【117】ピンクサファイア男爵家の崩壊Ⅴ
爵位を失った日から三日後。
事前の宣伝通り、ハワードはピンクサファイア男爵家の屋敷を追い出される事となった。
ハワードに付き従う使用人はいない。
男爵家で働いていた殆どの使用人は、できれば主人が変わってもこの屋敷で働きたいとしがみ付いていたのだ。主人よりも、職であった訳である。
ハワードが己についてくると勝手に思っていた執事と侍女長も、現在とある取り調べを行っている関係で身柄を押さえておく必要があると言われ、ハワードは執事が作りかけていた荷物を持って、一人屋敷を出るしかなかったのであった。放っておいても侍女長たちは帰ってくると思い、ハワードは彼らの罪状を調べる事も、庇う事もしてもいなかった。
むしろ己の出立の準備をしっかりとしていなかった執事たちにブツブツと文句を言いながら、彼は屋敷を出て行った。
その後ろ姿を屋敷の中から見ながら、騎士団長は色々な事を思った。
(あの男には行くところなど、ない)
先日の様子からして、分家の者たちも彼を助けようとしないだろう。これまでは爵位の上下があったが、平民となった以上情以外の理由で彼を助ける者はいないはずだ。
一応の監視はつけておいたが、野垂れ死ぬ分には止める必要はないと指示を出している。
しぶとく生き残るか、それとも温室育ち故にそうそうに命を散らすかは、騎士団長にも分からない。どちらでもよかったが、強いて言えば早めに命を落としてくれた方が都合がよかった。
長年にわたる、ピンクサファイア一族随一の膿。それがこの家だった。
ピンクサファイアはようやっと、膿んでいる箇所を全て切り離す事に成功した。
ハワードが今後生きていようと、まかり間違ってどこかで子供を作ろうと、妖精の祝福が彼に注がれることはないであろう――というのが、伯爵家の見方であった。
(屋敷の使用人については全てに聞き取り調査を行った後、解雇だな)
そも、この家で働いている時点で使用人の質はそう高くない。貴族家の使用人としては最低限というレベルだ。
この領地は現在、一時的にピンクサファイア伯爵家預かりとなっているが、のちに伯爵家次男のオーラフを当主として分家のピンクサファイア子爵家として新たな家が建てられる予定である。その子爵家においては、一部の若く素直な者以外は、使い物にはならないだろう。
現在進行中の聞き取り調査で重要視されているのは、より罪深い使用人の把握を行う事だ。
騎士団長が屋敷の中を進んでいくと、中庭に一人の女性の姿を見た。
先程追い出されたハワードの妻であるビアンカである。
ビアンカは一人ではなく、その視線の先には一人の少女がいる。
ハワードの娘の、グレートヒェンだ。
母親は平民であるものの薄くながら貴族の血を引いていたからか、その容姿は他の貴族令嬢との差異はない。
しかし彼らは既に貴族ではない。貴族の血を引くだけの平民だ。
本来であれば、ハワードのようにすぐに屋敷から追い出すべきであろう。ただグレートヒェン、そしてハワードJr.に関しては、あまりの幼さ故に父の罪を背負わせるのは酷だろう、と事前にオーラフから言葉を預かっていた。
最終的にはどこかの伯爵家の息のかかった養護院などに連れていかれる事にはなる可能性が高いが、父親のように無慈悲に追い出される事はなく、屋敷にとどめられている。
一方、ビアンカはいい年をした大人である。子供らのように慈悲を向けられる対象ではない。むしろ、どれだけ関係が悪くともあのハワードの妻で男爵夫人であった以上、男爵家の様々な悪評の責任を取らねばならない立場である。
無論、身一つとは言わない。ビアンカは長年冷遇されていた事も伯爵家側は把握しているし、夫であったハワードに一定の私財の持ち出しを許した以上、夫人にもそれを許さねばならない。
その私財をまとめる作業はもう終わっているので、本来であれば今後しばらくの滞在先だけ把握し――彼女は現在執事と侍女長を殺人の罪で訴え出ている関係から、何かあった際に事情聴取をする事になるからだ――屋敷を後にしてもらうのが当然の流れであったのだが……とある事情から、彼女はしばらくの間この屋敷に滞在する事が決まっている。
事情というのは、伯爵家から派遣されてきた人間すべてに警戒していたグレートヒェンが、ビアンカに懐いた事である。
どんな侍女や騎士にも全く心を開かず己の部屋の隅で縮こまって食事すら取ろうとしなかったグレートヒェンは、初対面だというビアンカを見た瞬間、表情を変えて彼女に飛びついた。
それきり、ああしてビアンカと日々を過ごしている。
もしや事前に顔合わせをしていたのかと騎士団長はビアンカに、
「本当に、面識がないのですか」
と尋ねる事となった。
その質問に、ビアンカは心の底から困ったような顔をしていた。
「ええ。今回、初めて会いましたわ。私は、彼女が生まれる前に別邸においやられてきり、本邸には帰ってこなかったものですから……」
屋敷の使用人たちにも確認を取ったが、ビアンカの発言は真実らしい。侍女長や執事ですら認めたので、恐らく本当にそうなのだろう。
理由は不明であるが、とりあえず、グレートヒェンはその後の扱いが確定するまでの間、暴れたりされても困るし、何も食べずに栄養失調になったりするのも問題である。
それを避けるためにしばらくビアンカに面倒を見させる事が決定したのだった。
「団長!」
「ああ、なんだ」
「オーラフ様より先日の手紙への返信が届いております」
騎士団長はその場で手紙を開封した。
オーラフからの手紙に目を走らせた後、騎士団長は重いため息を吐き出した。せっかく追い出したばかりであったというのに、とひとりごちてから、部下たちに指示を出した。
「……ハワードを監視している騎士に連絡を出せ。ハワードを拘束しろ、とな。お前は馬車を準備しろ。片付けに向かうぞ」