【19】遠乗りⅢ
キリが良いところがなくて長くなってしまいました。
「もうすぐ止まるぞ」
トビアスの声がした。水の音が心地よい川辺で一行は馬を下りた。この辺りを少し散策し、それでルイトポルトが満足すれば伯爵家に帰り、ルイトポルトが満足しなければ更に移動するのだろう。
馬に水を飲ませる者、周囲の様子を伺う者、様々いた。
ルイトポルトとメルツェーデスは川の近くを楽し気に歩いている。空を見る。雲が減っていた。日差しが少し強くなったのに気が付き、メルツェーデスの侍女がメルツェーデスに日傘と帽子を差し出した。メルツェーデスは帽子を受け取り、被っていた。
そんな光景を後目に、ルキウスは自分の存在が自然に溶け込むよう意識した。
万が一今ルイトポルトに呼び寄せられたりしたら、メルツェーデスの近くにいかなくてはならない。それがいやだった。
馬に水を飲ませてやっている護衛の真似をして、近くの木に手綱を括りつけられていたルイトポルトの馬を連れ、ルキウスは川辺に近づく。
(水の流れが速い川だな)
川幅が狭いから、その分水の流れが速いのだろう。こういう川は対岸が簡単に見えるからと安心して子供たちの遊び場となり、そして時折子供がおぼれるのだ。かつて様々な町に仕事で行く際、そういう川の存在をいくつも見聞きした。
ルイトポルトの馬を水面にいざなうと、喉が渇いていたのかすぐに水面に頭を突っ込んでいる。
「美味いか」
馬の首筋を叩いてやる。ルキウスは馬が好きだ。ぶるる、とルイトポルトの馬は唇を震わせている。
ルキウスは馬とのんびりと風を感じながら肩の力を抜いていた。どうやらルイトポルトとメルツェーデスを中心とした集団は川上に歩いて行ったらしく、このあたりには馬の管理のために残った人間しか残っていない。お陰で肩の力を抜いていられた。
もう水は飲まないらしいルイトポルトの馬を連れて川辺から少し距離を取り、手綱は木に括りつけ直した。
「――――――!!!!」
ルイトポルトの馬に求められるまま、馬が痒いのだろう部分を掻いてやっていた時だった。何やら、どこかで誰かが大声を上げたようで、ルキウスは川上を見る。
「なんだ?」
ルキウスのように馬が逃げ出さぬようとどまっていた侍従たちも声を上げる。彼らから視線を向けられたものの、ルキウスも言葉までは認識できなかったので首を振った。
その時、ばしゃんばしゃんと水音が聞こえてきた。
(――誰か落ちた!?)
ルキウスは川上を見る。上の方から、何かが流れてきていた。遠目でも人の頭だと、すぐに分かった。だが即座に気が付いたのはルキウスだけらしく、従者たちは「なんだ?」と集まって意見の交換をしていた。空気の変化に気が付いたのか、数頭の馬が突如いななき暴れたので、そちらに気を取られた者もいた。
その輪に近づくのではなく、一際大きくいなないたルイトポルトの馬を宥めるでもなく、反射的に、ルキウスは川に向かって走った。
「誰かあぁあぁああ――!!」
侍女の悲鳴が今度こそ、ハッキリと聞こえた。
さっきまでは随分と遠くにあった人影はあっという間にルキウスたちも人間だと肉眼で分かる距離になっていた。それぐらい、水の流れが速かったのだ。
「人だ!」
馬を抑えていた従者の一人が焦った声でそう叫んだのと、ルキウスが川に飛び込んだのはほぼ同時だった。
(っ、深い!)
ルキウスでも全く足が付かず、あっという間に水の流れに飲まれていく。だがルキウスが飛び込んだタイミングがよく、ルキウスはおぼれかけている人間の腕をつかむ事に成功した。動きやすさのために、おぼれている人間を抱き寄せる。髪が長く、顔を覆っていた。この時ルキウスが咄嗟に理解できたのは女であるという事だけだった。
だが、今にも溺れそうな中で、相手の性別に配慮なんてしている余裕はない。女の服は水を吸ったのだろう、酷く重く、抱き寄せた結果ルキウスの足も女のスカートに取られて、全然動けなかった。
ルキウスは自分の呼吸を最低限確保しながら、女の体を少しでも上にあげ、呼吸をさせようとした。げほ、ごほ、と女は口から水を吐きながらも息をしている。
二人の体はあっという間に馬たちが粒にしか見えないほど流されていく。
なんとかどちらかの川辺に寄ろうとするが、うまくいかない。数度ルキウスの足先が川底を擦ったが、踏ん張るほど足が触れた訳でもなかった。
呼吸をしようとすれば、口や鼻に水が入る。それに体が反応してむせ、酸素を求めてより大きくあえぎ、更に口に水が入る。
「!」
このまま沈むのか? そんな風に考えた瞬間、ルキウスの左目は少し先に突き出した岩がある事に気が付いた。女の体を万が一に放さぬようにしかりと抱きしめ、ルキウスは体全体を使って、岩のある方に寄ろうと泳いだ。
実際に泳げていたのか、たまたま流されたのかは定かではないが、ルキウスはギリギリで岩を掴めた。片腕で岩の縁を掴み、もう片方の手で女を掴む。本当にギリギリの状態だったが、岩に捕まったお陰で更に流される事だけは回避した。だが、二人とも殆ど鼻まで水に浸かっていて、呼吸がまともにできない。このままではどちらにせよ、溺れる。
「――っ!!」
ルキウスは両腕に渾身の力を込めて、女を岩の上に押し上げる。女もルキウスの意図を理解して、必死に岩の上に体を上げた。
女は上半身を岩のてっぺんに伏せるような形になり、両腕で岩を抱く様にしてしがみついた。女がルキウスの手を離れると、体にかかっていた負荷がほぼほぼ消えたと錯覚するほど、軽くなった。やはり女の着ていた、水を吸ったドレスが酷く重かったのだ。
安堵から手を放しそうになったが、ルキウスは気力だけでなんとか岩の縁に両手で捕まった。先ほどよりは自分の頭を安定して水面に出す事が出来、呼吸も問題なく出来ている。
そうはいっても、このままずっと捕まっている事は出来そうにない。
(いや、でも、こっちは、助かる、はず)
岩に乗り上げた、女の背中を見る。
溺れていた女がメルツェーデスだと、ルキウスも気が付いていた。何せ侍女たちは同じようなメイド服を着ているので、それと違うドレスを着た女性など、メルツェーデスしかいない。こうして少しだけ余裕を持ち服を見れば、メルツェーデスが着ていたドレスと色が同じだ。顔は見えていないが、まず間違いないだろう。
(こちらが、助かれば、少なくとも、使用人たちが罰せられる事は――)
指先が震える。
「もうこのまま、手を放してもいいのではないだろうか」
ルキウスの耳元で誰かがささやいた。
「だってもう、沢山苦しんだ」
誰かの声がする。
「人を助けて死んだなら、精霊様も、父さんたちも、おこりゃしないさ。な?」
耳の中で、声が――。
(ああ、そうだな――お貴族様を助けて死んだなら――この家の人たちなら――もしかすればどこかの森に埋めるぐらいは、してくれるかもしんねえなぁ)
(だれもこないような場所でも――あの町よりは――父さんと母さんが――二人が幸せに眠れたら――)
ルキウスが二人の骨を大事にしていたのは、多くの人間が知っている。トビアスなんて、わざわざ箱まで用意してくれた。彼なら、もしかしたら、二人が落ち着いて眠れるように取り計ってくれるのではないだろうか。
「諦めちまおう。もう、疲れただろう」
(二人が――静かに眠れたら――)
指先から力が、抜ける。
「ルキウスっ!!!」
ばちんと目の前がはじけた。岩を掴む自分の手を、何かが覆っている。
ルキウスは左目を見開いた。
メルツェーデスの手が、ルキウスの手を上から押さえていた。
「諦めてはいけませんっ! 今、今、助けがっ――!」
メルツェーデスの声が、耳に届く。すると不思議な事に、先ほどまで遠のいていた意識が明瞭になっていった。
(今、おれ、なにかんがえて)
ルキウスは少し混乱しつつも、岩肌を掴みなおす。そんなルキウスの手に、メルツェーデスの手が重なる。実際のところ、メルツェーデスの力ではルキウスの体を引き上げる事は勿論、この場に留める事すらできない。だがかじかんでいた指先に力が満ちるような、そんな気がした。
「――メルツェーデス様っ! ――ルキウスゥ!!」
二人を呼ぶ声がした。メルツェーデスが顔を上げた。
「トビアス! ルイ! ジゼル! オットマー!」
岩にほど近い川辺に次々に人が駆け下りてくる。トビアスは肩に担いでいた縄を掲げる。
「メルツェーデス様! 今から縄を投げます! どうにか手元まで引き寄せて下さい!」
「ええ!」
トビアスは器用に先が輪になった縄を投げる。それは岩の目と鼻の先に落ちた。メルツェーデスは少し身を乗り出して、なんとか縄を掴む。
「メルツェーデス様っ! 縄の輪を、胴体に結ばれてくださいっ!」
「わたくしより、ルキウスを先にっ!」
メルツェーデスがそんな事を言ったが、そんな事が出来る訳がない。万が一ルキウスを先に助け、メルツェーデスを後回しにした結果、彼女の身が危険にさらされたら? とんでもない事である。
「さきにっ!」
がらがらの声を張り上げる。水の音が激しかったが、メルツェーデスには間違いなく届いていた。ルキウスの方を、メルツェーデスが振り返る。青い大きな瞳の中に、片目を失い、本当の自分なんてどこかに消えた男が映っていた。
「さきに! 岸に!」
ルキウスの叫びに、メルツェーデスは迷っているようだった。だがルキウスが再度「岸に!」と叫ぶと、二度、首を縦に振った。
メルツェーデスは岩の上から万が一にも落ちないように、輪を己の胴体に括りつけ、縄を握る。岸の方では騎士たちが一丸となって綱を握りしめていた。
「メルツェーデス様! ゆっくり川へ!」
川の流れに再び身を任せるのは恐怖だった事だろう。だがメルツェーデスはためらいなく、川に飛び込んだ。それに合わせ、騎士たちは縄を手繰り寄せる。
メルツェーデスの体はあっという間に岸に寄っていき、ある程度のところで足がついたようだった。腰位の位置まで水位が来たところで、侍従たちがメルツェーデスを助けるために縄を伝って川に入っていき、彼女は無事に岸の上に出た。
ワッと歓声が上がる。岩にしがみついて一連の流れを見ていたルキウスも、ホッとした。メルツェーデスが岩の上からいなくなったことで、ルキウス自身が岩にしがみつく事が出来るようになり、腕の力だけで耐えていた時よりは大分楽になっていた。
「トビアス、オットマー! 次はルキウスをっ」
ルイトポルトが、泣きながら叫んだ。トビアスは縄をメルツェーデスから外し、もう一度投げた。トビアスの投げ縄は正確で、すぐにルキウスの元に届いた。メルツェーデスと同じくルキウスは胴体に輪を通し、息を大きく吸い込んで、川に飛び込んだ。すごい力でルキウスの体は岸に寄っていった。
従者たちはルキウスの体も回収しに川の中まで入ってくれて、ルキウスはあっという間に岸へと上げられた。
「よくやった。よくやった」
ルキウスを岸へ引き上げた従者たちはそういって、ルキウスの背中や肩を何度もたたいた。ゲホゲホと、ルキウスは水を少し吐いた。
「ルキウスっ」
「るぎうずっ」
名を呼ばれて顔を上げれば、泣いている侍女に抱き着かれているメルツェーデスと、涙で顔をグシャグシャにしたルイトポルトがすぐそばまで来ていた。
ルキウスはなんとか息を整えてから、メルツェーデスに視線を移す。いつも綺麗に整えられていた髪はもう見る影もない。頬も温度をなくしたように白くなっていた。
「け、が、は……」
メルツェーデスは虚をつかれたような顔をしたが、ぜえぜえと荒い呼吸をし続けるルキウスに向けて、震えながらもなんとか笑顔を見せた。
「何もありません。何もありませんわ」
それを聞いて、良かったと、ルキウスはそう思い――ぷつりと、意識が途切れたのだった。
※この話はフィクションです。溺れている人を助けるために川に飛び込む行為を推奨するものではありません。川に直接飛び込んで助ける事は二次災害を引き起こす可能性が高いため、安易に飛び込まないようにしてください。
次回は別キャラの話予定です




