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妻が貴族の愛人になってしまった男  作者: 重原水鳥
第一粒 妻が貴族の愛人になってしまった男
17/144

【17】遠乗り

 ルキウスがブラックオパール伯爵家にやってきてから、数か月が経った。彼はまだ、この屋敷にいる。


 ルキウスが弱っていた一番の原因はまともな食にありつけないなかで無理をして野宿を繰り返していた事による疲労だったらしい。屋根と壁に囲まれた部屋で夜を超すごとに見るからに体調は回復していった。無論、伯爵家で用意された栄養価の高い粥も強い助力となっていただろう。


「ルキウス!」


 庭で肥料となる糞尿を混ぜる作業をしていたルキウスは、耳に届いた声に反応して動きを止めた。振り上げていた鍬を振り下ろし、それから上を見上げる。左目を動かして建物の方に視線を巡らせる。

 伯爵家の屋敷の三階の窓が開けられていて、見慣れた主人が笑顔で手を振っていた。


「ルキウス! 昼過ぎからは遠乗りだぞ! 忘れるなよ!」


 ルキウスは何度も何度も頷いた。

 その様子を見ていた庭師は、ルキウスに言った。


「遠乗りに行くんだったら、もう終わっていいぞ。くせぇから体、洗ってこい」


 ルキウスは頭を下げ、鍬を片付けるために肩に担いだ。


 未だにこの生活が、夢か何かなのではないかとルキウスは思ってしまう。


 たまたま迷い込んだ森で、たまたま貴族の子供を助け、その功績を持って貴族家に仕える人間になるなんて。しかも、その貴族家の人々からは良くしてもらっている。

 良くしてもらっている――遠巻きにされてはいるが。

 平民でも下男下女のように、貴族家に仕えている者はいる。だが貴族家に来ている平民は、親や祖父母の代から仕えていて信頼があるか、信頼出来る者から紹介された者が殆ど。ルキウスのような、どこの誰とも知れぬ者が飛び入りで仕える事になるというのは、殆どない。

 何せ、本名不明で素性不明の男だ。

 見た目も、普通とは程遠い。体中に癒えぬ傷跡があり、右目は、どこかに落としてしまった。いや、溶け落ちたのだったか。右目をなくした時の事は、ルキウスは覚えていない。右目を晒して生きるわけにはいかないので、布で隠している。だが、右目がないのは知られている。

 掠れて、聞き取りにくいだろう声で喋る男を怖がり、距離を取る者は多かった。特に女性はそうだ。ルキウスに物怖じせず近づいてきた女性は、メルツェーデスや、彼女と共に寝ていたルキウスの世話に来ていた侍女ぐらいのものだった。


 だが、遠巻きにされても嫌がらせはされない。少しそれらしい事をされる事はあったが、どれも一度きりで、何度も繰り返される事はなかった。

 屋敷の主の子息であるルイトポルトが、異様にルキウスを気に入っているのが、影響しているのかもしれない。誰しも、自分から進んで主人のお気に入りを虐めて自分の首を絞めるなんて事、したくはない。

 何故ルイトポルトがこれほどルキウスを気に入っているのか。ルキウス自身、分からない事だ。

 命は助けたが、彼を助けるためにした事ではなかったし……颯爽と、騎士の如く助けたわけでもない。


 最初はルイトポルトや、その親の気まぐれが恐ろしくてどこかで逃げ出そうかとすら思っていた。だが、ルキウスの扱いはルイトポルトにやけに気に入られている事以外は、他の使用人と変わりない。給金も与えられ、住み込みの使用人が暮らす部屋の一室が与えられた。一室といっても寝台しかないような部屋だが、雑に大部屋を与えられる事と比べれば遥かに待遇は良い。ルキウスはかつて様々な所に行った折、貴族家に仕える使用人が大部屋で起きた問題を愚痴っていた事を思い出しながら、そう考えた。

 今のところ逃げ出す事は考えなくなった。だが追い出される事はまだあるだろうと、金は殆ど使わず、ため込んでいる。


 遠乗りの準備をして、厩の前に立つ。ルキウスが一人で遠乗りに行く事はないので、ここで待っていれば誰か準備をしに使用人の誰かが来るだろう。恐らく、オットマーやトビアスあたりか……と考えていると、予想通りトビアスが現れた。


「おやルキウス。早いな」


 ペコリと頭を下げる。

 ルキウスとトビアスは厩に入り、馬小屋の中でくつろいでいた数頭の馬を外へと連れ出す。馬は嫌いではない。かつては仕事柄、馬と触れ合う事が多かった。

 トビアスと共に馬の手綱を持ちながら歩いていたルキウスは、馬の到着を待っていたらしいルイトポルトたちの後ろに普段であればいない人の姿を見て、ギョッとした。


「トビアスとルキウスが来た! 叔母様っ、あの馬が私の馬ですよっ」


 ルイトポルトがそう言って手を引くのは、メルツェーデスだ。

 ルキウスはかの麗人に対して、率先して世話をしてもらった恩がある。だが、どうにも……。

 目を伏せて、出来る限り顔を合わせる事がないようにしながら、馬をルイトポルトに渡す。


「トビアス様」


 相変わらずかすかすな声でルキウスはトビアスに声をかける。「うん?」とトビアスは振り返った。


「今日は、どちらへ」

「ああ。丘の方へ。そこで軽食を食べる事になっている」


 トビアスの言葉通り、普段の遠乗りであればいないだろう人間がぞろぞろと集まっていた。いつもの、ルイトポルトと護衛とルキウスだけの簡単な遠乗りだと思っていた。それが違うと分かり、ルキウスは肩身の狭さを感じながら、トビアスに言われた通り追加で必要な数の馬を厩から連れてくる仕事に集中したのだった。

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