【113】ピンクサファイア男爵家の崩壊Ⅲ
「これは夢だ…………」
既に男爵の地位でなくなったハワードは、己の部屋でそう呟いて、寝台の上で無為に時間を過ごしていた。
そんなハワードの姿を見て、侍女長はおうおうと涙をこぼす。
「ああ! お坊ちゃま、なんとお労しい……」
侍女長はハワードの乳母だった。生まれた頃からずっとハワードを見ている。
彼女の人生の中心にはいつもハワードがいた。ハワードが彼女の全てで、彼の幸せが彼女の幸せであった。
現実逃避をするハワードと侍女長の横で、執事は必死に荷物をまとめている。
既に爵位を奪われているものの、三日の間は屋敷に滞在できる。既にそのうちの一日は、何も行動せずに使用してしまっている。
ハワードも侍女長も動く気配がないが、このままではまずいと執事は分かっていた。
執事は、代々男爵家に仕えてきていた家柄である。もう良い年であるし、今更他家で雇ってもらう事は難しいだろう。
新しい男爵からしても、先代男爵の寵愛を受けていた執事など、好印象になるはずがない。
執事が生き残るには、ハワードについていくしかないのだ。
年齢を考えれば、執事はハワードより先に死ぬ。死ぬまでハワードについていき、食いつなげれば良い。
そして、男爵としての仕事もまともにしてこなかったハワードが、自力で執事や恐らくついてくるだろう侍女長を養う事など、出来るはずもない。
実質的には、ハワードの金を執事が管理して、生きていくしかないのだ。
(五割、少しでも金になるものを……)
家としての財産を五割。当主であるハワードからすれば、私財の半分を持っていかれるという状況だ。だが、持ちだせるものはそう多くないのが実情であった。
領地を持つ貴族にとって最大の資産は領地であるが、これは持って移動出来るわけがない。
そうでない財産となると金銭や金銭に換金出来る貴金属などであるが、金銭の大半は慰謝料を払うために使われる可能性が高い。
なので、具体的な一覧までは把握されていないであろう貴金属が、持ち出す私財としてはねらい目であった。
家財や絵画なども財産になるし売ればある程度の金になるが、ハワードたちは今の時点で出ていく先の家がない。
本邸は勿論、別邸など、男爵家の名で所持していたものは全て家の財産であり、三日を過ぎれば所有権がハワードには一切なくなってしまう。
持っていく先がないのに、それほど大きなものを持ち運ぶ事は出来ない。
男爵家の抱える宝石やアクセサリー、金のかかった衣服などを執事は必死にかき集めている。
その横で相変わらずハワードは寝込んでおり、侍女長はえんえんと泣いているだけだった。
――そんなハワードの私室に、ノックの音が響いた。
こちらからの言葉も待たずに、入ってきたのは騎士団長であった。
普通であれば貴族の私室に、挨拶もなしに入室などありえない。
しかし既にハワードは平民の身分。猶予としてこの部屋にいる事を許されているに過ぎない。
そのため騎士団長も彼相手に気を遣う事なく、一抹の憐みからノックだけをして入ってきたのだ。
「執事。そして侍女長。お前たちに聞かねばならぬ事が出来た。ついてこい」
そう命じられては、従うしかない。
執事はちょうど手につかんでいた宝石を鞄に無理矢理押し込んで、出ていく騎士団長に続いて外に出た。侍女長は「坊ちゃまから離れるなんて!」と泣きわめいたので、騎士によって無理矢理連れだされた。
二人はそれぞれ別の部屋に入れられた。執事の目の前には、騎士団長が腰かける。
帯剣している相手が正面にいる恐怖を執事は必死にのみ込みながら「どのような御用でしょう」と尋ねた。
「ああ。お前に家族を殺されたとして、殺人を訴え出た者がいた」
「は――はぁッ? な、なんですかそれは!」
執事はあまりに予想外の言葉に、心底驚いたという声を上げた。
「私はこの家に執事として、真面目に、仕え続けた男です。人を殺すなど、そのような恐ろしい事、したことはありません!」
執事は胸を張り、己が無実を主張した。
その態度には、誤魔化すような様子は見られない。
「一体だれが、そのような冤罪を私にかぶせようとしているのですか? は、ハワード様に何か恨みのある人間が、適当な事を言ったに決まっています! 人を殺したなんて、恐ろしい……私が一体、誰を殺したというのですか!」
鼻を膨らませて憤慨する執事に、騎士団長は淡々と、こう、答えた。
「ユリアン。ユリアン・ピンクサファイア。覚えは?」