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妻が貴族の愛人になってしまった男  作者: 重原水鳥
第三粒 ルイトポルトの社交界デビューの裏側で
112/144

【110】ゲッツⅣ

「ルキウスはどうだった?」


 ハッとして、ルキウスは主人の顔を見た。

 主人は期待を乗せたかのような、キラキラと輝く瞳でルキウスを見つめている。


「裏方ではあったが……大きなパーティーにかかわるのは初めてだっただろう?」

「私は……」


 脳裏に浮かんだのは、昨日の仕事の内容ではなかった。

 体調を悪くして廊下にいたピンクサファイア男爵夫人。

 そして、ホワイトオパール伯爵令息と争いを起こした、ピンクサファイア男爵。


 あふれる唾を、呑み込んだ。


「わた、しは……大きな失態は、犯しては、いないかと」

「うん」

「沢山の方がいらっしゃり、無理に今回出ていたらご迷惑をおかけしてしまっただろうと、思いました」

「そうか」


 ルキウスの返事をルイトポルトはしっかりと聞き、相槌を打ってくる。


 無難な事を告げて話を終えようと唇を閉じかけて――。


(言わないのか?)


 ぐ、と喉が鳴る。


「ルキウス?」


 ルイトポルトは目ざとく違和感に気が付いて、心配そうな表情でルキウスを見てくる。


「何かあったのか?」


 ルキウスの昨日の動きについて、ルイトポルトは何一つ聞いていないのだろう。聞いていてこのような態度で尋ねてくるとすれば、かなりの演技力だ。


(言うのか、今更)


 正直に言えば、そういう気持ちがルキウスにはあった。


 妻だったものを他の男に奪われる。

 とても屈辱的で、恥ずかしい事だ。


 更に、妻を奪われた過去を聞いて、ルイトポルトたちから失望されるのではという気持ちもある。


(今まで何年も、ルキウスという名を使う前の事を話さないまま良好な関係を築いてきたのだから、今更伝えなくても許してくださるのではないか)


 そう、心の中で弱い自分が囁いてくるのだ。


 ――けれど。


「ルキウス?」


 名を呼ばれた。

 生まれ持った名前ではない。

 目の前の、この、主人が己にくれた新しい名である。


 これまでこの場所で、彼に恥じないように、生きてこれたと思っている。少なくとも大きな失点はなく、狩猟祭では彼に多少なりとも、貢献できただろう。

 ルキウスの人生は、今のところ、順調だ。


 けれどやはり――それはルキウスという()の人生の一側面でしかないのだ。


 どれだけ忘れたくても。

 どれだけ目を背けても。


 父母のくれた名前も、それまでの間自分が二十一年築いてきた人生も消えない。

 たとえこれから先出会う全ての人がルキウスの前を知らずとも、他でもないルキウス自身は、ゲッツの人生を忘れない。忘れられない。


「――ピンクサファイア男爵と、その奥方をお見掛けしました」


 ルイトポルトは突如出てきた名前に少し面食らった様子であったが、すぐに誰かを理解したらしかった。


「それは……ヴィツェリーン様を突き飛ばした……そうか。お前も見掛けたか。あの方々と、何かあったか?」

「はい。ピンクサファイア男爵は、私がかつて暮らしていた土地を治める領主でございました」

「…………そうだったのか」

「はい。そして…………そして…………」


 なんと言えば良いものか。勢いで言えば良いのに言葉に詰まってしまったものだから、少しでもルイトポルトに悪く思われない言い方をしたいなんて、諦め悪く考えてしまった。


「あの方は……妻を、愛人にして……それで……」

「……………………うん?」

「私は、それで……」

「待ってくれルキウス。男爵が、誰を、愛人にしたって?」

「妻、です」

「誰の?」

「私の」

「お前の!?」


 ルイトポルトの声が裏返った。


「待ってくれ。いや! いや、違う。話さないでほしい訳ではないんだ。ずっとお前が、口に出さないでいた、昔の事を伝えようとしてくれているのは、嬉しい。とても嬉しいんだ、ルキウス。無理に聞き出したかったわけではないけれど、教えてくれるのは素直に嬉しい本当に。だが待ってほしい。…………妻?」

「はい。妻です」

「妻、が、いたのか?」

「はい。故郷にいた頃」


 スーッ、とルイトポルトは息を吸った。


「………………落ち着いた。うん。問題ない。それで、あの男爵がルキウスの妻を愛人にして――なるほどつまり、出会った時のお前があれほど満身創痍だったのは、男爵のせいという事か!」

「それは……」


 力の籠った声でルイトポルトにそういわれて、返事に窮した。


 根本的な原因はそうであるし、なんなら、右目がだめになったのは、男爵家の使用人に振るわれた鞭の傷が、最初の発端である。

 なので否定はしづらいが、どちらかというと故郷を出なくてはならなかったのは、妻の家族が広めたのだろう、噂により町中から排斥された事だ。


 それをどう説明したらいいか、言葉に詰まってしまった間に、ルイトポルトの中では完全に話が一人でつながってしまっていたようで、表情が怖くなっていく。


「……そうか。あの男爵が。そうか……!」

「いえ、その」


 一人で完結した様子のルイトポルトに、ルキウスは慌ててすべての経緯を説明する事になった。


 ただ、焦っていた事もあり、説明が飛び飛びになり、かなり分かりづらかった説明であったに違いない。

 だがルイトポルトはルキウスの説明にしっかりと耳を傾けて、今まさに振り上げそうになっていた拳はおろしてくれた。

 説明に必死になっている間に、彼に知られて恥ずかしいとか、そういう考えはどこかに飛んでいた。


 昨日の仕事より明らかに疲弊しているルキウスをルイトポルトは赤い瞳でとらえた。


「なあルキウス」

「はい。なんでしょうか」

「復讐をしたいか」


 あまりに真正面から顔面に叩き込まれた言葉に、ルキウスは目をむいてすぐに返事が出来なかった。


 主人は、真面目な表情で、茶化す風でも、冗談という風でもなく、真っすぐにルキウスを見つめている。


「お前を苦しめた相手に、やり返したいか」


 ゾワリと、肌の上を舐められたような感覚。

 どくりと心臓が大きく跳ねる。

 昨夜の、彼の叔母、メルツェーデスとどこか似た雰囲気であった。


 この返答によっては、この後が変わる。ルキウスはそう思った。

 どう答えたらどういう結末になるのか、という事は正直、分からない。全く読めない。

 ただ間違えてはいけないという事だけは強く感じた。


 口の中はひどく乾いていたが、とりあえず、わずかに出てきた唾液で濡らした舌で、唇を湿らせた。


「分、かりません」

「分からない?」


 ルイトポルトが、首をかしげる。赤い瞳は全く逸らされる事なく、ジッとルキウスを見ていた。顔が整っている分、普段感情豊かな表情ではなく真剣な顔をされると、凄みが増している。

 彼の父親である伯爵によく似た雰囲気を感じ、いつかはこの主人も()()なるのだろうと思えた。


「はい。分かりません。もっと……もっと、男爵様を見た時、もっと心が荒れると思ったのです。――いえ、荒れた事には荒れたのですが、あの方に復讐したいとか、そういう心持ちには、なりませんでした」

「そうか……なら元妻は? お前の話を聞くに、お前がひどい目に遭ったのは、元妻と、その兄が主な原因なのだろう?」

「そちらが、分からないのです。ルイトポルト様」


 宝石のような赤い瞳に、映りこんでいる己の姿を見る。

 ゲッツのころの自分を知っている人間はきっと、今の自分を見てゲッツとは思わないだろう。

 それほどにもう、ルキウスは、ゲッツからはかけ離れている。


「複雑です。昨夜も、どうして裏切ったのだと、思ってしまうのです。でも、彼らを自分が遭ったように、石を投げられて欲しいだとか、目を失ってほしいだとか、家族を苦しめられて欲しいだとか、そこまでは、思えないのです。――いいえ、思いたくない、のだと、思います」


 無言で先を促される。


「悲しくて、辛いけれど、でも……その思いを、相手に向けたら、俺は……」


 言葉が続かない。


(分からない)


 自分の中でも、答えがはっきりしていない。

 だから、何も言いきれない。

 もう恨んでないですとは到底言えない。

 かといって、まだ恨んでいると言い切るには、何か、熱が足りなくて――。


「……申し訳、ありません……」


 情けなかった。

 大事な問であるのに、それに答えられない自分が。

 答えをはっきり出せないほど、今までずっと目をそらし続けていた事が。


「……」


 ルイトポルトはしばらくルキウスが追加で何かを言うのか待っているようであった。しかし、謝罪と共に黙り込んでしまったルキウスの姿を見て、フッと雰囲気をやわらげた。


「そこで、復讐をしたいと言わないのが、お前らしいなルキウス。無理に答えを出さずとも良いよ、ただ」


 机の上でルイトポルトは、両手を組む。その手の上に顎を乗せて、ルイトポルトは小首をかしげる。


「もし復讐をしたいと思った時は、まず最初に私に教えてくれ。出来るな?」


 ルキウスは大きく数度、首を縦に振ったのだった。

 三章のルキウス側の話は以上になります。三章自体はもう少しだけ続きます。


 次からしばらく、ピンクサファイア男爵たち側の話になります。

 ただ、私の方がかなりバタバタしておりますので次の更新まで間が空いてしまいます。申し訳ありません。

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― 新着の感想 ―
坊っちゃんは、情の深さ、苛烈さ、思いやり、冷静さなど、バランスが取れていて、好感が持てますね。 ルキウスへの拷問とか言い出したあの母親の息子とは思えません(笑)。
ルイポルトがそこまで怒るとは思わなかったなぁ。若いけど貴族的価値観を持ち合わせてるから不快には思うとは考えてたけど
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