第70話 吊り天井
「ウっ、ウサさん……! あの方、下ってきてないっスか?」
「くっ……!」
唸るように空が震えた。
対象が巨大すぎるため距離感が掴みづらいが、“吊り天井”はゆっくりと降下し始めていたのだ。
「ひいっ! ウサさん! このままじゃ、二人揃ってハムサンドっス!」
「ボケてる場合か!」
「そんな余裕ないっスよ!」
私は奥歯を噛み締めて“吊り天井”を見やる。
(不味いな……。動けば床の槍によって串刺し。動かなければ吊り天井によって串刺し。
完全にヤツらの術中にはまってしまった。
これを免れるには、遭遇した時点で真っ先に“床槍の貴婦人”を仕留めるしかなかったのか……)
「ウサさん! どうすれば!?」
「分かってるわ! 今、考えてる!」
(“吊り天井”の降下はそれほど早くない。
ゾーン展開時間が17分といっても、この状況が完成するまでには既に15分を切っていた。
伏せていれば、“吊り天井”がこちらへ到達する前にゾーンが閉じるかもしれない。
間に合わない場合は、強引に床槍の範囲外まで逃げるしかないか……。
瞳のマークを踏んでも、騎槍が飛び出すまでには一瞬の間がある。
その隙に別のマークへと駆け抜ければ脱出できるかもしれない……が、問題は感知したマークと隣接するマークが一カ所ランダムに反応してしまうことだ。
進行方向のマークが反応すれば、突き進んだ先で串刺しになるだろう)
私は右端に見える、黒い床と土の地面の境界へ視線を移す。
(いくら私に跳躍力があるといっても、あそこまでは届かない。着地した時点で殺られる!)
「くそ、どうすれば……」
“吊り天井”の降下は続く。
この場から動かない限り何もされない、今がチャンスだというのに……。
思考を巡らせていると、突如として“床槍の貴婦人”は日傘を握る手首をくるくると動かしだした。
「ん……?」
ヤツは“J”の字になっている日傘の柄を握ると、勢いよく引き抜く。
なんと日傘の柄は仕込み刀になっており、“床槍の貴婦人”はそれを構えたのだ。
(たとえ武器を持たれようと、あの距離ではどうということはない。
それよりも……)
私は残った日傘の方へ注目する。
(なんであの傘……浮いているんだ?)
“床槍の貴婦人”は片手で刀を持ち、もう片方の手は下げているにも拘らず、日傘は宙に浮いたままだったのだ。
すると日傘はゆっくりと上昇し、“床槍の貴婦人”の首から先が露になる。
「なっ!?」
「ひいっ!?」
そこに顔はなかった。頭部が存在しないのだ。
一方浮遊している日傘に残された柄が中へ引っ込むとゆっくりとこちらへ角度を変え、その内側が明らかとなる。
「うっ……!」
日傘の内側には女の顔が付いていた。
両目の上瞼と下瞼は縫い合わされ、中が真っ暗な口をぽっかりと開けている。
「アアア……」
(こいつら二体とも、内側に顔があったのか!)
女の顔が前へせり出すように動くと顔面が突出し、まるで傘が風圧に負けて器の形になるように、内側と外側が反転した。
「ウグアァァ……モゴッ」
浮遊している“傘女”は顎が外れそうになる程口を開くと、喉の奥から一本の騎槍が飛び出す。
「まさか……」
“床槍の貴婦人”の頭上で浮いていた“傘女”は、こちらへ近づいてきた。
(時間が経つのを待ってはくれないって訳ね……!)
「ひゃああ~っ! 万事休すっス!」
(くそっ! あんなものに刺されたら立っていられない!
だが、一歩でも動けば床槍で串刺しだ!)
“傘女”の騎槍は、手前に居るハム子へ照準を合わせた。
「ハム子っ!?」
「ひいいぃぃ~!」
狙いを定めた“傘女”は、勢いをつけてハム子へ突っ込んでいく。
(逃げろと言っても逃げようがない……! だが、逃げなければどのみち殺られる!)
「ひゃああぁぁ~っ! もう無理っス!」
堪らずハム子は横へ移動し攻撃を躱すが、彼女が踏んだ瞳のマークは見開き、それと同時にハム子の進行方向にある隣接したマークは赤く変化した。
「ああっ!」
(ハム子が殺られる……!)
「ぎゃああぁぁ~っ!」
騎槍の飛び出す音と共に彼女の悲鳴が響いた瞬間、私は堪らず顔を逸らした。
だが、騎槍の飛び出す音と引っ込む音は途切れることはなく響き続ける。
私は恐る恐るハム子の様子を確認した。
「……、えっ?」
「ひいいぃぃ~!」
ハム子は瞳のマークを踏み隣接するマークが赤くなると、ビクつくポーズのまま瞬時に別方向へくるりと体の向きを変える。
別のマークを踏みつけると、最初に踏んだマークから騎槍が飛び出し、赤くなったマークからも騎槍が飛び出したが、既にそこにハム子は居ないため当たることはない。
彼女は赤く変化したマークを即座に判断し、急激な方向転換中は走る速度を一切落とすことなく移動した先々で90度、120度、270度と、くるりくるりと一瞬で進行方向を変え、騎槍を全て躱していたのだ。
(あの動き……! ハム子は攻撃型にも防御型にも見えないから、私と同じ俊敏型だろうとは思っていたけど、同じスピード特化の憑依体でも素早さの系統が違う。
私には到底できない芸当だ)
逃げ惑う鼠のように小刻みな移動を繰り返すそれは、間違いなくハム子の憑依体が持つ固有能力であった。
いや、思い返せばあの動き、あれ程連続ではないが“男のアサブクロ”戦の時にもやっていた。
憑依経験を重ねたことで、ハム子は固有能力を完全にものにしたのだろう。
(それにしても……)
ハム子の挙動はとても人間業ではないため、はっきり言って――。
「気色悪……」
「ちょおっ!? ウサさんっ!? ひいっ!? 乙女に向かってその言い方はあんまりっス!」
「ああ、ごめん」
(って! そんなことを言っている場合ではない!)
「ハム子っ! その気色悪い動きで床槍の範囲外まで逃げろ!」
「ひいぃ~!? りょっ、了解っス! ひいいぃぃ~!?」
ハム子は小刻みな動きで急激な方向転換を繰り返すと、無事に黒い床の範囲外まで抜けた。
「へぁ~……へぁ~……、うっ、おえっ……しっ、死ぬかと思ったっス……」
息も絶え絶えのハム子に、私は安堵の表情を向ける。
一方“傘女”は、獲物が自分の範囲外へ逃げたことで警戒したのか、“床槍の貴婦人”の頭上へ戻り漂っていた。
私は今一度“吊り天井”へ視線を移すと、ヤツは既に十階ほどの高さまで降下していた。
(このままではゾーンが閉じる前に、私に達する……)
「ハム子っ! そこから何とかならないっ?」
遠くに居る彼女へ大声で声を掛けた。
「えっ? あっ、はいっ! ハム蔵さん!」
ハム子は腕を通していない憑依体の腕にヒマワリの種型ナイフを出現させると、“床槍の貴婦人”へ向けて投げ飛ばした。
「失礼するっス!」
だが、放たれたナイフは相手へ達する前に床槍へ落下し、飛び出した騎槍によって虚しく砕かれてしまう。
「ああ……、うぐっ……、もっ、もう一度っス!」
ハム子は再度ナイフを投げるが、同様の結果に終わった。
「ウっ、ウサさあん……」
彼女は絶望的な表情を浮かべる。
(くそっ! このままでは、私は……)
「ああぁぁ~っ! どうしたらいいんスかあ~!」
「落ち着けっ! ハム子っ!」
もはや私の希望はハム子しかいない。
パニックを起こした彼女に、私はありったけの声を張り上げた。
「聞いてっ! ハム子ぉ!」
「はっ、はいっ!」
「私が頼れるのは……あんただけよ!」
「――っ!? ウサさん……!」
真奈美の脳裏に花子の言葉が思い返された。
「(……いいか、お前は決して足手まといなどではない。必ず真奈美の力が必要になる時が来るだろう。
……だが、お前に行動へ移す勇気がなければ何も変えられない。それでも、現状を打破できるのは他でもないお前自身だ――。
……追い詰められた時こそ逃げるな。自分の手で解決の糸口を探せ。
……その時こそ、必ずお前は私達の力となる)」
真奈美は拳を強く握り締める。
(そうっス……。自分が諦めてしまっては……ウサさんは助からないっス……)
真奈美は憑依体の腕へ自身の腕を通す。
それは服とは違い、憑依体の腕へ自分の腕を近づけるだけで、腕は中へと取り込まれた。
真奈美の背面を覆うハム蔵のパーツの上下に生えている前足と後ろ足、さらには自身の手の先にヒマワリの種型ナイフを計六本出現させると、真奈美は自分の手でナイフを握った。
「やりましょう……ハム蔵さん!」
体の震えを押し殺しながら、太く短い眉を逆八の字にして、迫りくる“吊り天井”を見やりながら、決意を述べる――。
「自分は……足手まといにはならないっス!」
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