恐怖、鷹の爪軍団
恐怖、鷹の爪軍団
13世紀に書かれたマルコポーロの東方見聞録(マルコポーロ旅行記ともいう。実際にはアジア以外の記述が多く東方見聞録というタイトルは後世の創作である)において、「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と記録が残る盧溝橋は北京郊外にあった。
その盧溝橋において、1937年7月、駐留ソビエト軍が銃撃を受けた。
ただちにソ連軍は銃撃犯と目される中華民国軍を攻撃したため戦闘は拡大し、中ソの武力衝突事件となった。
所謂、盧溝橋事件である。
数日後に停戦協定が結ばれたが、再びソビエト軍が銃撃を受けたため、なし崩し的に戦闘は拡大していった。
全面戦争でありながら、両国共に宣戦布告を行っていないことから、日本ではこれを中ソ事変と呼称した。
第一次世界大戦以来の大規模戦争に至る過程は、以下のとおりである。
まずそもそも北京郊外の盧溝橋にソビエト軍がいたのは1901年に結ばれた北京議定書によるものだった。
義和団事件の後始末に清朝が列強各国と交わした北京議定書は、締結国に居留民保護のために北京周辺に駐兵する権利を認めていた。
首都近辺に非友好的な外国軍の駐留を認めるなど尋常ではないのだが、それを飲まざるえなかったのが体制末期の清朝であった。
ちなみに日本も北京議定書に参加しており、駐兵権と賠償金を得ている。
1938年まで賠償金の支払いは続けられた。
日本は1920年代に入ると経済的に余裕が出てきたので、支払われた賠償金を中国人留学生への援助金や中国の教育振興に充てている。
これは余談だが、日本陸軍は約1個大隊を天津に駐兵させており、ソ連軍を銃撃したのは日本軍であるという陰謀論のネタになった。
1977年に事件が再検証され、日本兵数人が事件のあった日に行方不明になっていたことが判明している。
しかし、その後の詳しい追跡調査により、行方不明になっていた3名は事件発生後に原隊復帰しており、事件とは無関係だったことが立証されている。
なお、一時的に彼らが原隊を離れていた理由は、岐阜県の山奥から徴兵されたとある兵士が精神錯乱状態で兵営から脱走したので連れ戻すためであった。
話を大陸情勢に戻すと清朝は辛亥革命(1912年)により崩壊したが、北京議定書は後継国家の中華民国に引き継がれた。
その中華民国は袁世凱と孫文の対立により空中分解し、国内は群雄割拠状態となった。
列強各国は各地の軍閥と手を結び、中国は半植民地状態に貶された。
近代中国史で最も暗いと呼ばれる時代がこの頃である。
孫文はこうした状況を憂い、列強の植民地支配脱却を目指した。
それに手を貸したのがソビエト連邦だった。
親日派の孫文が日本ではなくソ連に支援を求めたのは、第一次世界大戦の結果、日本がドイツから山東利権を継承して植民地支配を継続したことに失望したからと言われている。
ソ連は混乱状態にある中国を赤化するため、孫文に多大な支援を行った。
孫文は共産主義者ではなかったが、外国勢力を排除するためなら中国が赤化することも止む得ないと考えていた。
幸いなことに、そうなる前に孫文は死去した。
その後継者となった蒋介石は反共を掲げて日米の支持を集めて上海クーデタ(1927年)で国民党内の左派を排除し、中国共産党を徹底的に弾圧した。
蒋介石が反共を掲げて支持者を集めたのは、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニに通じるものがある。
実際のところ、蒋介石は独裁権力を追求するファシストであり、ヒトラーやムッソリーニと同じ穴の狢といえた。
彼らは反共を掲げることで、革命を恐れる保守派や富裕層から支持を集めて権力を掌握した。
資本主義大国である日米から支持を集めたやり方もそれと同じである。
蒋介石は満州革命/事変(1931年)については、国内の統一戦争を優先するために黙認する態度をとったが、中国共産党は徹底的に弾圧した。
ソ連の支援を受けた中国共産党との戦いは熾烈を極めたが、1936年までに共産党最後の拠点である延安が陥落し、国民党政府による統一中国が完成した。
蒋介石の勝因は日米からの膨大な支援だった。
日本は軍事顧問団を中国に派遣し、アメリカは戦費支援を行った。
中国で行われた日米協商による秘密戦争に接近したのが、再軍備後のナチス・ドイツだった。
中国はもともと親ドイツ国だったから、中国での日米独の接近は必然といえた。
古くは清朝時代から中国はドイツとの関係が深く、日清戦争において日本海軍と互角に戦った装甲艦「定遠」・「鎮遠」もドイツ製であった。
これは余談だが、日清戦争を生き延びた定遠と鎮遠は後継艦に恵まれず、1937年時点でも現役だった。中ソ事変にも参戦して、上海攻防戦で陸上砲撃に使用されている。
最終的に定遠と鎮遠は空爆などで損傷したものの戦争を生き延びて、天津で記念艦として保管されており21世紀現在も健在である。
蒋介石の軍事アドバイザーとしてドイツ陸軍のファルケンハウゼン大佐が重用された。
ただし、前述の延安陥落については、日本から派遣された軍事顧問団の石原莞爾大佐の献策によるところが大きい。
石原が採った戦略は徹底的な封鎖による飢餓作戦で、延安に多数の共産軍が逃亡するように仕向けて食料供給を逼迫させた上で、交通網を封鎖して食料供給を断った。
共産軍は包囲網突破を試みて大部分が死亡し、共産軍の首魁である毛沢東も戦死した。
僅かな生き残りはソ連に逃亡し、中ソ事変と共に北京へ帰還することになる。
中国での日独軍事顧問団の交流は中ソ事変が始まると日独中防共協定締結(1937年)の下敷きとなった。
防共協定は西欧諸国の急速な赤化と中国を侵略するソビエトに対抗するために対ソ包囲網を形成する試みだった。
ただし、軍部(特に日独海軍)から反対意見が噴出したため、純粋な軍事同盟ではなく政治的な連帯にとどまっている。
日本海軍の感情的な反ドイツ集団(ドイツ死ね死ね団)は、最後まで防共協定に反対した。
反対理由の半分は感情論だったが、ナチス・ドイツの危険性を早くから指摘していた人々も多かった。
日本海軍の左派グループの山本五十六(ドイツ死ね死ね団団長)や米内光政(ドイツ死ね死ね団名誉会長)、井上成美(ドイツ死ね死ね団副団長)は、ヒトラーの無謀な戦争に巻き込まれる恐れを早くから認識していた。
また、ユダヤ人迫害といったドイツの人種政策に対する公然たる批判が日本政府内部(中島知久平など)にもあった。
ドイツ軍内部(特に海軍内部の日本死ね死ね団)の反対意見もあった。
エーリヒ・レーダー(日本死ね死ね団団長)やカール・デーニッツ(日本死ね死ね団副団長)は、極東アジアの日本との連携は困難であると主張していた。
そのため、日独が直線的に連帯へと進んだわけではなかった。
しかしながら、英仏西が相次いで社会主義化すると独伊枢軸は欧州における反共産主義勢力の最後の砦と見なされるようになる。
北欧や東欧諸国も再軍備後のドイツへ接近した。
アメリカも例外ではなかった。
1935年には米独海軍協定が結ばれ、アメリカは社会主義化したイギリスを牽制するためにドイツ海軍の再建に公然と協力することになる。
対抗してイギリスはソ連と英ソ海軍支援協定を結び、革命と内戦で荒廃したソ連海軍の再建に手を貸すことになった。
こうした動きの中で、フランスはドイツへの対抗心から人民戦線内閣を成立させ、ソ連側に立つことを選んだ。
アメリカはヒトラー政権獲得以前からドイツに多額の投資を行っており、英仏西が社会主義化するならドイツとの連携を強化に向かうのは必然的であった。
ナチス・ドイツがオーストリア併合やズデーテン危機を起こしてもアメリカは不感症的な反応を示した。
そうした動きの中で日本の反ドイツ勢力は力を失っていた。
政府方針に最後まで逆らった山本五十六少将は予備役編入されて軍務を終えた。
しかし、
「ヒトラーはならず者だ。彼はかならず戦争を起こす。日本はそれに巻き込まれるだろう」
という彼の予言は後に現実のものとなった。
話を1937年に戻すと日独中防共協定は秘密軍事協定があり、日独の軍事顧問団を義勇軍に格上げして軍事作戦に投入することになっていた。
以前からドイツは新兵器テストのため遠征軍派遣の機会を窺っていた。
ドイツは急速に再軍備を進めていたが、20年近い空白期間により新軍備が果たして実戦で役に立つものか不安があった。
当初の派遣先は人民戦線内閣に軍部が反旗を翻したスペインの予定だった。
遠征軍として選りすぐりの人材を集めた「コンドル軍団」が編成された。
しかしスペインの軍部反乱は英ソの介入で早期に鎮圧されため計画は宙に浮いた。
そこで新兵器のテストは中国で行うことになった。
そのため、新たに「ファルコン軍団」が編成された。
遠い中国に義勇軍を送るのは多額の経費がかかるため、ヒトラーは難色を示したが中国が補填(その資金の出どころはアメリカだが)することで実現にこぎつけた。
日本の新兵器も交えて中国で技術交流が行うことになったのである。
中ソ事変はソビエト軍の圧倒的な優勢で、開戦から2週間で首都北京は呆気なく陥落。蒋介石は南京に逃亡し、黄河の堤防を爆破して辛うじて足止めするという状態だった。
中国にとっては日独の義勇軍派遣は国家の存亡がかかっていたので、金(アメリカの)に糸目はつけなかった。
日独共同派遣となったことから、新たな要素を追加するためドイツの(主にヒトラー)発案により派遣軍の名称が変更された。
ちなみにドイツ語は新語を作る際に単語を単純に接合する形で行う。
この時も同じ方法で処理が行われた結果、中国派遣日独合同義勇軍「ファルコン・クロー軍団」が誕生した。
ドイツ外務省から日本には「鷹の爪軍団」と通知された。
それでは唐辛子である。
しかし、報道発表した後だったことから、今更変更するわけにもいかなかった。
これは余談だが、義勇軍司令官に就任した石原莞爾少将には大受けした。
石原はマスコミの取材に応じて鷹の爪のポーズ(悪ふざけ)をとった写真を残している。
それはともかくとして、ドイツ軍が派遣したのは主に航空部隊で、最新型のBf109戦闘機、He111爆撃機、Ju87急降下爆撃機が投入された。地上部隊もⅠ号戦車、Ⅱ号戦車や88mm高射砲(Flak18)を持ち込んでいた。
日本からは九六式艦上戦闘機、九七式戦闘機、九六式陸上攻撃機、九七式重爆撃機などが派遣されてテストされた。
陸戦兵器としては、九七式中戦車がお披露目されて、ドイツ軍とソビエト軍に衝撃を与えた。
九七式中戦車は日本陸軍が開発した歩兵支援用戦車である。
最前線で歩兵支援を行うため榴弾威力の高い75mm野砲を車体にマウントし、被弾に耐えるために全周を60mmの装甲で覆うことになった。
回転砲塔には対戦車戦闘に使用する37mm砲を装備した。
車体各所から短機関銃で射撃ができるようにピストルポートを設置するなど、九七式中戦車は陸上戦艦のような戦車だった。
重量は32tで、1930年代の戦車としては最大級である。
これのどこが中戦車なのかとドイツ軍からツッコミが入ったが、日本陸軍が本気の本気で開発を進めていた重戦車は150tもあったので、九七式中戦車は十分に中戦車といえた。
ちなみに日本陸軍における戦車のイメージを決定したのは、児玉軍のシベリア大返しである。
撤退する児玉軍においてルノーFT-17は背後から迫るボルシェビキ軍の追撃を頑然として受け止めるダムのような存在であった。
九七式中戦車はそのイメージを1930年代の技術で再現したものである。
実際に九七式中戦車は奔流のようなソビエト軍機械化部隊の攻撃を頑然と受け止めるダムの役割を果たした。
100発近くソ連製の45mm対戦車砲を被弾しても九七式中戦車は戦闘不能にはならず、そのままソビエト軍の対戦車砲陣地を轢き潰して壊滅させた。
奇襲という状況ではあったが、たった一台の九七式中戦車がBT5快速戦車12台を一方的に撃滅した事例もある。
このような報告に接した”赤いナポレオン”ことミハイル・トゥハチェフスキーは
「ええい、日本の戦車の性能は化け物か!」
と発言したのかは定かではないが、新型戦車(後のT-34やKV2など)の開発促進させたのは有名な話である。
ドイツ軍もⅠ号戦車やⅡ号戦車どころか、開発中のⅢ号戦車やⅣ号戦車の設計も見当外れであったことに衝撃を受けて、戦車開発を抜本的に見直すことになった。
ヒトラーは、日本から贈られた九七式中戦車を見て、なぜ自国がこのような立派な戦車を作れないのかと嘆き、怒り狂ったという。
日本陸軍はお返しにもらったⅣ号戦車(試作品)についてドイツ製らしい高精度の工作や人間工学的に優れた車内レイアウトには感銘を受けたものの、装甲が不足しており戦場での使用に耐えないと評価した。
ドイツ軍はその後、急場を凌ぐために開発がほぼ終わっていたⅣ号戦車の装甲を可能な限り強化し、Ⅲ号戦車用に開発していた長砲身50mm戦車砲を搭載したⅢ/Ⅳ号戦車を制式化している。
その上で、抜本的に設計を改めた新式戦車としてⅤ号戦車の開発を急いだ。
1941年に戦線投入されドイツ軍装甲師団の面目を新たにしたⅤ号戦車の生みの親は日本の九七式中戦車であったと言えるだろう。
独ソの戦車開発に多大な影響を与えた日本陸軍であったが、逆に影響を受けたことも多い。
日本軍が注目したのはドイツの88mm高射砲やMG34汎用機関銃だった。さらに中国軍がスウェーデンから買ったボフォース40mm高射機関砲はその性能を絶賛された。
いずれも日本陸軍に採用されて、九八式八糎高射砲と九八式重機関銃/車載機関銃(日本陸軍においてMG34は三脚運用が基本だった)として使用された。
九八式重機関銃は削り出し加工を多用する関係で生産コストが高く、省コスト化のために設計はそのままでパーツをプレス加工品に置き換えた三式中機関銃(軽機関銃と重機関銃を統合して置き換える)に発展し、21世紀現在も日本陸軍で使用が続く息の長い兵器である。
ボフォース40mm機関砲は日本陸海軍に九九式四十粍高射機関砲/高角機銃として制式化され第二次世界大戦における最も効果的な対空兵器となった。
日独の技術交流はドイツ空軍にも多くの影響を与えた。
特に九六式艦上戦闘機はドイツ軍の注目の的だった。
九六式艦戦は三菱航空機が送り出したばかりの新鋭機で、非常に優美な印象を与える逆ガル式楕円翼を備え、密閉式のコクピットや引込脚といった新世代機の諸条件を満たしていた。
逆ガル式楕円翼は機首の長い液冷エンジン機を空母に着艦させるためのもので、前下方視界を確保しながら、主脚を短く頑丈にできることから1945年に制式化される烈風まで踏襲された優れた設計と言える。
エンジンに三菱が得意としたイスパノ系V型液冷エンジン(950馬力)を搭載したことにより、モーターカノンを装備できた。
モーターカノンはドイツ空軍のメッサーシュミットにも装備が予定されており、その先行事例として、九六式艦戦は詳しく調査された。
その結果はドイツ空軍にとってショッキングなものだった。
フランスのイスパノエンジンから発展した三菱の金星エンジンは、エンジンの振動問題からAPIブローバックシステムを採用するエリコン20mm機関砲をモーターカノン装備にできなかったのである。
サンプルをドイツ国内で追試を行っても結果は同じだった。
ダイムラー・ベンツのDB601で試しても同じで、エリコン系機関砲共通の持病であった。
そのため九六式艦戦(初期生産型)はモーターカノンを装備しておらず、エリコン20mm機関砲を翼内武装として使用していた。
ただし、日本海軍はモーターカノンを完全に諦めたわけではなかった。
エリコン20mm機関砲の欠陥が判明すると陸海軍共同でブローニング式機関銃(AN/M2航空機関銃)をベースに20mm機関砲を新規開発して、九九式二〇ミリ機銃/九九式二十粍固定機関砲(ホ5)として完成させた。
ホ5は軽量弾を使用することで機関銃本体の小型軽量化に成功し、機首武装としても使用可能であった。発射速度も早く、初速も優秀であった。しかもエリコン系では不可能とされたベルト給弾が可能であった。
ドイツ空軍がBf109E用のモーターカノン用として、ホ5のライセンス生産を申し込んだのは当然といえた。
後にドイツ空軍は国産のMG151を実用化してモーターカノン用として装備しなおしたが、ホ5を機首機銃や翼内武装として並行使用した。
並行開発された九八式十三粍固定機関砲(ホ103)も小型軽量な設計からドイツ空軍に採用され、日独両国で広く使用された。
ちなみにホ5は最終的にアメリカにも輸出され、AN/M3として制式化され世界で最も普及した航空機用20mm機関砲となった。
その他に日本にあってドイツにない航空装備としては燃料落下タンクがあり、こちらもBf109E型から装備できるように改良が施された。
陸軍航空隊が持ち込んだ九七式戦闘機(中島飛行機製)は格闘戦能力が高く評価されたが、固定脚という設計は保守的すぎてドイツからさほど評価されていない。
ただし、ソ連軍機(I-15やI-16)の相手なら十分だった。
海軍に遅れをとったと考えた陸軍が急ぎ戦線投入したのが九九式戦闘機(川崎航空機製)となる。
ちなみに当時の日本でエンジンと機体を開発できるメーカーは3社あり、三菱航空機、中島飛行機、川崎航空機がしのぎを削っていた。
三菱は前述のとおり液冷のイスパノ系を得意とし、中島は空冷エンジン(ライト系)、川崎は液冷のBMW系を発展させた。
三社のうちで最大手は中島飛行機だった。
中島飛行機は会社設立当初から坂本財閥より多額の出資を受けており、坂本財閥の傘下と見なされる。
社長の中島知久平自身も坂本財閥の幹部として執行委員の名簿にその名を連ねた。
中島は坂本龍馬の晩年のお気に入りだった。
「いつか、アメリカまで飛べる飛行機を造ってくれ」
と病床の坂本が中島に言い残し、それを実現したのがZ飛行機(富嶽)である。
言い残されたのはそれだけはないという人もいる。
というのも、坂本の残した膨大な額の遺産が遺族だけではなく中島の手に渡っており、その中には1915年に死去した保科祥雲の遺産も含まれていた。
保科祥雲は遺産の管理を坂本に委ねていたので、保科の遺産を中島が引き継ぐことは不思議なことではなかった。
その遺産には決して表には出せないものも含まれていて、保科が残した膨大な個人情報のファイルやこれから100年以内におきる世界の森羅万象全てを記した祥雲の黙示録が存在するという噂があった。
もちろん、そのようなものが存在するはずもなく、中島飛行機の急成長を誹謗する無責任な讒言に過ぎない。
1938年にはドイツ航空省のエアハルト・ミルヒと技術視察団が来日して、中島飛行機の太田工場などを見学している。
ミルヒが視察するところによれば、中島飛行機の生産設備はドイツのハインケル社やメッサーシュミット社よりも優れており、年産6千機も可能と見積もられている。
実際には6千機ではなく、年産1万機であった。
ミルヒは日本各地の航空機工場を見て回り日本の航空機産業がドイツと遜色ないか、それ以上であるとレポートにまとめた。
ヒトラーは人種的偏見からレポートを無視したが、ナチス党内の共産主義者の手によってソ連に渡り、トロツキーの意思決定に大きな影響を与えたことが分かっている。
技術視察団は航空機工場のみならず海軍工廠の視察も申し込んでいた。
しかし、日本海軍は機密保持を理由に断った。
決して憎いドイツ野郎に船を見せたくなかったとか、ハンブルグで略奪したものがそこら辺にごろごろ転がっていたりしたとか、そういうわけではない。
日本海軍が建設した海軍工廠は4つ(呉、横須賀、佐世保、舞鶴)あり、その全てで1937年1月1日からロンドン海軍軍縮条約の失効に伴い新型戦艦を造っていた。
第二次ロンドン海軍軍縮会議は国際関係の緊張から失敗に終わった。
ロンドン海軍軍縮条約は1935年1月1日に満了日を迎え失効した。ただし、失効から2年間有効のため、海軍休日は1937年1月1日まで続いた。
軍縮条約失効により、各国は一斉に海軍拡張に転じる。
日本海軍はその中で対英ソ海軍に備えた大艦隊建造計画を進めていた。
前述のとおりソ連は英ソ海軍支援協定を結びイギリスをパートナーにして海軍の復興を進めていた。
その成果は著しく、日本はソ連の新型戦艦の動向に神経を尖らせていた。
諜報活動により、ウラジオストクにはアメリカから商船用に購入した浮きドック(30,000tまで可)が搬入され、ソ連の飛び地になっていた遼東半島の大連では大量の労働者が動員されて造船ドックを造っていることが分かっていた。
その能力から逆算して、日本海軍はソ連海軍の新型戦艦は40,000tクラスが4~5隻、20,000tクラスが7~8隻と予想していた。
戦艦の存在意義である主砲火力は大型が16インチ砲搭載と見込まれた。小型は10~12インチになるはずだった。
ソ連旅順艦隊には大型戦艦が2隻ないし3隻、ウラジオストクには小型戦艦が4隻配備されると予測しており、最終的なソ連海軍の配備計画とほぼ一致を見ている。
さらにイギリス海軍はシンガポール要塞(セレター軍港)と東洋艦隊の増強に動いていた。
日本海軍はイギリス東洋艦隊(戦艦4~5隻)と近い内に復活するだろうソ連旅順艦隊を見て、これを抑止できるだけの艦隊を整備しようとしていた。
これまで軍拡に反対してきた議会も反共反露のためなら海軍拡張にも肯定的だった。
殆どの日本人にとってロシアの南下ほど恐ろしいものはなく、1904年の日露交渉で旅順艦隊に震えあがったことがトラウマになっていた。
また、20世紀の30年間で日本経済は大きく発展しており、軍備拡張に必要な経済的な裏付けが確立していたのも大きかった。
1937年時点の国内総生産(GDP)は約2,700億ドルであった。これは同時期にナチス・ドイツ(約2,000億ドル)を上回る数値であった。
同時期のイギリスの国民総生産が約2,800億ドルだったから、日本経済はイギリスに匹敵する規模に達していたことが分かる。
もちろん、一人あたりのGDPはまだ低く東欧諸国並であった。
しかし、それは逆にいえばまだまだ発展余裕を残しているということだった。
ちなみに同時期のアメリカ合衆国は約1兆ドルで、2位のソ連が約4,000億ドルであり、英ソを合算すると日独を大きく上回ることが分かる。
日本の政治家達は大きな危機感を以て軍拡に賛成票を投じたのである。
1935年時点で日本が持っている戦艦は6隻で、うち4隻は12インチ砲搭載の失敗作、15インチ砲を積んだ超弩級戦艦は2隻しかなく、しかも全てが20年前のドイツ帝国海軍の設計という古臭いものだった。
旧式戦艦は徹底的な近代化改装を施して延命することになったが、それだけでは不足するのは明らかだった。
そこで条約明けと同時に建造開始したのが金剛型巡洋戦艦だった。
どれだけ昔の女に固執しているのか分からないが、日本海軍には日本海軍なりの理屈と事情があった。
日本海軍が恐れていたのは英ソの通商破壊戦だった。
ソ連海軍が作る小型戦艦は通商破壊戦に適した巡洋艦設計で、20,000tクラスで10~12インチ砲を搭載して36ktで走るという情報があった。
イギリス海軍も条約型巡洋艦と快速の巡洋戦艦を多数保有していた。
これらが戦時において日本の海上交通網破壊に出動することは目に見えており、それらを捕捉して確実に殲滅できるハンターキラーが必要だった。
条約型巡洋艦(甲巡)を主敵とする発想から、超巡洋艦や超甲巡ともいえる。
新しい金剛は新開発の16インチ砲(45口径)を連装3基6門とし、防御を妥協する代わりに、速力を高めていた。
そのため金剛は条約明けの戦艦としては最速の33kt、公試では36ktを発揮するという駆逐艦並の高速性能を誇った。
さらに金剛に随伴する補助艦艇として、最上型(12,000t級航空巡洋艦)及び朝潮型(2,700t級改特型巡洋艦)も整備された。
1937年ごろの想定としては、金剛1隻と最上型1隻と朝潮型6隻で編成する遊撃部隊こそ、もっとも理想的なハンターキラーだと考えられていた。
全ての船が”巡洋”とつくことから、”オールクルーザーフリート”とも呼ばれる。
これだけの艦隊を余裕で設計、製造できることは日本の艦船設計能力が世界水準に並んだことを示していた。
実際には幾つかのパーツ(特に高温高圧缶などの機関関係)が作れないためアメリカに外注していたりしたが、それは考えないものとする。
アメリカからの協力が得られるなら、もっと強力な戦艦をつくれば良さそうなものだったが、それに必要な軍事的なインフラが足りなかった。
日本海軍の軍事的なインフラは条約型戦艦である長門・陸奥の35,000tを基準に設計されており、それ以上の船を受け入れる港は限られた。
もしも日本海軍が1910年代に40,000tオーバーの巨大戦艦を16隻建造するような無謀な海軍拡張に挑戦してインフラ整備に多大な投資をしていたら話は変わっていただろうが、そんな計画はなかった。
35,000tの戦艦を作れる造船ドック・船台なら日本全国に6箇所もあるが、45,000tの戦艦となると半分になり、60,000tクラスになると2箇所しかない。
その2箇所は民間の造船所(三菱造船と坂本造船)であって、海軍が自由に使えるわけではなかった。
もちろんインフラが足りなければ整備すればいいだけの話である。
しかし、日本には時間がなかった。
日本海軍が持っている戦艦は6隻で、そのうち4隻は失敗作の弩級戦艦でしかなかった。
インフラ整備を待っていたら、建艦競争に間に合わず致命的な数的劣勢を強いられることになりかねない。数の劣勢を急いで補う必要があった。
今ある長門型戦艦用のインフラの範囲内で、量産可能な戦艦を作ると新しい金剛型巡洋戦艦が限界だった。
ただし、日本海軍も新金剛が補助戦力でしかないことは認識しており、インフラ整備を行った上で理想的な戦艦を作る計画はあった。
1939年に1番艦が起工することになる45,000t級の理想的な16インチ砲搭載戦艦「加賀」型がそれにあたる。
加賀は16インチ砲連装5基10門と対16インチ砲防御と30ktの速力を兼備し、ソビエト海軍の大型戦艦やイギリス海軍の新型戦艦とも互角以上に戦える戦艦になる予定だった。
加賀の次には18インチ砲を搭載する60,000t級の「大和」が控えていた。
日本海軍は金剛型8隻と加賀型4隻と大和型4隻の合計16隻を1937年から10年間で整備する計画を立てていた。
所謂、八八艦隊計画である。
よって多数の新型艦を建造する海軍工廠を見学させるわけにはいかなかった。
しかし、それでは日独の連携も何もあったものではないので、日本政府からの指導により日本海軍はしぶしぶ現役艦艇の見学を許可している。
ドイツ軍が特に見学を希望したのは航空母艦で、新型空母の蒼龍・飛龍の見学を要求した。
蒼龍と飛龍は1937年に就役したばかりの最新鋭空母であった。
日本海軍の海上航空技術の発展は1922年に就役した「鳳翔」から始まる。
鳳翔の建造にはフランス海軍からの技術支援があり、鳳翔に最初に着艦したパイロットもフランス人であった。
鳳翔で蓄積したデータに基づき建造されたのが1933年就役した龍驤と龍翔となる。
龍驤と龍翔は10,000t級の軽空母で、この2隻は様々な意味で実験的な設計が試みられた。
龍驤では違法建築じみた二層式格納庫が試された。
龍翔は一層式の格納庫と仏海軍の空母ベアルンを真似た煙突一体型のアイランドが採用された。
格納庫もそれぞれ密閉式と開放式が採用され比較試験が行われた。
結果としては龍翔(一層式開放型格納庫と島型艦橋)が優秀と判明した。
軍縮条約で日本の空母保有量は60,000tに制限されており、鳳翔、龍驤、龍翔の3隻で保有枠の半分を使用していた。
残りの30,000tで2隻の空母を作ることが決まり、それが蒼龍と飛龍になった。
蒼龍と飛龍は15,000tの枠内で建造するためにアメリカ海軍の空母レンジャーを参考に、装甲防御を極限して重量軽減に努めて、一層式の天井が高い側面が開放された格納庫と飛行甲板にフランス海軍のベアルンによく似た煙突と一体型になった大きなアイランドに持つ空母となる予定だった。
しかし、建造途中に軍縮条約の失効する見込みとなり、装甲防御を追加したことから基準排水量は18,000tまで増えた。
蒼龍と飛龍の性能はアメリカ海軍の空母ヨークタウンに近いものがあった。
両者は日米海軍の友好関係に基づく図面の交換や建造作業の見学が行われており、技術的に相互の影響があった。
日米海軍の蜜月は多岐に渡っており、金剛型以後の日本戦艦に搭載された交流式発電機は全てアメリカのGE社に発注されたものである。ロ号潜水艦の艦内インターコムはITTが納入していた。蒼龍と飛龍の油圧カタパルトもアメリカの技術支援があればこそであった。
結局、ドイツの視察団が見ることができたのは一世代前の龍驤と龍翔だけで、飛龍と蒼龍の見学は叶わなかった。
その代わりに長門と陸奥の見学や図面の公開は許可された。
日本海軍としては旧式艦を見せてお茶を濁した格好だった。
しかし、ドイツ海軍関係者はそうは考えなかった。
なにしろ20年の歳月をかけて改造に改造を繰り返した長門型は原設計となったマッケンゼン級から大幅に進化した装甲防御を備えており、今まさにドイツ海軍が建造中の大型戦艦(20年前のマッケンゼンをベースにしていた)にとって最高のサンプルと言えたからだ。
長門型は初期設計から水平装甲と砲塔装甲の増厚が著しく、大型のバルジを設置して水中防御も充実したものとなっていた。
見学の結果はドイツ海軍を愕然とさせるものだった。
ドイツ海軍は建造中の戦艦(後のビスマルク)が全くひ弱で時代遅れの装甲配置であることに驚いて建造途中でビスマルクの設計を大幅に修正する羽目になった。
その結果、ビスマルクの就役は2番艦のティルピッツよりも後になるほど遅れることになるのだが、それはまた別の話である。
返礼にドイツ海軍はUボートの艦内見学を許可し、魚雷のサンプルを提供している。
最高機密であった磁気信管付きの電池推進魚雷はドイツ海軍の技術の粋を凝らしたもので、サンプルを持ってきたドイツ海軍担当者は鼻高々だったという。
しかし、信管が日本海軍の検査で欠陥品(磁気信管がまともに作動しない)であることが確認され、ドイツ海軍の面目は丸つぶれとなった。
ドイツ海軍の魚雷試験局(TVA)の職員がUボートの魚雷発射管に押し込まれた変死体として発見されたが上述の事件との関係は不明である。
ドイツ海軍は意趣返しにサンプル交換で受け取った酸素魚雷について、莫大な予算を投じてわざわざ欠陥を探し、魚雷の信管が敏感すぎて過早爆発を起こすことを突き止め、日本の魚雷には欠陥があると評って日本海軍の神経を逆撫でした。
日本海軍の艦政本部第2部(水雷部)の職員が駆逐艦の魚雷発射管の中から変死体で発見されたが上述の事件との因果関係は不明である。
日独海軍の感情的な対立は少々の軍事交流程度では解消されないほど根深いものであった。
ちなみに日独両海軍はそそくさと(お互いの指摘を見なかったことにして)魚雷の欠陥を解消したことは言うまでもないことであろう。
日独海軍は砲火力に劣るところを水雷兵器にて補っていたことから、早期に魚雷の欠陥が把握できたことは結果論だが大きな収穫だったと言えるだろう。
そして、中国派遣日独合同義勇軍(鷹の爪軍団)はさらに大きな収穫を中国大陸で得た。
日独の航空部隊はソビエト空軍の猛攻を凌いで揚子江上空の制空権を確保した。
中国軍も日独からの機材供給をうけて体制を立て直し、南京上空の防空戦闘に参加している。
中国空軍はもっぱら堅牢で扱いやすかった九七式戦闘機を使用したが、アメリカからも機材を調達しており、P-36や後にP-40も使用した。
さらにどこからともなく調達した試作機のXP-38を持っていた。
XP-38に関しては中国空軍の整備能力では完全に手に余るため、実際は鷹の爪軍団に対する親日家のFDR大統領からのプレゼントといえた。
日独はこの豪華なプレゼントを徹底的に調査して、自国の航空機開発に反映させた。
1941年以降、日独の航空機がターボ過給器を備えるのはこのためである。
日独はXP-38の高性能に驚き、次いでその豪華なつくりや装備を羨んだ後に、その燃費の悪さに呆れた。運用経費だけで鷹の爪軍団の予算を使い切ってしまいかねなかったことからXP-38はデラックスファイターと揶揄されている。
XP-38はドイツ空軍においてはMe210の基礎資料となった。日本陸軍が採用したキ45改の開発にもXP-38のデータが使用されている。
さらにどう考えても中国空軍には使い道がないはずのXB-17までFDR大統領は贈ってくれた。この貴重なサンプルは日独の研究機材として重宝された。
研究のために解体される前に一度だけXB-17は蒋介石にお披露目するために南京上空を飛行した。日本軍がXB-17に首都防衛移動要塞という秘匿名称を与えたのはこのためである。ちなみにドイツ軍はもっとシンプルにスーパーXというコードネームをつけた。
さらに余談だが、XB-17と共に鷹の爪軍団の戦闘機部隊が飛行している。その中にはイタリア軍機の姿もあった。
鷹の爪軍団には後からイタリア軍も参加しており、揚子江上空でMC.200やG.50がソ連軍機を相手に戦っていた。
しかし、派遣規模が小さいことから、イタリア軍が中国で戦っていたことを知っている人間は多くない。
派遣軍の規模が少なかったのは、中国政府の資金繰りが悪化しており、派遣費用の負担が困難だったためである。
派遣費用が払えないため蒋介石は中国産の冷凍豚肉や大豆などによる物納を提案した。
ムッソリーニがそれに対して、
「わたしは一向にかまわんッッ」
と応えたのかは定かではないが、イタリアに冷凍豚肉や大豆などの農産物が送られたことだけは確かである。
ちなみにイタリアの中国派遣軍の代表はイタロ・バルボである。
ドイツの代表はファルケンハウゼン大佐だったが、エアハルト・ミルヒやエルンスト・ウーデットも鷹の爪軍団を視察している。
日本からは東条英機や大西滝次郎といった日本陸海軍の航空派が関わっていた。
アメリカからは非公式にクレア・L・シェンノートが派遣され、アメリカの秘密戦争を取り仕切った。
シェンノートが編成したアメリカ人航空部隊は、日独軍と共に南京上空でソ連軍機と交戦していた。
上述のXP-38やXB-17を中国に運びこんだのはシェンノートで、中国での日米独の秘密戦争におけるアメリカ軍の代表者だった。
話を中ソ事変に戻すと1939年6月に、ソ連軍は中国軍の補給港となっている上海に猛攻を加えたが鷹の爪軍団が構築した要塞線を突破できず、攻勢は失敗に終わった。
ソビエト軍は占領地が広くなりすぎて、前線への補給が追いつかなくなっていた。
さらに占領地では民衆の抵抗運動が激化して、ソビエト軍を悩ませた。
国民党政府はこの戦争をロシアによる侵略であるとして、ナショナリズムを煽ることで民衆の支持を得ていた。
トロツキーはソビエト軍は解放軍として歓迎されると考えていたが、それは中国のナショナリズムを軽視した考えだった。
北京に樹立した中華人民共和国はソ連の傀儡政権と認識されており、政府代表の林彪は売国奴として民衆から総スカンを食らう有様だった。
ソ連は占領地の行政を傀儡政権に任せる方針をとっており、東トルキスタン社会主義共和国のようにウイグル人が漢人を追い出すためにソ連に積極的に協力した場合は上手くいった。
しかし、中原において大多数を占める漢人にとって、ソ連は解放者ではなく侵略者でしかなかった。
中華人民共和国政府は抵抗運動を鎮圧するために、抵抗運動の主体となった農民を一箇所に集めて集中管理する人民公社制度を占領地に敷いたが、これも抵抗運動を激化させる原因となった。
人民公社はソ連のソホーズ(国営農場)を模倣したもので、中華人民共和国は農村の社会主義化の一環として導入したのだが、その実態は抵抗者を強制労働させ生産物を徴発するという強制労働施設でしかなかった。
逃亡を試みるものは容赦なく射殺された。
農村の悲惨な惨状を目の当たりにした彭徳懐は激怒して林彪に詰め寄り、ただちに農民を解放するように迫ったが、反党行為という罪状で逮捕された。
彭徳懐と林彪は延安で中国共産党が壊滅した際に辛うじてソ連に脱出することができた中国共産党の幹部であった。
傀儡政権の飾りとしてトロツキーは二人に利用価値を見出し、ソ連に従順な林彪が中華人民共和国の代表となった。
林彪よりも彭徳懐の方が部下からも支持も厚く新国家の指導者としては理想的であったのだが、トロツキーよりも延安で死亡した毛沢東を尊敬していることを隠さなかったため、彭徳懐はトロツキーから疎まれていた。
部下の助けにより刑務所を脱出した彭徳懐は地下抵抗組織をつくり、ソ連軍占領下でゲリラ戦を展開してその補給路を攻撃した。
貧農出身の彭徳懐にとって、ソ連の圧政は資本家の搾取よりもなお悪しきものであった。
1939年9月時点で、アジア・中国に展開する赤軍は170万人に達した。
70万は満州で韓国・日本軍と向き合っており、100万人が中国大陸の奥地まで侵攻して、終わりの見えない泥沼の中であえいでいた。
その兵力は赤軍の全戦力の半数を上回り、ヨーロッパにおけるソビエト連邦の軍事プレゼンスを著しく低下させていた。
お互いを抑止しあっていたドイツとソ連のうち片方が機能不全を起こしたことは、ヨーロッパのパワーバランスを崩壊させることになった。
危険なドイツの独裁者がその隙を逃すはずがなかった。