【134】ヘークレスの寵児Ⅱ
玄関ホールにはなんとも言えない空気が流れていた。誰が次に言葉を発し、どんな内容を語るかで、どうとでもなれそうな雰囲気である。下手をすれば、二つの伯爵家の関係が最悪な形になる可能性もあるので、立場が低い者も高い者も、どうすれば良いのだという空気が漂っていた。
頭を下げているせいもあり、ルキウスはカールフリートの顔色をうかがう事も出来ない。ただ、誰かが動くのを待つしかない。
そんな玄関ホールに、殊更明るい声が届いた。
「カールフリート殿。全く、急に我が家の使用人を引き抜こうとしないでくれまいか」
ルイトポルトだ。
その声には怒りなどはなく、むしろ笑いを含んだ声である。
「ルキウスは私の大事な使用人だ。たとえ相手が誰であろうと、渡すつもりはないよ」
そう発言したルイトポルトに即座に、声をかけたのは、ハスカールである。
「すまない、ルイトポルト! もしかしてとは思っていたのだが、咄嗟に止められなかった。誠に申し訳ない! 気分の悪い行為だった事だろうが、これは彼ら……ルビーの一族の性分なんだ。ルビーの一族が強さを尊ぶのは貴方も存じているだろうが、彼らは武勇を重要視するが為に、良いと思った人間を自陣に引きこもうとすぐ動くのだよ、今見ただろうが、周囲が止める間もなく、ね。……だがどうか、あまり重く受け取らないで欲しい。これはもはや、習性と言っても差し支えない。美しい花を見れば声をかけずにはおれない男がいるようなものなんだ。口説く対象は武勇を極めた筋骨隆々な者ばかりだが」
謝罪から入り、次いでカールフリートには悪気がなかった、という部分をハスカールは強調した。学院入学前からカールフリートとの関係があるゆえに、ここで二つの伯爵家嫡男の仲が悪化する事を避けたかったのだろう。
ハスカールの事に、ルイトポルトは笑いながら「分かっているよ」と返した。
「そもそもカールフリート殿が私に話しかけてきた最初の話題だって、ヘークレスの寵児だったからね。突然の引き抜きに驚きはしたけれど、あまり意外には思っていないんだ。――それで、カールフリート殿。どうか諦めてくれるだろうか。繰り返すが、たとえいくら積まれた所で、私はルキウスを手放す気はないよ」
にこりとほほ笑んでいるルイトポルトの言葉に、カールフリートは驚くほどあっさりと肩をすくめた。
「ハッキリと忠誠を示されて無理強いなど出来るものか。騎士道に反する。安心してくれ、ルイトポルト。オレはもう、ルキウス殿を引き抜こうとはしない」
あれほど熱烈に誘っていたとは思えないほど、サラリとした反応であった。断られた事を不快に思ったりもしていないようである。
ルキウスは頭を上げながら、ホッと胸をなでおろした。
ルイトポルトはカールフリートの言葉に、
「その言葉が聞けて本当に安心した!」
と大きく笑った。
玄関ホールの人々も、みな、安心したように力を抜いている。
「だがそうだな……是非とも彼の弓術を見てみたいという思いはあってな」
「ならば場を用意させようか?」
(ルイトポルト様っ!)
あっさり許諾しそうな主人にルキウスが心の中で頬をひきつらせかけていると、「いや」とカールフリートは首を横に振り、それからニヤリとどこか愉し気な顔でルイトポルトを見た。
「……ルイトポルト。貴殿、彼を弓術の大会に出す気はないか?」
「大会、か? あまり考えた事はなかったな……」
狩猟祭も順位は決めるけれど、あちらは祭りの意味合いが強い。一人ひとりの技術を競う大会、という雰囲気はない。
「ルビーの大家では毎年、さまざまな武術を競う場を催すのが習わしでね。今年、我が家では弓術の技術のみを競う大会を開く事になっている。……ついては! 是非ともブラックオパールの『ヘークレスの寵児』にも参加をして貰いたいと考えているのだが、どうかな」
「なるほど……そうだな、即答は出来ないのだが、良いだろうか? ルキウスが出るとなれば、ブラックオパールを代表しての参加となるだろう。一応、父に話を通したい」
家を代表するという事は、その者が下手な結果を出せば、家の名を落とす事になる。
しかも名門伯爵家が主催する大会ともなれば、自家で開催している狩猟祭で少し失態を犯すのとは比べ物にならない影響が出る。
そのあたりを考慮し、当主の許可を得たいと申し出たルイトポルトに、カールフリートは鷹揚に頷いた。
「勿論だとも! 何ならオレもブラックオパール伯爵に一筆したためたい。ルキウス殿の力を世に知らしめる良い機会だぞ」
(し、しらしめなくていい……)
と、ルキウスは思った。
しかし彼の思いとは裏腹に、とんとん拍子に話は進む。
宣言通りカールフリートはブラックオパール伯爵に一筆したためた。その手紙の影響もあったのか、なくても許可を出したのかは定かではないが――正式に、ルキウスが参加する事の許可が出た。
これによりルキウスは、ブラックオパール伯爵家嫡男ルイトポルトの名を背負って、弓術大会に参加する事が決定してしまったのだった。




