第1章 落下スル少年と殺意アル刃物3
成吾は逃げる意識の端っこを掴んだ。
正気を取り戻して目を開けると、視界は斜めだった。
身体は自転車ごと傾いたまま疾駆している。
その先にあるのは、巨大な水たまりと、雑草が生い茂る藪だった。
体勢を立て直せず、どうにもならなくてハンドルを手放した。
自転車は水たまりに倒れ、成吾は枯れすすきの中にごっつんごろりと転がった。
「いてぇ」
当たり前だが、落ちると痛い。
事件の時、そうじゃなかったのは、警察のクッションが敷かれてあったからだ。
なのに未だに落ちると助かるという考えが脳にこびりついている。
成吾は「いてぇいてぇ」と繰り返しながら茂みの中で蹲った。
少ししてから大きく息を吐いて、眼鏡は無事かと顔を押さえる。
指に触れるのは、シャープな眼鏡フレームのライン。
眼鏡は大丈夫だ。
きっと大凶の日なんだ。
(小テストもあったし、事件の番組は見てしまうし、男にナンパされそうになるし)
寝転がったままパーカーとパンツのポケットに手を入れる。
(財布おっけー、スマホおっけー)
いてて、と呟きながら顔を上げ、自分の位置よりやや上にある水たまりを見る。
(チャリは多分おっけー。マンガは水の中で絶望的……)
八百二十円の損害である。
(先月、通信料使いまくって金ないのになぁ)
茂みから起きあがろうとしたとき、周囲が明るく照らし出された。
タイヤを鳴らしながらカーブを曲がる白い車。
パトカーではない。やたらと目立つ大きな車だった。
赤い小さな車に追いかけられて、こっちへ向かって来る。
道路には成吾の自転車が転がったままだ。
「――あっ!」
急ブレーキの音が鳴り響く。
水たまりがタイヤに切り裂かれ、自転車が跳ね上がり、白い車の前面に張り付く。
車は自転車をぶら下げながら水たまりの中でスピンして止まった。
赤い車は鮮やかなハンドル裁きで、カーブと自転車の障害を切り抜け、白い車の五メートルほど前に急停止する。
二台の車は互いにライトで照らしあいながら対峙していた。
白いのはテレビでよく見るロールス・ロイスだ。
フロントグリルの上にある女性の彫像に、自転車の後輪が引っかかっている。
赤いのはミニクーパーのコンパーチブルだった。屋根は上げている。
どちらも名前は知っていても、実物を見るのは初めてだった。
成吾は頬の泥を拭って、斜め上と斜め下に停まっている二台の車を交互に見た。
ロールス・ロイスはカーチェイスには向いていない。
追いかけっこを仕掛けたのはクーパーの方だろう。
クーパーの助手席には、紺色の大きな包みを抱えた赤い振り袖姿の少女がいた。
(紀田……綾女?)
胸下まで伸ばされた艶がある黒髪、くっきりとした切れ長の二重、瞳は濡れて輝くようで、肌は白く滑らかで透明感がある。
まるでこの世のものではないような美しさだ。
見間違えようがない。彼女は隣クラスで異彩を放つ美少女である。
綾女の顔は険しく、事態が緊急時であることを成吾に知らせた。
芯が強いから静謐でいられる、という感じの少女だ。
その凛然とした美しい姿を見るたび、悟りを開いた尼さんっぽい、と成吾は思っていた。
その彼女が、怒りや焦りという表情を見せていた。
「車から降りてくださいまし、咲人さま!」
彼女は口に片手をそえ、ロールス・ロイスに向かって大声で呼びかける。
「族長に続いて副族長も離反だとはな。情けなくて、嗤える」
その隣から若すぎる男の声が聞こえた。
クーパーの運転席に、同じ学校の制服を着た男子生徒が座っている。
すすきが邪魔して顔は見えないが、シャツ襟に縫いつけられた学章が緑だから一年生だ。
暫くして、ロールス・ロイスから一人の青年が降りてきた。
「新族長が直々に捜索ですか? 宴には出ないおつもりですか? 紀田一族のそうそうたる顔ぶれが貴女の着任を祝って集まっているというのに」
長めだが綺麗に切りそろえられた髪、皺のないスーツに、磨かれた靴。
背筋を伸ばして歩く様も、言葉遣いも、やたらと生真面目だった。
「見たら分かることを長々と口に乗せるって事は、打つ手がないからだ。違うか?」
(竹村英利か)
変人と名高い綾女と同じクラスの少年だ。
制服姿で堂々と車を運転しているのが、いかにも彼らしかった。
綾女と英利は幼なじみだ。
綾女の助っ人を英利がしているのは、ごく自然に感じられた。
「黙れ、竹村の小僧が」
「降りては来たけれど、次に何したらいいのか迷っているようだな。咲人、俺ならやることは一つしかないって分かるが……教えてさし上げましょうか?」
「主人を簡単に変える犬から、教えてもらうものなどありません」
「咲人さまのお気持ちは分かります。お姉さまを庇っただけですのに、筒器を奪われ、副族長としての権利まで縮小されてしまうだなんて」
綾女が包みを抱いたまま車から降りてくる。咲人が短く笑った。
「僕の離反は、貴女にとっては朗報でしょう?」
咲人さま、と綾女が息苦しそうに呟いてから、かぶりをふった。
「……この決定は、わたくしも本意ではありませんわ。だからこそ、誰にも言わず、わたくしと英利だけで迎えにまいりましたの」
綾女はそう言いながら男に手をさしのべた。
「なにもおっしゃらず、筒卵を返してくださいませ。そして、一族の所へ戻ってくださいませ」
男は溜息をついて、スーツの内ポケットに指を入れた。
蓋のついた白い小壺を取り出すと、手の平の上に乗せて綾女に見せる。
「僕が一本盗んだと、良く分かったね」
「わたくし、本来は筒卵の管理者でございますのよ。筒卵が護孔から離れると、身体に伝わってきますの」
「……でも、これ。祭事の時だけ出し、あとは封印して眠らせるだけなど、つまらないと思いませんか? 筒卵の力を使えば、金山市だけではなく、日本中を紀田族の領土に出来るというのに」
咲人の話を聞いていた綾女の顔に怒りが混じる。
背筋が伸び、全身に力が漲っていくように見えた。
「綾女も、知っているはずです。筒卵さえ上手く使えば、世界だって手に入ると。長老方に命令されるまま人生を歩むなどしなくていいと」
「筒卵は、簡単には操作できませぬ!」
英利が杖を持って車から離れ、綾女の前に立つ。
「お嬢、ムダだ。こいつ、屡衣の信奉者だったからな……。お嬢は車へ戻ってろ。こういうのは俺の役目だ」
綾女が首を振った。
「英利、暴力は駄目ですわ。咲人さまは筒卵をお持ちですのよ」
咲人と呼ばれている青年は小さく笑っている。
余裕があるようだ。彼は笑みを浮かべながら天を仰ぎ見た。
「今日は風も強いし、雨も降っている。ここで壺が割れたら筒卵を見失ってしまうかもしれませんよ。それでも力尽くでもぎ取ってみせるのですか?」
「俺は壺が割れる前に、お前を倒す自信がある」
英利が腕を真っ直ぐ真横に上げて、細長い杖を闇に伸ばす。
「筒器を奪われた紀田より、竹村の武術の方が勝る。そうは思わないのか?」
色素の薄い猫っ毛が強風に広がり、薄い唇がニンマリ曲がった。
咲人は英利を睨んで小壺を握りしめる。実力は英利の方が勝っているらしい。
(……んー)
茂みの中で成吾は途方に暮れた。
(三人とも、オレの存在に気付いてなさそうだけど。あの壺の中身、そんなに高級品なのか?)
ずんぐりむっくりとした飾りもない白い壺だ。
高級品ではなく実験材料が入っていそうな感じである。




