【56】メルツェーデス・ブラックオパールⅡ
「お父様、お母様、メル叔母様! 私が仕留めた獲物です!」
ルイトポルトが伯爵家の天幕に帰ってきたのは、太陽が最も高く登ったころだった。
森の中を駆け回ったのだろう。葉が付き、泥だらけになりながら、ルイトポルトは目を輝かせ、真っすぐに両親とメルツェーデスの元に駆けて来た。
ルイトポルトが仕留めたのは、立派な雄の石角シカであった。
ルイトポルトに付いていた護衛騎士たちによって運び込まれた石角シカの立派さに、他の人々からも歓声が上がる。
「何と立派な!」
「まだ社交界にも出ておられないのに、あれほど立派なシカを仕留めるとは。将来有望だ」
そんな声が聞こえてきても、ルイトポルトの視線は真っすぐに正面の両親にばかり注がれている。周りからの称賛ではなく、彼が求めていたのは父母らからの称賛だというのは明らかであった。
「素晴らしい獲物を仕留めたな、ルイトポルト。よくやった」
「……! ありがとうございます!」
伯爵からのお褒めの言葉に、ルイトポルトはそれはそれは嬉しそうな顔をした。
席を立ち上がった伯爵夫人は息子の武勇を褒めつつも、ハンカチーフで泥だらけの顔を拭いた。
「着替えてくる必要がありそうね」
「ルイトポルト。あちらでお前の侍女たちが待っているわ」
メルツェーデスがそういうと、ルイトポルトは「はい。着替えてまいります!」と素直に従った。
そこまでは、良かった。
問題はそのあと――ルイトポルトが着替え終わった直後、堂々とブラックオパール伯爵家の天幕へやってきた、バルナバスが現れた時であった。
「立派な肉食ペリカンだ」
「お褒めに与り光栄の極みです、ブラックオパール伯爵」
天幕に来た以上、最初に会話をかけるのは最も立場の高い伯爵の仕事であった。
伯爵との短いやり取りの後、バルナバスは真っすぐにメルツェーデスの元にやってきて、歯を見せながら笑った。
「我が女主人、メルツェーデス・ブラックオパール。どうか私めに、最も素晴らしい獲物を仕留めた栄誉の祝福を下さいませ。この獲物を――この森近隣に住む平民たちを苦しめていた、巨大な肉食ペリカンを仕留めた私に、貴女の傍にいる慈悲を」
「――!」
事の次第を興味津々に見つめていた人々は、白昼堂々言い放ったバルナバスの口説き文句に悲鳴を上げた。だがその悲鳴は肯定的なものだけでない。
いくつかあるファイアオパール子爵家の嫡男であり、彼の父の後を継ぐ立場であるバルナバスは結婚相手としてかなり良い存在だ。彼の事を狙っていた淑女らもいたのだろう。そういう女性陣からは、非難染みた声も上がった。
バルナバスに恋をしていた一人の令嬢は、両手で耳をふさぐようにしながら悲鳴を上げた。
「どうしてあの方なの!?」
すぐ横にいた母親の令夫人が、令嬢を叱咤する。
「シッ。そのような物言い、伯爵様に聞こえたらどうするのですっ」
「ですがお母様、どうしてバルナバス様はあんな……出もっ」
「おほほほ。申し訳ありませんわ。我が娘は体調がすぐれないよう。少し失礼させていただきますわ!」
令夫人の判断は極めて速かった。令嬢の言いたい事は周りには完全に伝わったが、それでも傷が大きくなる前に未婚の娘をこの場から引き離す事には成功した。
ただ――令嬢のような気持ちを、その場に居合わせた多くの人間が抱いていた。
繰り返すが、バルナバスは持つ男である。
領地を持つ子爵位の嫡男。容姿も良いし、能力もある。結婚相手は間違いなく選ぶ側である彼が、どうしてメルツェーデスに。――伯爵の実妹とはいえ、子が出来ずに離縁して戻ってきた女性にプロポーズまがいの事をしているのか、と。誰もが思った。
「メルツェーデス嬢。どうかお答えを」
バルナバスは跪き、メルツェーデスに向かって手を差し出す。彼女がその手を取る事に、何一つ疑問も抱いていないような様子で。
バルナバスの部下たちは持ってきた獲物を見やすいように掲げた。そうして、己の主人がどれだけ凄い事をしたのかと、多くの人間に知らしめた。
「…………」
メルツェーデスは何も答えない。
「メルツェーデス嬢」
バルナバスは更にメルツェーデスに近づきながら、手を差し出す。
たらりと、メルツェーデスの首筋を汗が垂れた。




