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妻が貴族の愛人になってしまった男  作者: 重原水鳥
第四粒 ルイトポルト、貴族学院へ ~1年目~
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【129】ルキウスⅥ

 ルイトポルトが貴族学院での新しい生活をし始めた一方で、ルキウスも新しい生活を始める事となっていた訳だが、インゴの元で教育が始められたルキウスの生活は、端から見ていた同僚たちが「激流の中を泳いでいるようであった」と例えるものであった。

 覚えなくてはならない事は次から次へと溢れてくる。いくら新しい事を覚えても、それを物にしている傍から新しい知識を覚えなくてはならない。

 平民でありながらルイトポルトに寵愛されているルキウスに嫉妬していた屋敷で働く使用人たちも、頬が引きつり同情するほどに、インゴは厳しかった。


「ルキウス、これやるよ。食べると精が付くぞ」


 なんて、同僚たちがルキウスに夜食やお八つ代わりに食べ物を差し入れしてくれた事は一度や二度ではなかった。必ずしも腹が減っているタイミングでもなかったが、折角用意してくれたものを受け取らないのも申し訳ないと、


「ありがとうございます。いただきます」


 とルキウスはそれらを受け取りながら、日々を過ごした。

 そのような対応が元からの関係性がある領地から来た使用人仲間だけでなく、王都で元々働いていた使用人たちからもされるようになって、ルキウスは気が付いた。


(どうにも、俺は虐められていると思われているらしい)


 確かに、望んで始まった教育ではない。


(何故かインゴ様は未だに俺をルイトポルト様の右腕見習いと思っているし……)


 誤解なのか、ルキウスが知らない所で勝手に話が進んでいるのか、判断がつかなくて困った。

 教えられる知識は多く、大変だ。正直に言えばルキウス自身はあまり好きではない暗記だとか、よく分からない貴族たちの関係性だとか色々な事を覚えさせられて、頭が痛くなる事もある。


 だが、大変であればあるほど、終えた時のやりがいというものもあった。

 自分の身には不釣り合いな過度の期待をかけられるのは御免被りたくなるが、それでも、任されるのであれば最善は尽くさない訳にはいかない。少なくとも、ルキウスは、そう思う人間であった。


 例えるならば、目の前に猛獣がいる前に突き出された状況で、ぐちぐちと不平不満を口にする余裕がある人間はどれだけいるだろうか。

 普通であれば、そんな事をしている暇などなく、ただ武器を手に取り、生き残るために戦わなくてはならないだろう。


 いつのころからルキウスの生き方というのは、そんな事の連続であった。精一杯、目の前の出来事にただ対処する。その内に自分も、周囲も、随分と変わった。


(自分は幸運な人間だろう)


 そう思う。人に裏切られたのに、こうして、今は信用出来る人々にまた出会う事が出来ている。更に、ただの平民でしかないというのに、とても良い生活も出来ている。

 ルキウスは自分の今の生活に不満はないのだ。インゴに連日扱かれて仕事をしているとしても、そう思う。


(容赦がない所は、トビアス様と御兄弟だと感じるな……)


 もしかすれば、インゴの扱きに耐えられるのは、トビアスとの経験故かもしれないとルキウスは空を見上げながら思った。全く容赦がない剣術の扱きはルキウスが一歩も動けないような状態になるまでよく続けられたし、トビアスはいつだって笑いながら「ルキウス、もう一回だ!」と言ってきていた。それよりかは、眉根を寄せて「もう一度だ」「また同じ失敗をしている」と指摘してくるインゴの方が、表情と行動が一致しているように感じるのだった。


 そんな事を考えながら、ルキウスは屋敷の裏手、騎士たちの稽古場までやってきた。既に薄手の服を着ているトビアスやオットマーと、稽古に励む騎士たちがいた。


「ルキウス! 来たか」

「お待たせしました」

「いやいや待ってないさ。インゴは細かい所までうるさいだろう?」


 兄弟故か、インゴに対するトビアスの物言いは容赦がない。

 ルイトポルトとメルツェーデスがこの屋敷に滞在する事になるまでの間、王都のブラックオパール邸の実質的な主は代官ハーゲンとその一家だった。その為、使用人たちは彼らの悪口にあたるような言葉を口にする事がない。どこで話が回って当人の耳に入り、不興を買うか分からないからだ。

 ルイトポルトとメルツェーデスが滞在するようになり、これから先屋敷の中心は嫡男であるルイトポルトだ。とはいえ、執務面でのトップは今しばらくの間は代官ハーゲンで、インゴはその右腕的存在だ。彼の悪口に聞こえなくもない言葉に、ルキウスが同調でもすれば、どこで話に尾ひれがついて広まるか分かった物ではない。トビアスの問いに、ルキウスは苦笑するにとどめた。


「よし、するか! 準備運動は必要か?」

「先ほどしてまいりましたので不要です」

「分かった」


 トビアスとルキウスはそれぞれ木剣を構え、定期的に行っている剣の訓練を開始した。


 ――伯爵領にいた頃も行われていた剣をはじめとした武芸の訓練は、王都に着ても続けられていた。

 武芸の訓練の時間を奪うような事は、インゴも行わない。何故か? やはり、ルキウスの活躍と言われる行為の殆どに弓などが関わっているからだろう。ルキウスはあまり褒めたたえられると反応に困るので話題に出されるのはあまり好きではない。

 だが、ルキウス自身、己の売り文句として精々上げられるのはそこぐらいだと思っている。

 出自は平民。

 文字の読み書きが出来るという点も貴族の中では出来て当たり前の事であり、誇れる事ではない。

 多少、弓の才があっても、対獣でしか使った事はなく、実戦には到底投入出来ない程度の出来だと、ルキウスは自覚している。だが、そこぐらいしか売り文句がないのだから、そこを失うような事は出来ない。


 だからルキウスの方も、トビアスに定期的に声をかけて剣の訓練をしたり、弓の練習場を借りて日々鍛錬は欠かさないようにしていた。



「よし、今日はここまで!」

「っふ――、ありがとうございました」


 剣の訓練を終えたルキウスはトビアスと共に汗を流すため、井戸に向かった。くみ上げられた冷たい水に浸した布で顔を拭いているルキウスの横で、トビアスは豪快に頭から水をかぶる。


「そういえばルキウス。こちらに来ても、イザークに言われたあの変な訓練、しているんだって?」

「逆さづりの事でしょうか」

「それそれ。この前、お前の訓練の事知らない奴がその姿を見て腰抜かしたらしくてなあ」

「人が出来るだけいない所でしたつもりだったのですが……申し訳ありません」

「謝る必要はないさ。もう騎士団には全員に伝えたから、いっそ訓練場の一角でしても良いのだぞ?」


 ルキウスは苦笑にとどめた。

 イザークの変な訓練というのは、上下逆の体勢で弓を打つ、という大道芸のような訓練の事である。

 イザークはルキウスの才能に過剰な期待をかけており、二度目の狩猟祭の前頃から基礎的な訓練から逸脱して、ルキウスは見世物のような技を教え込まれ始めていた。イザークから離れて王都に来た現在も、出立前に師から続けるように言われた訓練内容は、全て定期的にこなすようにしている。

 その中にあるのが上下さかさまで撃つ訓練であった。最初のころはイザークが定期的に見守りながら、片足を紐で縛られて釣り上げられたりしていたが、完全に自由を失う縛る形式より、自力で木の枝にさかさまでぶら下がりながら撃つ方が良いとなって、現在はその形でルキウスもたまに練習をしている。世界がさかさまになるので、これが中々難しく、今の所命中率は高くない。


「イザークも変な事をさせる。嫌だったらルイトポルト様にお伝えして良いのだぞ。ルイトポルト様から言われれば、イザークも無理な訓練はさせぬだろうし」

「ありがとうございます」


 今の所ルイトポルトに話して止める予定はないが、己を気にしての言葉にルキウスは礼を言った。


 その時ルキウスは気が付いた。周囲にはトビアスしかいない。人の気配も感じられず、一番近いのは訓練場で声を上げながら木剣をぶつけ合っている騎士たちだけだと。


「そういえば、トビアス様。少しよろしいでしょうか」

「なんだ?」

「あの……私にインゴ様がついてくださる事になった理由はご存じでしょうか?」

「うん?」

「今の私が正式な侍従にはほど遠いのは王都にきて、より実感しております。ただ、文官としてのお仕事があられてお忙しいインゴ様が直々に私のような平民に物を教えるという事が、どうして起こったのかが……分からないのです」


 ルイトポルトの右腕――というインゴのあの勘違いについて、何かトビアスが経緯を知っていないだろうか。そんな風に思ったのだ。


「私も知らないな」


 と、トビアスはあっさり答えた。


「だが、有り得るとしたら父の判断だろう」

「代官様の……?」

「ああ。ルイトポルト様はお前を気に入っているし、どこそこに連れていきたいと思っているだろうから、その実現を早めるためにインゴに任せた……というあたりじゃないか? インゴは貴族学院にも通っていたし、王都にも詳しいからな。まあ、無理に感じる事があったら直接言えばいい。言いにくかったらこちらに言ってくれても良いぞ? 中々に容赦なく扱われてるという話は騎士たちの間にまで届いているからな」

「お気遣いいただきありがとうございます。ですが今の所は、特に苦には感じていないのです。ただ、インゴ様の貴重なお時間を無駄にさせてしまっている気がして心苦しいだけでして」

「なら良いが」


 トビアスとの会話はそれで終わった。


(トビアス様もご存じないのか……そうなるとインゴ様に直接尋ねるか、ルイトポルト様に……? ……無理だ。聞けない。インゴ様には聞きづらいし、ルイトポルト様に尋ねられて将来右腕になってくれ、なんてとんでもない事を直接言われたら? 拒絶出来ないし、かといって荷が重すぎて背負えやしない!)


 結局、ルキウスに出来たのは臆病にもこの曖昧な状態を続けるという事だけであった。

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