第1章 落下スル少年と殺意アル刃物12
「そうです。その通りですわね。そのウサギは、生物ですから生きなければなりませんわ。だから食事を摂ろうとします」
年相応の少女のように楽しげに言う綾女の姿を見て、少しだけ成吾の心が緩む。
「じゃあ、生き続けるためにチョコレートを食べようとするウサギが誕生すると?」
「ええっとですね。ウサギはチョコレートが食べたくて食べたくて、心界の力を利用して消費しますの。でもチョコレートではウサギのお腹は満ちません。ですからウサギは変化します。チョコレートを食べ続けるために、心界の力を持った人間を食らいます。妖怪ウサギの誕生ですわ」
「それが、筒獣っていうんだ?」
「はい。人の感情が、精霊や妖怪を生み出すのです。そして彼等は、一部の、『心界の力』を持った人間を襲います。それが、私達、紀田一族です」
なんだか大変な話だ。
ただ成吾はそう思った。
「へぇ」とか「ほほー」とか相づちうってみた方が良いのかと思ったが、実感がないのでやめた。
馬鹿にしているように見えるだけだろう。
「何処に住んでいるんだろ?」
「誰がですか?」
「筒獣さん」
「……妖怪ウサギなら野原でしょうか?」
説明しなければならない立場の少女が、困った表情で問い返してくる。
「トリュフや板チョコで出来たウサギ小屋かも?」
冗談めかして返答すると、綾女は胸の前で手を打って「そちらの方が美味しそうですわね」と微笑んだ。
いつもの悟りきった顔ではない可愛らしい女の子の表情だった。
「一つだけ、ちゃんと分かった。紀田さんって、チョコレートが好きなんだ?」
「え?」
聞き返す綾女の顔が真っ赤に熟れていく。
彼女は両手で頬を押さえ、成吾に背を向けた。
「……ボンボンチョコラが」
消えそうな小声が聞こえた。
ボンボンショコラは一口サイズのチョコレートのことだ。
成吾の母も、デパ地下で一個何百円もするものを良く買ってくる。
「そんな恥ずかしい好物じゃないと思うけど」
「だって、わたくしが好きなのはっ」
思い切った感じで振り返って綾女が言う。
「お酒が入ったものですの。キルシュとか、オランジュとか、フランボワーズとかっ、コニャックとか、シャンパンとかも好きなんですものっ」
力説してから、綾女は俯いてしまう。
「まだ未成年ですのに……」
「――ぶっ」
成吾は口を手で押さえた。が、こみ上げてくるものを飲み込めなかった。
「あははははははっ」
「笑わないでくださいましっ」
「だって悩むほどでもないだろ。たかがチョコ」
「でもお酒がっ」
目が赤く潤んでいる。本気で悪い事だと思っているのだ。
「だったら内緒にしよ」
成吾は、ほぼ同じ背丈の少女の頭に手を乗せた。
綾女は長いまつげを上げて成吾を見つめた。
「もし食べたいなら、うちにおいでよ。母さんがチョコ好きでさ、オレも父さんも甘い物苦手なのに沢山買って来るんだよ」
「でも」
「たまに、息抜きも必要だよ。う~んと、モラルとして怒る人もいるだろうけど。オレさ。人ってあんまり頑張っていると、その内壊れちゃうと思うんだ。人って、たまには休まないと駄目だよね」
最後の言葉を言い終わると、綾女の顔から赤みが失せる。
「休む……?」
彼女は幼子がするように、肩に向かって大きく首を傾けた。
「わからない」と口で表せなかったのだろうか。
暫くの間、彼女はそのまま動かなかった。
「紀田さん?」
声をかけると、綾女は首を左右に振る。
黒髪の細い一房が汗ばんだ白い頬に張り付いた。
黒い涙のようだった。
「わたくしが頑張り続けなければ、たくさんの死者が出てしまいます」
彼女はふらりと立ち上がり、水流で濡れた指先を軽く振って滴を落とす。
すると、木々かざわめいて……雨が降ってきた。
大きな水滴は、硬質な光沢をはなつ黒髪や、肩を覆うセーラー襟、リボンを持ち上げるふくよかな胸の膨らみを叩いていく。
成吾の上からは雨が降らない。
目の前の綾女にだけ、大粒の雨が降る。
綾女は目を大きく開いて空を見上げ、雨に手を差しのばす。
すっと――雨粒が止まった。
人差し指の爪先に最後の一粒が落ち、ほっそりとした手の平から手首を伝って木の根に落ちる。
「忘れてしまいますわね……わたくし、こんなことができるようになってしまったのに……」
肩を落として地を見つめ、苦しげに声を絞り出す。
「わたくし、族長になってしまいましたの。この筒器、護孔も、わたくしのものになってしまったのです。ですから、わたくしは休むわけにはいきませんの」
表情が、同世代の少女から遠のいていく。菩薩に似た微笑みを浮かべて、彼女は成吾を見た。
「成吾さんは、恐い人ですわ」
「オレが?」
「族長だと言うことを忘れてしまうなんて……。成吾さんはボンボンショコラと同じですわ」
語尾に、高らかな遠吠えが重なった。
巨木の根の上で、岩の上で、木々の周囲で、ニホンオオカミが喉を反らして遠吠えをしている。
「筒獣……」
言ってて綾女は首を巡らせ、オオカミ達を見る。オオカミ達は同じ方向を向いている。
「護孔! 西に筒獣が出現!」
綾女が口に両手をそえて叫んだ。
そして、強すぎる地響きがする。
真横に横たわる巨根が、動き出して岩から剥がていく。
何百メートルか先に見える根の先端が蛇のごとく鎌首を上げて、綾女をかえりみた。
綾女は左手で何かをどける仕草をする。
すると根は、樹皮を落としながらねじり曲がって左へ移動した。
根があった場所は、幅と深さが一メートルほど窪んでいる。
方々から突風が吹いてきて、窪みに水が集められ、瞬く間に小さな川を作り上げた。
「あれに乗りましょう」
綾女が、成吾の腕を軽く叩く。
川上から菱形の大きすぎる葉が流れてくる。
根を上げた巨木の葉だ。
「無理だよ」と言う前に、綾女が軽く両腕を広げて葉の上に乗る。
僅かに葉が沈み、中央が凹んだ船型になる。
そうしている間も、窪みには水が流れ、水量は豊富になっていく。
だが、葉の船は流れに逆らって制止していた。
「この葉は、二人ぐらいなら平気ですの」
淡い色の瞳は澄み切っていて迷いがない。
成吾は黙って彼女の指示に従う。
この世界では彼女が王なのだ、と直感的に彼は悟った。
(だけど紀田さんは、王になるには弱すぎる)
家では両親が成吾を守る盾になろうとしている。
全ての事柄から成吾を守り抜き、幸せにしようとしている。
頼もしそうな顔で「大丈夫、成吾にはお父さんとお母さんがついているから」と言う。
でも両親は強くない。
平均並の心を持った、平凡な日々を過ごしたい人達なのだ。
(紀田さんだって……)
ぐらつきもしない葉の上で成吾は綾女の後ろ姿を見つめた。
生真面目なほど規則を守った制服を着ている少女。
成吾を守ろうと大きな斧を手にした少女。一族の族長になったという少女。
護孔という筒器を操る飛び抜けて美しい少女。
(でも、紀田さんは……家がどうだかしらないけど。ただの女の子だよ。強がりで、優しくて、頑張ろうと必死になっている女の子にしか見えないよ……)




