第11話 ウサギの目
ここのところ、母は過労で体調を崩し寝込んでいた。
男にとって問題なのは、母が仕事に出なければ自分の懐に金が入らないことだ。男は苛立っていた。
母は結局学校に来れず、私は自宅謹慎を言い渡され処分を待った。
その日の男は特別機嫌が悪かった。酒の減るペースや灰皿にたまるタバコの量からもそれはうなずけた。やたらと母に当たり散らしている中、私は部屋の隅で呆然としていた。
だが、手を挙げだした男に気づき我に返った。
何度も蹴られうずくまる母を目の当たりにして、私は男を制止しようと前に立ちふさがったが、思いきり頬を叩かれた。
立っていられずそのまま床に倒れこむ。首は張るように痛み、頬は熱せられたかのようにヒリヒリと熱い。
私は我慢の限界だった。
再び立ち上がると男に積年の恨みを込めて、ありったけの罵声を浴びせてやった。
眉間の皺は深みを増し、体が小刻みに震えだすのが見て取れる。
自分に逆らえないと思っていた相手からの反抗はさぞ屈辱的だろう、こんなに気分が良いのは久しぶりだ。
だが一瞬息が出来なくなったかと思うと、次の瞬間壁に思いきり叩きつけられていた。
今度は全身が痛む。
男に目をやると、吸い殻の溜まった灰皿を私目掛けて振りかざさんとしていた。
とっさに目をつむったが右目の辺りを灰皿が直撃する。
距離を見誤ったのか、致命傷という殴り方ではなかったが、それでも顔から全身に走る激痛で涙と声を抑えきれず、その場で泣き叫んだ。
部屋に舞った灰は世界の終末を想起させ、この空間は地獄だった。
遠くから聞こえるサイレンの音で男はその場を立ち去った。
起き上がった母は私に冷たい視線を向けると、しばらくぐったりとしていた。
(どうしてそんな目で見るの? 私はお母さんを庇ったんだよ……)
私を抱きしめることも気遣う事もせず、この人の中での自分の価値を思い知らされた。
その後、私は停学処分となった。
中倏の親は末娘も入学したことから娘達が通う学校にけちが付くことを嫌い、この件を公にはしたがらなかった。
例の暴力沙汰の後、男が現れることはなかったが、母は滅多に家へ来なくなった。
母が来る日は最低限の生活費を置いていく時だけ。決まって封筒に入れてテーブルの隅に置いていった。
最初は洗濯もしていったが、溜まった時に私がすると以降は金を置いていくだけになった。
たまに鉢合わせても私には目もくれない。
(分かっている。結局私はお荷物だったんでしょ。いっそ殺してくれればいいのに。私は死ぬ勇気なんて無いんだよ)
別に今の生活は辛くはなかった。腐った大人や腰抜け共と顔を合わせることもない。
私は母を思ってあの日々を耐え、最後は庇ったが全て無意味だった。
実際、母は私を疎ましく思っていたのだ。
私は自分という存在を端に追いやり、母を起点に動いてきたが、結局罵声を浴びせ暴力を振るうのが私の本質なんだ。
これからは自分を中心に行動する。言動に我慢なんかしない。自分の望む生き方をしてやる。世間からすればとんだメスガキだが、それが東林 弥兎なんだ。
私の右目は、まるでウサギの目のように真っ赤に充血して今も治らない。この目を見るとあの頃を思い出し、心底腹が立つと同時に気持ちが沈んだ。
きっと私には色々なことが見え過ぎていたのだ。私が自分らしくいるために、この目はつむっておくとしよう。
そうすれば望む道だけが見えるから。