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ナガト・ワンダー



 ナガト・ワンダー


 1940年12月8日、大日本帝国は日独中伊防共協定に基づき、ソ連及びイギリスに宣戦を布告した。

 日本国首相永田鉄山総理大臣は政府提出の宣戦布告決議案について、今次大戦の戦争責任はドイツにあるとしつつも、不本意ながらも共産主義蔓延を阻止するために止む得ない決断であると答弁した。

 今後の戦略についての質問に対しては、海軍力を用いた英ソに対する海上封鎖(通商破壊)及び独伊に対する戦略物資の供給と満州でのソ連野戦軍撃滅を行うとし、持久戦に持ち込んで英ソの戦争経済の疲弊を待つことと答えている。

 これが概ね日本の戦争戦略の全てであった。

 決議案は賛成多数で可決され、開戦の判断は政府に一任された。

 ”不本意なる”枢軸国として戦うことになった日本の宣戦布告は国際法に則り48時間の猶予を設けた正当なものだった。

 日本軍と連合国軍の交戦開始は1940年12月10日午前0時からとなる。

 ちなみに日本軍における初交戦は、12月10日午前1時12分に行われたオーストラリア沿岸での伊号第11潜水艦によるイギリス商船への魚雷攻撃だった。

 この攻撃を皮切りに、日本海軍潜水艦艦隊による通商破壊戦が始まった。

 日本海軍はオーストラリア沿岸や南シナ海に伊号及び呂号潜水艦(合計32隻)を配置しており、交戦開始と同時に大量のイギリス商船を撃沈した。

 さらに日本軍はシベリアが凍りついてソ連軍が動けない間に、マレー半島及び蘭印を占領する計画を立てた。

 所謂、南方作戦である。

 その手始めに日本軍は香港を1940年12月25日に攻略した。

 この戦いは日中合同(中華民国も防共協定に基づき参戦)で行われた。

 香港には1843年以来久しぶりに中国の旗が立ち、中国人を喜ばせたが日本人にとってこれはただの通過点に過ぎなかった。

 日本陸海軍は中国政府と軍事協定を結び、海南島に進出(1940年12月14日)した。

 さらに同月20日にはヴィシー政権(仏領インドシナ政府)とも交渉して、仏印進駐を果たした。

 サイゴンに上陸した日本兵は初めての大規模戦争に緊張していたが、先に来ていた日本企業の看板を見ていくらか緊張を緩めた。

 仏印は典型的なモノカルチャー経済であったため、フランス本国との連絡が途絶している現在、貿易相手は日本しかなかった。

 そのため日本企業が仏印に進出して、あらゆる物産(ゴムや錫、米といった戦略物資)を買い集めて内地に輸出しているところであった。

 

「日本企業は電撃戦をマスターしている」


 と仏印総督に揶揄されるほど、日本の経済進出は早かった。

 ちなみに進出最速は坂本商会で、2番が三菱商事であった。

 仏印進駐は殆どトラブルもなく行われた。

 日本軍はフランス軍をモデルに建軍された経緯(紆余曲折あったが)があり、フランスが社会主義化しても軍同士の交流は続いていた。

 日本陸海軍の将校は国際語としてフランス語を勉強しており、仏印において言語で苦労する場面も少なかった。

 ちなみに日本軍の将校教育では、外国語は最低限2つマスターすることを求められており、陸軍ではフランス語とドイツ語か、フランス語にロシア語あるいはシナ語を組み合わせることが普通だった。

 海軍はフランス語か英語の組み合わせが多く、ドイツ語を話せるものは極端に少なかった。

 21世紀現在でも日本の義務教育では、英語とフランス語のどちらかを選択して学ぶことになっており、日本軍の近代化に果たしてきたフランスの影響の大きさを物語っている。

 そのためフランスでは日本はフランス語が通じるため、タヒチやギニアに並ぶ人気のある観光地となっている。

 話を1940年12月に戻すとサイゴン周辺に日本陸海軍の航空部隊が進出し、マレー半島への爆撃が開始された。

 12月28日には最初の日英戦闘機部隊による空中戦が発生した。

 この戦いは爆撃機護衛に出動した日本海軍航空隊の零式艦上戦闘機13機とイギリス軍のハリケーン12機によるものだった。

 この戦いは日本軍の奇襲によって、ハリケーン12機が全滅するという一方的な戦いとなった。

 イギリス空軍のハリケーンは、日本軍の爆撃機(九六式陸攻)が飛来すると迎撃に出動したが、戦闘機の護衛が付いているとは考えていなかった。

 なぜなら仏印からマレー半島は900kmも離れていたからだ。

 これはロンドンからベルリンに飛ぶのに等しい長距離飛行であり、そんな距離を飛べる戦闘機はイギリス空軍にはなかった。

 そのため、上空で援護していた零戦隊に気づかないまま爆撃機に接近し、奇襲を受けて全滅する羽目になった。

 これが栄光に満ちた零式艦上戦闘機の初陣であった。

挿絵(By みてみん)



 零式艦上戦闘機は、九六式艦上戦闘機の後継機として三菱航空機が開発を担当し、開戦の年に制式化された新鋭機だった。

 技術的には九六式艦上戦闘機の発展型となり、優美な逆ガル式の楕円翼や馬力が向上した(1,250馬力)金星V型12気筒液冷エンジンと20mmモーターカノン(ホ5)の組みあわせは九六式艦戦と同じだった。

 しかし、機体は一回り大きくなり、機体内部に大量の燃料を搭載することで、増槽なしで2,200km飛行可能となっていた。

 中ソ事変の戦訓から防弾装備(防弾板や自動消火装置)も搭載されており、ハリケーンの30口径弾で火を吹くようなことはなかった。

 武装はモーターカノンとしてホ5を1門、翼内にホ5を2門搭載しており、20mm機関砲合計3門という大火力を誇った。

 1g単位で軽量化を施した機体は加速や上昇性能に優れ、格闘戦性能の高さからアジア・インド洋で猛威を奮うことになる。

 航空戦は零戦隊の活躍もあって日本軍のペースで進み、マレー半島のイギリス軍航空部隊は壊滅状態になった。

 しかし、シンガポール要塞にはイギリス東洋艦隊が健在であり、制海権は確保できていなかった。

 イギリス東洋艦隊は先の大戦で活躍したクイーンエリザベス級戦艦5隻を基幹とし、空母2隻(イラストリアス、ハーミス)、巡洋艦3隻と駆逐艦12隻を擁していた。

 これは1940年12月時点での日本海軍の全力に匹敵する戦力だった。

 海南島に進出した連合艦隊の戦力は戦艦4隻(長門・陸奥・扶桑・山城)で、うち2隻は12インチ砲搭載艦だった。

 扶桑型の準同型艦の伊勢と日向は本土近海でソ連海軍を牽制するために拘置されていた。

 クイーンエリザベス級戦艦は15インチ砲を搭載(8門)しており、火力で対抗できるのは同じ15インチ砲8門搭載の長門・陸奥の2隻しかいない。

 つまり、砲火力なら東洋艦隊は日本艦隊を圧倒的に上回っていた。

 東洋艦隊の司令官は地中海艦隊から転出してきたアンドルー・カニンガム中将だった。

 カニンガム提督はタラント空襲(ジャッジメント作戦)でイタリア海軍の戦艦3隻を撃破するなど、その指揮能力や航空戦力に対する理解は高く評価されていた。

 東洋艦隊の艦艇も地中海艦隊からの転属が多く、イタリア海軍との戦いを通じて戦闘経験を積んでおり、士気も高かった。

 イギリスの基本戦略は日本軍のインド侵攻阻止である。

 インド支配こそ大英帝国の力の源泉なのだから、インドを奪われることはイギリスにとって致命傷となる。インド洋へ日本海軍の侵入を許すことも許されなかった。

 そのためにはマレー半島・シンガポールで日本軍を食い止める必要があり、それが東洋艦隊への戦艦5隻派遣につながっていた。

 日本海軍と同等の戦力を派遣して牽制に努め、マレー半島上陸を阻止する。

 もしも日本軍が上陸を強行してくるのなら、出撃して上陸船団ごと日本艦隊を撃滅する計画になっていた。

 日本海軍を圧倒できるだけの兵力を与えられたカニンガム提督が、

  

「フランス海軍の弟子らしいが、どんなものか・・・」


 と言ったかどうかは定かではないが、お手並み拝見という空気が強かった。

 実際のところ、日本海軍がまともに戦ったのは19世紀の日清戦争か、近いところでは第一次世界大戦の地中海派遣ぐらいなもので、そのどちらも華々しい印象はなかった。

 イタリア海軍と同等と考える者が殆どだった。

 敵から真価を問われていた日本海軍連合艦隊の司令長官は堀悌吉大将であった。

 堀提督は日本海軍では国際派と知られており、フランス大使館付きの駐在武官から始まり各種の国際会議への出席が多かった。

 外務省からも政策に関する助言を求められるなど、その頭脳と見識は高く評価されていた。

 司令長官就任の決め手となったのはその深い国際法関係知識であり、大規模な対外戦争に踏み切る日本において高陞号事件のような悪夢を繰り返すわけにはいかない故の人選だった。

 堀長官は正面戦闘は不利と考え、大規模な陽動作戦を採用した。

 手元の4戦艦のうち2隻(扶桑・山城)を分派して、オーストラリアへ送った。

 これは通商破壊戦を兼ねており、東洋艦隊が動かなければ延々と商船狩りを続ける計画になっていた。

 扶桑と山城はこのような任務にうってつけの艦だった。

  挿絵(By みてみん)


 なぜかといえば、この扶桑型は2度に渡る大改装の結果、30ktを発揮する高速戦艦になっていたからである。

 その生まれこそ様々なトラブルに見舞われて暗かった扶桑型だったが、2度目の大改装によって船体中央の砲塔を1基撤去して機関を増設、既存の機関も全換装するという作り直しに近い大手術によって、30ktを発揮する高速戦艦になっていた。

 もともと扶桑型は巡洋戦艦の旧金剛をベースに建造された経緯があり、砲塔撤去と機関換装により巡洋戦艦に先祖返りしたと言ってもよかった。

 火力は12インチ三連装3基と列強海軍のもつ戦艦の中では最弱であったが、格下の巡洋艦や商船狩りをするなら最適の船になっていた。

 第二次改装後の扶桑型や伊勢型ならソ連海軍が建造中という小型戦艦にもある程度は対抗できると見込まれていた。

 扶桑と山城は快速を利して遊撃戦を展開し、オーストラリア近海を荒らし回った。

 扶桑に至ってはオーストラリア本土を3回に渡って砲撃。1940年12月31日にはパースを砲撃してオーストラリアを恐怖のドン底へ叩き落とした。

 この砲撃では意図せず市街に飛んだ砲弾により遊園地の観覧車が破壊され、坂道を転がって海に落ちるという珍事が発生した。さらに遊園地で飼っていたライオンの群れが逃げ出して多数の死傷者がでた。

 1月3日には姉妹艦の山城がダーウィンを砲撃した。

 この砲撃は発電所を狙ったものだったが、戦前に発行された地図が間違っており、実際に砲撃したのは下水処理場であった。

 砲撃の爆圧により下水管から汚水が逆流して、ダーウィンの街中に大便が溢れかえった。

 沿岸にあるメルボルンやシドニーでは、ありもしない日本戦艦を見たとしてパニックが発生して都市機能が麻痺するなど、その影響は甚大だった。

 オーストラリア政府に泣きつかれたイギリス政府は已む無く東洋艦隊に討伐命令を出した。

 命令を受領したカニンガム提督は5隻の戦艦のうち機関の老朽化で速力が低くなっていたバーラムとマラヤ及び空母ハーミスをシンガポール近海に残すことにした。

 日本軍の上陸船団が来たらすぐに駆けつけられるようにするためである。

 また、シンガポールは制空権が怪しくなってきており、港に艦隊を残すのは危険になっていたので艦隊を洋上に退避させるという意味もあった。

 カニンガム提督自身はイラストリアスに乗り、東洋艦隊主力を率いて遊園地とトイレを砲撃した不埒な戦艦を追い求めてオーストラリアに向かったが、扶桑と山城は逃走した後だった。

 1941年1月10日、東洋艦隊の出動を確認した連合艦隊は上陸船団を伴って海南島を出撃し、マレー半島へと向かった。

 戦艦マラヤとバーラム及びハーミス、他駆逐艦3隻が迎撃に出動し、ここにマレー沖海戦が始まった。

 日英の水上艦隊が激突したのは1941年1月14日の夜半で、戦闘は夜戦となった。

 堀提督は戦艦マラヤとバーラムの接近を知ると直卒する戦艦長門と陸奥を上陸船団から分離して、積極的な索敵及び撃滅を命じた。

  挿絵(By みてみん)


 初めての大規模対外戦争の緒戦で消極的な行動にでれば、後々に禍根を残すと堀提督は考えており、国際派で理知的な印象から随分と違う積極的な用兵を行った。

 実際、乗員の多くは世界最強と誉高いロイヤル・ネイヴィーの本気の艦隊を相手に勝利できるとは考えておらず、戦う前から逃げ腰になっていた。

 同数の戦艦が殆ど対等な条件で夜間砲撃戦を行うのは珍しく、堀提督の積極策がなければこの対決は実現しなかっただろう。

 仏印に展開した日本海軍航空隊は戦艦撃沈をもくろみ多数の陸上攻撃機を飛ばしていたが、索敵に失敗して攻撃には至らなかった。

 さらに攻撃前に水上砲戦が始まったため、友軍誤射の懸念から上空援護(という名前の戦見物)に徹している。

 砲撃戦は夜戦であることから遠距離砲撃は水柱をあげるばかりで効果がなかった。

 そのため戦闘は次第に近接戦となり、15,000m付近まで接近したものとなった。

 最終局面では砲戦距離が10,000mを切って、そこで長門の第18斉射目がバーラムに漸く命中したという締まらないものであった。

 この時、長門や陸奥の艦橋は殆どパニック状態だった。

 日本海軍にとって、これが初めての本格的な近代水上砲撃戦なのだからアガってしまうのはある程度仕方がないといえる。しかし、一向に命中しない砲撃に怒り狂った長門の艦長が癇癪を起こして羅針盤を殴って手を骨折したというのはやはり締まらない話と言えるだろう。

 長門の第18斉射の命中弾は1発だった。

 しかし、この1発がバーラムの2番砲塔を叩き割り弾薬庫に飛び込んだことで、マレー沖海戦は実質的に終了した。

 バーラムの敗因は装甲防御の不足だった。

 予算不足で改装工事が後回しになっていたのがバーラムの悲劇であった。

 ちなみに長門は2度に渡る大改装を受けており、砲塔も新型に換装され水平装甲は最大200mm(バーラムは127mm)もあるという重防御戦艦になっていた。

 長門と陸奥は日本に2隻しかない超弩級戦艦であり、そのお色直しには金に糸目をつけないものであった。

 長門はバーラム撃沈までに6発の英国製15インチ砲弾を浴びたが、バイタルパートの貫通を許さなかった。


「16インチ砲弾にも耐える」


 という長門はさらに機関も改装工事を受けて27kt発揮できた。

 バーラムの轟沈によりマラヤは撤退しようとしたが速力の差により逃げ切れなかった。

 夜明けを待って再開した砲撃戦により、マラヤは袋叩きにあってバーラムの後を追った。

 マラヤ撃沈は上空の陸攻隊により多数の写真撮影が行われたことから、翌日の新聞一面トップを飾った。

 なお、マラヤとはマレー半島の異称であり、第一次大戦中にマレー半島の英国市民からの献金によって建造された経緯がある。

 そのマラヤ撃沈はイギリスの東洋支配終焉を意味する象徴的な出来事であると言えた。

 日本海軍にとってもこの戦いは意義深いものであった。

 堀提督は日本海軍において最初に戦艦を率いて、敵戦艦を撃沈した提督となった。

 マレー沖海戦は日本海軍史上初の戦艦撃沈であり、しかも味方の損失艦(長門は中破、陸奥は小破)は0というワンサイドゲームであった。

 それまでどこかぱっとしない印象だった日本海軍はマレー沖海戦の勝利によって初めて自信をもって戦えるようになった。

 また、それまで国際派ということでどこか柔弱な印象を持たれていた堀提督は一躍猛将の異名をとることになり、その威令は連合艦隊の隅々までに届くことになる。

 指揮官陣頭指揮による敵戦艦撃沈というサプライズは、日本海軍の士気をいい意味で大きく高めたといえるだろう。

 海戦の勝利により、マレー半島の地上戦は士気が高まった日本軍がイギリス軍を圧倒して、1941年3月2日までにシンガポール対岸のジョホール・バルを占領した。

 イギリス軍は日本陸軍を二流と侮っていたが、実際の日本軍は戦車もあれば大砲もある近代軍隊であり、砲兵火力の運用は質も量もイギリスの本国軍と大差なかった。

 砲兵はフランス伝統の75mm野砲から、105mm榴弾砲、155mm榴弾砲まで幅広く取り揃えており、有線・無線で前線指揮所と連接されてファイア・コントロールも適切だった。

 航空支援よりも(きちんと調整されていれば)砲兵の火力支援の方が迅速で、精度も高く、そして持続力が航空支援とは段違いだった。

 砲弾もGMかフォードの2.5tトラックで切れ目なく輸送され、海上輸送も海軍の護衛のもとで円滑に行われており、内地の砲弾生産も順調に拡大していた。

 戦車に関しても九七式中戦車がマレー半島には200両も投入されており、イギリス軍の貧弱な対戦車砲では全く太刀打ちできなかった。

 イギリス軍の事前評価は人種的な偏見に満ちたものであり、その誤りは前線の兵士の命で贖うことになったのである。

 マレー作戦と平行してボルネオ攻略作戦も行われており、こちらも日本軍が圧勝した。

 地上戦が総崩れとなる中、東洋艦隊はシンガポールから脱出した。

 シンガポールの制空権は既に失われており、軍港が連日爆撃を受ける状態になっていた。

 戦艦を整備できる設備はセイロン島にしかないため、東洋艦隊はインド洋に撤退するしかなかった。

 シンガポールの戦いは、日本軍の降伏勧告をイギリス軍が拒否した1941年3月6日から14日まで続いた。

 最終的に日本軍が水源地を占領したことでシンガポール全域が断水し、イギリス軍司令官のパーシヴァル中将は降伏やむなしの結論に達した。

 日本軍が得た捕虜は10万に上った。

 この規模の捕虜獲得は日本軍の歴史では初めてのことであり、捕虜収容施設を作ることも一苦労であった。

 幸いなことに、第一次世界大戦で日本国内に亡命チェコ人を収容した施設を再利用できることが判明したので、内地に移送の上で分散して収容することが決まった。

 多くのイギリス軍捕虜は鉄条網も地雷原もなく機関銃を設置した監視塔もない日本軍の捕虜収容所を見て、日本軍のやる気を疑うことになる。

 経済的にも軍事的にも余裕のある日本軍(特に海軍)はジュネーブ条約を遵守した戦争を行っており、捕虜の取り扱いには気を使っていた。

 捕虜もある程度の自由が保証されており、収容先で地元民との交流も許可された。

 これは余談だが、日本において球技といえば野球という時代が長く、プロサッカーリーグができるのは20世紀末のことである。

 リーグ設置後の発展は急速なものであったが、日本各地のクラブチームが設立された地域がイギリス軍の捕虜収容所があった地域と一致しているのは偶然ではない。イギリス軍捕虜が現地でサッカーを教えていた名残である。

 なお、第一次大戦時のチェコ人の亡命により日本にはチェコ料理が広まったが、イギリス料理は殆ど広まらなかった。

 理由は特に述べる必要はないだろう。

 反対にイギリスに日本料理が広まったのは、第二次世界大戦の影響が大きい。

 ロンドン名物のフィッシュアンドチップスの改良に日本の天ぷら料理の技法が果たし役割は大きかった。

 また、ロンドンの下町に伝わるうなぎ料理がまともに食える見た目と味になったのも第二次世界大戦の影響である。

 話を1941年3月に戻すと日本軍は占領したマレー半島とボルネオ北部を拠点に、蘭印攻略に取り掛かった。

 日本はオランダには宣戦布告しておらず、開戦後も戦闘回避のために交渉を続けていたのだが、蘭印政府は独自の判断で日本との戦闘状態に突入していった。

 蘭印政府の自信の源はイギリスの東洋艦隊の存在だった。

 日本海軍の全軍に匹敵する世界最強のロイヤル・ネイヴィーが味方にいるので、蘭印政府は強気に出た。

 しかし、それは全くの裏目に出た。イギリス東洋艦隊はセイロン島に後退しており、蘭印を守り切るのは不可能だった。

 それでもオランダ艦隊を率いたカレル・ドールマン少将の戦意が高かったのは日本海軍最強の長門と陸奥が損傷修理のために後退し、侵攻艦隊に巡洋艦と空母しかいないと分かっていたからである。

 オランダ艦隊最大の艦艇は軽巡洋艦だったが、イギリス東洋艦隊から巡洋艦3隻(エクセター・コーンウォール・ドーセットシャー)が分遣されていた。

 上陸船団を護衛する第2艦隊には青葉型重巡洋艦4隻及び空母飛龍と蒼龍がいた。


 挿絵(By みてみん)

 日本艦隊と英蘭艦隊の水上艦戦力はほぼ互角だったが、制空権は日本が掌握していた。

 英蘭艦隊が上陸船団を襲撃して護衛の日本艦隊と交戦したのがスラバヤ沖海戦となる。

 この海戦は蒼龍・飛龍の艦載機による航空攻撃で始まり、エクセターが航空雷撃で沈没。コーンウォールとドーセットシャーも急降下爆撃を浴びて小破した。

 英巡エクセターの撃沈は、日本海軍航空隊にとって初の大型艦撃沈だった。 

 マレー沖海戦で戦艦を撃沈しそこねた日本海軍航空隊としては、英蘭合同艦隊を空爆だけで始末したいと考えていた。

 しかし、その後は天候悪化で戦果を拡大することはできなかった。

 空爆を受けた時点で英蘭艦隊は撤退を開始した。

 しかし、青葉型重巡4隻を擁する第6戦隊及び駆逐艦4隻の追撃を受け、夜戦により壊滅した。

 日本艦隊はマレー沖海戦の教訓から積極的な接近戦を挑んで、英蘭艦隊を圧倒することができた。

 また、空母艦載機の偵察により英蘭艦隊の動きが逐次通報され、先手を取り続けられたことが大きかった。

 スラバヤ沖海戦で英蘭艦隊は主力艦艇と共にドールマン少将を失うという大敗を喫し、残余艦艇は脱出を図ったがセレベス島沖海戦で全滅することになった。

 マレー沖海戦に続く勝利に日本軍は沸き上がり、航空戦力による先制と水上艦の突撃を組み合わせた立体攻撃こそ新しい海戦戦術だという確信を深めることになる。

 もしも、航空攻撃だけで戦艦バーラムやマラヤを撃沈できていたら、もう少し違った結論になっていたかもしれないが、それは繰り言というべきだろう。

 新型の一式陸上攻撃機が間に合っていれば、航空攻撃だけで戦艦2隻を撃沈できたという意見もあったが、無いものは無かった。

 制海権を失ったオランダ軍は日本軍の上陸を阻止することができず、日本軍は電撃的に蘭印各地を占領していった。

 1941年2月14日には日本で初めて大規模空挺作戦が行われ、蘭印の油田地帯が製油所ごと日本軍の手に落ちた。

 日本軍としては戦争遂行に必要な石油製品はアメリカから買えるので蘭印の油田地帯占領はそれほど重要ではなかったが、今後ドイツとイタリアに資源を供給する上で蘭印の石油資源を確保できたのは大きかった。

 日本海軍は蘭印作戦後、インド洋打通とスエズ占領。地中海まで資源輸送を計画しており、蘭印の勝利も通過点の一つに過ぎないといえた。

 オランダ軍最後の拠点となったジャワ島が陥落したのは1941年3月25日だった。

 東京の大本営(議長は永田鉄山首相)は南方作戦を120日間と想定しており、作戦は想定どおりに終わったと言えた。

 想定外だったのは、再び大量の捕虜を得たことで、オランダ軍及びオーストラリア軍の将兵約10万が日本軍の捕虜になった。

 捕虜交換したいところだったが、特に日本軍で捕虜になっている者もいないため、仕方なく彼らも内地へ送還するしかなかった。

 日本軍は大量の捕虜を得たことで、彼らを保護する義務が生じたため、多額の経費に頭を悩ませた。

 経費削減のために、前線部隊には戦闘不能になった場合は降伏して捕虜になることを推奨(対ソ戦線は除く)するほどであった。

 なぜなら、捕虜なれば捕虜交換で生還できる可能性が高く、しかも日本国内の膨大な捕虜を削減できるためである。

 捕虜交換は専ら中立国のアメリカで行われた。

 日本赤十字社とアメリカ赤十字社が合同で捕虜交換委員会を開催し、戦時中に交換した捕虜の数は述べ23,000人に達した。

 経費削減のために捕虜を軍需工場に動員する計画もあったが、サボタージュや破壊工作の危険性があり、労働力なら同盟国の中国から来る出稼ぎ労働者が有り余るほどあったので警備費用を考えると経費削減にはならないため破棄された。

 最終的な解決方法として、食糧増産のために日本各地の干拓事業にオランダ軍捕虜が投入された。あまりにも安直ではないかという批判もあったが、本人達が非常に熱心(土木建築資材が不足するほどに)に干拓事業に取り組んだので大成功だったと言えるだろう。

 21世紀現在でも、その足跡は日本のあちこちに残されており、海辺の農村には「発」や「開」という干拓地を示す地名に「蘭」や「洞戸ホランド」、「由礼等ユトレヒト」、「音出戸ネーデルラント」といった地名が散見される。

 ちなみに干拓事業(新潟県新戸沼干拓)にはイギリス軍捕虜も動員されたが、サボタージュが横行し、終戦まで何ら成果がなく干拓事業は失敗に終わった。

 同じ役務でどうしてここまで違いがでるのか日本人は首を傾げたが、それはポルダーだからとしか言えないとオランダ軍捕虜達は回答している。

 イギリス人には言わせてみれば、


「働いたら負け」


 であり、オランダ人の方がどうかしており、労役をサボるのは捕虜の義務とのことだった。

 蘭印作戦終了後、南方軍の戦力はインド洋作戦に転用された。

 1941年3月以後、蘭印は日本の統治下に置かれ軍政が敷かれた。

 日本が求めていたのは領土ではなく、資源と軍事基地だけだったから、軍政を敷く必要はなかったのだが、蘭印政府は協力を拒否したため軍政を敷くしかなかった。

 この点が仏印とはことなり、マレー半島やシンガポールも軍政展開を余儀なくされた。

 永田首相は多大な労力と経費を必要とする軍政には否定的で、少しでも多くの兵力を前線に集めたいと思っていたから、植民地政府の協力が得られなかったのは痛手だった。

 そうであるからこそ植民地政府も本国から指示で協力拒否に至ったともいえる。

 少しでも後方に日本が戦力を拘束されれば、その分だけ前線の負担が減るからだ。

 永田首相は南方の軍政を今村均中将に一任し、植民地の独立を急がせることにした。

 対ソ戦で一人でも多くの兵士が必要なときに、のんびりと軍政に人手を割いている余裕などなかった。

 結果として、日本軍はアジアの解放者として振る舞うことになる。

 軍政と東南アジア諸国の独立準備を任された今村中将は非常に多忙になったが、彼の手によって準備された独立準備政府は、1944年以降次々と独立を果たしていった。

 21世紀のインドネシア人でポピュラーな名前として「イマァミュラ」が定着しているのは彼の功績の巨大さを物語っているといえるだろう。

 ただし、何事にも例外はあり、仏印のように植民地政府が日本と協定を結んで現地行政を継続した場合は、上記の限りではなかった。

 日本軍がほしいのは資源と軍事基地だけで、それが手に入るなら軍政も独立準備政府も必要ないのである。

 戦後のインドシナ半島独立が遅れた理由は日本軍の対応の差が原因であり、それが大きな外交問題となるのだがそれは別の話である。

 


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― 新着の感想 ―
[一言] 日本の兵器が、ロシアのマラート級戦艦やYAK9P戦闘機と酷似しているのは、ロシア皇帝の亡命の影響(一緒に亡命してきた?)ですかね?
[良い点] アメリカの参戦のない珍しい世界 暴走していない日本軍部 精強な粛清されてないソ連 なかなか観測されずらい世界ですがそれゆえに今後が楽しみです。 [気になる点] アメリカは武装中立ですがア…
[良い点] 大サトーの著作を彷彿とさせるシルエットの軍艦の挿し絵が良かったです。
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