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A君の奇妙な冒険



A君の奇妙な冒険


 1939年9月1日、ドイツ軍は国境を越えてポーランドになだれ込んだ。

 同月3日にポーランドと軍事同盟を結んでいたイギリスとフランスがドイツに宣戦布告してここに第二次世界大戦が始まることになる。

 空地一体のドイツ軍の機動攻勢に対してポーランド軍は決死の抵抗を試みたが、圧倒的な戦力差により、その抵抗は早期に叩き潰された。

 28日には激戦の末に首都ワルシャワは陥落し、ポーランド軍は総崩れとなった。

 しかし、フランス軍に大きな動きはなくドイツ西部の国境地帯は平和なものであった。

 イギリスとフランスはドイツ軍の主力がポーランドにあることを知っていながら何もしなかった。

 ポーランドは見殺しにされたのである。

 なぜか?

 英仏はソ連を参戦させるための政治工作に奔走していたのである。

 英仏ソは1937年に相互援助条約を結び、対ドイツ包囲網を形成していた。

 相互援助条約は純粋な軍事同盟ではなかったが、加盟国がドイツと交戦状態になったときに必要な援助を行うことを義務付けていた。

 そのため、英仏はドイツに宣戦布告をすると自動的にソ連も参戦すると思い込んでいた。

 しかし、肝心のソ連は全く動かなかった。

 なぜかといえば、彼らは軍の主力を遠い中国の泥沼の中においており、ヨーロッパに展開できる兵力は70万程度しかなかったからである。

 それでも十分に強力なのだが、ポーランド軍を蹴散らしたドイツ軍の能力を考えると返り討ちに遭いかねなかった。

 しかも、ポーランドにはドイツ軍主力が展開しており、そのまま参戦したら大損害は必至だった。

 逆にフランス軍は労せずしてドイツ本土を侵し、最小の犠牲で勝利することができる。

 これではソ連が損をするだけだった。

 英仏としては、これ以上、ドイツの領土拡張を認めることはできないため、ソ連参戦を当て込んで宣戦布告に踏み切ったのだが、完全に梯子を外されることになる。

 イギリスとフランスの戦争計画は、ソ連の参戦を前提としており、その前提条件を崩れた以上は独力でドイツと向き合うしかなかったのだが、彼らはそれを拒否した。

 実際のところ、英仏は先の大戦で膨大な犠牲者を出した経験から、強力なドイツ軍との全面対決には否定的だった。

 ドイツというババを英仏とソ連が押し付けあっていたと言えるだろう。

 それがソ連の参戦を待ちぼうけするという戦略的な脳死状態を招き、今まさに戦っているポーランドを見捨てるという最悪の決定に至るのである。

 ワルシャワが陥落したポーランド政府及び軍は、1921年以来の同盟国であるルーマニア国境地帯に全軍と政府を撤退させ、ここで徹底抗戦を試みた。

 しかし、イギリスもフランスも、ソ連もポーランドを助けることはなく、11月までに抵抗は粉砕され、ポーランド全土がドイツ軍の占領下に置かれた。

 ヒトラーの読みどおり、ソ連は動かず、ソ連が動かなければイギリスもフランスも動かなかったのである。

 ・・・と20世紀後半までは考えられていた。

 真相はそれほど単純でもなければシリアスでもなかった。

 実際のところ、ヒトラーを含めてナチス・ドイツ上層部は英仏の宣戦布告によりパニック状態にあった。

 彼らはポーランド侵攻が全面戦争になるとは考えていなかったのである。

 ヒトラーの念頭にあったのはオーストリア併合やミュンヘン会談のイギリス・フランスの優柔不断で日和見な態度とソ連の傍観だった。

 ソ連が中国の泥沼に足を取られている間に進められたドイツの戦争なき領土拡張闘争は、何れもイギリスとフランスの弱腰とソ連の傍観によって大きな成功を収めていた。

 理由は前述のとおりで、ソ連に火中の栗を拾わせたいイギリスとフランスの無責任な態度によって引き起こされたものだった。

 確かにイギリスもフランスも社会主義に傾倒していたが、ソ連を社会主義の盟主であるとは考えておらず、ソ連を体よく利用することしか考えていなかった。

 社会主義者になっても、イギリス人はイギリス人であり、フランス人はフランス人でしかなかった。

 ソ連にババを引かせたい英仏の思惑をトロツキーも敏感に感じ取っていたので、ヒトラーの火遊びに対しては傍観者的な態度をとっていた。 

 トロツキーは何れヨーロッパを資本主義から”解放”しなければならないと考えていたが、それは中国を片付けたあとの話だった。

 

「ソ連が動かなければイギリスとフランスは動かない」


 それがヒトラーの読みであり、まさか英仏がソ連の回答を待たずに宣戦布告に踏み切るとは考えていなかった。

 ヒトラーとしては積年の課題でありポーランド回廊問題を解決するついでに、破産寸前の国庫を救うためにポーランド国立銀行の正貨(金塊)を頂戴することがポーランド侵攻の主な目的であった。

 ちなみにドイツは前述のオーストリア併合でもオーストリア中央銀行の正貨を入手して、辛うじて国庫破綻を回避していた。チェコ併合でも同じことをやっていた。

 ヒトラーの領土拡張要求は常にドイツの国庫が底をつく寸前で行われており、それが”ナチス経済”の実態であると言えた。

 確かにヒトラーは膨大な失業者を一掃したが、それは失業者を兵舎に移しただけのことだった。

 もしもポーランド侵攻がなければ、ドイツは財政破綻を避けるために大規模な軍縮を断行するしかない状態にまで追い詰められていたのである。

 ヒトラーには戦争か、財政破綻の二者択一しか残されていなかった。

 ではドイツ軍に戦争ができるだけの準備が整っているのかといえば、答えはNOだった。

 ドイツの軍備は未だに再建の途上といっていい状態といえた。

 戦車の数的な主力は練習用戦車のⅠ号戦車やⅡ号戦車であり、チェコ製の軽戦車で不足分を埋めている有様だった。

 ドイツ海軍に至っては勇者の如く云々という有名なセリフをレーダー海軍司令長官が口にするほど酷い有様だった。

 それどころかドイツ海軍は東洋の黄色い悪魔から建造中の戦艦や魚雷の欠陥を指摘されるという恥辱に塗れ、懸命に立て直しを図っている最中だった。

 その日本海軍よりもさらに強大なイギリス海軍との戦争など、想像もつかない状態だった。

 辛うじて英仏と互角と言える状態にあったのは空軍だけで、日本から買った新型機関砲やアメリカ製のハイオクタンガソリンを豊富に備蓄してあったので、ゲーリング国家元帥は自信満々だった。

 それでも戦争が始まってしまった以上、もはやドイツは後には引けなかった。

 ドイツには総統の後に続いて栄光の道へ進むか、東西からの挟撃で押しつぶされるか、二つに一つしかなかった。

 ドイツはポーランド戦を終えると軍需工場をフル稼働させて、後先を考えない軍備拡張を図り1940年の春の戦いに備えた。

 さらに日本にイギリス海軍を牽制するように依頼したが、これは全く無視された。

 当然だった。

 日本政府はドイツからポーランド侵攻について全く知らされておらず、ヒトラーの無謀な行動に唖然としていたのである。

 驚いた日本政府関係者が、日独合同義勇軍”鷹の爪軍団”のドイツ軍代表を務めるファルケンハウゼン大佐にドイツの真意を問い合わせたところ、ファルケンハウゼンもまた本国へ問い合わせている真っ最中だったという笑えない笑い話がある。

 ヒトラーは情報が漏れることを警戒して鷹の爪軍団に何も知らせていなかった。

 当然のことながら、彼らが帰国する方法も考えられていなかったので、鷹の爪軍団は島流し同然の状態となった。

 ファルケンハウゼンは鷹の爪軍団の人事でベテランの代わりに未熟な新兵や、素行不良者、ドイツ軍内部の反ナチス派が送られてきてことから、本国で何かが起きつつあることを薄々感づいてたのだが、まさか世界大戦が始まるとは思っていなかった。

 その未熟な新兵にサウナと牛乳を飲むことを欠かさない急降下爆撃機のパイロットや、フランス人のような名前の素行不良の戦闘機パイロットが含まれていたのだが、彼らの活躍はもう少し先の話である。

 確かに日本はドイツと防共協定を結んでいたが、これは対ソ包囲網の形成と抑止を図ることが目的であり、防衛のため条約だった。

 ドイツのポーランド侵攻は誰がどう考えてもドイツの侵略戦争であり、日本がそれに付きあわなければならない理由など1mmも存在しなかった。

 ナチズムのシンパになっていた日本の極右勢力は、ヒトラーに続いてアジアの欧米植民地を”解放”するチャンスと息巻いていたが、そのような意見は日本において少数派であった。

 日本経済は世界恐慌から既に立ち直っており不景気とは無縁であった。

 それどころか、1939年の上半期はインフレが過熱気味で、日本政府は金利の引き上げと増税を検討していたほどである。

 植民地などなくても経済はよく回るし、むしろ植民地を持たなかったからこそ経済発展があると考える人の方が多かった。

 日本の植民地といえば西太平洋の内南洋領土か中国の山東半島になるが、どちらも統治のコストが利益を上回っており、赤字経営であった。

 外務省の一部では、どうやってこの不良債権を日本の面子を傷つけないように手放そうか思案しており、独立派と秘密交渉を行っていたぐらいだった。

 植民地獲得よりもアメリカにトヨタの自動車や東芝の家電製品を売った方が儲かるのだから、極右勢力のいうことに耳を貸す人間が少ない(全くいないわけではなかった)のは当然の論理的な帰結だった。

 むしろ、日本は中立を保って先の大戦のように特需で大儲けすべきと考える人間が圧倒的多数だった。

 しかし、日本政府は欧州の大戦争が全く自国と無関係のままの終わるとは考えておらず、大規模な臨時戦争特別会計を組んで、急速な軍備拡張を推し進めた。

 加賀型戦艦といった日本海軍の主力を務めることになる大型艦艇が起工したのは、大戦勃発から3ヶ月後の1940年1月のことである。

 日本陸軍も大拡張に転じて、平時の13個師団体制から一気に戦時の36個師団体制となる。それでも不足するため、さらに56個師団まで編成された。

 近代戦争の大前提である航空戦力の増強は必須であり、多額の予算が組まれ、航空機増産のために日本国内の自動車メーカーが動員された。

 なぜ航空機の増産に自動車メーカーなのかといえば、自動車の量産ラインを利用して航空機を量産化するためである。

 航空機なら航空機メーカーに作らせればいいのではないか、と考えてしまうけれど、それは不可能である。

 なぜなら戦争が終われば直ちに軍用機の量産など中止されるのは目に見えており、戦時中に多額の設備投資を行うことは平時において量産するほど仕事のない航空機メーカーにとって命取りになりかねなかった。

 中ソ事変が始まる前は軍用機生産とは職人とその徒弟が手作業で作るものであり、量産という言葉は軍用機生産の現場には存在しなかったほどである。

 そこで乗用車などの戦時には需要がなくなる自動車の量産ラインを使って、軍用機を作るといった発想が出てくることになる。

 日本国内においては漸くアメリカの下請けを脱したトヨタ自動車と日産自動車が多額の政府補助を受けて自動車の生産ラインを転用して、それぞれ三菱航空機と川崎航空機の航空機量産を請け負うことになる。

 ちなみに中島飛行機は、社長の中島知久平の意向により自ら量産ラインを設置して軍用機の大増産に取り組んだ。

 中島の無謀ともいえる設備投資は戦後の自動車産業への転身や旅客機事業への展開を考えた布石だった。

 さらに日本国内の経済特区へ進出したアメリカのビッグ・スリー(フォード・GM・クライスラー)も日本の軍用機製造に携わった。

 最終的に終戦までに生産された日本製軍用航空機の7割がビッグ・スリーの手によるもので、発展途上にある日本の自動車産業との力の差を見せつけることになった。

 ちなみに生産された軍用機のうち、海軍機が占める割合は7割を超える。

 日本海軍は極めて航空兵力を重視した海軍だった。

 理由は簡単で、水上艦で対英35%しかない日本海軍が対等に戦えるのは航空戦力しかないのだから、航空重視になるのは必然であった。

 この場合の航空重視とは空母ではなく基地航空部隊を意味する。

 日本海軍は陸上攻撃機や陸上爆撃機、基地防空用の局地戦闘機といった他国の海軍航空隊にはない豊富な基地航空部隊を擁していた。

 1942年8月には実質的な独立空軍である航空連合艦隊が設置される。

 航空連合艦隊とは航空部隊のみ(第1から第5航空艦隊)で編成された連合艦隊という、水上艦による連合艦隊と同格の組織だった。

 初代連合航空艦隊の司令長官には井上成美海軍大将が選ばれている。

 戦略爆撃機を含む独立航空部隊を保有した海軍など、世界広しといえども日本海軍のみである。

 話を1940年5月に戻すと、雪解けと同時にドイツ軍が動き出し、フランス北部が戦場になった。

 ドイツ軍の動きは前大戦と同じくベルギー・オランダの中立を侵犯してパリへ突進するシュリーフェン・プランの焼き直しだった。

 これに対してフランス軍は守りを固めて持久戦に持ち込む戦略をとった。

 時間はフランスの味方だった。

 ドイツを適当にいなしておけば、ソ連が背後からドイツを襲って東西から挟撃できるのだからフランスに焦りはない。

 しかし、ドイツ軍の真意はシュリーフェン・プランⅡではなく、装甲部隊が通行不可能とされていたアルデンヌの森林地帯を突破することで、ベルギーとフランドルに展開した英仏連合軍を包囲することにあった。

 所謂、マンシュタインプランである。

 これは大成功をおさめ、ベルギーとフランス北部の浜辺に英仏連合軍は追い詰められた。

 包囲された部隊を救出するために反撃作戦が立案されたが効果は乏しかった。

 救援に向かった英仏の戦車部隊はドイツ軍の戦車部隊と激突し、完敗に近い内容で敗走した。

 装甲を強化したⅣ号戦車に開発中止になったⅢ号戦車用の長砲身50mm砲を搭載したⅢ/Ⅳ号戦車は英仏軍の戦車と互角以上に戦えた。

 英仏軍の37mm対戦車砲でⅢ/Ⅳ号戦車を撃破をすることは不可能で、フランス軍などはドイツ戦車が現れただけでパニックを起こして逃げ惑うほどになった。

 空中においても燃料落下タンクと20mmモーターカノン(ホ5)を装備したBf109E型が長距離進出して地上部隊の上空を効果的に守った。

 中ソ事変でソ連軍相手と戦った経験をフィードバックしたドイツ軍は装備も戦術も大きく改善されていた。

 地球の反対側まで義勇軍を送った甲斐があったというものである。

 ただし、最高司令官であるヒトラーの判断ミスまでフォローすることはできず、反撃に驚いたヒトラーが進撃停止命令を出したことで英仏連合軍はダンケルクから奇跡的な撤退に成功した。

 しかし、フランスの戦いはもはや勝敗が決したも同然だった。

 1940年6月14日、ドイツ軍はパリに無血入城した。

 同月22日に休戦条約が結ばれてフランスはドイツの軍門に下った。

 結局、ソ連の参戦はなかった。

 この結果を受けて、イギリスでは労働党政権が崩壊し、保守党のチャーチルによる挙国一致内閣が成立することになった。

 この政変をヒトラーは歓迎した。

 祝電を贈りたいぐらいだと周囲に触れ回るほどであった。

 なぜなら保守派のチャーチルが首相になり、親ソ政権が崩壊したのだからイギリスとも休戦協定を結べると考えたのである。

 ヒトラーはイギリスと休戦した後、ソ連を先制攻撃する計画を立てていた。

 独ソ国境にはソ連の大軍が出現しつつあり、ヒトラーは気が気でなかったのである。

 だが、ヒトラーの根拠のない楽観論は数日で木っ端微塵に粉砕された。

 チャーチルは演説で徹底抗戦を宣言し、休戦交渉を拒否した。

 演説においてチャーチルはヒトラーとの戦争を自由と民主主義を守る戦いと位置づけ、ブリテン島をその最後の砦とした。

 

「よろしい、ならば戦争クリークだ」


 とヒトラーが言ったかどうかは定かではないが、1940年7月からドイツ空軍によるイギリス本土爆撃が始まった。

 バトル・オブ・ブリテンである。

 チャーチルは強気の演説を繰り返して国民の士気を鼓舞したが、強気の裏返しはイギリスの苦境を現していた。

 しかし、この戦いはイギリスの勝利に終わった。

 イギリス空軍の戦闘機パイロット達の献身的な戦いが功を奏したわけではない。

 落下タンク装備のメッサーシュミットは、イギリス上空で燃料切れを起こすことなく、爆撃機を最初から最後まで護衛することが可能だった。

 このまま戦いが続けばイギリスが先に根負けしていただろう。

 ヒトラーにイギリス征服を諦めさせたのは、背後からの一撃だった。

 1940年8月1日、レフ・トロツキー書記長は欧州をナチスから”解放”するため、全軍に進軍命令を下した。

 目標はベルリン。

 作戦名は”月” (ルゥナー)。

 トロツキーが


「月に代わってファシストを制裁する!」


 と言ったかどうかは定かではないが、作戦名はナチズムに対して理論的に勝っているボルシェヴィズムによる膺懲の一撃として、相応しいものであったと言える。

 ついにソ連が参戦し、ポーランド東部に攻め込んだ。

 この時、ソ連軍を率いるトゥハチェフスキー元帥は戦争は1ヶ月で終わると考えていた。

 ドイツ軍の主力がフランスから戻ってくる前に、ポーランド平原を突破して一気にベルリンを占領してしまえば、それでケリがつくからだ。

 彼自身が構想した縦深攻撃理論は完成の域にあり、彼の理論に基づいて高度に機械化されたソ連軍にはそれを可能とする能力があった。


「ワルシャワまで2週間、ベルリンまで一月、クリスマスまでに戦争は終わる」


 ちなみにロシア正教のクリスマスはグレゴリオ暦の1月7日であり12月ではないのだが、この場合のそれはドイツ占領下にある低地諸国やフランスの”解放”を含む計算だった。

 1年かけて戦争準備を整えたソ連軍(作戦参加戦力約200万)の進撃はめざましく、大した抵抗もなく国境線を超えることができた。

 その後の進撃も極めて順調で、突破の先鋒を務めた第1梯団は1日で100kmも前進することができた。

 制空権は完全にソ連軍が掌握しており、ドイツ戦闘機を見ることは稀だった。

 そのため空挺作戦も順調で、懸念事項であったヴィスワ川にかかる橋も無傷であっさりと確保できた。

 ワルシャワは予定より1日早い開戦13日目で陥落した。

 ケーニヒスベルクを含む東プロイセンのドイツ軍は激しく抵抗していたが、トゥハチェフスキー元帥は問題ないと考えていた。

 それらは包囲されており、もはや盤面からは消えたも同然だった。

 懸念事項があるとすれば、第1梯団の前進が上手く行き過ぎていることだった。

 あまりにも前進が早すぎるため、第2梯団との間隔が大きく開いていた。

 本来ならばこのようなことが起きないように調整しなければならないのだが、それが上手くいっていなかった。

 ソ連のような陸軍大国であっても、このような大規模機動攻勢は初めてのことだった。

 中国での戦争で機動作戦が行われたのは戦争初期のみで、占領地が広がった後は対ゲリラ戦ばかりだったから、大規模機動作戦の経験不足は否めなかった。

 さらに装備にも問題があり、機動戦用のBT-5/7と歩兵支援用のT-26は機動力に差がありすぎて協調した進撃が困難だった。

 それらを統合した革新的なT-34はまだ数が少なかった。

 結果として優秀装備(T-34やBT-7)を集めた第1梯団が先行して、T-26などの旧式戦車を装備した第2梯団以降は第1梯団の進撃についていけなくなっていた。

 また、捕捉殲滅できたドイツ軍の数が少ないことも不気味だった。

 ポーランドには最低でも20個師団程度は配置されているはずだったが、ソ連軍が確認できた兵力はそれよりも遥かに少なかった。


「ドイツ軍はどこに消えたのか?ドイツ軍の反撃はいつ始まるのか?」


 赤軍大本営はその話題に持ちきりであったが、進撃を停止して様子を見ようという者はいなかった。

 ほんの数ヶ月前にヒトラーがそれをやって、英仏軍の奇跡的な脱出(ダンケルク)に手を貸すという愚行を行ったばかりだったからである。

 そうなるぐらいならさっさとベルリンを占領してしまった方が早い。

 それに勝っているソ連軍には、奇襲に成功したという楽観論もあった。

 実際のところそれは事実でもあった。

 ソ連軍は奇襲に成功していたのである。

 ヒトラーには中国の泥沼に足を取られているソ連は攻勢に出られないという思い込みがあった。

 そのためポーランドの防備は極めて薄く、最低限のものしかなかった。

 1940年時点のポーランド東部での勤務は、ドイツ軍の将兵にとっては休暇配置か、それとも左遷人事のどちらかであった。

 エーリッヒ・フォン・マンシュタイン大将にとっては後者である。

 フランス戦を大勝利を導いた立役者であるにもかかわらず、マンシュタインは不遇をかこつっていた。

 勝利を独占したいヒトラーにとって、作戦立案者のマンシュタインは煙たい存在だったからである。

 また、ヒトラーにとってプロイセン軍人の中のプロイセン軍人であるマンシュタインは伍長どまりであった彼のコンプレックスをあまりにも刺激すぎる存在だった。

 フランス戦が大勝利に終わるとマンシュタイン中将はその功績から騎士十字章を授与され、大将に昇進したが中央に呼び戻されることはなかった。

 皮肉なことであったが、マンシュタインを左遷したことによってヒトラーはマンシュタインに救われることになった。

 ヒトラーがイングランド航空戦(バトル・オブ・ブリテンのドイツ側呼称)に夢中だったことから、マンシュタインは何ら掣肘を受けることになく、ポーランド防衛戦を準備することができたのである。

 マンシュタインはポーランドに配置された20個師団(全て歩兵師団)では防衛は不可能と考え、国境の守りを事実上放棄した。

 その上で、ソ連軍をドイツ国境付近まで引き込んでフランスから戻ってくるだろう装甲部隊を使ってソ連軍の先鋒部隊を包囲殲滅する計画を立てた。

 20個しか無い歩兵師団の配置も巧妙なもので、退路の確保と攻勢準備射撃への対応はドイツ的完全主義なレベルで練りに練られたものだった。

 ソ連軍は激しい準備砲撃を実施したがその殆どは無効だったのである。ソ連空軍の爆撃からもドイツ軍部隊は巧みな擬装によって逃れていた。

 マンシュタインはソ連軍の第一梯団が突出していることを慎重に見極めるとフランスから戻ってきた装甲師団を巧みに運用し、これを包囲殲滅した。

 トゥハチェフスキーはドイツ軍の反撃を予想しており、予備兵力を投入して解囲を試みたが、今回はマンシュタインの方が一枚上手だった。

 ドイツ軍がワルシャワを奪還したのは1940年9月14日である。

 後にドイツ流機動作戦の華と称されることになる防御からの攻勢転移(バックハンドブロウ)であった。

 しかし、殲滅できたのはソ連軍の第一梯団のみで、第二梯団以降はトゥハチェフスキーが全軍壊滅を避けるために後退命令を出していたから包囲は叶わなかった。

 赤いナポレオンに率いられた赤軍はマヌケの集まりではなかった。

 ドイツ軍は反転攻勢によって少なくない損害を出しており、一連の戦いで装甲師団の半数が使い物にならなくなるほどの損害を出していた。ポーランドを守っていた20個師団はさらに激しく消耗しており、ほぼ壊滅状態だった。

 ソ連軍は中国での戦争により実戦慣れしており、経験豊富な下士官や将校が揃っていたことから、ドイツ軍の反撃は非常にブラッディなものとなった。特に歩兵戦闘ではソ連軍の方が優勢だった。

 ドイツ軍は1940年9月28日に包囲されていたケーニヒスベルクの解放に成功したが、これもソ連軍が戦線整理のために引いただけで、勝利したわけではなかった。

 ポーランド東部にはソ連軍が居座り、ベルリンがソ連空軍の爆撃に晒された。

 それでも一時期はソ連軍の長距離砲の砲撃に晒されたことを考えるとだいぶマシになったと言える。

 ここで日本政府は決断を迫られることなる。

 ソ連の参戦により、ドイツから防共協定による参戦要請が届いていたのである。

 防共協定は軍事同盟ではなかったが、加盟国がソ連から攻撃を受けた場合に必要な援助を行うことになっていた。

 ドイツからの参戦要請は首都ベルリンにソ連軍の砲撃が降っていた時期に出されたこともあって懇願に近い内容であった。

 参戦の対価としてドイツの先進的な科学技術の全面的な提供やアジアにおける日本の指導的な地位を認めるといった景気のいい内容で参戦を求めていた。

 別名は空手形ともいう。

 日本政府関係者の殆どはヒトラーの侵略戦争に付き合うのは反対だった。

 ヒトラーのヨーロッパ支配の手助けをしたところで日本には何のメリットもない。

 世論も同じだった。

 しかし、ドイツを見捨てたらどうなるのか?

 日本政府が設立した総力戦研究所は、1940年9月15日に一つのレポートを提出した。

 レポートの内容は、日本が参戦せずドイツ単独で英ソと戦った場合の戦争経過を予測したものだった。

 その結果は、戦争がドイツの敗北で終わるというものだった。

 態勢を立て直したイギリス空軍による戦略爆撃によりドイツの工業生産は壊滅し、イギリス軍の攻勢によりイタリアは1943年までに降伏。

 1944年ごろには戦線を支えきれなくなったドイツが英ソの物量に押しつぶされて敗北というシナリオだった。

 問題はその後だった。

 レポートの最終章はドイツの敗北により、ドイツ全土とその占領下にある地域がソビエト軍に占領され、共産主義政権が成立すると警告する内容となっていた。

 現在は中立を保っている北欧や東欧諸国もソ連の軍事圧力には対抗できなくなり、ドイツ敗戦後に赤化していくと予想された。

 ヨーロッパが赤化した後は、ソ連は全力で中ソ事変を片付けるだろう。

 ソ連の全力に対して中華民国が抵抗することは不可能であり、短時間で中国全土が赤化する。

 1950年までにユーラシア大陸の全てが赤化し、日本はその外縁で完全に孤立。

 やがて、圧倒的なソ連の軍事力に屈服を余儀なくされる。

 それが総力戦研究所の示す未来予想図であった。

 レポートを受け取った近衛文麿首相はあまりにも絶望的な未来に恐れ慄いたが、まだ希望は残っていると考えていた。

 この絶望的な状況下における唯一の希望とは、アメリカの参戦であった。

 1940年の大統領選挙はアメリカにとって大きな岐路だった。

 大統領選挙を争ったのは大統領職は2期までというワシントン以来の慣例を破って出馬した民主党のフランクリン・ルーズベルトと共和党のダークホースのウェンデル・ウィルキーだった。

 近衛は親日のルーズベルト政権の存続を願っていた。

 中ソ事変において、アメリカはソ連の侵略に対抗するため日本と協力関係を築いており、近衛とルーズベルトは親密な関係にあった。

 ルーズベルトは近衛に参戦に前向きな姿勢を示しており、近衛もアメリカが参戦すれば勝利できると考えていた。

 近衛はこじれた日英関係の修復にも熱心だったし、チャーチルも今までの政策を180度転換して日米との共闘を望んでいた。

 近衛とルーズベルトはドイツとの関係を反故にして日米協商にイギリスを加えたジャングロ・アクシズを形成して世界大戦を乗り切ろうと考えていたのである。

 ヒトラーの真似をしてちょび髭を生やしていた近衛だったが、ヒトラーと心中する気はさらさらなかった。

 だが、中ソ事変で日独に接近しすぎていたことが、ルーズベルトの命取りになってしまう。

 アメリカの左派系マスコミによって、中ソ事変における日独米の蜜月関係が暴露されたのである。

 ヒトラー・ドイツと不透明な関係にあったルーズベルトは”ファシストのパトロン”(事実そのとおりだったが)のレッテルを貼られた。

 ルーズベルトはもみ消しを図ったが、スキャンダルのネタは次から次へと湧いて出てきた。

 もちろん、情報の出どころはソ連のNKVDだった。

 トロツキーはかねてから中ソ事変で日独に肩入れするルーズベルトを政治的に排除する機会を窺っており、最高のタイミングでカードを切ってきたのである。

 結果。1940年のアメリカ大統領選挙は、共和党のウィルキーが勝利して終わった。

 8月に独ソ戦が始まりイギリスの危機が遠のいたこともウィルキーに有利に働いた。

 アメリカ世論は父祖の国であるイギリスには同情的だったが、侵略者のドイツとソ連がつぶしあいを始めたのなら、それに巻き込まれることはないと考える者が多かった。

 ウィルキーはアメリカの平和を守るためだけに軍事力を行使するとして、武装中立政策を掲げて戦争から距離をとる姿勢を鮮明した。

 ルーズベルトは選挙に敗北するとショックで寝たきり状態になり、妻エレノアの介護も虚しく1942年に失意のままにこの世を去った。

 先行きに絶望した近衛は政権を放り出した。

 後任には陸軍大臣の永田鉄山が指名され、挙国一致内閣が成立した。

 もはや日本にはヒトラー・ドイツと心中するしか道は残されていなかった。





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― 新着の感想 ―
ホンダばどこいった? 中島の設備はスバルになるとして、ホンダにも生産してもらえばええのに まだ、本田宗一郎が独立したばっかでそこまで量産技術は獲得出来てないのかな?
[良い点] 海軍というよりは空軍(海洋部門)みたいなことになってるのワロタ。 [一言] 史実では似た状況で更に国力にデバフかかった上で、アメリカが敵として参戦してきてたんだからそれに比べればマシじゃな…
[気になる点] アメリカ政府と資本家の連中の今後に期待ですね。 中立でも投資をソ連に拐われるのを座して待つのか 祥雲の黙示録が発動するのか期待(*´・ω・`)bね。
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