第1章 落下スル少年と殺意アル刃物2
成吾の家は開発されて間もない新興住宅地の一画にある。
土地は窪地で、周辺は松の防砂林から続く雑木林だ。
都市部近辺での田舎暮らしを売りにした為、微妙に生活が不便だった。
コンビニもスーパーも近所にない。
それが原因か、殆ど家が建っていないからか、街灯の数が極端に少なかった。
自転車仲間で評判の良かったLEDライトでも頼りなく感じる――闇。
雨の名残が、路面をでらでらと黒光りさせていた。
道路は遠くの街灯に向かって伸びている。国道に繋がる唯一の道だった。
だけれど、誰も此方にはこない。
人が住まないから、人がこない。
誰もいない。
(だからさ、人なんていないんだってば)
己を叱咤して、成吾はペダルを思いっきり踏んだ。
さっきのテレビの音が耳に残ってて、ずっと声が聞こえてくる。
白いビルを囲んで騒ぐ人々の声だ。
パタパタと風に叩かれる葉音が人の声に聞こえてしまうのだ。
テレビの所為だ。
思い出したくない。
もう思い出したくはない。
思い出したくはないのに――……
「警察のヤツラが、馬鹿な真似をしねぇように先制攻撃しとくかな」
犯人の青年が積み重ねられた机の谷間に半身を入れて、窓のブラインドから外を覗いていた。
他の窓は、ロッカーや棚や机の山で外部からの侵入者を拒むように塞がれている。
「大人しいから女にすっか?」
青年は薄笑いをしながら両手に持っている細長い包丁の先で事務室にいる人々を指し示していった。
貧相で青白い顔の中、乾いた唇を舐める舌だけが赤く浮き上がって見えた。
事務室には十二名の人質がいた。
社員と巻き込まれた客が混ざっていた。
全員手足を縛られて床に転がされている。
「女の子がいたな」
銀色の尖った刃先が、事務机の下で震えていた子供に向けられる。
成吾だ。
顔の所為で女の子と間違えられたのだ。
成吾の前には母親が座っている。
彼女はなんとかして我が子を隠そうと尻を動かして移動しようとした。
青年は右頬を露骨に歪め上げた。
顔には脂汗、目が血走り、頬から喉まで届く無精ひげを生やしていた。
「そこのガキをよこせって言ってんだよぉっ」
つばを飛ばして叫び、灰色の書類棚を蹴る。
子供は「パパッ」と大きな声を上げた。
スチール製の書類棚が父親の上に倒れたのだ。
額から血が滲みだし、スーツの襟に滴り落ちる。
それでも父親は、棚の下から身を乗り出して言った。
「殺さないでくれ!」
犯人は子供を庇おうとする母親を刺し殺そうとしていた。
「いやよぉ、だめよぉ」
母親はぶんぶん首を振りながら子供を机の奥へ押し込めようとする。
「テメェ、邪魔だ!」
母親の肩に包丁が突き刺さる。
犯人は腹を抱えて笑いながら母親の腹を蹴り上げて包丁を抜く。
とうとう子供を守る壁が消えた。
「俺が身代わりになるから、この子だけは……っ」
「助けてぇ、あの子を助けてぇ」
父親と母親が交互に叫ぶ。
「うるせーっ。黙れ! テメエからヤッテやるっ!」
包丁の腹が鏡面のように子供の顔を映し出す。
長めのショートカット、整った大きな目、少し勝ち気そうに見えるが、この事務室の中では確かに最もか弱い生物だった。
子供は……成吾は、怖がって犯人に背を向けた。
その瞬間、父親の右腕が刺された。
過去は、繰り返される。
過去は、逃げても繰り返される。
何度でも何度でも、頭の中で繰り返されていく――……
成吾の自転車が坂道に入り、自転車のスピードが更に上がっていく。
柳の下をくぐると、襟と首の隙間から雨だれが入り込んだ。
雨だれは、つつーと背中の肉の細長い盛り上がりを辿っていく。
右脇から背骨の上を走って腰へ……。
犯人に刺された傷跡をなぞる。
(記憶、止まれっ)
成吾は家へ急いだ。
泣いてもわめいてもいない家族に会いたい。
そうしたら、このどうしようもない苛立ちや圧迫感がおさまるはずだ。
その時、前方から猛スピードで駆け抜ける車の音が聞こえた。
(パトカーだ!)
つい、そんな風に思った瞬間、再び暗い過去が……心臓を鷲掴みにした。
身体が加速する。落ちていく感覚がする。
下へ、下へ。
三階建てのビルから下へ。
そうしたら警察のライトが、真っ白いライトが、成吾を照らし出すだろう。
(――…落ちる)
意識が遠のこうとしていた。恐怖の中ではない。
まるで暖かな布団の中へ潜り込むように。
意識が遠退けば、助かる――。
馬鹿な考えが脳裏にひらめいた。
(だめだ……。落ちるな、ふんばれ!)




