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妻が貴族の愛人になってしまった男  作者: 重原水鳥
第一粒 妻が貴族の愛人になってしまった男
15/144

【15】ルキウス

「あら、お目覚めになりまして?」


 目を覚まして少しして、視界に映ったのは麗しい女性。

 これまでの人生で一度も見た事がないというほど、煌めく色彩の女性。

 青の瞳。

 青を散らしたような、不思議な黒の髪の女性。


「――?」


 何が何だか、分からなかった。数度、ゆっくりと瞬く。視界が閉じて、開いて、閉じて、開いて。その度に意識が覚醒してゆく。


「三日、お目覚めになりませんでしたのよ。意識がお戻りになって安心いたしましたわ。ルイも喜びます」


 女性はそう言い、視界から消えた。


 ここは――どこだ。

 あれは――誰だ。

 己は――。


「っ、ぁ、――! ……!」


 なんとか身を起こす。

 父さん母さんと言った心算であった。しかし喉は震えはしても、声は出ず。

 必死に周囲を見渡す。その視界の中で、突如飛び上がった男に驚く女性は映っていたが、男の意識の外の出来事だった。

 少し遅れて、寝台のすぐ傍の小さな木製の机上に木箱二つが置かれていると気が付いた。

 寝台から転げ落ち、膝や腕を打ちながら、男は木箱の下へと移動すると、木箱を抱え込んだ。


 もう男にはこれしか残っていなかった。とうに死し天に上った、親の抜け殻しか。


 木箱を抱え込みながら、男は咳き込む。喉が酷く痛かった。右目も痛い。右目そのものはいつの間にかなくなっているので、痛んでいるのは目ではなくその周りなのだと思われる。だが男に分かるのは、痛いという事だけだった。


「いけないわ。誰か。医師(せんせい)を呼んで頂戴」


 遠くで女性の声がした気がしたが、男は痛みで蹲って、また、意識が消えた。



 次に起きた時、覗き込んでいたのは女性ではなかった。代わりに、何度か見た顔であった。


「起きたのだなっ、『ルキウス』!」


 キラキラと赤い目を輝かせ、赤い光が散ったような不思議な黒髪を揺らし、少年――ルイトポルトは笑った。男が呆然とルイトポルトを見上げていると、「こら」と先ほどの女性の声がする。


「ルイ。病み上がりの方に大きな声で話しかけてはなりません」

「はいメル叔母様。……すまない『ルキウス』。うるさかったか?」


 何が何だか分からないが、質問には答えなければならない。ルイトポルトは貴族であり、平民は貴族に逆らえないのだから。

 酷く億劫さを感じながら首を横に振れば、ルイトポルトは嬉し気に微笑んだ。


「ならば良かった」

「ルイトポルト様。診察をさせていただいても?」

「勿論だ、医師(せんせい)


 新しい声だ。目線だけそちらにやれば、男の親ぐらいの世代だろう男が立っていた。


 それから、医師(せんせい)と呼ばれた人物は、あれこれと男を調べた。何をされているか男にはよく分からなかった。

 暫く作業をしてから、医師は言った。


「目が悪くなった事でそこから瘴気が入り込んでいるのでしょう。肉体的な疲労と栄養失調も見られますね。ですが、体が動かせないというわけではなさそうですし、意識はあるようですから、栄養を補給し休息すれば、回復する事もあるでしょう」

「回復しないかもしれないのか、医師(せんせい)

「何事にも絶対はありません、ルイトポルト様。特に瘴気は、高名なシスターや司祭様でも必ずしも解決出来る事ではありませんから……」


 ルイトポルトは桃色の唇をきゅっと結んで、男に必死に訴えた。


「『ルキウス』、大丈夫だ。お父様たちの説得はしたんだ。お前が元気になるまでここに居て良いのだぞ。大丈夫だ……」


 男は答えなかった。

 ただ漠然と思っていた。



 ――『ルキウス』って、なんだ?



 『ルキウス』の謎は少ししてから明かされた。

 ルイトポルトも、その横にいた叔母様と呼ばれていた女性も、ずっとこの部屋にいるわけにはいかなかったようで、既にいない。一人ぼんやりと寝台に寝ていた男を尋ねてきたのは、これまた見知った顔だった。


「お、起きているな『ルキウス』!」


 ニコリ笑うのは、トビアスと呼ばれていた騎士だ。トビアスは木製の椅子を男が横たわる寝台の横へと移動させ、座った。

 トビアスは笑いながら勝手にあれこれと男の横で喋っていった。


「目覚めて良かった。お前が目覚める気配がない上に医師があまり長く目覚めなければそのまま衰弱して命を落とすだろうと言ったとかで、ルイトポルト様が大変だったんだ。それから、もう会っただろう? メルツェーデス様もお前を心配して、侍女らと一緒になって看病をなさっていてな、もしお前が目覚めなかったらルイトポルト様に加えてメルツェーデス様も大変心を痛められただろう。いや本当に目覚めて良かった」


「……うん? 変な顔をしているな。メルツェーデス様が誰か知りたいのか? メルツェーデス様はルイトポルト様の叔母君さ、旦那様……私やオットマーが忠誠を誓っている現ブラックオパール伯爵の妹君でもあられる。普段旦那様や奥様は仕事でお忙しいから、ルイトポルト様のお相手をよくしてくださっているのだ。ルイトポルト様の命の恩人だからと、お前の世話も自ら名乗り出られていたのさ」

「それにしてもお前の右目、瘴気が酷かったらしい。医師が丁寧に処理をしてくださったそうだからこれ以上悪化はしないだろうが、よくもなっていないと言っていた。他に移る類の瘴気ではないと言っていたから世話を請け負ってくれた侍女もいたが、もし移るものだったら即座に追い出されていただろうな……」


「流石に瘴気があると聞いた時は旦那様も良い顔をされなかったが……うん、ルイトポルト様が『ルキウス』を見捨てたくないととてもとても強く訴えてくださったんだ。ルイトポルト様には感謝をしろよ」

「…………なんだ? また変な顔をしている。ああ! 『ルキウス』の呼び名か? いやお前、名乗らなかっただろう。私たちも知らないし、ジョナタンさんに問われた時も答えなかったからお前の呼び名がなくてな、皆『片目男』だの『毛むくじゃら』だの『骨男』だの好きに呼んでいたのだが、ルイトポルト様が『ルキウス』と呼ぶと言い出して、皆それに倣ったのさ」


「隻眼のルキウスが名の由来さ。はは、ルイトポルト様らしい名づけだろう?」


「……………………待て。その顔。何一つ理解してない顔をしているぞ。まさか隻眼のルキウスを知らないのか!? 驚いた。平民でも知られた偉人だとばかり思っていたんだが……。仕方ない。教えてやるから、知らなかったなんてルイトポルト様の前で言うなよ」


「なんて言ってみたものの、私もたいして詳しいわけじゃないが……あらましぐらいは知っているとも」


「隻眼のルキウスはおおよそ、九百年ほど昔の人だ。彼は巡礼者だった。生まれつきか後天的なものかは定かでないが、右目がなく、左目だけで世界を見ていた。だから隻眼の、と呼ばれるようになったのだとか。彼は旅の中で様々な問題を対処しなくてはならなかった。その多くを、知恵と勇気と、それから精霊たちの加護や助力によって乗り越えたという。彼の巡礼は生涯続き、最後は巡礼の旅の途中、森の中で息絶えたとか……」


「……とまあ。そういう人だ。その様々な活躍は、ホメーロスの『隻眼の巡礼者ルキウス』に詳しいぞ。……ああそうか。ホメーロスの本なんて、私たちは普通に目にしても、平民が目にする機会はそうそうないな。口伝でもなければ、知りえないか……。…………いやだが、教会に行っていれば耳にする事もあったのでは? まあいい。今伝えたんだ、よく覚えておけよ」


「何を話していたのだったか。ああそうだ。お前が目覚めて良かったという話だったな。いや本当に良かった良かった。そういえば、お前は今の状態について何かルイトポルト様やメルツェーデス様からお聞きしたか? ……してないか。なら説明しておこう」


「お前は今、ブラックオパール伯爵家で保護されている。森の中でルイトポルト様を狼から救い出した人間として伝えられているから、お前に無礼を働く者もそういないだろう。命の恩人なのは間違いなく真実だからな。お前の素性は未だ不明な点が多いわけだが……ルイトポルト様が恩人を助けたいと強く主張した事を、旦那様がお認めになった。いくらなんでも不審人物すぎると反対する者もいたのだがな。旦那様はお前を保護すると決めてくださったのだ。な? 助けてくださっただろう?」


「少なくともお前がある程度健康になるまでは助けて下さるのは間違いない。この屋敷にもお前のような身の上の者も少なからずいるからな」


「お前の過去については――そのうち、ジョナタンさんがまた聞き取りに来るだろう。その時は嘘は言わず伝えてくれ。それがお前の身分を保証する、最も確かな道だからな」


 トビアスは好きに喋っていったのち、「ん。随分喋りすぎてしまった。あまり抜けているとオットマーに叱られるな。それではまた来る」と言い、さっさと部屋を出て行った。


 一人残された男は……ぼんやりと、孤独に天井を見つめた。

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