トロツキーは世界革命の夢を見るか?
トロツキーは世界革命の夢を見るか?
レフ・トロツキーがレーニンの死後にその権力を承継し、ソビエト社会主義共和国連邦の最高権力者となったことは、ほとんどの共産党員にとって当然のことだと認識された。
トロツキーに対する偉大なる指導者レーニンの信頼は絶大なものがあった。
レーニンが脳梗塞の症状により職務の遂行が不可能になると、レーニンは口述筆記によりその大部分をトロツキーの手に委ねた。
レーニンの療養所は、ブルジョワジー暗殺者から彼を守るために厳重に警備されており、古参の党幹部でさえ近寄れなかったが、トロツキーだけは例外であった。
実際は、トロツキーがレーニンを政敵に利用させないために監禁していただけなのだが、真正の共産党員は、党の公式見解に疑問を持ったりはしないものである。
トロツキーがブハーリンや、ルイコフ、キーロフ等のような古参の共産党員に対して優位を確保できたのは、彼が建設した赤軍の力が大きかった。
帝政復活やブルジョワ政権復活を目論む白軍との戦いに勝利した赤軍の指導者として、トロツキーは軍部の絶対的な支持を集めていた。
対して他の共産党員は何ら有効な暴力装置を持ち合わせていなかったのである。
1927年に共産党右派がトロツキーを無実の罪で弾劾した際に赤軍は行動を起こした。
人民委員会議会に突入した赤軍は、ジノヴィエフ、カーメネフらの共産党右派を排除して共産主義のあるべき姿を守ったのである。
赤軍は党と人民と主義の守護者であることを示した。
トロツキーは議事堂を占拠した赤軍兵士にこう呼びかけた。
「卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。世界の殻を破壊せよ、世界を革命するために!」
赤軍兵士は演説に熱狂し、トロツキーの世界を革命する力として忠誠を尽くすことを誓った。
レーニンから世界永続革命の夢を託されたトロツキーにとって、世界(資本主義国)は卵の殻のように破壊されるべき存在であった。
そして、共産主義の成功を約束するかのように、資本主義は崩壊に向かっていた。
1929年10月アメリカの株式取引市場では大暴落が発生した。
影響はすぐさま多額の資金をアメリカから調達していた日本とドイツに伝播し、深刻な景気後退を齎した。
日独以外の欧州各国も日米独の景気後退に巻き込まれる形で大不況になった。
1929年の世界大恐慌は、その規模と影響範囲の広さにおいて前代未聞であり、古典的な経済政策は効果がなく、自律的な回復が不可能な状態となった。
ソビエトは左派経済政策(5カ年計画)により、不況とは無関係に経済発展を遂げ、資本主義の時代が終わりに向かっていることを行動で証明してみせた。
ソビエト連邦は人類が進むべき道を示したユートピアのウテナだったのである。
その発展を目の当たりにした資本主義国家にはソビエトの後に続こうという動きが現れた。
1931年9月に発生した満州革命はその具体例である。
長春における満州共産党の武装蜂起は、張学良のような軍閥からの解放を求める人民の声である。
ソビエトには満州の労農革命を助ける道義的な責任があった。
革命防衛のために出動した赤軍は僅かに3個師団でしかなかったが、理論的に劣っていることが証明されている資本主義の軍隊(中華民国軍及び軍閥の私兵)は、赤軍の10倍近い戦力を持ちながらも一方的に撃破された。
1932年3月1日にはハルビンで満州ソビエトが成立し、中国共産党駐コミンテルン代表の向忠発が満州人民委員会議長に就任した。
向忠発議長はソビエト連邦に加盟要請を申請し、即日受理された。
満州社会主義共和国はソビエト連邦の構成国となったのである。
ロシア帝国時代に造った東清鉄道の権利更新期限が迫り、利権還付を回避しようとして軍事力による分離独立を図ったわけではない。
そのような帝国主義的陰謀と労働者の楽園は無関係である。
国際連盟は中華民国の訴えにより調査団(幣原調査団)を派遣した。
調査団は詳細な報告書を作成し、満州ソビエト政府は実態が存在せず、満州は中華民国の主権領域であるとして、ソビエト軍の撤退を要求した。
これに対してソビエト連邦は何ら回答をしなかったため、国際連盟はソビエト連邦を除名処分とした。
ソ連は国際的に孤立した。
しかし、孤立とは無関係に五カ年計画で重工業化と経済発展を遂げたことで、却って除名した加盟国を動揺させることになった。
満州革命(日本では満州事変)以後、世界情勢は不透明さを増していくことになる。
理由は前述のとおり、1929年からの全世界的な景気後退の影響だった。
アメリカの株式市場の暴落により、投資家達は一斉に現金確保に走ったため、アメリカから投資を受けて経済を回していた国の経済は一挙に資金不足に陥った。
当時のアメリカは、第一次世界大戦の特需で集めた金を世界中に貸し付けていたから、ほとんど全世界が同時に資金不足に陥った。
資金繰りに行き詰まった企業は倒産し、そこに金を貸していた銀行も共倒れになり、街には失業者が溢れた。
特にアメリカの資金引き上げが経済を直撃したのは、ドイツと日本だった。
ドイツは先の大戦における賠償金支払いのために、輸出依存経済(外貨獲得のため)となっており、その運転資金をアメリカからの貸付に依存していた。
アメリカから借りた金でドイツは工業を動かし、輸出で外貨を稼ぐとイギリス・フランスに賠償金を支払い、イギリスとフランスはドイツから得た賠償金を元にアメリカに借りた戦時国債を返済するという金の流れが出てきた。
一番儲かるのが利子付きで金を貸すアメリカであることは言うまでもない。
どれだけ経済を拡大しても、ドイツの手元には1マルクも残らない仕組みであるため、アメリカ経済がパニックを起こして資金を引き上げると、ドイツにはもう破れかぶれで共産主義革命を起こして賠償金の支払いを無効にするか、極右の言うとおりにベルサイユ条約から脱退して賠償金の支払いを拒否するか、その二択しか残っていなかった。
どちらにせよ、賠償金を踏み倒すことには変わりはないので、後は趣味の問題だった。
趣味という言い方が不適当なら、その国家や民族の傾向や歴史連続性と言ってもいい。
結局は趣味なのだが。
日本もアメリカから金を借りて経済を回していたのはドイツと同じだった。
資金が引き上げられ、多く企業が資金繰りに行き詰まって倒産したのも同様である。
しかし、ドイツと日本の違う点はドイツには賠償金という足かせがあったが、日本にはなかったということである。
日本はアメリカに金を返してもなお手元に金が残った。
そのため、ドイツのような極端な選択肢をとらなくても済んだといえる。
その他にも日本はいくつかの幸運に恵まれていた。
一つは高橋是清のような経済に理解がある政治家に恵まれていたことである。
不況対策に失敗した若槻礼次郎内閣から政権を引き継いだ犬養毅内閣において、高橋は大蔵大臣に就任して日本経済の立て直しに着手した。
大量の赤字国債を発行して日銀から資金を調達すると高橋は公共事業と言う形で冷え切った経済へ資本を注入した。
やり方は1923年の関東大震災で既に実証されており、政策実行にあたって高橋には何の不安もなかった。また、彼には帝都復興計画で優れた手腕を発揮した実績があり、彼の経済政策に異論を挟む者はほとんどいなかった。
300億円の賭けと言われた巨額の経済投資が実現したのは震災復興の下敷きがあればこそであり、彼をその地位に引き上げた坂本竜馬の先見性には脱帽するしかない。
公共事業として行われたのは大規模な国土開発で、東京以外の大都市の再開発とそれを結ぶ弾丸鉄道・高速道路網の建設であった。
1920年代の通じて経済を拡大させてきた日本は、自動車社会の入り口に差し掛かっており、道路整備は喫緊の課題であったから、地方の道路整備は理にかなったものだった。
後にドイツで政権を獲得したアドルフ・ヒトラーも、アウトバーン建設の際に先行実施例として日本に視察団を送って、そのノウハウを取り入れている。
2つ目の幸運は前述の満州革命(事変)であった。
満州革命後、中国は国民党と共産党による内戦に突入していくことになる。
そのため戦争特需が発生した。
国民党を代表する蒋介石は日本で生活していた経験がある知日派であった。
日本政府が孫文の後継者として蒋介石と関係を深め、大量の兵器援助を行ったのは自然な流れだった。
対中兵器ビジネスの始まりはもっぱら旧式兵器の在庫処分であったが、内戦激化に伴って新式兵器も多数、中国へと輸出されることになった。
例えばチェコ機銃の名前で大量に国民党軍に納入されたZB26機関銃は、そのまま日本陸軍に制式採用されている。
併せて国民党軍から威力不足が指摘されていた38年式歩兵銃をZB26の使用弾薬である7.92モーゼル弾を使用する九七式小銃に置き換えた。
ZB26を最初に採用したのは国民党軍だったが、国内では生産が追いつかないので日本にライセンス生産を依頼し、次いで日本陸軍が採用した形である。
チェコスロバキア政府はライセンス生産にあたって、製造ノウハウ一式を提供したばかりか、ロイヤリティーも非常に低い金額を提示した。
「あの時の恩を返す」
というのがチェコスロバキア政府の考えであった。
日本政府が大量のチェコ人を亡命者として匿ったことを彼らは忘れてはいなかった。
これは余談だが、第一次世界大戦で日本へ亡命したチェコ人が日本に与えた影響は大きく、ベートーヴェンの交響曲第9番を日本で初めて全曲演奏したのは亡命チェコ人達である。
この逸話は2006年に映画化された。
話を日本経済に戻すと、満州革命後に日米は反共で一致して、反共闘争を進める蒋介石に肩入れした。
1933年に親日家のフランクリン・D・ルーズベルトがアメリカ大統領に就任するとアメリカ政府は中国に多額の財政支援を行った。
蒋介石はその金で日本から武器弾薬を購入した。
さらに日本は武器弾薬製造に必要な工業原料や工作機械をアメリカから購入した。
軍用トラックなども日本の経済特区に進出したフォードやGMが生産を受け持ち、最終的にアメリカの財政支援はアメリカ本国に回収される流れであった。
しかし、経済にとって重要なのは金が流れていることであって、金が在ることではない。
親日家のFDR大統領は日本との外交関係を重視し、1934年に日本をドル・ブロックに引き入れる環太平洋経済圏構想を発表した。
30年に渡って多額のドル資本を投下してきた日本は、アメリカ経済のアジア戦略にとって欠かすことのできない生産基地になっており、日本をドル・ブロックから排除するような選択肢など最初からなかったとも言える。
3つ目の幸運は、軍事費が安かったことが挙げられる。
1930年のロンドン海軍軍縮会議により海軍休日が続いたことは、経済対策に必要な予算確保に大いに役立った。
ワシントン海軍軍縮条約に引き続き、日本海軍の主力艦は対英1.75割(35%)が維持された。
さらに補助艦の制限も導入され日本の保有量は対英2割(40%)と決められた。
政府内部にはこれでも過大ではないかという意見もあったが、領海が広すぎて最低4割なければ平時の警備もままならないとして対英2割とされた。
第一次世界大戦後に広大な西太平洋の島嶼領土をドイツから引き継いだ日本海軍は、その警備と防衛に頭を抱えていた。
予算はそれほど増えないのに、守備範囲が広がったのだから、当然そうなる。
領土を引き継いだ直後から10年ほどは警備兵力の配置が追いつかず、日本の南太平洋領土は無法地帯となり国際海洋犯罪の舞台になった。
1920年代のパラオには海賊島が実在し、資金洗浄や盗品、人身売買や麻薬密輸、闇オークションを行う犯罪組織が軒を連ねていたのである。
そこに誘拐されてきた日本人ビジネスマンを主人公とした冒険小説「黒い環礁」が1950年代に出版され大好評となった。
黒い環礁はその過激な内容からフィクションだと思われていたが、ほとんどが実話を基にしていたことが後に判明し、読者をドン引きさせた。
これは余談だが、黒い環礁で最も人気があるエピソードとしてサイボーグ兵器のようなフレンチメイドが海賊島に攻めてきてイタリアのマフィア組織を壊滅させる話がある。
このエピソードは海賊島に上陸してきたフランスの外人部隊による秘密作戦がベースとなっている。
なぜ日本の南太平洋領土にフランス外人部隊が上陸してきたのかについては黒い環礁に詳しい説明があるので、そちらを参照されたい。
話を戻すと予算不足の日本海軍は、乏しい予算を以て広大な海洋を警備するために、超小型巡洋艦の建造に着手した。
所謂、特型巡洋艦である。
1920年半ばから建造開始した特型は2,600tの船体に14サンチ砲単装砲4門、61サンチ魚雷連装2基を備え、35ktの速力を発揮する最小の軽巡洋艦だった。
アメリカではウルトラ・ライト・クルーザーと呼ばれている。
日本国内では非公式に豆巡洋艦と呼ばれることもあった。
特型は民間の造船所でも建造可能な単純な設計でその性能を達成したことが大きかった。
そのために直線構造を多用したあまりエレガントではない、悪くいえば「芋臭い」垢抜けない印象の船に見えた。
しかし、金剛事件で艦政本部が一旦壊滅した日本において、あまり複雑な工作が必要な船は作れないのだった。
艦政本部は組織建てなおしのために商船学校の生徒や民間技師を大量に雇用していた。
扶桑型戦艦が、
「腐った戦艦」
と呼ばれるほど酷い有様になったのは経験不足故に止む得ないことであった。
しかし、民間からの人材補填は悪いことばかりではなく、価格低減のための工作単純化が日本海軍では進んでいた。
構造が単純であるということは、修理も容易であり、特型の稼働率は高かった。
特型の初期案では1,900tで上記の性能を達成し、大型駆逐艦扱いとする予定だったのだが、重量軽減のための複雑精緻な工作が実施できないため排水量の大幅な増加が不可避になったため巡洋艦扱いとなっている。
巡洋艦であるにも関わらず吹雪のような駆逐艦名が割り振られているのはこのためである。
ちなみにフランス海軍は2,200tあるシャカル級を駆逐艦扱いにしており、2,500tあるル・ファンタスク級も”大型駆逐艦”で押し通しているので、このあたりは政治的な解釈の問題と言えるだろう。
日本政府は軍縮を進めるために敢えて特型を巡洋艦扱いしていた。
ちなみに日本のカテゴリーB(軽巡洋艦)の保有枠が69,400tなのは特型巡洋艦24隻分と前級の天龍型2隻分を確保するためである。
カテゴリーA(重巡洋艦)の保有枠は、60,000tで10,000tクラスの古鷹型巡洋艦(8インチ砲連装4基8門)が6隻整備された。
ちなみに古鷹型は設計者が民間出身者であったことから非常に居住性が高かった。
そのため、欠陥が多くてあまり海外に出したくない戦艦の代わりに表敬訪問に使われることが多かった。
ジョージ6世戴冠記念観艦式に出た6番艦の足柄はイギリス海軍から、
「これは軍艦ではない、ホテルシップだ」
などと呼ばれる名誉?に輝いている。
確かに古鷹型は各国が建造した条約型巡洋艦としては最低クラスの性能しかなく、欠陥の多い戦艦の代わりに旗艦任務に充当することが目的に建造された船だった。
駆逐艦は1,300tクラスを中心に対水上戦闘よりも欧州大戦で猛威をふるった潜水艦への対応を重視していた。これは欧州大戦で地中海において潜水艦と戦った経験を反映したものと言えた。
日本海軍が重視したのは潜水艦で、中型のロ号潜水艦を多数建造した。
日本の充実した潜水艦艦隊を見たイギリス海軍などは、
「飢えた狼たち」
と攻撃力が高く通商破壊戦に特化したロ号潜水艦を見て警戒心を顕にしている。
結局、日本海軍はまともに艦隊決戦などするつもりがなかったと言える。
先の大戦においてドイツ帝国海軍の行ったように主力艦は牽制に徹して、潜水艦作戦で相手の喉元を締め上げる。
それが日本海軍の考えていた次の戦争だった。
その仮想敵はイギリスだった。日米協商を敵視する以上、当然だった。
ソ連の海軍力については1920年代はなんら脅威ではなかった。
話が逸れたが、軍縮条約により国家予算のうち日本海軍の予算の占める割合は5%にまで縮減された。陸軍(13個師団体制)が5%なので、合計で国家予算の1割程度になんとか収まっている。
これが3割、4割を毎年使うような軍備偏重国家であったら、軍縮は不可能になり、経済対策は不十分な結果に終わっていただろう。
あるいは軍拡による経済対策(軍事ケインズ主義)を採用して、周辺国と無用な軋轢を招いていたかもれしれない。
1933年には日本経済は世界一早く不況から脱出を果たし、1936年には出口戦略として金利引き上げや経済対策縮小を行うなど、財政と経済の正常化を果たした。
ちなみに1933年とはナチス党が全権委任法を可決させヒトラーが独裁権力を確立した年であり、1936年は再軍備したドイツ軍がラインラントに進駐した年である。
ヒトラーの権力掌握と再軍備、ラインラント進駐はドイツ国内の保守派とフランスの黙認によって成功した。
ドイツ国内の保守派(特に富裕層)はナチズムには懐疑的だったが、コミンテルンの指導下にあるドイツ共産党には拒絶反応を示した。
トロツキーに世界を革命する力を与えるため、コミンテルンは世界各国で活発に活動し、経済不況を背景に大衆の不満をとりこんで共産党員を増やしていた。
ドイツにおいても同様であり、それが保守派の危機感を煽った。
共産党の勢力拡大が結果としてヒトラーの政権奪取を助けることになったのは大いなる皮肉といえるだろう。
ヒトラーが全権委任法を可決させるために国会議事堂を占拠した時も共産党による放火が口実に行われている。
事情はイタリアのムッソリーニも同じで、共産主義革命を恐れたイタリア国王がそれに対抗できる人物としてムッソリーニを首相に指名したのだった。
再軍備についても、ヒトラーは共産主義の脅威から欧州を守る防波堤というプロパガンダを使うことでクリアした。
ソ連が掲げる世界革命理論は欧州各国の左派や自由主義者にさえ脅威と写っていた。
フランスのドイツの再軍備に対する反応は複雑だった。
なぜかといえば、1935年にイギリス議会選挙で労働党が単独過半数を獲得して、親ソ政権が成立していたからだ。
イギリス労働党は労働者の最低賃金の保証や企業の国有化など社会主義政策を採用し、ソビエト連邦との連携を公言していたから、フランスとしては気が気ではなかった。
共産主義とじゃがいも野郎のどちらがマシだろうか。
結局、フランスは迷ったまま何もできず、ドイツ軍の再軍備とラインラント進駐を黙認することになる。
フランスのとある政治家は、
「コレラとペストのうちマシな方を選んだ結果だ」
と自信なげにコメントを残している。
後の情報公開により、1935年のイギリス議会選挙はソ連による選挙干渉(R4作戦)があったことが判明している。
コミンテルンの指導を受けたマスコミが、保守党の政策に対してネガティブキャンペーンを実施し、労働党の勝利に貢献した。
イギリスの左派マスコミが行った宣伝工作は報道の自由を大胆に再解釈するというものだった。つまり労働党の不祥事に対しては報道しない自由を行使し、保守党の不祥事は徹底追及するというアンフェアなものである。
保守党の主流派はドイツの再軍備に対して融和的な態度をとっていたことから、左派マスコミから平和の敵とレッテルをはられ集中砲火をあびて議席を失うことになった。
選挙に勝利したクレメント・アトリーに、トロツキーは祝電を送っている。
アトリーは意味深な返電を送り返した。
「あなたは世界を革命するしかないでしょう。
あなたの進む道は用意してあります」
陰謀論としてアトリーはソ連のスパイだったという説もあるが確たる証拠はない。
しかし、イギリス政府内部に多数のスパイ(ケンブリッジファイブ)がいたことは確かだった。
フランスはフランスでソ連の意向を受けたフランス共産党が社会党と連立を組んだ人民戦線内閣が成立し、イギリスの後を追うことになる。
ドイツ野郎に負けるぐらいなら、赤化した方がマシというのがフランスの結論だった。
フランスのレオン・ブルム首相はトロツキーと握手して、ドイツを東西から包囲した。
スペインでは軍部が人民戦線政府に反旗を翻したが、ソ連とイギリスの介入により早期に鎮圧された。
モロッコにいたフランコ将軍は、ジブラルタル海峡に展開したイギリス艦隊を前に海を渡ることができず、暗殺の危機が迫ったためイタリアへ亡命した。
イギリス・フランス・スペインに親ソ政権ができたことで、満州革命によるソ連の孤立は終わった。
トロツキーは自信満々にこう言い放った。
「ソビエトが世界から孤立したというのは誤りだ。世界がソビエトから孤立している」
着実にトロツキーは世界を革命する力を手にしつつあった。
ほとんどの人々が、近い内にヨーロッパで戦争が始まると考えた。
その主役はドイツか、ソビエトだろうと予想された。
その予想は当たっていたが、戦争が始まったのはヨーロッパではなく、アジアだった。