3-1
八月十九日、土曜日。
小汚いなりをした男が切羽詰まった様子で坂道を必死に登っていた。日照りが激しく、じっとり纏わりつくような暑さの中、男は坂の上を目指していた。坂道は平坦なコンクリートだが、周囲に目を向ければ経路樹や余所の家の花壇、道の脇には用水路があり、夏らしい情景が広がっていた。だが男は坂の上しか見ていない。坂の上で踊る陽炎は、男にとってどうしても手に入れたいものなのだろうとわかった。
だが、所詮陽炎だ。手に入れたいものそのものではない。本当に欲しかったものは、もう手に入らないのだろう。だから陽炎が魅せる幻影に縋っているのだ。男は気が付かないのだろう。もう来てはいけないところまで来てしまっていることに。
ふと、制服を着た女の子が男を通り越していった。男の目線は女の子に釘付けになって歩みを止めた。手を伸ばしかけて、辞めた。女の子が見えなくなってしまうと、男はまた坂の上を目指して歩き始めた。
これは夢だ。ふと思った。坂を登る男は、やはり俺自身だった。
そこで意識が覚醒した。気がつけばリビングの床で寝転がっていた。寝室のベッドはりゅーこちゃんが使っているからと昨夜は此処で寝たことを思い出した。節々が少し痛い。
今朝の夢はなんだったのか、俺は判ってしまっていた。陽炎が魅せていた幻影の正体はりゅーこちゃんだ。俺は今後もりゅーこちゃんの傍に居たいと強く願ってしまっている。だがそれは叶わないことだ。ならば、せめてもう少しだけ。そして刻みつけるように鮮烈な想い出を作ろう。そのために俺は動かなければならない。
りゅーこちゃんの様子を見に寝室へ行くと、彼女はまだ眠っているようだった。あどけない寝顔。暑かったの、掛けてやったタオルケットは隅に追いやられていた。横向きに丸まって眠る姿はあまりにも無防備。彼女は穢れなど知らない無垢な存在なのだと改めて実感した。このままずっと眺めていたい欲に駆られたが、まずは彼女を起こさなければ。
「おはよう、りゅーこちゃん。朝だよ」
そう声をかけても彼女は無反応だった。よく眠っているのだろう。俺は彼女を起こすため揺すろうと思った。シャツから露出している腕に手を掛けると、彼女の素肌は柔らかくて少し暖かかった。なめらかで、少しでも爪を立てればぷつりと血が出てしまいそうなほどに繊細なもののように見えた。手のひらで腕を揺すりながら声を掛けた。
「りゅーこちゃん、起きて」
りゅーこちゃんはゆっくり目を開けた。少しの間はぼんやりしている様子だったが、俺の顔を見るとばっと飛び起きた。
「お、おはようございます…… すみません、ベッドお借りしてしまって……」
それから周囲を見渡した。昨日いたリビングとは違う景色に戸惑っているのだろうか。
「あの、もしかしてここまで運んでもらってたり……?」
「そうだけど……。あ、気に障ったならごめんね」
味気なく返事をしたが、よくよく考えてみればりゅーこちゃんは思春期の女の子だ。俺に触られたことが嫌だったのかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちになった。