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「あの、実は家の鍵を忘れちゃって…… 学校から帰ったら丁度お父さんとお母さんがいなくて、待っていれば帰ってくるかなって思ってたんですけど…… いつまで経っても帰って来なくって、お腹空いてきちゃうし、お父さんとお母さんのことも心配なのに、家に入れなくて…… とにかく、困ってたんです。助けてくれて、ありがとうございました」
そして深々とお辞儀をする彼女。自分で話しながら思い出してしまったのか、また表情は暗くなってしまった。
「お礼なんていいよ。お隣さんだし、困ったときはお互い様だよ。それで、えーっと……」
君はこの後どうするつもりなのかと聞こうとして気が付く。俺は彼女の名前を覚えていないじゃないか。何て呼べばいいんだろう。
「……ごめん、名前、なんだっけ」
そう投げかけられた彼女はきょとんとして困ったように笑いながら答えた。
「りゅーこです。そういえば直接お話したことってあんまりなかったですね。お隣さんなのに」
りゅーこ。そういえば彼女の母親がそう呼んでいたことを思い出す。隣の玄関先から聞こえる声を聞いていたはずだ。ありふれた普通の家庭の日常的な会話に過ぎないと言ってしまえばそうだが、彼女の母親が「りゅーこ」と呼ぶ声には悪意めいたものは感じられず、むしろ愛情を持っていることは明らかだった。彼女の家庭環境は悪くないはず。
「お父さんとお母さんには連絡してみた?」
俺の質問を聞いてすぐ、りゅーこちゃんはポケットからスマートフォンを取り出して操作を始めた。どうやら連絡が来ていないか確認をしていたようで、すぐに目線をそらした。
「何度もメッセージ送ってるし、電話もかけてみたんです。でも、反応はないし、電話も出てくれないんです」
「それは困ったな。何もないといいが……」
事故にでも巻き込まれたのだろうかと悪い想像をしてしまうが、すぐに頭の中から追い出す。うっかり顔に出てりゅーこちゃんを不安にさせたくなかった。それに家の鍵が無いと言っていた。
「お家の鍵、忘れちゃったんだっけ。帰れそう?」
どこかに予備が隠してあるとか。そう続けるもりゅーこちゃんは首を振った。
「うち、予備とかそういうのないんです」
こりゃ困った。家に帰るのはおそらく無理だろう。だがこんな夜遅く、子ども独り放っておくわけにもいかない。でも俺の部屋に泊めるのそれはそれでまずいような。
「流石にこんな夜だし、外で独りってわけにはいかないよ。友だちの家に泊めてもらうのは?」
友だち。その言葉に反応したのかりゅーこちゃんの身体が固まった。泳いでいた目線が俯いていく。
「そんなに仲良い友だち、いなくて......」
そんなまさか。人見知りをせず、あんなに明るい笑顔を見せる彼女からは想像もつかない。むしろクラスの中心で沢山の友だちを巻き込んで遊ぶようなタイプだと思っていた。
「わたし、ハーフなんです。ブロンドの髪ってやっぱり目立つみたいで……」
りゅーこちゃんのブロンドの髪。俺はあまり気にしていなかったが、年頃の子どもたちには物珍しいのだろうか。気がつくと俺はりゅーこちゃんの言葉を遮って
「じゃ、俺の部屋に泊まるか」
と口走っていた。
傍から見れば事案だ。俺みたいな三十路手前の、身だしなみに頓着のないだらしない奴が家に未成年の女の子を泊めるというのだから。けれど。俺は心の中で言い訳をする。彼女には行く宛がない。アパートの隣人同士、困ったときはお互い様だ。それ以上でもそれ以下でもない。決してやましいことなどないのだと。
しかし、りゅーこちゃんは驚いた表情で固まっていた。そりゃこんな汚い野郎の家になんて泊まりたくないよな。年頃の女の子だし。
「いいんですか……?」
ジト目で聞いてくる。だが、ここで挙動不審になっていては後ろめたい事があるみたいじゃないか。俺はあえて堂々とした口調で主張した。
「お隣同士、困ったときはお互い様だよ」
……どうだろう。りゅーこちゃんの表情をじっと観察する。するとりゅーこちゃんは意外なことに少し照れた様子で。
「なんだか、お泊り会みたいですね」
そう言って、笑って見せてくれたのだ。
「初めてです。旅行で家族と外泊することはあっても、友だちの家でお泊り会とかしたことなかったんです。ぜひよろしくお願いします。サイトウさん」
彼女が笑ってくれてよかった。彼女の笑顔を見て、やましいこと云々と悩んでいたのが馬鹿らしくなった。そうだ。これは友だちの家でのお泊り会の延長線に過ぎない。ならば彼女におもてなしをしなければ。初めてのお泊り会が楽しいものになるように。……安否不明の家族のことで不安にならないように。そして願わくば彼女の向日葵のような可憐な笑顔を俺に向けてくれたらいい。