鼻血
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中学生のときからいじめに遭っていた。つらい事実だった。逃げようも隠れようも反抗のしようもなかったから。だけど、戦うことを決めてからは――ぼくは高校二年になる際にそれは許せないことだと決めた。目に物を見せてやるとまでは考えなかった。ただ、ファイティングポーズは崩さないことにした。喧嘩の結果として、なおも鼻血を許容させられる状況には陥ったけれど、思いの外、相手は弱いものだと知った。ぼくが本気だと見ると、多くの輩はちょっかいをかけてこなくなった。それに伴い、ぼくのほかのニンゲンが餌食になることになった。ぼくは――ぼくの代わりにいじめられてしまう彼の力になろうと考えた。彼がいまにも死にそうな顔をくり返したからだ。力になることは簡単だ。本気で親身になることが難しい。ぼくは彼のことを兄弟のように思い、彼のための一手を講じようと考える。
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その男子はある日、なんとかといった感じで、飼い猫が家に帰ってきたのだと言った。ぼくはそれを聞いて、「ああ、陰湿で陰険な連中がしそうな行動だなあ」と思い、静かに怒り心頭だった。一方的にいじめつつもさらに弱いところを突いてくるのである。その男子は「警察に相談しようと思います」としくしく泣きながら言ったのだけれど、そこまで大げさにする話ではない。――大げさにしてしまっては、真の意味で連中を裁くことができなくなる。だから「ぼくらだけでなんとかしよう」と提案した。「だいじょうぶ。最悪、ナイフでも振るえば相手はなにもできないよ」と付け加えた。その男子は驚いたようだったけれど、そしてそこまでするつもりはないと言ったけれど、ぼくは許すつもりがなかったので、「戦うべきだよ」と結論を言った。
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一発殴られたところで、一発、殴り返してやった。相手は今日もいじめに興じる男子三人組のリーダー格。身体は大きい。鼻をぐしぐしと拭うと右手に血液が付着した。どうやらほんとうのぼくは鼻血を出しやすいニンゲンらしい。
リーダーが「おまえとは、もうやり合うつもりはねーよ。わりに合わねーからな」と余裕綽々に笑った。「でも、いま殴ったし、殴られたよね?」と問うと、「なんとなくだよ」と返ってきた。そのへんのいい加減さが許せないのだけれど。
ぼくは言う。
ぼくの後ろに立つ、くだんの男子へのいじめもやめてほしいと釘を刺す。
「それはおまえには関係のないことだろうが」
「そうでもないよ。いじめられっこだっていう共通項がある」
「いまのおまえがいじめられっこだぁ?」
「過去のぼくが、物を言ってる」
リーダーがこちらの目をじっと見てくる。
ある意味、清々しげに破顔した。
「あんまり俺らの楽しみ、取ってくれんなよ」
「猫まで的にかけたんだってね。許せないな」
「もうやらねーっつの」
「難しい交渉だよ。きみたちを逆上させるわけにもいかないんだから」
「だったら――」
「もう一週間、様子を見ることにするよ。悪い結果が出るようなら、ぼくもきみたちに悪い結果をもたらしてみせる」
リーダーは歩み、ぼくとすれ違う際、ぼくの右肩に右手を置いた――軽い調子で笑いもした。
「だ・か・ら、おっかねーおまえの敵になんて回るかよ、バーカ」
軽薄な口調なれどその言葉には重みが感じられたから、嘘ではないだろうと、ぼくは判断した。
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その男子の猫が大けがを負って帰宅したらしい。おなかを強く叩かれたのだろうということだった。内臓を悪くしてしまい、容態はあまり思わしくないらしい。まるで話が違うじゃないか。ぼくはそんなふうに憤った。だから即刻、次の日、抗議のためにリーダーの教室に乗り込んだ。立ち上がったところで両手で胸ぐらを掴み、「なにをやっているんだよ、おまえは」と凄み、問い詰めてやる。周りはドン引きしているけれど気にしない。許せない事実が目の前にある。そのことのほうがよっぽど重要だ。
「な、なんの話だ、テメー」苦しげに言うリーダー。「俺に心当たりがない以上、いまはテメーのほうがワルモノだぞ」
「ここまで来てしらを切るわけ?」
「だから、なんだか知らねーけど、そいつは俺の仕業じゃねーよ」
「ほんとうに? だったら誰がやったっていうの?」
「そんなの、自分で探せよな」
拘束を解いてやると、リーダーはげほげほと咳込んだ。この男が犯人じゃない? だったらいったい、誰が……。
「リーダー、きみ、名前はなんだっけ?」
「それ、本気で訊いてんのか?」
「いちいち覚えていないからね」
「ムラカミだよ、ムラカミ」
「ああ、そうだったね」
ぼくは顎に右手をやった。
「ムラカミ、きみはきみのツレがなにをしているのか、その詳細まではわからないよね?」
「まさか。あいつらなんて、俺の命令なしじゃなにもできねー臆病者だぜ?」
「それはきみの個人的な感想、あるいは解釈だろう?」
「まあ、そうだけど」
ぼくは一度、二度とうなずいた。
「いまはいないみたいだし、どうせならじっくり問い詰めたいから、放課後に会おうって伝えておいてくれないかな。話が聞きたいと強く伝えてほしい」
ムラカミが顔をゆがめ、癪に障る笑い方をした。
「おまえ、死にに来るつもりかよ」
「大げさだなぁ。ここは法治国家だっていうのに」
「二丁目の公園だろう」
「うん?」
ムラカミは広げた両手を上に向け、白々しく肩をすくめてみせた。
「俺たちのたまり場だ。くだんの猫とやらの縄張りだってそうなんだろう。ウチらの仕業なんだったら――その線で話がつくだろ。そうしろよ。それ以外のことは、知らねー。一番は穏便に済ませること、だ」
「わかってるよ」
「殺されても文句言うなよ」
「だから、ここはぬるい法治国家なんだってば」
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公園の砂場を囲むようにして立っているのは黒い学ラン姿の男子――三人だった。うちの学校のブレザースタイルの制服に身を包んでいるのが一人、彼がムラカミの手下だというわけだ。フジタと名乗った。名乗るあたりは礼儀正しい、感心できる。死ねくらいには思うけれど。
「フジタ。ほんとうにきみがやったの? ぼくが今回関わった男子、イシダっていうんだけど、彼を攻撃するどころか、彼の猫にまで手を出したの?」
それのなにが悪いってんだよ。
そう言って、フジタは学ランの連中と一緒になって嘲るように笑った。悪びれるところがないとはこのことだ。
「猫は猫だろ? べつに死んだって人間様の世界には関係がないだろ?」
「裏を返そうか。人間様がどうあろうが、猫には関係がないんだよ」
「やるってのか」
「やるよ。ぶっ殺されても文句は言わないでね」
「テメーっ!」
「かかってきなよ。ほんと、ぶっ潰してやるから」
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鼻血が出た。何人かを相手にすると、やっぱりそんなふうになる。ぼくはその道のプロでもなんでもないんだから。腹が立っているので、もう一発、フジタの頬を蹴りつけてやった。
「いろいろと約束してもらえるかな。わかるよね?」
仰向けのまま白い土の上に転がっているフジタは、「俺のなにが悪いってんだよ」と毒づくように言った。
「持ってるヒトとか持ってないヒトとか、そういうことを説くつもりはないんだ。ただ、弱い者いじめは見ていて気持ちがいいものじゃないよね?」
「わかった。もういいよ。俺は身を引く」
「ほんとうだね?」
「ほんとうだ」
翌日、ぼくがかばいにかばってきた"その男子"こと「イシダ」が川に落とされたと聞かされた。
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いじめの輪に加わっているニンゲンはえらく多く、また多様性に満ちていたらしい。イシダは川に突き落とされたらしい。さほど幅もなく深さもないところだったから大事にはならなかったものの、イシダはやはり、落とされたらしい。こういうことは教師に対応を求めたところであまり効果が得られないことは知っている。だったらどうするべきか。ぼくがけりをつけてやるしかないわけだ。
このたびはいろいろと仕掛けられた。だからぼくはいろいろなことについて怒っている。誰かのために怒っているのではない。ぼくが許せないことに怒っている。さあ、あらためて戦おうじゃないか、ムラカミ、フジタ。
一人で喧嘩をしている瞬間、ぼくは一人でも生きていけるのだと強く実感する。ムラカミ、フジタ。彼らに対して許せないことが、多々ある。だからぼくは負けないし、負けてやるつもりもない。怯え、怯み、彼らは瓦解、一人、また一人と戦線を離脱する。ぼくはやっぱり負けてやらない。ムラカミを殴り飛ばし、フジタにストンピングを浴びせているところで、ふと我に返った。警察かな? 警察沙汰かな? だとしても、ぼくはなにも後悔しない。許せないものは許せない。その旨、達成できたのだから。
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イシダの家の猫は助かったらしい。もう元気にしているようだ。よかった。なによりの知らせだ。猫が死んでいたら、ぼくは自らの行為に無意味さと愚かさとを感じ、涙していたかもしれない。イシダもきちんと学校に来ている。過去を含め悪事がばれたらしく、ムラカミらは停学中だ。ざまあみろとは思わない。正しく裁く格好で連中を停学にする大人がいるのだと思うと安心した。
イシダと一緒にいることが多くなった。昼食の時間はまず間違いなくそうである。イシダはさんざん僕に感謝する。いいのに、そんなこと。自分が許せないから自分でそうする。そんなの、あたりまえのことだろう? イシダはプロのサッカープレイヤーになることが夢らしい。情報収集の限りによると、周りと比べても段違いで足は速いのだと言う。だったらどうしてくだんの折にも自慢の快足を飛ばさなかったのかと聞きたくもなるのだが、逃げたら逃げたで面倒事に見舞われると考えたのかもしれない。賢人の思考と言える――大げさか。
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イシダの家に招かれた。休日のバーベキューパーティーである。訪れたはいいものの、あまりに本格的な設備だからだ。少なからず気後れした。ぼく自身、気は強いつもりだけれど、見たこともないような分厚い肉を目にするとさすがに面食らった。
イシダのお母さんが、申し訳なさそうな顔をして紙皿にのせた肉の塊を寄越してくれた。そんな顔をしてもらういわれなんてない。こちらのほうが申し訳ないくらいだ。だから「恐れ入ります」と本音で言った。たがいにすまなく思う、そんな妙な空気が流れた。なんだったらいますぐにでも離脱したい――とまで言ってしまうと失礼か。
イシダが近づいてきた。ぼくが縁側に腰掛けると、すぐそばに猫が近づいてきた。まったく生意気なことに、ぼくの太ももに頬を擦りつけてくるではないか。まあるい声で「なおーん」と鳴いた。微笑ましい生き物だ。猫という生き物自体、ヒトにかわいがられるために生まれてきたのだろう。
ぼくは膝の上に乗り上げてきた猫の背を優しさを込めて撫でる。柔らかいし温かい。ぶち猫だ。かわいい。ずっと一緒にいても飽きないだろう。
どんなコミュニティも世の縮図だなと思う。強い者がいて、弱い者がいて、どちらにも属さない中途半端な者がいて。だから世界はこんなにも混沌としていて胡散臭い。
殴られれば痛い。
鼻血が出る。
息苦しい。
みながそのことに気づいてさえいれば、戦争なんて起きないはずなのにな。