ」
「相変わらず小賢しい……」
「そっちが間抜けなだけだ」
英利は帯にさしていた太刀を抜いて、片手で構える。
太刀の刃は、木刀並に尖っていない。
太刀の形をした鋼鉄の打武器だった。
「ここで、貴方とやりあうつもりはありません」
咲人は右目から手を下ろす。眼球がなかった。
ぽかりと開いた穴から涙のように血が流れ落ちてきた。
「俺も同じだ。俺は貴方の曇った目を落としに来ただけだ」
英利が爪先で何かを蹴飛ばす。
眼球だ。ガラス製らしく、花壇の煉瓦に当たるとカツンと澄ました音をたてた。
「目が曇っているのは、死した者達の意見ばかりを尊重する紀田です。生者の最も尊ぶべき権利を迫害する紀田です。屡衣様がそう仰っていました。僕も正しいと思っています。……だが英利、貴様は正しいと思わなくとも屡衣様と共に来るべきでした。屡衣様の婚約者なのだから」
最後の内容に驚いて唄子は「えっ」と聞き返した。
「彼は、屡衣様の婚約者だ。子を成すためのつがいだ」
「アヤじゃないの?」
「どっからお嬢が出てくる。ガキの時は風呂まで一緒だったのに欲情できるか」
「屡衣様も、それで? 手を出さなかった?」
話しかける咲人の姿は、悲しみに満ちているようにみえた。
「だから、今回の話はチャラにしてやるっていっただろう。俺はな」
英利が話を続けようとするが、咲人は逃げ場を探していた。
英利が口を閉ざして、刃のない太刀を構える。
「その子を守るというなら、預けましょう。護孔を壊す手は、いくらでもある」
咲人が間合いを取りながら、逃げの一手を打とうと動き出す。
「屡衣は、どこに隠れている! 何を考えているんだ!」
「あの方のことを一番詳しく存じているのは――僕より側にいなければならないのは、竹村英利……お前でしょうに」
自分を抱きしめる腕の力が強くなる。
唄子は英利の顔を見ようとしたが、その前に咲人と目が合ってしまった。
恐怖でまた動けなくなる。
咲人は悲しい顔をして唄子から目をそらした。
「紀田とは無縁でいて欲しかった。貴女は、僕等のように怖い思いなどせず、優しい夢だけをみていれば良かったのです」
なぜ、と唄子の唇が動く。
(それを知っているの……?)




