【107】夜の林にて
やや時間軸が前後し、パーティー終了直後までさかのぼります。
ルイトポルトの社交界デビューは無事に終了した。
幸いにも、社交パーティーでの大きな騒ぎは、ホワイトオパール伯爵令息ヘルムトラウト8世とピンクサファイア男爵との間で起きたもめごと以外にはなかった様子であった。
御客人たちがすべて帰宅し、そこでやっと使用人たちは肩の荷を下ろす。
「やっと終わった……!」
「こら、そこ。まだ片付けが終わっていないだろう」
「分かってるけれど、分かっているけれど、今は無事に終わった事を喜ばせてくれぇ!」
わあわあと盛り上がっている同僚たちの横で、ルキウスは淡々と仕事をした。軽口をたたき合う気持ちには、なれなかった。
全ての片づけが終わったのは、真夜中である。
引っ越した使用人棟の部屋は、まだ慣れ切っていない。服を脱ぎ、濡らした布で、体を拭く。
体を動かすことが全て終わると、酷く、今日の出来事を思い出してしまった。
(ピンクサファイア男爵……)
複雑な感情はある。
ルキウスが故郷を追われ、両親が眠りを侮辱され、片目を失い、彷徨った。全ての始まりだ。彼がエッダを愛人にしようとしなければ、すべて起こらなかったことだろう。
……ただ、そう思っても、ルキウスの中に強烈な怒りとか、そういうものは湧き上がってこなかった。
むしろそれ以上に思い出したのは――。
(エッダ……フーゴ……おじさんにおばさん……ヘラさんにハンス……)
元、妻と。
元、義理の兄と。
元、義理の両親と。
それから、元義兄の、妻と子と。
(……)
目を閉じると、故郷で過ごした日々が思い出されて仕方なかった。
様々な記憶が思い出される。
楽しかった事、嬉しかった事。そういう記憶が蘇れば蘇るほど、そのあとの、自分への裏切りの痛みが増すのだ。
以前であればきっと、失われた片目が傷んでいた事だろう。最近ではめっきりそういう事はなくなった。
しかし、痛みはなくとも、スッキリと眠る事は出来そうにないのだ。
それでも目を閉じていれば眠れると思ったが――結局、頭は冴えていくばかり。
(はぁ……)
少し動けば、疲労で眠くなるだろう。
そう考えたルキウスは体を起こすと、部屋を出た。
◆
使用人棟の外に出て、冷たい夜の空気を吸う。ちらりと、両親が眠る別邸の方角を見た。
明日も仕事がある。それなりに近いといっても、さすがに、今から両親の墓まで行こうとは思わなかった。ただ、墓の傍まで行かずとも、そっと胸に手を当てて、名を呼べば、いつでも会いたい人は傍にいる。――そう母に言われたことを、今更、思い出した。
暫く胸に手を当てて、けれど会いたい誰かの名を呟くでもなく、ルキウスは立っていた。
両親に語り掛けようと思ったけれど、どんな言葉を彼らに語ればよいかが分からなかった。
――その時、静かな夜の闇の中で、誰かが草を踏みしめる音が耳に届いた。使用人棟からそう遠くない場所だ。そちらを見ると、屋敷から少し離れた場所に向かう人影が見えた。
(誰だ?)
ルキウスは眉を寄せて、それから誰かしら不審者かもしれないという思いから、その人影の方へと寄っていった。
ある程度近づいたところで、その人影の正体は判明した。メルツェーデスだ。
メルツェーデスは屋敷から少し離れた林の中の、一本の木の前に立っていた。
周囲は暗く、彼女の表情までは読み取れない。
(声を……かけた方が良いのだろうか?)
いまいち判断が付かない。ただ、この暗闇の中、メルツェーデスを一人にしてはいけないだろう。周囲にはいつも付き従っているジゼルを始めとした専属侍女の姿もないし、騎士の姿もない。
護衛を気取るつもりはないが、今は夜。どこにどんな危険が潜んでいるかも分からない異常、放置は出来ないだろう。
――と、思ったのだが。
「はっぐしゅ」
「! 誰ですか!」
「あ……」
「る、ルキウス?」
鼻がムズムズしたと思った次の瞬間、ルキウスはくしゃみをしていた。その音にメルツェーデスも流石に気が付き、そうして二人は目が合った。