【135】ピジョンブラットルビー伯爵家主催・弓術大会に向けて
ルキウスが弓術大会に参加すると決まるや否や、領地から飛んできた男がいる。
イザークである。
「こちらにいれる時間はそう長くない。ルイトポルト様と伯爵家の名を背負うのだ、絶対に下手な結果は許されない!」
と、イザークはインゴやルイトポルトから許可を取り付け、ルキウスから侍従見習いとしての仕事を全て取り上げた。そして、ルキウスが持つ事を許されたのは弓にまつわるものだけとなった。
そうして朝から晩まで、弓術に関わる事だけをする生活が一週間ほど過ぎ、イザークは予定通りの日程でまた領地に帰る事となった。
「今日までに教えた事を毎日するのだぞ。いいな!」
そうルキウスに鼻息荒く訴えた後、イザークは去っていった。
まるで嵐のような男である。
イザークが帰った後はさすがに、ルキウスも弓術のみにかまける訳にはいかない。一日の時間の最大を弓術に費やす事は許されたが、今まで通りの侍従としての仕事も降りかかってくる。
目が回るように端からは見えていたし、あまりの責任の重さに憐れむ同僚たちもいた。が、ルキウスは大会への参加はさておき、侍従の仕事をしながら弓術に取り組む事には、そこまで後ろ向きではなかった。
集中力が削られる事による疲弊は、確かにかなりのものである。
だがその疲弊により、要らぬ不安を抱える暇もないのも事実だ。夜、ベッドに倒れ込んだら、朝決められた時間まで夢を見る間もないほど深く寝入る。そんな生活を繰り返すのは、さほど悪くはなかった。
「……あー。ルキウス? それも、イザークから言付かった鍛錬か?」
「はい」
上下さかさまになっているトビアスの顔を見ながら、ルキウスは頷いた。
トビアスの顔が上下さかさまに見える光景は、見覚えがある。彼に鍛えられている際に地面に寝転んだルキウスの顔を、トビアスが上から見下ろされた時に、似た光景になる事は多かった。
だが、今は全く別の理由で、トビアスの顔は逆さまになっている。
その理由とは、ルキウスが、木の枝にぶら下がっているからだ。
重力に従い、髪の類は全て下に向いている。服も、シャツの裾をズボンに入れ込まなければ、腹を出す事になっていただろう。
「随分とまあ……何用の鍛錬なんだ?」
「分かりません」
「分からないでやっているのか……」
「恐らくですが、どのような体勢でも弓を放てるように……だとは、思うのですが」
「実戦用が過ぎないか……? というか、実戦でも使えるのか、それは。木の上から撃つことになるとしても、普通に枝の上に座る体勢で十分なのでは?」
ルキウスもそんな気がする。
「全てがこのような鍛錬ではありませんので……基本的には、基礎的な指示が多いのです」
たまに、今回のような突飛な指示が混ざっているのは否定できないが。
「それで、何か私に御用でしょうか、トビアス様」
「ん? ああ……要件と言えば要件なんだが……。コェストラーには頼んでいるのだが、大会前に色々とお前に合わせなくてはならない品があるからな、その合わせの日程の調整が入るだろうから、頭に入れておいてくれ」
ルイトポルト付き使用人のリーダーでもあるコェストラーに話が通っているという事であれば、ルキウスも否はない。
だが、大会に向けての合わせというのが、なんのことか分からず首を傾げた。
「あの……合わせ、とは?」
「装い一式に決まっているだろう」
ルキウスはそっと目を閉じた。
そのルキウスの顔に、トビアスは笑う。
「そろそろ、多少堅苦しい事にもなれろ? 今回はルイトポルト様がご命令になっての参加だからな、新しくそろえる装いは全て伯爵家から用意される事になる。もう少し、新しい服が無償で増えると喜んだって良いだろうに」
「伴う責任が大きすぎます」
「ハハハッ! ……まあ、今回は否定しないが」
普段であれば「そこまで気にしなくてよい」と口を出してきそうなトビアスの言葉にルキウスは、一番関係の長い騎士を見つめた。トビアスは普段の朗らかな表情はそのままであるものの、どこか纏う雰囲気が重くなっていた。
「大会に参加するのは大半がルビーの一族だろう。それ以外に、弓の腕に自信がある者が多く……下手をすれば、王国中で予定が合うものは全て集まってくる可能性もある。そんな大会に、ブラックオパール領からただ一人参加する訳だ。……な?」
「……理解しております」
下手な結果を示す訳にはいかない。だからこそわざわざ伯爵領からイザークが飛んできたのだ。ルキウスもよくよく、そのあたりは理解している。
「すまないな。ルキウスにこのような釘さしは不要とは思ったが……あれこれと他にも口を出してくる者も、少なからずいるだろうから、先に言わせてもらったよ」
そう喋るトビアスは、先ほどまで纏っていた重い空気はなくなり、いつもの明るく爽やかな青年に戻っている。
「もし何か言ってくる者がいたとしたら、十分に私から重要性は伝えられているとでも言えばいい。私の方でも、騎士達にはすでに話をしたと伝えておくがね」
どうやら、先ほどの言葉はルキウスに言い聞かせるという事よりも、周囲に見せるためのものであったらしい。
それにしても。
(やはりインゴ様とご兄弟だな……)
顔立ちが激似という訳でもないのだが、先ほどの圧のかけ方はなんとも似ていた。
逆さまのまま、しみじみとそう思うルキウスであった。