助言
どこか儚げな、その令嬢のことは、これまでにも何回か見かけていた。
私マグダレーナは、男爵家の長女に生まれた。
国境にほど近く、そして広くもない領地を治める、領主の長女。
私には、年の離れた妹が一人いるけれども、男兄弟はいない。
私は親戚筋から婿をとって、その相手とともに跡を継ぐことが決まっていた。
両親が婿にと考えていたのは、私の従兄弟。
私の叔母――私の父の妹で、都近くの男爵家に嫁いだ――の二番目の息子が年回りもよく、次男ゆえに継げる爵位もなく、ちょうどいいから、と。
でも、私には大好きな幼馴染がいた。
従兄弟との話を持ち出されたとき、初めて恋を自覚した私は、幼馴染へ素直にそれを告げた。
それまで、幼馴染とのあいだに隠しごとなんてしたことがなかったから。
幸運なことに、幼馴染も私のことがずっと好きだった、と言ってくれた。
「でも今の僕では、男爵に許していただけるとは思わない。僕は、賢者の資格を得て、改めてあなたとご両親に結婚を申しこもうと思ってる。そのために、もうずっと研究を続けてるんだ」
賢者というのは、国が認めた優秀な魔術師に与えられる称号で、一代かぎりではあるけど、男爵位に相当する。
「私も、あなた以外とは結婚したくない。両親には私からも話してみるわ」
幼馴染の彼も、じつは父の血縁なのだ。
ただ、三代ほどさかのぼる必要があって、かつ、今はあまり裕福でなく平民の身分になっている、というのが枷で、両親の考える婿候補から漏れたように思う。
私はすぐ、両親に相談した。
貴族籍になくうしろだてのない幼馴染では、領地への利点は少ないかもしれない。でも彼はこの領地で育ち、私のこともこの土地のことも、よくわかってくれている。
私は本当は彼と一緒にいたい。無理ならば、平民になってでも。
私のことをよく見ていたらしい母は、こうなることを予想していたようで、あっさりうなずいてくれた。
父も薄々は感じていたようだけど、私から言われて、田舎の領地のことを知らない都会育ちの甥と、将来の賢者とを天秤にかけたらしい。
「ふむ。どこの領も賢者には助けられている。賢者ならば悪くない。それでマグダレーナの希望も叶うのなら、さらに良い。わかった。良いだろう。彼を婿候補にするとしよう。……どうしても難しいとなったら、マルガレータもいるしな」
父は妹のことまで持ち出して、私の望みを肯定してくれた。
従兄弟との話が本格化する前だったので、今、先方に断りを入れたところで、何の問題もない。
もし彼が賢者の資格を得られなくても、私が平民となって嫁ぐなら、それでもいい。平民となっても、妹を支えて、領地を支えてくれればよい。
幼い妹が婚約を決める時期まで、まだ十年以上ある。
それまでに結論を出しなさい、できるだけ早いほうがマルガレータのためだが、と言って、両親は私の願いを通してくれた。
以降、従兄弟との話は無くなって、私は婚約者なしのままの日々を送ることになった。
私は、両親の仕事を手伝うかたわら、幼馴染の彼が必要とする資料を借り受けては写本したり――領都の書庫が充実し、魔術を学ぶ子どもが増えるという副次効果があった――、
人づての紹介を繰り返しては、彼の研究に興味を持つ賢者を探し当てて、領地に招いてみたりもした――幼馴染の彼以外にも、見どころのある子どもが何人か見出されて、教育を受けることになった。
彼の研究は順調に進み、父は父で、我が領地から賢者候補がたくさん出るとは未来も明るいな、などとホクホク顔をしている。
私は成人してから、どうしても欠席できない夜会に何度か出ることになった。
婚約前の幼馴染の彼とは行けないので、父のエスコートで。
夜会で、私はいつも壁の花になっていた。
なにしろ、誰と話しても、誰と踊っても、結局は幼馴染のことに思考が戻ってしまうのだ。彼だったらこんなとき、とか、彼だったらこんな服は、とか。
我ながら重症だった。
これでは良くない相手に失礼になる、と、壁際で、ただ時間が過ぎるのを待つようになったのは、ニ回目の夜会から。
そこからずっと、夜会のたびに壁際にいるのだけど、しばらくするとだいたい同じような人が壁際にいることに気がついてくる。
どこか儚げな、その令嬢のことも、同じ壁際で何回か見かけていた。
その夜、父のエスコートで出席する最後の夜会があった。
今年、新たに資格を得た賢者と、新たに資格を得た聖騎士の受任を祝う、国主催の夜会だった。
私が成人して二年。
幼馴染は晴れて賢者の資格を得て、つい昨日、婚約したばかり。新たな賢者の一人として祝われる立場の彼は今、広間の前方中央、受任者たちの席にいる。
ときおり彼と視線が合って、笑顔を向けられるのが嬉しい。婚約の証として、彼のローブの留め金には男爵家の紋章が刻まれたブローチがあり、同じものが私の胸にある。
今年は、歴代最年少の賢者や、公爵家から美貌の聖騎士が出て、皆の注目はそちらに行っている。けれど、私にとって大切なのは彼だけである。
次の夜会は父でなく、彼と出ることになるだろう。
壁の花も今夜かぎりか、と、なんとなく感慨深く思っていると、珍しく話しかけられた。
「そのブローチ、……マグダレーナ様は婚約がお決まりになったのですか?」
私は声の主のほうを見た。私と同じく、壁際で何回か見かけたことのある令嬢だった。たしかヴァイス伯の一人娘。線の細い、儚げな美女。
私は幼馴染の彼のことを考えると、勝手にニコニコしそうになる表情に気をつけながら答えた。
「はい。つい最近。彼の努力と成果が認められたのです」
「おめでとうございます」
彼女からまぶしげに見つめられて、私はニヤニヤしないようにより一層、表情に気を払った。
「マグダレーナ様は、お相手のことを信じて待っていたのですね」
私が、彼女が壁際にいることを知っていたように、彼女のほうも私がずっと壁際にいたことを認識していたんだろう。そして私のその行動が、彼女には相手を信じて待っていたふうに見えた、ということなんだろう。
待っていたかというと、私は平民になって結婚することも考えていたから、じつのところそうでもないと思う。どちらかというと妹のマルガレータのほうが、私たちの出す結論を待っていたようにも思う。
でも、そんなことまで言う必要もないだろう。私は慎重に答えた。
「じつは両親の意向で、他のかたとのお話が上がりそうになったこともありました。でも、私は彼と一緒にいたかったので、そのように両親に願ったのです」
「そうだったのですね」
ややあって、再び彼女が言った。
「……わたくしも、親の勧めるかたがいるのです。でも、わたくしは他のかたを愛している……」
「気持ちはわかります」
なにしろ、数年前の私がそうだったわけだから。
「マグダレーナ様は、そんなとき、どうしたらよいと思われますか?」
そう尋ねられて、私は少し考えた。
私は、親の勧める婿候補に頷かなかった。その私が、親の勧めに従ったほうがいいなどと言うはずがなく、そもそも、そんな説得力皆無なことを言えるはずもない。
私から言えることなど想像がつくだろうに、たぶん彼女は少し背中を押して欲しいだけ、ということだろうか。
私は、自分が両親に相談したときのことを振り返ってみた。
私が両親に相談したとき、両親は私の意思を尊重してくれた。そして、両親がそうしてくれたことが、私は嬉しかった。
私は今、彼女から相談されている。
ならば、私自身が両親からしてもらって嬉しかったように、私も彼女の意思を尊重するのが良いのではないか?
私は彼女の未来の幸福を願って、自分の信じるとおりに助言した。
「あなたの気持ちを、お相手とご両親に正直に伝えてみたらどうでしょうか?もし、お許しがいただけたなら、それが一番幸せのように思います」
「マグダレーナ様……ありがとう存じます」
私に向けられた彼女の嬉しそうな微笑は、ずっと記憶に残った。
その訃報を受けたのは、私が幼馴染と結婚して三年ほど経ったときだった。
すやすやとお昼寝する長男のそば、長男お披露目の招待状をしたためる母の隣で、家に届いた手紙を仕分けていたときだった。
ヴァイス伯の一人娘が亡くなり、葬儀があったこと。叔母の嫁いだ男爵家はヴァイス伯領と近接していて付き合いがあったため、参列したこと。
叔母からの手紙には、そんなことが書いてあった。
いったい、どうして。
叔母の手紙には何も詳しいことは書かれていない。
私はそっと手紙を置いた。
彼女と私は、それほど年齢も離れていなかった。彼女も、まだ三十にもならなかったはずだ。
早すぎる。
田舎住まいゆえに、私たち夫婦はあいかわらず、欠席できない夜会でしか社交をしていない。けれど、彼女は、彼女の望んだ相手と結婚したばかり、と聞いていた。
つい最近の夜会で見かけたときには、彼女はもう壁際にはおらず、幸せそうに相手の男性と並んでいた。
それが、なぜ。
私は、気にとめていなかった噂のいくつかを思い返した。
たしかに以前、ヴァイス伯が領地の経営に苦心している、家財が危ない、という話を一度、耳にしたことはあった。
でも、噂好きの社交界のこと、事実を歪めた悪意ある中傷の一つだろうと思っていた。また、若い美貌の娘に、資産ある家が婚約を打診することもよく聞くのだから、私はそれを深く考えないでいた。
あの夜会で私は、彼女の意思を尊重するようなことを言わなければよかったのだろうか?
家のことをもっと考えるようにと、助言していればよかったのだろうか?
そうしたら、こんな、若くして亡くなるようなことはなかったのだろうか?
否、選択し決断したのは彼女であり、彼女の両親のはずだ。私の助言にそれほどの影響があったはずもない。
そうとわかっているのに、
私と彼女の接点など、壁際のあのわずかしかなかったというのに、
あのときの彼女の、嬉しそうな微笑が思い浮かぶ。
当時の彼女に、私はなにかもっと有益なことを言えたのだろうか?
でも、あのときに戻っても、やっぱり私は同じことを言う気がする。
夫と私は、そうしなければ今のように共に居られなかったのだから。
叔母の手紙を読んだ今となっては、その選択で良くない結果を招く可能性もある、それでもそちらを選ぶのかと、付け加えるのかもしれないけど。
窓の外に馬車が見えて、まもなく夫が帰ってくることを知る。
私は少しのあいだ、母に子どものことを頼むと、割り切れない気持ちを心にしまって、夫を迎えに部屋を出た。
まあ、割り切れなくて、心にしまいきれなくて、文章になるんですけどね。
お読みいただきありがとうございました。