【33】男爵夫人
子供は十月十日かけて腹の中で育まれる。エッダは知識としてそれは理解していたし、両親の営む店の従業員が臨月間近まで働いていたのも見ていたので、腹が膨れるのも分かっていた。
だがいざ、自分の腹が膨れるとなると、想定していたより精神の安定を欠くようになった。
以前より更に怒りっぽくなり、使用人たちに当たり散らすようになったエッダを、男爵家の使用人たちは恐れた。けれど彼女に強く言える数少ない存在である男爵は、会うたびに「子供はどうだ」「子供は順調か」とニコニコとして声をかけるばかり。一部の使用人がエッダの癇癪が過ぎると主張したが、それも「エッダが気持ちよく過ごせるように整えろ」と指示を出して終わり。流石にエッダが「お前なんてクビにしてやるッ!」と叫んだ時は、実際にクビにするのではなくエッダが触れないような所の仕事をさせるにとどめていたが、いつ男爵の気まで変わるだろうか……と多くの使用人は震えていた。
――そんな話を、遠い別宅で、裁縫をしながら男爵夫人は耳にしていた。
別に知りたくもない事であったが、わざわざ囀ってくる人間がいたために聞いていたのだ。ただ男爵夫人は、エッダが無事に子供を産むかどうかすら、たいして興味もなかった。
夫である男爵との間に愛があったのなんて、遥か昔の一時だけ。結婚するときには既に互いに冷めていて、ずっと形だけの夫婦だった。
(あの家の人間は、絶対にあの女に子供を産ませるでしょうね。やっとつかんだ奇跡だもの)
跡取りが出来る。それは自分たちの立場を元に戻す、大事な一手だと、男爵家の人間は愚かにもそう信じていた。
――実はこの男爵家は、以前は子爵家であった。男爵の父親の代の時は領地を持つ子爵家として、いくつかの分家を抱える本家でもあったのだ。
ところがいくつかの失策により一族に悪評をもたらしたとして、ある時突然降爵される事になった。まだ跡継ぎであった現男爵も、その父親だった子爵も、そして屋敷の使用人たちも、皆で決定を下した本家に訴えた。それはいくらなんでも重すぎる罰だと。確かに多少失敗はしていたが、貴族家であればたまにある失策ぐらいのもので、爵位を落とされるほどのものではない。
だが本家は決定を覆すことなく、子爵位から男爵位に落とされた。領地とかを奪われたわけではないが、降爵というのは滅多にされない罰であり、流石に血脈内は当然として、その他の関係のあった貴族家たちからも、嫌厭されるようになった。
そうして(家の人間は認めたくないものの)ただでさえ落ち目だった子爵家もとい男爵家は、分家すら離れていき、ほぼほぼ孤立してしまった。
助けを求める男爵家の人々に、本家は言った。
「継ぎ先もないのだ。精霊様に見捨てられた者として、最期をせめて整えるが良い」
継ぎ先――子供がいない。それは確かに、貴族家としては致命的であった。
最悪実子がいなければ血の繋がった親戚から子供を得るという方法もあったが、残念な事に分家も軒並み、子供がいない夫婦ばかり。数少ない子供を産んでいた人間も、あまりの家の落ち目に、爵位を得る事より継ぐ事による不利益の方が多いと逃げ出していた。
元々、この家は夫人が嫁いでくる前から子供が生まれにくい、かつ、生まれてもなかなか育たない事に悩んでいた。場合によっては愛人を幾人か抱えたりもしていたようだが、それでも子供が中々出来ないでいたと言うから、恐らく種の方に問題が起きていたのだろうけれど……そのあたりの正確な真実には、夫人は興味がない。
ただ確かなのは、そんな家に生まれた事によって男爵――夫人が初めて出会った時は子爵令息だった――は甘やかされ、それはそれは自信家で自己愛の強い人間に育っていた。
そういう人間だと、若き頃の夫人は気が付けなかった。その自信がある様を、格好良いとすら思っていた。
そうして相手を信じた結果が、今自分がいる現在である。
もっと若い頃は、周りを恨んだ。自分は確かに失敗した、それはそうだ。だが一つの失敗により、自分を切り捨てた実家も、嫁いできた後目の敵にしてきた義父母も、夫すらも、自分を責め続けた。
自分だけが悪いのか? 自分の罪の何割かは、夫にだって罪があるはずなのに。どうして私だけを、わたくしだけを責めるのよ!
だがいくら周りを責めたところで、空しいだけだ。男爵家の人間は夫の味方にしかならない。自分の味方にはならない。そうして夫人は、彼らに求める事を諦めた。
(それでも――あんな事さえなければ――)
そう考えた後に、すぐ、首を振って思考を散らす。
ここは、良い。
長い間、あんな家を出たかった。けれどなんだかんだと夫人という存在は都合が良い面もあり、ずっと屋敷から出されなかった。
だから夫人はあのエッダという平民女に、感謝すらしている。あの女のお陰で、こうして憎い夫と使用人たちの顔を見ないですむようになった。更に、意図してか意図しないでか、今となっては夫人が唯一心寄せる大切な子の傍にいられるようになったのだから。
「出来たわ」
出来上がったのは、幼い子供が冬に着こめるように用意した、上着だ。それを持ち、夫人は供もつれずに別宅を出た。
別宅から歩いてから十分ほどの所に、それはあった。なだらかな丘の上。道から外れた先に、それはあった。石だ。恐らくそれが何か知らない人間は、ただ突き出た石があるな、程度にしか思わないだろう。それに近寄った夫人は、手に持っていた上着を、石にかけ、一人呟いた。
「少し早いけれど……新しい服よ、この前の服では、寒いものね……」




