第2章 眠レル森ノ少女と壊レタ家族8
――それから非日常が、日常を侵略し続けることはなかった。
朝が来て夜が来て、それを幾度繰り返しても、非日常は唄子の前に現れなかった。
綾女が成吾の中の鬼の斧にお願いしにいく事だけが微妙に変なだけで、あとはほぼ元通りだった。
完璧に元通りの日常となるには、一人足りなかった。
学校に来ても、竹村英利がいなかった。
唄子も綾女も、たぶん成吾も、意識的に彼の話題を避けていた。
水に浸かっていれば治るといっても、酷い怪我だったのだ。
両腕は完全に焼けこげ、腹部と両足が爛れていた。
脳と眼は治りが悪いからと腕で庇っていたそうだが、鼻から下の皮は赤黒く変色していた。
(竹村は、綺麗だったのに……)
風に靡く猫っ毛、清涼感のある顔立ち、背は高いけれど威圧感はない。
髪は黄みかがった飴色、瞳は日本人なのに青い。
まるで外国人のようだ。
見た目だけの評価なら、綾女の次に高い。
男の癖に高得点だ。
ただ、ひんまがった性格が思いっきり足を引っ張っていると思う。
そうだ、と唄子は咲人の顔を思い浮かべる。
彼も綺麗だった。
紀田の家というのは、そういう容姿を生み出す家柄なのだろうか?
英利も咲人も、唄子の知っている男を彷彿とさせない。
人間くさくないのだ。
(アヤもアヤのお姉さんも、どこか人間くさくない)
今ごろになって、唄子は思いだした。
(ママと一緒に金山市へ逃げてきたとき……。行き交う人が異質に見えた)
紀田の血が、そんな空気を作り出しているのかもしれない。
(わたしは、あん時。別世界に来たんだって感じた。赤ちゃんの時から会ってなかったお祖父ちゃんも、お祖母ちゃんも、どっか違っていた)
唄子は窓を見つめる。
ガラスに映るのは、綿菓子みたいに膨らんでしまう癖毛、ちょっとだけ瞳が内側に寄っている子供っぽい目、丸い顔。
(これにも、ちゃんと紀田の血入ってるのかなぁ。同じキダでも、三バカはそうでもないよねぇ。やっぱり血の薄い濃いがあるんだろうねぇ。三バカよりセイの方がとっても可愛いし)
唄子は窓ガラスに映る自分の姿と成吾の姿を眺め、そして思う。
セイを可愛いと素直に思えなくなってきている、と。
(セイが変わってしまう……)
唄子は瞼を下ろした。
しだいに成吾が成長していく。
傷つきやすそうで、泣きそうで、倒れそうな成吾ではなくなった。
綾女と一緒に鬼の斧を説得したり、事件の後遺症に悩まされる両親の為に病院を探したり、と前向きになっている。
(このまま男になっていくのかなぁ。やだなぁ)
でも自分勝手な想いだよね、と彼女は冷静に判断する。
唄子の心には、夢に浸っていたい部分と、シビアに事実を見極める部分が共存していた。
夢の住人が、また一人いなくなる。
綾女も、もうすぐいなくなる。
成吾は生きる方法を掴み、綾女は力を手に入れるだろう。
唄子は夢の話のお終いを考える。お姫様は武器を手にとって血なまぐさい世界へ旅立ち、家族に匿われていた女の子みたいな男の子は鎧を身につけて外へ飛び出す。
(アヤもセイもいなくなったら、わたしはどうしたらいいんだろう?)
夢の中に残された少女を、どうしよう。
眠り続けて夢の国の番人をしていたい少女を、どうしよう。
(わたしは外に連れ出す王子様を待ってない。だからずっと眠るだけ……。独りぼっちだもんね。眠り続けても、誰も文句なんか言わないか)
窓から目をそらして、黒板の上の時計を見る。もうすぐで授業が終わる。
ジリリリリリリリ!
けたたましいベルの音が、学校中を駆けめぐった。
非常ベルの音だった。
「学校の裏側で森林火災が発生しました。火はまだ強くありません。皆さん、落ち着いて速やかに非難してください。校門に全ての学園バスを待機させています。その他、避難用に数台のバスを手配しています。自転車通学の生徒は自転車を使用してください。また、中等部へ続く裏通学路は閉鎖しています……」
スピーカーから流れてきた学園長の声が緊迫している。
成吾は机の上で両の拳を握りしめていた。
険しい横顔に事態が紀田と関係があることを知る。
「唄子はみんなと一緒に帰って。バスに乗って、駅にいって、なるべく学校から離れて」
「セイは?」
「オレは唄子と一緒にいることにするから、親から電話あったら話し合わせてくれな」
「セイはっ!?」
唄子は成吾の肩を掴んで、自分の方を向かせた。
その一秒にも満たない間、成吾の全身から白い煙が出ているのを見た。鬼の斧の煙だ。
言葉を失う唄子に、成吾は言う。
「熊を狩り損ねたんだ。濁った天水を護孔が捕まえるはずなのに、護孔は捕まえられなかった。濁った天水は屡衣にくみ取られて、何かに寄生したらしい」
答えをくれているのは、彼の中の筒器鬼の斧だろう。
「みんな静かに。火はまだ小さい。必要な物だけ持って学校を出なさい!」
教師が声の力で騒然とする生徒達を黙らせる。
「さぁ、急いで。財布と定期券とスマホは持ったか? それだけあれば、なんとかなるはずだ。弁当なんかは気にするな。必要最小限の物を持って、静かに移動すること。廊下と階段は走るな。普段通りの速度で充分だ」
パンパンと手を鳴らしながら、教師が的確に指示をする。
教室から生徒達が消えていく。
唄子と成吾だけが動けないでいる。
「セイっ、セイは逃げないのっ。どうしてよっ」
成吾は首を振った。そのたびにシャツの袖や胸元から煙が流れ出る。
「戦わなきゃ。じゃあな、唄子っ」
「わたしも、行くッ」
「邪魔っ」
厳しい顔で成吾が唄子を拒絶した。
「ごめん唄子……だけど、唄子がいたら――また巻き込む」
緊急事態なのだ。
「……そうだね。帰るよ。バスに乗って、駅へ行って、電車に乗ればいいんでしょっ。わたしはお荷物になんかならないぞっ」
あっかんべーをして教室を飛び出す。そして一人の従順な生徒として廊下を早足で進んだ。




