第58話 殺人者の幸福論
着ていた古ぼけたトレンチコートにこびりついた血痕を、ひび割れの目立つ骨太の指が無造作になぞった。引き締まった頬に浮かぶその地の色を見ることで浮かぶ笑みは、まるで死神のものを思わせる。桐野孫四郎はそのまま小型車の後部座席に身を沈めた。
運転席の北川公平はサングラス越しにバックミラーを睨み、舌打ちを押し殺した。エンジンはまだかけていない。狭い『租界』の路地裏には、好奇の目を向ける野次馬たちが溢れ、血の匂いがまだ冷え切らぬ風に混じって漂っていた。
今は動くべき時ではない。北川は路地裏に停められた車の中で緊急車両の群れが一台、また一台と桐野が殺した男の事務所から離れていくのを確認しながらそう思っていた。
「……チンピラ一人が死んだくらいでこんなに駐留軍が動くとは……連中も相当暇なんですね。それに東都警察まで本来管轄外のはずのこの『租界』に車両を乗り入れてきてる……たぶん同盟軍事機構が裏で糸を引いている。そうでなければこの『租界』の犯罪の多さに目を背けてきた東都警察がこんなところにやってくるわけが無い。連中は何時だって『当とは宇宙一安全な都市』の看板を掲げたくってその中に『租界』が入ってきて一気にメッキが剥がれるのを嫌がってますからね。こんな事態になるとは……同盟厚生局の連中の間抜けぶりにはただ呆れるほかにはありませんわ。自業自得とは言え、そもそも俺達と同じ土俵に立つ資格なんて同盟厚生局の科学者連中には初めから無いんですよ。連中、完全に軍や警察にマークされてますよ。まあ、そう仕組んだのはあのカーンの爺さんなんですけどね」
北川はわざと軽口を叩いた。ただ、その笑っているように見える目の瞳の奥には明らかに駐留軍や東和警察への敵意の色が隠すことが出来ずに炎となって燃えたぎっていた。
「でも、使い捨ての人買い一人を斬ることはなかったでしょう。奴がいくら知ってることを全部喋ったところで、せいぜい同盟厚生局の小役人の名前が出て来るくらいで終わりなのは目に見えてるのに。奴は何処まで行ってもトカゲのしっぽですよ。それを斬って何が楽しいんです? それ以前にカーンの爺さんに騙されてとち狂ってあんなところでの勝負を受けるなんて言い出した俺たちの商売敵を助けたところで、得なんかないでしょうに。そんなに誰彼構わず斬るのが好きですか?ここまで同盟厚生局がマークされてるのは連中の自業自得。わざわざ証拠を消してやるなんて無駄なボランティアですよ。桐野さん。アンタは何時からそんなお人好しになったんですか?」
桐野はトレンチコートの袖に血が付いていないか確かめながら、ゆっくり顔を上げた。骸骨のような輪郭に貼りつく笑みは、不気味さしかない。
「俺がいつお人好しになったというんだ?ただ、気に入らない男だったから斬った。それだけだ。人買いは嫌いだ。俺は認めん。まして、法術師を売り買いする下司な商売などなおさらだ。斬って当然だろう?珍しく世のためになることをした。褒めろ、北川」
そう吐き捨てるように言った彼の声には、理屈よりも本能が支配している響きがあった。北川は肩をすくめる。半年以上の付き合いで分かっている。桐野にとって人斬りは、朝の歯磨きみたいなものだ。
これまで同盟厚生局の実験に協力する姿勢を見せていたのは二人が所属する組織が出資者への配当を滞らせている現状を打開するための苦肉の策に過ぎなかった。地球人への報復とその先にある『力ある者が支配する世界秩序の建設』。それだけを目的としてつながっているテロ組織を再編成して結成された彼等の組織は拡張と共に安定した財源の確保が問題となった。
そこに声をかけたのが地球人至上主義を掲げるゲルパルトのアーリア人民党員で元秘密警察の幹部であるルドルフ・カーンだった。
お互いまったく正反対の主張を繰り広げる非公然組織だが、当面の課題として北川達は資金が、カーンの手には優秀な手駒が不足していた。そこで両者は手を結び、法術研究の地下組織を支援することで一致し動き出した。そしてその為に北川達は主である『廃帝ハド』に無断で彼らの手駒を三つ調達し、その試験も兼ねて覚醒に失敗する公算の高い法術師の少女を擁する同盟厚生局の連中を挑発して同盟機構本部ビルの前で暴走させ三人の調整した法術素体が攻撃することを装った技術コンペを行った。当然その場所を指定したのは同盟の偽善を嗤う男であるカーンその人だった。
同盟司法局の役人たちは最初はカーンが指定した場所でのデモンストレーションは危険すぎると反論したが、カーンの提示したファイトマネーの金額の魅力に負けて渋々この勝負を受けた。そして北川の読み通り、不完全な技術しか持たない同盟厚生局は敗れ、北川達はカーンからの安定した資金供給の約束を取り付けることに成功した。
すべては主であるハドの知らないこととはいえ、その裁量の結果に北川も桐野も満足していた。
「まあ、同盟厚生局の役人の方はどうでもいいとして……でもあのチンピラ。どこまで知っているんでしょうねえ、我々のことを。ああいった連中は意外と耳が良いもんだ。それに俺達もここの住人だ。下手をすれば噂くらいは聞いてるかもしれませんよ。法術師の中でも覚醒した者だけを集めている人間がこの『租界』に根拠を固めてまるで普通にその住人として暮らしてるって」
最後まで残っていた駐留軍の走行車両が現場から発信するのを確認すると北川はエンジンをかけた。騒動を見飽きて家路についた野次馬達を徐行してやり過ごすと北川はそのまま廃墟に近い『租界』を車で流した。
「奴は俺の顔を……知らなかった。奴は俺達とは連絡を取る手段は持っていなかったからな。ああいった人間は金になるのなら何でもする。法術師は金になる。もし知っていたら多少のリスクをとっても俺達に接触してくるはずだ。北川……貴様は顔が広いのだからそちらの方で調べたらどうだ?俺にはそんな面倒なことをするつもりはない。金になると言えばゲルパルトのネオナチ連中と商売をしていたこともあるかもしれないが……今となってはそんなことはどうでもいいことだ。一人の人買いの人生が終わった。俺にとってはそれだけの話だ」
桐野の言葉にハンドルを握る北川もうなずいた。元々敵が同じだからと言うことで一時的に手を結んでいるだけと言うカーンの組織を守ってやるほど二人の心は広くは無い。恐らくカーン達も同じ考えだろう。そう思いながら北川は信号が変わって停車したごみ収集車の後ろにつけた。
「もうすぐ朝ですね。帰って朝寝ってのも趣向としては悪くないや」
北川はそう言って笑った。彼等の頭目である『廃帝ハド』が今頃目覚めている時間だろう。そんなことを考えながら北川は車を飛ばした。
「しかし……ひどい町ですね。ここに住むようになってからと言うもの、以前の学生活動家時代の正義感って奴が目覚めてしまいましてね。あのコンペの際は本当に胸のつかえが取れた気分になれましたよ。ここに住む住民の不満をあそこで働く資本家の犬共に思い知らせる……いやあ、愉快痛快とはこのことでした」
北川は久しぶりに心の底から出た言葉を後ろの桐野に投げた。彼自身は東都の生まれで大学に在学中に地球資本排斥運動に参加して表の世界での生活を捨てた。そして彼の学生運動の始まりもこの貧弱な建物の並ぶ『租界』だった。当時からこの街の貧しさは変わっていない。そしてそのことに対する北川の怒りもまた変わっていなかった。
「そうか?俺にはここは天国に見えるがな。いつどこで誰が何を斬っても良い街だ。俺のような人殺しには最適の街だ。むしろこの外の世界がどうかしているんだ。人を斬ることの何が悪い。人が多すぎるから斬って減らす。それは当然の自然の摂理だと俺は思うがな」
そう言って桐野は笑った。信号が変わり走り出すごみ収集車に続いて車を走らせた。誰の顔も汚れと垢にすすけて生気という物を感じさせるものが一つとしてない街。そこがここ『租界』だった。
「ここが天国なら世界中天国だらけじゃないですか?ああ、人が斬れない世界は旦那には地獄なんですよね。でもこの外の世界でも止めに来た警察官も斬ればどこだって人は斬り放題ですよ。桐野さんならそのくらいのことはできるでしょ?そう考えればこの宇宙は何処へ行っても天国だらけだ」
皮肉を込めてそう言ってみた北川だが、後部座席で笑う桐野にはそれは皮肉とは聞こえないようでただ静かにほほ笑んでいるだけだった。
「そう思ったほうが幸せだろ?俺は今の境遇が幸せだと感じている。いつでも気に入らない人間を斬れる。北川。貴様を斬ってやっても良いんだぞ。まあ、俺も帰りの足が必要だから今すぐお前を斬ることは無いが」
北川は冗談か本気か分かりかねる不敵な笑みを浮かべる殺人狂をバックミラー越しに見ていた。自分が斬られるかもしれないということは何度と無く経験してきた。桐野にとって人を斬るのが挨拶程度のことだというのはこの半年あまりの付き合いで良く分かっていた。桐野の精神は確実に壊れている。北川はその事実は今後も生きていくために必要な知識なんだと心にとめた。
「じゃあ今回の取引は終了ですね。本国の警告を無視して同盟厚生局の連中が暴走して『不死の兵隊』を作るなんて言うつまらない妄想を抱いた報い。どうなるか楽しみですねえ。所詮、法術師を扱わせたらこの宇宙に我々に勝てる組織なんぞ存在しないんですよ。まあ、そう言って回れないのが俺としては少し不服ですが」
北川は冗談めかして後部座席の壊れた脳を持つ人斬りに声をかけた。
「そうだな。後は同盟厚生局の幹部連中の首を『茶坊主』嵯峨惟基の手駒達が取るか、遼帝国の姫君が取るのかと言う問題だ。まあ遼帝国の姫君は俺達のデモンストレーションのおかげで同盟厚生局相手の仕事からは外されるかもしれないな。遼帝国も、姫君に危ない橋を渡らせる度胸は無いだろう。俺達は科学で何でも解決できるという甘い考えで法術と言う手を出してはならない領域に手を突っ込んだ同盟厚生局の連中が追い詰められていく様を高みの見物を気取ればいいだけの話だ。……同盟厚生局は俺達にとってはカーンの爺さんからもらう金を倍にする為だけのいい噛ませ犬だったというだけの話だ。本国の忠告を無視して暴走した結果がこれだ。役人は役人らしく上の言うことさえ聞いていればいいんだ……自分で物を考える役人など世の中には必要ない。まあ、同盟厚生局の連中が頭を下げてきてこれ以上火の手が広がらないようにしてくれと言えば多少の後始末の手伝いくらいなら……頼まれたらやってやらないことはないがな。……俺はまだ今回の事件では斬り足りないんだ」
そう言って桐野は目をつぶり沈黙した。その満足げな顔につばを吐きかけて自分の車から叩き落したい衝動を我慢しながら北川は同盟軍の装甲車両の脇を抜けて東都の街へと車を走らせた。




