【13】エッダ
元妻の話、2話挟まります
エッダは鼻歌を歌いながら、風呂に浸かっていた。
平民だった頃は暖かい湯舟に浸かるなど考えた事もなかった。冷たい水で濡らした布で、体をふく。それが平民たちの風呂だ。貴族は巨大な桶にお湯を貯めて浸かると聞いた事はあったが、誰かが言い始めたほら話だとずっと思っていた。
あの日――家族の手伝いで市で開く露店の売り子をしていた時に男爵に見初められてから、エッダの人生は変わった。それまでの人生が不幸だったとは思っていない。自分を愛してくれる父に母に兄に店の従業員たち。既に亡くなっているが優しい義父に義母に、家にはあまりいないものの何より自分を愛していた夫。幸せだっただろう。
だがその程度の幸せは、男爵から与えられる満ち足りた生活と比べたら、些事でしかない。
男爵はエッダを一目見てこれだと思った、と言った。そしてエッダを口説き落として屋敷へと連れ去った。普通の貴族ならば何も言わずに連れ去っているが、男爵はちゃんとエッダの気持ちを待ってくれたのだ。それだけで十分愛されていると思えたし、その上、屋敷に連れ帰ったエッダを屋敷の本館に置き、本館で暮らしていたという正妻を別館へと追いやった。
「正妻の言う事を聞く使用人はいない。お前が正妻に害される事もない故、安心するといい」
男爵の言う通り、使用人たちは正妻を酷く嫌悪していた。
使用人たち曰く、正妻は若かりし頃の男爵を騙して脅して結婚までこぎつけた女だという。その上、子供一人もまともに産めないくせに、大きな顔をし続ける女。その上離婚せず、屋敷に居座る女。
男爵はエッダからすると父親ぐらいの年齢であるが、渋みのある男らしい顔立ちだ。若い頃もきっと同じように凛々しい人だったのだろうと想像出来る。なるほど、無理矢理にでも手に入れたいと思う女がいてもおかしくない。
「でも今はアタシんだ」
正妻と会った事はある。この屋敷に来た日に顔を合わせたが、これぞ貴族という風な、お高く留まった、鼻持ちならない感じの女だった。薄いオレンジの髪はじろりとエッダを上から下まで見まわして、それから、扇でさっと顔を隠すと、男爵に命じられるままに別館へと移動していった。
「別館でどんな顔してるか、見に行ってやろーかしら」
使用人に聞けば、どんな生活をしているかは分かる。
例えば今の時点でも、別館には大した使用人がいっておらず、困っているとか。男爵が正妻に金を使う事を惜しんで、買い物もさせないとか。そういう事は聞こえてくる。だがあの、自分は高い地位にいるのだとばかりにつんとした顔が崩れて、歪んでいる所が見れたら、面白いのではないか。エッダはそう思った。
今の生活には不満はない。
欲しい物を強請れば男爵は何でも買ってくれる。宝石も服も何でも。出掛けたいと言えば、仕事の都合をつけてくれる。
そして夜には、毎夜毎夜、情熱的にエッダを求めてくる。男爵が毎日エッダの下に足を運ぶから、使用人たちはエッダを実質的な妻として、とても丁重に扱ってくれる。
不満はない。
だが本格的に男爵の下で生活を始めて、早一年。同じ生活ばかりでは飽きてしまう。
もっと娯楽的な物があれば良かったが、ここ男爵領にはそういう物があまりなかった。王都に近い領地や、もっと娯楽の多い領地が近ければ遊びにも行けただろうが、男爵はエッダを愛するがあまり一人で遠出させる事を許さない。だからエッダに出来るのは屋敷で出来るような事ぐらいだ。
だから、別館に住んでいるという正妻で遊べたら、この暇な時間も少しは解消されるだろう。
エッダは風呂の中で腕をうーんと伸ばしながらそう思った。
風呂を出たエッダが侍女らの手を借りて着替えていると、使用人がお盆の上に手紙を載せてやってきた。
「やだもう、にーちゃんったらまたなの?」
エッダは呆れたように言った。
エッダの実家を継いでいる兄フーゴは、エッダが男爵に見初められた時、彼の下に行きたいエッダを後押ししてくれた人物だ。
エッダの父はエッダが前夫を捨てて男爵の下に行くのに、良い顔をしなかった。前夫はエッダの父の亡くなった親友の息子だったからだ。ちなみにエッダの母も良い顔はしなかったが、こちらは年齢が離れすぎていて娘が苦労するのではないかという不安だったから、男爵からお気持ちが届いたら安心していた。
(そりゃあ、ちゃんと別れてなかったのはゲッツには悪いとは思ったよ? でもゲッツが全然帰ってこないのが悪いんだ!)
前夫は雇われで運搬業をしていた。エッダに苦労を掛けたくないとかいっていたが、本当かは定かではない。ともかく家にいなかった。
まあでも父親の望み通り、ちゃんと別れている。ゲッツはエッダにベタ惚れだったので暫くは落ち込むだろうが、前みたいに運搬業務でどこでも好きな所に行けるし気晴らしも出来る。そのうち元気になるだろう。
使用人から渡された、兄からの手紙を見る。
どうやら兄は順調に家業を大きくしているらしい。
男爵領にある小さな町で細々と商いをしていた実家。兄は妹が領主に見初められた事を足掛かりとして、店を大きくし始めているという。父親から実権を奪い取り、今は父だけを別宅に追いやったという。頑固者の父は、未だにエッダを許せないらしい。別にもう、父に許して貰えなくたって問題ない。それはさておき、兄の方である。
兄は店を大きくし、第二店舗第三店舗と早くも店を大きくしている。そして新たな町に第四店舗を出したいから、男爵様からお口添えが貰えないか、という打診だ。
「仕方ないなぁ」
エッダとしても、兄の幸せを願っている。兄が幸せになれば兄嫁も母も幸せになるのだ。お口添えといっても、お金をもらう事はない。ただ、新しく店を出したい土地の人間に、男爵が一言伝えるだけだ。領主からの後押しともなれば、周りも口出しが出来なくなる。
(今日の夜にでも言ってやろう)
どうせ男爵は毎日エッダの下を訪れるのだから、その時に言えば良い。そうエッダは考えるのだった。




