【82】夢
しろ。
白い。
(壁が?)
違う。
(どこが)
分からないが、白い。
ゆらり、ゆらり。
まるで水の中で揺蕩っているような。
ふわり。
まるで綿に包まれているような。
(あれ)
ルキウスは一人、立っていた。
(……これは、夢、か)
夢の中で夢現、というのもおかしな話かもしれないが。
夢を見ているとぼんやり認識しているものの、でも目が覚めることもなく……現実で眠い時の感覚のように、世界がぼやけている。
だから水の中にいるような、綿に包まれているような、不思議な感覚がしているのかもしれない。
そういう違和感は感じれるし考える事が出来るのに、何かがルキウスの足を引っ張って引き留めるように、どこにもいけない。前にも後ろにも、上にも下にも、右にも左にも。
(ねむい。おきたい。ねむい、おきたい……)
相反する感情が、むくむくと、湧き上がってくる。意識が覚醒していく、そんな心地がする。
でも動けない。
白い中にルキウスは一人、いた。
(――あ)
そんな世界に、キラリと何かが光る。
赤、青、緑、オレンジ、黒、白。
次々に色を変えるそれが何か、ルキウスは最初分からなかった。いや、本音を言えば最後まで何かわからなかったけれど……ジッと見ているうちに、なんだか、人間に見えてきて。
(いや、人の形の、何か……?)
少し考えて、訂正する。
それは人間ではなかった。
だって人間には肌があり、髪の毛があり、目があり、爪がある。
その存在にはそれらがあるのかないのか、分からなかった。
強いて言えば、光が人の形を模したような……或いは泡が人の形になったような。
(雲かも)
青い空に浮かぶ白い雲が風に吹かれて形をかたどり、それが人間に見える。そういう光景にも近かった。
その人の形をした何かが、ルキウスに向かって(強いて言えば)手らしきものを伸ばす。不思議と逃げようとは思わなかった。相手には己を害する気持ちがないと、頭に流れ込んできて理解させられたような感覚であった。
そっと、人の形をした何かの手は、ルキウスの首元を覆った。首どころか顎や肩まで何か暖かいものにおおわれたように感じた。
首に触れられたというよりも、そのあたりを布で覆われたようなイメージが近いだろうか。
暫くはぼんやりと立っているだけだったルキウスであるが、そうしてすっかり油断していたところで急に喉に痛みが走った。
「ッイ!」
とっさに首元に手を伸ばそうとして、体が動かない事に気が付く。首元を覆われたように、人の形をした何かの下の方から伸びてきた体の一部が、ルキウスの胸元から膝までを覆っていた。
いつ覆われたのか、ルキウスにはサッパリと分からなかった。
「ッ! ……ァ、あ、ウ゛」
必死に逃れようともがくも、体が全く動かない。
(これはなんだ? ここはどこだ? なんでおれは……?)
ぐるぐると、まとまらない思考が言葉という粒になってルキウスの脳内を回る。何かしらの形にしようとしても、誰かにかき混ぜられているように、すぐに離散して消えていく。
ぽろりと、存在しない片目から、雫が落ちた。黒い雫だった。
――ああめもか
「……ぇ?」
声がした。
そうルキウスが思った時、見えていた世界が半分になった。そして首元とはくらべものにならない痛みが目に走る。
叫んだと思うのだが、その声はルキウスの耳には届かなかった。
ただ少なくとも自己認識としては、ルキウスは叫んで暴れていた。
――つかんではなさぬからいつまでもねづくのだ
自分の叫びは聞こえないのに、その、何かの声だけは確かに聞こえた。
……目と喉の痛みは、体の中から何かを引きずり出されるような妙な気持ちよさと気持ち悪さの混じった感覚が目と喉からして、終わりを告げた。
ぜえぜえとルキウスは荒い呼吸を繰り返す。そんな彼の耳元で、声がした。
――こらのねがいをかなえたれいであるもらってゆくぞ
その声を最後まで聞いた時、ルキウスの体は重力を思い出したように落ちていった。下へ、下へ、速度を伴って。
「――ッハ!」
目覚めた瞬間、ルキウスは大きく息を吸い込んだ。そして片手で目を、片手で喉を抑える。
「はぁ、はぁ、はあ、はあ……」
次第に意識がハッキリとしてくる。自分がいるのは、ブラックオパール伯爵家の屋敷にある下人棟の自室だ。帰ってきたのだ、狩猟祭から。そして暫く休みを言いつけられたのだ。それから、それから――?
(思い出せない。何か、何か夢を見ていたような……?)
必死に記憶を探っても、思い出せなかった。結局ただの夢だと、ルキウスは忘れる事にしたのだった。




