【65】狩猟祭Ⅶ
今のルキウスは、定期的に片足を前に出すだけの絡繰りだった。
時間の事だとか、今いる場所だとか、そんな事は何一つ分からない。
ただ、足を動かした。
ただ、一歩を重ねていた。
自分の周りを取り囲む、前後左右の感覚すら奪うような濃い霧の事も、何も気にならなかった。
そんな風に歩いていたルキウスだったが、ある瞬間、彼の耳に音が届き始めた。
せき止められていた水が流れ出したが如く、様々な音が耳に届く。
顎と胸がつくほど前かがみになっていたルキウスは、なんとか、首に力を入れて、前を見た。
(――霧、ない)
つい数秒前までは霧に包まれていたと思ったのだが、気が付いたら霧はなかった。霧で覆われていた名残すらなく、世界はくっきりとしていた。
それから、ルキウスは森の中にはいなかった。目の前には森ではなく草原が広がっている。目の前には沢山の男たちがいて、その奥遠くには、貴族たちが時間を潰しているだろう天幕が風にたなびいている。
自分が森の外に辿り着いたと理解するまで、ルキウスはかなりの時間、立ち止まっていた。
「…………え?」
ようやく出てきた声は、混乱に満ちていた。
(森を、出た? 俺はそんなに、歩いていた? いや、そんな訳……っ)
ないと思うのだが、記憶が曖昧だ。霧の中を歩いている時、もしや最短の道を通っていたとでもいうのだろうか。
分からない、分からないが――。
「――ルキウス!」
耳に届いたトビアスとオットマーの声に、ルキウスは安堵して地面に倒れ込んだ。
倒れ込んだルキウスを助け出したのはトビアスとオットマーだ。その後、二人の動きからブラックオパール伯爵家に仕える騎士たちが凄い速度で集まりだし、巨大な巨大な肉食ペリカンが集計所の前まで運ばれていった。
「……」
集計所の担当者は絶句した。重さを確認する役を任されている者も絶句した。最早重さを調べる必要もないほど、その肉食ペリカンは巨大だった。目の前にその亡骸があるのに、夢を見ているという錯覚を消す事が出来ない。
唯一、死んだ獣から漂う血の匂いが、その肉食ペリカンが生きていた動物であるという事をその場の人々に伝えていた。
ルキウスはもう立ち上がる事も出来ず、肉食ペリカンの傍らに倒れ込んでいた。
「おい、集計をしてくれ。まだ空は茜に染まってない!」
オットマーの言葉に担当者たちは空を見る。八割ほどが茜に染まっているが、確かにまだ狩猟祭は終わっていない。
「か、鐘を鳴らせーーーーッ!!! 最大音量、最大回数ーーーーッ!!!」
担当者の声に我に返った集計所の人々は、慌てて動き出した。鐘を撞くために控えていた者は、槌を振り上げた。
カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン!!
近くにいた人々があまりの煩さに耳を抑えて蹲るほどの音量で、何度も何度も鐘が鳴らされる。その異常事態はすぐ天幕にも広がった。
「な、なんだこの鐘の音は!」
「終わったのか?」
「いや、まだ空は茜に染まってないぞ」
「なら、それほど凄い獲物が捕らえられたという事か?」
人々の声に、ルイトポルトも何事かと、天幕の外に出て、集計所の方角を見た。
「何が……お父様。見に行ってまいります!」
ルイトポルトは胸がどうしようもなく跳ねて仕方なかった。
だが、走り出そうとした少年を父は言葉で引き止めた。
「ルイトポルト。このような時は、ゆったりと座して、待っていなさい。お前は使い走る立場ではないのだから」
「…………はい」
しゅんと肩を落とし、ルイトポルトは己の席に戻ったのだった。




