【5】ルイトポルト・ブラックオパールⅡ
ただ一人取り残されたルイトポルトは、暫くの間動けなかった。草のこすれる音が聞こえてくる度に狼たちが戻ってきたのではないかと恐怖した。それから、どうかこの風と木のざわめきの狭間から、侍従たちが自分を探す声が聞こえてきたりはしないだろうかと期待した。
だが侍従たちの声が聞こえてくる事はなく、逆に聞こえてきたのは草を踏みしめる音だ。その音も、人間が歩いたような重みのある音ではない。ハッとルイトポルトは周囲を見渡して、すぐ近くにあるまだ若いのだろう、細い木に飛びついた。がさつく木肌を必死に掴んで、両手両足に力を入れて踏ん張って、木の上へと昇る。
子供のルイトポルト一人が足をかけただけでミシリと嫌な音を立てる細枝になんとか上ってから下を見下ろせば、そこにはルイトポルトにとって最悪の光景が広がっていた。
先ほど愛馬を追いかけて行ったはずの狼たちが、戻ってきていたのだ。
もし愛馬を仕留めたのならこれほど早く戻っては来ないだろう。愛馬は無事に逃げ切り、彼らは別の獲物を求めてここに戻ってきたのだ。ルイトポルトという獲物を狙って。
「ヒッ!」
ルイトポルトは木の幹に必死に抱き着いた。
狼たちは唸り声も上げず、爛々と輝く瞳でルイトポルトを狙っている。飛び上がってくるでもなく、ただジッと……。
みしり。ルイトポルトが足をかけている細枝は、また、嫌な声を上げた。
嫌な膠着状態はかなり長く続いた。その間に、ルイトポルトの命が懸かっている細枝は、どんどんきしんで、割れ目から木の繊維が見え始めていた。
狼たちはあえて唸り声をあげたりする事もなく、木の下に留まっている。彼らは分かっているのかもしれない。自分たちが焦らなくても、その上枝が折れてルイトポルトが落ちてくるという事が。万が一別の枝に移動するとしても、枝が折れた後幹にしがみついたとしても、ルイトポルトが永遠に木の上にいる事が出来ないという事も。
みしり。枝が、もう無理だよとルイトポルトに訴えた。
ルイトポルトはせめてもの抵抗にと、木の幹に腕を回す。いつ枝が折れたとしても、すぐにしがみつけるようにと。
もしかすれば、あと少しすれば、侍従たちがルイトポルトを見つけに来るかもしれない。そんな淡い期待を持ちながら。
バキッ。
ついに細枝が折れた。その瞬間、ルイトポルトは木の幹に抱き着いた。が、いざ自分で体を支え出して分かったが、これは持たない。せいぜい、持って数分だろう。だらりとルイトポルトの顔を、汗が流れる。よりにもよって今。
狼たちはついに獲物が手に入ると興奮したのか、立ち上がり、木の下をうろうろしだした。ある者は早く落ちてこいと前足を木につけて木肌をひっかいた。ある者は耐えきれないとばかりに遠吠えをする。
(お父様、お母様、叔母様……ごめんなさい)
こんな所で死んでしまうなんてとルイトポルトは十年しかない自分の人生を振り返った。もう家族に会えなくなるのは寂しくて辛い。
それから、侍従たちはいつも速度を出しすぎるなとかあまり遠くに一人で行くなと言ってくれていたのに、それを守りもしなかった自分にも腹が立った。
(オットマー。トビアス。わたしのせいで怒られてしまう……お父様お母様、悪いのはわたしなんだ、二人じゃない……)
ルイトポルトは歯を食いしばって耐えていた。だが、もう、限界だ。ずるりと自分の体が落ちていく。なんとか落ちないように耐えようにも、腕は震えて、力が上手く出ない。もう……終わりだ。
「キャンッ!」
絶望していたルイトポルトには、突然狼たちが悲鳴を上げたように思えた。にわかに狼たちが騒がしくなる。何が起きたのかさっぱり分からなかったが、今のルイトポルトに下を気にする余裕はない。
だが、二度目の音は聞き取れた。何かが風を切り、そして狼に刺さった音がする。
「キャオーン!」
弓だ。ルイトポルトはそう思った。つまり、人間が近くにいる。
侍従たちではないだろう。二人は帯刀はしているが、弓を持って出かけてはいなかった。そうでないとすれば、森に入り込んで狩りをしている伯爵領の住民かもしれない。
そんな事を考えている間に、無事な狼たちは我先にと逃げ出していく。ルイトポルトは半ば自棄になって幹に抱き着いたまま草をかき分けて近づいてくる、弓の持ち主を待った。
少しして現れたのは、恐らく男だった。何故曖昧かと言えば、男の風貌があまりに普通ではなかったからだ。
まず、顔が見えない。髪はぼさぼさ、その上口周りには伸び放題の髭で上から見下ろしているという点を加味しても、男の顔は一切見えない。本来はあったのだろう両袖はなくなっていて、むき出しの腕も毛が自由に伸び放題になっていた。
ルイトポルトが知っている人間の見た目ではないそれに、狼たちとは違う恐怖を感じてルイトポルトは悲鳴を上げ、その拍子に木から落ちてしまった。
「うわっ! 痛いっ!」
強く打ち付けた尻を抑えて悶えるルイトポルトは、背中に感じる視線にハッと視線を上げた。
男(と思われる相手)が、ルイトポルトをじっと見つめていた。