【32】エッダⅢ
頭を掻きむしる。イライラが止まらない。ほんの些細な事で、目の前が真っ赤になる。
どれだけ喚いても他人を叩いても、心に浮かんだ霧は晴れない。
そんな時、眠ると、とうの昔に忘れたはずの男の顔が出てくる。
――「エッダ。こ、これ……」
何を渡されたのかは思い出せない。どうせ、大した事のないものだ。換金なんて出来ない、どうでもいいもの。
――「エッダ、大丈夫か? 顔色が悪いよ」
――「足を痛めてるじゃないか! 背中に乗って、急いで医者に見せないと」
――「体調悪いんじゃないか? 少し声が変だ」
あの男は、エッダの事をいつも気にしていた。エッダがいつでも機嫌よくいられるようにと、エッダが不快に思うような事があったら、すぐにエッダを優先して、他の用事を投げ捨てて……。
いつでもエッダを一番に考えていた。
――「エッダ。前にこれ、欲しがってただろ?」
――「これ。その、こ、好みじゃなかったらごめんな。でもその、エッダに似合うんじゃないかと思って……」
金を貯めて、それでする事と言えば、エッダに何かを買い与えるばかりで。
――「エッダ。水、飲めるか?」
――「果物なら食べれるかな……ちょっと待っててくれ」
エッダが風邪を引いたら、そういって必死に傍にいて、世話をし続けていた。
男だけじゃない。男の親も、実の子供でもないのに、エッダの事を気にかけていた。
――「エッダちゃん用の薬になるやつ、採ってきたぞ。すぐすりつぶすからな」
――「エッダちゃん。少しだけでも、おかゆ飲めるかしら? ほんの少しでも大丈夫だからね。気持ちが悪くなったらすぐに言ってちょうだいね」
そんな風に、ずっとそばに――そば、に――。
目が覚める。
エッダは一人、豪奢な寝台の上にいた。
黙ってエッダの傍に居続けてくれる存在は、いまやない。
「ちがう。アタシは、アタシは幸せになったんだ」
そうだ。エッダは幸せになった。食べる物も着る物も欲しい物も我慢しなくていい。そして価値の高い人間に、認められる。
「アタシの本来いるべき世界はここだったのよ」
エッダの価値は、落ちていない。
エッダの価値は、誰かより下になんていってない。
結婚によって、エッダの価値は下落してなんてない。
あの、故郷の町の、他の有象無象の女たちに笑われるような生活じゃないのだ、もう。
「アタシは貴族のおうちに生まれるべきお姫様……」
あるべき場所に戻っただけ。たまたま、エッダは生まれる場所を間違えただけ。本来はこうして、貴族に嫁いで幸せになる運命だった。運命がこれまで間違っていた。ただそれだけ。
膨れた腹を撫でる。もう出産は近い。
「この子が産まれて、アタシは、本当の貴族様になるんだ。あの正妻を押しのけて、貴族様に……」
ガリガリと指をかむ。そうしていないと、腹を、苛立ちのあまり殴ってしまいそうだ。
一度、イライラが止まらず腹を殴った事があった。たまたまその現場を目撃した古参だという使用人は怒り狂い、エッダを叱った。エッダは許せず男爵に訴えたが、使用人から話を聞いていた男爵は、初めてエッダに罵声を浴びせた。
「腹の子供に何かあったらどうするんだ!!」
そう叫んだ男に、エッダは分からなくなった。
エッダは今、これだけ苦しいのに。辛いのに。それよりも、腹の子供が大事なのか、と。
「アタシは幸せ、アタシは幸せ、アタシはしあわせ、アタシはしあわせあたしはしあわせ」
指を噛みしめながら、早く子供が生まれてしまえばいいのに、と苛立った。




