【133】ヘークレスの寵児
玄関ホールの巨大な肉食ペリカンの頭部のはく製。
その堂々たる姿と、その下でどこか気まずげな顔で立つルキウスの姿は、あまりに不釣り合いだった。
「背筋を伸ばせ」
「っ!」
小さな声だったが、そのインゴの声はルキウスの耳に届いた。ルキウスは息を整えて、それから背筋を伸ばし、かかとをそろえて準備を終えようとしているルイトポルトと彼の友人たちに向き直った。
少し経つと、準備が出来たらしかった。
今の現場の人の並びはシンプルである。立派なテーブルなどはいらないと若者たちが言ったので、ルイトポルトをはじめとして、学生たちは皆椅子に腰かけてルキウス――そしてその頭上にあるはく製に向き直っている。
いつの間にか人が少し増えていて、レヒタールやジビラ、それだけでなくノイバーの姿もある。
背後には、庭の時と同じく、インゴたちをはじめとした護衛や使用人たちがずらりと並んでいた。
「うん。皆、落ち着いたかな。それではルキウス。是非最初から語ってくれ」
「最初から、ですか」
具体的にどこから話すべきなのか。少し迷う気持ちはあったけれど、彼らが聞きたいのはこの巨大肉食ペリカンにまつわる話だ。ならば話のはじめは、ペリカンに出会う所で良いだろう。
「狩猟祭に参加した私は、獲物を探して森の奥に入り込んでおりました。その際に、他の参加者の悲鳴を耳にいたしました。そちらに向かった所、深い森の奥から、この肉食ペリカンが現れたのです――」
それから、ルキウスは覚えている限りの狩猟祭の出来事を話し出した。
ルキウスの語りはそれほどうまい訳ではない。
物語調に語る事も出来ず、精々、時系列順に出来事を羅列するのが精々という具合である。
そんな語りであるというのに、殊更強い興味を示していたのは、この場を望んだカールフリートであった。
椅子の肘置きを手でつかみ、上体を半ば倒しながら、血のように赤い瞳を真っすぐにルキウスに向けている。その瞳にはどことなく憧憬のようなものが混ざっているように感じられてしまって、ルキウスは気まずくて仕方なかった。
(何故大貴族の令息が、俺にそんな目を向けるんだ……?)
ルビーの一族は男も女も騎士になる者が大半だという。
(彼が騎士だから、功績を上げたものに対して友好的という事だろうか……?)
不思議に思いつつ、ルキウスは語り続けた。
カールフリート以外の面々は、分かりやすく興味があるという顔をするものと、ルキウスの報告書の羅列染みた説明に飽きが出始めているものとで分かれている。
前者はアゲート伯爵令息ハスカールやレヒタール、ノイバーがあたる。あと数人の使用人か。
後者はグリーントパーズ子爵令息オテンフェルドやグリーントパーズ男爵令息ポーンスドルフ、そしてジビラと、やはり数人の使用人たちだ。ジビラなどは令嬢なので、この反応になるのも致し方ないだろう。
そんな反応の差にルキウスが目を走らせたのは、インゴからここ最近、「もっと注意深く周囲を見ろ」と言われるようになったからだろう。
狩りの話は終わりに近づく。
肉食ペリカンに飲み込まれて喉を突いた……なんて話のあたりでは、ジビラの顔色が悪くなっていた。
当たり前だ。あまりに血生臭すぎる話題である。とはいえこの話はジビラに対するものではなく、カールフリートに対するものであるので、ルキウスはちらりと彼女を見はしたが、声はかけなかった。
かわりに、侍女の一人がジビラに退出を促した。それでも退出しようとしなかったのだから、そこから先の判断は彼女の問題だ。本当に問題がありそうであれば、ルイトポルトの少し背後に控えているインゴが対処するだろう。
「――こうして肉食ペリカンは失血多量で死に至りました。以上が、私が肉食ペリカンを狩るに至った経緯でございます」
ルキウスはそう話を締めくくった。
「素晴らしい!」
最初に大きな反応をしたのは、案の定、カールフリートであった。
椅子から立ち上がり、彼は頬を紅潮させ、大仰に拍手をした。
「本当に……なんと素晴らしい事だろう。『ヘークレスの寵児』の名は、やはり彼にこそ相応しい。ハスカール。貴殿もそう思うだろう?」
「全くだ。これほど大きな獣を、一人で、しかも弓で討伐なんて、『ヘークレス』の名を冠するにふさわしいね」
興奮した様子のカールフリートの言葉に、慣れた様子でハスカールが答える。それはどこか、宥めるような雰囲気も兼ねた声かけであり、カールフリートとハスカールの関係性が滲んでいた。
(確か、ピジョンブラットルビー伯爵家とアゲート伯爵家は領地が近く……その関係もあり、アゲート伯爵家の末子であるハスカール様はカールフリート様の遊び相手として交友を持っていたんだったな)
散々読まされた資料で知っている情報に意識を飛ばしていたルキウスだったが、カールフリートが大股で自分に近づいてくるので、慌ててゆるみかけていた意識を張り詰めさせる。
背丈こそ、ルキウスより小さい。まだ成長期を終わらせていない者特有の、どこか幼さの残った顔をする令息は、爛々と輝く瞳でルキウスを射貫きながら、片手で自分の胸元を抑えた。
「ルキウス殿。貴殿は今、侍従見習いをしているというが……騎士になる心づもりはあるだろうか? もし騎士を目指す志が少しでもあるというのなら、是非とも我が家に来てくれまいか!」
(……は?)
ルキウスは僅かに目を見開いて、目の前の少年といえる年ごろの令息を見た。
カールフリートの発言に、ざわりと玄関ホールが揺れた。椅子に座って笑っていたルイトポルトの顔からも、ぽとりと仮面が落ちたように表情が変わっている。
堂々と、今の主人が目の前にいるというのに、仕える家を変えないかと言われている事を、ルキウスは理解するのに必死だった。
誰も止める者がおらず、流れる川の水のようにカールフリートは語り続ける。
その声は随分と興奮している様子で、そこに悪意があるようには見えなかった。
「ルビーは実力を何よりも尊ぶ。貴殿が平民出身であることは存じているが、それは些細な事だ。実力がなければ貴族の生まれだろうとなんら価値はないからな。貴殿の実力をもってすれば、我が伯爵家で大きな功績を遺す事が出来るだろう! 『ヘークレスの寵児』である貴殿が、侍従として一生を終えるなど、なんと勿体ない事か。騎士になる事でより、遥かに大きな名声が貴殿の物となるに違いない!」
「……騎士の名門、ピジョンブラットルビー伯爵家がご子息にそこまでのお言葉をかけていただき、恐悦至極に存じます」
張り詰めた空気を感じる。無数の視線がルキウスに突き刺さる。
「ですが」
だが、その問いかけは、ルキウスにとっては迷うに値しない。
「私はルイトポルト様の侍従見習いでございます。今までも、これからも……お仕えいたしますと、ルイトポルト様にお誓い申し上げております故……、どうかご容赦くださいませ」
胸に手を当てて、頭を下げる。相手に対して出来る限り非礼のない態度をとる。それが、主人であるルイトポルトの顔を汚さない為の、必要な行動。
謝った所でカールフリートが納得するとは限らない。むしろ、自分の提案を拒絶されたと怒る可能性もあった。
それでも、ルキウスの中には騎士になるという未来はなかった。万が一騎士になる事になろうとも、それはルイトポルトの騎士になる形しかない。
ルキウスにとって、己の主人である人はルイトポルトただ一人なのだから。