【16】玩具
伯爵家の人々はルキウスが元気を取り戻すまで世話をしてくれた。ルキウス――目覚めた後も男が名乗らなかったので、この名前が完全に定着していた――からすれば、意図したわけではない偶然から、とてつもなく良い思いをした……という状態だ。
ルキウスはルイトポルトを助けたあの時、あの少年に気が付いてもいなかったのだ。せいぜい、木の上に小柄の獣でもいるのだろうぐらいにしか考えていなかった。
ただ、腹が減っていた。数日間まともな食事がとれず、木の根や草を無理やり川の水で飲み込んで生活していた。狼の肉が美味いのかなどと、考えもしなかった。ただ、草以外の何かが食べたかっただけ。そして偶然、最初に目に入ったのがあの狼だっただけ。
その行動の結果貴族の嫡男を助け、彼に何故か気に入られ、命を救われた上に体を洗ったり、食べ物を貰ったり、寝る場所を得たり……これが恵まれていなければ、なんだろうか。
だが、いつまでもこの生活ではいられない。元々身分も定かでない人間だ。本来ならばこんな扱いされる事なく、なんなら最初にオットマーに会った時点で切り捨てられていただろう立場だ。
ルイトポルトやこのブラックオパール伯爵家の人々の善意を疑いたいわけではないが……いつ、気が変わるか分からないという恐怖もある。貴族の気まぐれで得ている幸福は、貴族の気まぐれで地獄に変わるだろう。
ルキウスは荷物を纏め――と言っても、ルキウスが持ちだす荷物は両親の骨の入った木箱二つだけだが――食事を運んできてくれたメルツェーデスに頭を下げた。
「ぁりがとう、ご、ざいました」
掠れて聞き取りづらい声だったはずだが、メルツェーデスには聞き取れたらしく、彼女は微笑んだ。彼女の視線から逃れたくて、ルキウスは視線を落とす。
この美しい女性が自分の世話係の一人として近くにいる事は、ルキウスには気まずさしか感じない。普通貴族の女性が使用人以下の人間の世話などするものだろうかと、疑念すら抱いた。
だがどうやら、メルツェーデスは世話好きな性格らしく、侍女たちから困っていると言葉を告げられながらも「これぐらいしか出来る事がないわ」と説得して食事を運んで来ているのを、ルキウスは廊下から聞こえてきた会話で知った。それ以降、メルツェーデスの事を出来る限り意識しないように生活をしてきた。
「このあと、出ていきます。ゴメーワクをかけました」
そう言いながらもう一度頭を深く深く下げる。
恐らくメルツェーデスは「あらそうなのね」ぐらいしか反応しないだろう。そんな風にルキウスは思っていたのだが、メルツェーデスは酷く驚いたようにこう言った。
「まあ……貴方はルイトポルトの遊び相手になるのではなかったのですか?」
「???」
何の話だと困惑し、ルキウスメルツェーデスの顔を見上げてしまった。メルツェーデスはメルツェーデスで、心底不思議そうな顔で頬に手を当てて首を傾げている。
「?」
「?」
お互いに頭の上に疑問符を飛ばしていた所に、侍女の一人が慌てた様子で入室してくる。
「メルツェーデス様っ! 食事を届ける時は我々と共に向かってくださいと何度も……!」
「ジゼル。ルキウスはルイトポルトの遊び相手として使用人になるという話だったわね?」
「えっ?」侍女は目を点にした。「は、はい。確かにそのように聞いていますが」
「エ」
とルキウスが声を漏らす。
「はい?」
と侍女はルキウスの反応に怪訝そうな顔をした。
少しの沈黙の後、侍女はメルツェーデスを見ながら言った。
「兄に確認いたします。メルツェーデス様。お願いいたします、どんな身分の者であろうと、男と部屋で二人きりになるような事はなさらないでください」
「ごめんなさい。ジゼルたちが忙しそうだったから……。ルキウスの件は、お願いね」
女たちが去っていき、一人残ったルキウスは呆然としながら、運ばれてきた食事のスープを啜った。
次に人が来たのは、食事が食べ終わった頃の事だった。
「ルキウスっ、出ていくのか? どうしてだ?!」
ルイトポルトは部屋に飛び込んでくるやそう叫んだ。その後ろから、執事のジョナタンも顔を出す。
ジョナタンは、ルキウスが見るからに部屋を整えているのを見て妹から聞いた話が本当だったと知った。
ベッドはルキウスが出来る範囲で綺麗にされていて、出来る限り汚れなどもないように掃除をした形跡があった。そして普段はベッドの横に置かれたままの木箱は出入り口に近いところに積まれている。
「ルキウス。何が気に入らないのだ? 教えてくれっ」
「ぁ、ぇっ……」
ルイトポルトの必死な言葉に、ルキウスは困ったように眉尻を下げている。助けを求めるように、ちらちらとジョナタンを見ていた。
こほんとジョナタンは咳ばらいを一つ。
「ルイトポルト様。旦那様との話し合いで決まった事はルキウスにはお伝えされたのですか?」
「…………あっ」
ジョナタンの問いに、ルイトポルトは小さく声を漏らす。その声と表情は言葉はなくとも、ルイトポルトの答えが否定である事は明らかだった。
困った顔のままのルキウスに、ルイトポルトは頬を掻きながら説明した。
「父が許してくれた事が嬉しくて、お前に伝えていなかった……。ルキウス! 喜べっ、お父様が、お前を使用人として雇う事を認めてくれたのだ! 私の命を救ったからと!」
その言葉はルキウスにとっては予想外だった。だが目の前で本当に嬉しそうにしている子供相手に、拒否を言うのは難しかった。子供の後ろにいるジョナタンは、静かにジッとルキウスを見つめていたからだ。ルイトポルトを悲しませるような事をすれば、恐らくジョナタンと――その背後にいるだろう貴族の怒りも買い、即座に命はなくなるだろう。
ルキウスは小さくつばを飲み込む。それから、なんとか、かすれた声で言った。
「そ、です、か」
「ああ! だからお前が出ていく必要なんてないんだぞ! もう少し元気になったら、私に付いてもらう事になると言っていた。そうだろうジョナタン」
「はい。彼が何が出来るかまだ分かりませんから、使用人としての仕事は落ち着いて覚えれば良いでしょう」




