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平和な時代の不幸な話



平和な時代の不幸な話


 1920年代は一つの黄金時代であった。

 日本に住む人々は、ついに日本が一等国になったと考えた。

 第一次世界大戦の講和会議には戦勝国として招かれ、ドイツ帝国のアジア領土を委任統治領として継承、その領土は西太平洋全域に広がった。

 ドイツから引き継いだ島嶼領土の大半は不毛なサンゴ礁の島だったのだが、そんなことはどうでも良かった。

 一等国とは広大な植民地を持っているものだ、というのが日本人の一般的な理解だったからである。

 成金が安っぽい別荘を買って粋がるような感覚に近いだろう。

 ドイツが持っていた山東利権も無事に継承された。

 ロシア革命で満州の鉄道利権譲渡が反故になったから、日本にとって山東利権の確保は至上命題だった。

 山東利権継承を熱烈に支持したのはアメリカ合衆国である。

 日本はアメリカの支持を取り付けるために、山東半島全域を経済特区にするという裏取引を済ませていた。

 イギリスはアメリカ企業の大陸進出に神経を尖らせ、日本の山東利権継承に待ったをかけようとしたが、天文学的な戦時債務をアメリカから借りていたので最後は沈黙するしかなかった。

 欧州大戦で疲弊した大英帝国にもう嘗ての力はなかった。

 ロシア帝国も革命で崩壊した。

 英露米という東アジアにおける戦前の勢力均衡は完全に崩壊して、極東秩序は日米協商による一強時代へと移っていく。

 大きな外交的成果をあげたアメリカはパリ講和会議後に設置された国際連盟の座へと歩を進め、国際連盟常任理事国となった。

 アメリカの国際連盟加盟は条約批准が連邦議会で僅差で否決されかけるなど、危ういところであった。

 山東問題がこじれていたら、アメリカの国際連盟加盟はなかったと考えられている。

 日本もアメリカと共に国際連盟に加盟し、常任理事国となった。

 常任理事国の国連分担金は高額で、その負担は小さなものではなかったが、国際会議で嘗て列強と呼んで恐れた国々と日本の外交官が対等な立場で意見を交わす姿は日本人のプライドを満足させるには十分だった。

 幕末や明治初期を担った人々が見たら噴飯ものの情景であったが、そのような虚飾にうつつをぬかせるほど大戦後の日本には余裕というものがあった。

 日本経済拡大はそれほどの「ゆとり」というものを人々に抱かせた。

 1900年代後半からのアメリカの対日投資(ドル外交)で急速な進歩を遂げた日本経済は、世界大戦の中で異次元とも呼べる経済成長を経験した。

 さらに1920年代を通じて日本経済は拡大し続ける一方であった。

 

「東京とニューヨークの株式市場はいつでも青天井」


 というのは当時の投資家にとって常識であった。

 実際には戦争特需が消えた1919年と1920年は不況だったのだが、1921年には元の拡大路線に復帰した。

 日本の経済成長を支えたのは、もっぱらアメリカからの投資であった。

 アメリカは大戦により世界最大の債権国になり、金ピカ時代と呼ばれる空前の好景気だった。

 ドル外交の成功例である日本は、余った金の使いみちとして極めて有望だった。

 

「中国に進出するよりも、日本と商売をした方が儲かるのではないか?」


 と真剣にウォール街の投資家達が考えるほど、当時の日本は経済の発展に伴って爆発的に内需(消費)が拡大していった。

 1900年代や大戦中の日本経済の主役は重厚長大型産業だったが、戦後は電気産業(第二次産業革命)の伸長が著しかった。

 電気の普及により、蒸気機関のように高価な設備投資がなくとも工作機械を動かせるようになり、ベンチャー企業が育つ産業基盤が成立していたのである。

 日本の銀行は金余りのアメリカから投資を募って資金を集め起業家に資金を貸し付けた。

 起業家たちはその金で電気工具を買い込み、労働者を雇用して、安い人件費を武器に輸出を拡大していった。

 結果、日本は20年代の後半にはアメリカに家電製品や自動車を輸出するまでになった。

 正確には、浜松の経済特区に進出したフォード・モーターが、アメリカ本土で生産するよりも日本で生産した方がコストが安くなり、運賃を加味してもまだ元がとれることに気がついてT型フォードを日本で作り始めたのだった。

 浜松のフォード工場で作られるT型フォードはアメリカ製のT型フォードと品質は同じだが、価格が2割安いので飛ぶように売れた。

 ここから余談だが、浜松産のT型フォードは中国へも大量に輸出されて、単純な構造から様々な改造車両のベースとして使われた。

 それを見た日本の技術者が改造T型フォードのバスを浜松工場で作ったところ大ヒットとなった。

 しかし、アメリカ本社(特に創業者のヘンリー・フォード)は改造フォードはT型フォードのマスプロ生産を混乱させるとして改造生産を禁止した。

 改造フォードバスを作ったのはフォード浜松工場では有名な問題児で、会社の車を勝手に改造して自動車レースに興じるという困った男であった。

 やがてこの問題児は雁字搦めの状況に愛想を尽かして会社を飛び出し、自分で会社を興して自分の作りたい車をつくり始めるのだが、それはもう少し先の話である。

 後に世界最大の自動車メーカーとなるトヨタも、1920年代は浜松のフォード工場に車の座席を下ろす下請けに過ぎなかった。

 1920年代の日本はアメリカ企業のアジアにおける生産基地だったと言える。

 後に世界的な大企業となる日本企業はアメリカの下請けとして腕を磨いたのである。

 例外は財閥などの日本の民族資本の灯火を守る企業達であり、その頂点に立つのが坂本財閥だった。

 坂本財閥のツートップを飾った保科祥雲は第一次世界大戦中(1915年)にこの世を去ったが、会長の坂本龍馬は未だ健在であった。

 健在といっても既に企業経営からは身を引いており、ハワイの私邸でひ孫に囲まれて遊ぶ好々爺の日々を送っていた。

 坂本は元老となる資格があったが、敢えて国政とは距離をとっていた。

 そのため坂本を影の元老と称する場合がある。

 坂本に言わせてみれば影の元老は盟友の保科祥雲こそ相応しいと苦笑するだろう。

 実際に祥雲は無位無官でありながら、明治天皇からの相談をたびたび引き受けていた。

 政治的な意見を述べることは少なかったが発言するとき、それは日本の政治的確定事項だったと言ってもよいほどだった。

 そんな影の元老も鬼籍に入り、元老は全て過去の存在となった。

 元老となる資格がありそうな人々は、ほとんどが幕末の会津で死んでいるのだから、そうなるしかなかった。

 明治政府において重要な政治的な調節機能であった元老が絶えることを危惧する声は保守派を中心に大きなものがあった。

 しかし、保科は決して新しい元老を作ることを認めなかった。

 世界の潮流は政党政治にありとして、保科は原敬や加藤高明、高橋是清や犬養毅などの政党政治家を擁護した。

 米国式の二大政党制こそ正しい政治のあり方だとして、保科は政党政治の定着に尽力した。

 よって、坂本は生きている最後の元老と言えなくもなかった。

 殆どの人々は坂本がその力を振るうことなく、このまま静かに惜しまれつつも過去の遺物として消えていくものだと考えていた。

 しかし、その予想は1923年9月1日に裏切られる。

 関東大震災。

 首都を襲った未曾有の大災害に帝都東京は大混乱に陥った。

 この時、坂本はハワイの隠居所ではなく、偶然にも東京にある坂本商会の本社にいた。

 晩年の坂本が東京の本社を訪れるのは極めて稀なことであった。

 坂本は地震発生直後から活動を開始し、混乱する若い社員達を上手く統制して的確な震災対応を実現した。

 坂本商船が所有する商船を大量投入して、迅速に支援物資を送り込み、焼け出された人々を船に収容して仮設住宅の代わりにした。

 その対応はまるで未曾有の大災害が起きることを事前に知っていたかのような、水際だったものだった。

 ちなみに坂本商会の本社ビルは、保科祥雲の指示により当時としては世界最高の耐震耐火建築となっていた。

 災害発生時には社員をそのまま無事に収容し、内部には避難民と共に1ヶ月生活できるだけの備蓄食料が蓄えられていた。

 火災で焼け野原になった東京において、ただ一棟だけ頑然と立ち続ける坂本商会本社ビルは奇跡の坂本ビルとして生き残った人々の希望となった。

 驚異的な速度で震災対応をこなしつつ坂本は影の元老として発言力を駆使して、立憲政友会の高橋是清を次の首相に指名するように”助言”した。

 結果、高橋是清が復興内閣を組閣することになり、坂本の擁護のもとでその優れた手腕を縦横無尽に振るうことになる。

 高橋は強力な権限を持つ常設組織として復興省を組織して、その代表に台湾経営で辣腕を奮った後藤新平を送り込んだ。

 後藤復興大臣がまとめた帝都復興計画の予算額は50億円だった。

 これは日本の年間国家予算に匹敵するものであった。

 計画書を見た坂本が、


「倍プッシュだ・・・」


 と発言したかは定かではないが、予算は2倍の100億円となった。

 そんな予算は不可能だと叫ぶ人々に対して坂本は、保科祥雲の遺産と自分自身の財産からぽんっと10億円を寄付して見せた。

 寄付額に唖然する後藤に対して、


「なんだ、もっとほしいのか?」


 と坂本が笑ってみせたのは有名な逸話である。

 財閥筆頭の坂本が10億円寄付したのを見て、他の財閥も何もしないわけにはいかなくなり、日本全国やアメリカからも坂本に触発されて5億円もの義援金が集まった。

 さらに坂本はアメリカ政府と交渉して低利の震災ドル借款をとりつけた。

 この種の金策を任せたら坂本に並ぶものは誰もいなかった。

 こうして復興資金100億円は予定どおり調達された。

 100億円の賭けとも揶揄された帝都復興計画の始まりである。

 復興計画は将来の発展を見越した画期的なもので6車線の100m道路や広大な防災公園、上下水道ガス管電線を地中に埋設した共同溝が数百キロに渡って敷設された。

 工事にはアメリカから輸入した土木建築機械が投入された。

 日本で土木建築機械が大規模に使用されるのは初めてのことだった。

 圧倒的な機械力で震災瓦礫が瞬く前に撤去されていくのを見て、日本陸軍の高級将校や政府高官達はこれからは機械力の時代であると確信した。

 区画整理も地主の反対を押し切って断行され、雑多な東京の景観は一変することになる。

 復興住宅として数多の不燃コンクリート製公営アパートが建設され、各地には避難所としても使用できる公会堂が整備された。

 避難所としても使用できる最新の交通機関である地下鉄も建設された。

 有り余る予算があったことから、復興計画は都市景観にもこだわっており、隅田川には防災公園として川辺公園と優れたデザインの復興橋梁が建てられた。

 隅田川からの眺望は、その美しさから東京を東洋のパリとならしめた。

 帝都復興のシンボルとなったのは、災害時の正確な情報発信技術として注目を集めたラジオ放送のための電波塔建設だった。

 東京都港区芝公園に建設された帝都タワーは、日本人の手によって一から設計された自立式トラス構造の電波塔である。

 4,000tの鉄骨を延べ21万人の労働者が1年半かけて組み上げた帝都タワーはエッフェル塔を超えた世界一の電波塔だった。

 津波の被害をうけた沿岸地域は浸水地域の居住を不可として高台へ移転させ、広大な空白地を確保すると巨大な臨海工業地帯が建設された。

 臨海工場地帯の建設には莫大な量の震災瓦礫が活用され、東京湾の干潟を工業団地へと変えていった。

 それまで京浜は経済特区に指定されアメリカ企業が進出していた千葉に比べると牧歌的な(悪く言えば田舎)風景であったが、震災を期に重工業地帯へと変貌していった。

 ちなみに、もっとも広い埋立地を確保したのは坂本財閥傘下の企業であることは言うまでもなく、京浜川崎に建設された坂本財閥の川崎製鉄所は第2の八幡製鉄所と謳われた。

 外国人達は震災からの復興どころか、震災そのものを飲み込んで爆発的な発展へと転化してみせた日本経済の勢いに驚き、半ば呆れて我先にと東京へ支社や支店を建てていった。

 人種的な偏見でビジネスチャンスをフイにするのが愚かなことぐらい、少し考えれば分かることであった。

 坂本は復興計画が軌道に乗ったことを確認するとハワイの隠居所へと帰っていた。

 そして、1925年11月15日にこの世を去った。

 枕元に孫達を集めて、


「祥雲に何か聞きたいことは無いか」


 と尋ねて孫たちが答える前に眠るように逝った。

 日本政府は国葬の手配を進めたが、遺言により家族葬となり、その遺骨はハワイの海に散骨された。

 幕末を飾った最後の巨星が墜ちた。

 しかし、その死に人々が足を止めることはなく、東京は復興に次ぐ復興につぎ、巨大な繁栄の喧騒へと満たされていった。

 そんな上向きの時代にも、下向きの人々はやはりいるのだった。

 繁栄に湧く帝都でうつむいているのは葬儀屋か、軍人のどちらかと相場が決まっていた。

 どちらも景気がよかったら困る商売なので、それぐらいが丁度いいという意見もある。

 しかし、日本海軍の将校は葬儀屋よりも陰気な顔をしていることが多かった。

 1920年代は軍人にとって生きづらい時代だった。

 大量殺戮劇となった欧州大戦の反動から、人々は極端に平和主義的となり、武器やそれを扱う軍人に冷たくなった。

 日本においても例外ではなく、町中で軍服を来て歩いていると苦情が来るので、軍人たちは背広を来て出勤するのが常であった。

 1900年代ぐらいにロシア帝国と民族の存亡を賭けた戦争に突入して、劇的な勝利を掴んでいたらもう少し違った風景があったかもしれないが、そんなものはなかった。

 日露は不戦であり、直近の戦争である欧州大戦ではシベリア大返しのようなイベントがあったものの、基本的には脇役だった。

 しかもシベリア大返しは陸軍の話だった。

 日本海軍としては特に何もなく、地中海でひたすら中央同盟軍の潜水艦と戦っていた。

 それはそれで連合国の勝利に貢献した立派な戦績であるのだが、華々しさからは程遠い戦いだった。

 第一次世界大戦の大海戦といえばユトランド沖海戦であるが、この戦いに日本海軍は全く無関係であった。

 日本海軍は明治以来、華々しい話とは無縁の軍隊だった。

 ぱっとしていないとも言える。

 そもそも第一次世界大戦前から日本海軍はぱっとしていない。

 幕末の宮古湾海戦で負けたあたりでケチがついたのか、それとも師匠のフランス海軍のぱっとしないところを真似たのか、とにかく日本海軍はぱっとしない軍隊であった。

 そのため定員充足率は常に悪く、大正時代は平和主義の流行から定員割れを起こして、訓練時間を削減しなければならないほどだった。

 人気のない日本海軍は兵員確保のために涙ぐましい努力を続けることになる。

 大正時代に一世を風靡した人気小説家佐藤心が、日本海軍の依頼を受けて書き上げた冒険小説「艦艇人間」は、兵員確保に悩んだ日本海軍による一種のプロパガンダ作品であった。

 艦艇人間とは、うら若き乙女の姿をした艦艇人間(日本海軍の艦艇を模している)が、帝国廃滅を狙う悪の海底人間と戦うという筋書きの冒険小説である。

 艦艇人間は大変好評となり、海軍の徴募事務所に多くの若者が押し寄せた。

 保守派からは日本海軍の伝統が汚れると批判されたものの、背に腹は代えられない日本海軍によって艦艇人間は戦間期を通じて版を重ねた。

 ちなみに艦艇人間は全て小説として出版されたが、実は幻の漫画版も存在した。

 漫画版の艦艇人間は小説版よりも直截な描写が増えたことから、男子に著しい劣情を催すとされ、当局により発禁処分となっていた。

 漫画版の艦艇人間は過激レーニン主義者が活動資金獲得のために非合法地下出版(同人)をつくって販売したため、真正の公式版は永く未発見の状態となってしまう。

 そのため1998年に没収を免れた幻の漫画版が民放の古物鑑定番組に出品された際には、1冊450万円という恐ろしい値段がつくことになった。

 なお、艦艇人間は2014年に佐藤心デビュー100周年記念(SatoHeart~100th anniversary~)として、現代風に再解釈された上で再度、出版されている。

 現代版艦艇人間=艦艇少女Rもまた好評を博した。

 漫画版はもちろんのこと、艦艇少女Rはブラウザゲームやアニメなどメディアミックス作品に成長し、近年では地方自治体のイベントを主催するほどの人気コンテンツとなっているがそれはまた別の話である。

 話をぱっとしないところに戻す。

 もしも日本が民族の存亡を賭けた戦いに突入し、そのハイライトとなる戦いでトラファルガー並の劇的な勝利を飾っていたら日本海軍の評価も大きく違っただろうが、そんな都合の良すぎるイベントは発生しないのだった。

 1904年に日露協商が成立すると戦争の機運は遠のいていった。

 では、日本海軍の仕事がなくなったのかといえば、そんなことはなかった。

 日露協商のためにアメリカの力を利用した結果、日米の接近をみたイギリスは日本に対して敵視政策をとり、東洋艦隊を増強した。

 欧州大戦勃発によりイギリスがアジアから艦隊を引き上げるまで、日本海軍を3回殲滅できるだけの艦隊が日本近海を彷徨くことになったのである。

 イギリスの敵視政策により、イギリス式海軍を作るという明治政府の思惑は完全に崩壊した。

 以後の日本海軍は完全なフランス式海軍として発展することになる。

 それはイギリス派の薩長閥にとって完全敗北を意味していた。

 壊滅した薩長閥のトップに君臨した山本権兵衛は失意のうちに海軍を去った。

 ちなみに彼の辞職した理由は非常に特異な状況によるものだった。

 山本は海軍のぱっとしない状況を立て直すべく、海軍大臣に就任すると英仏混在の日本海軍の兵制を完全なイギリス式に改めることとした。

 急進的な改革に着手した彼は、強権を発動して日本海軍からフランス文化を一掃しようとするのだが、艦内や鎮守府の調理法までイギリス式に改めるというのはやりすぎであった。

 横須賀鎮守府内で、ニシンを使用したイギリス料理(食材に対する冒涜的な)が供された結果、将兵の士気は大幅に低下し、大規模な水兵の命令不服従ボイコットが発生した。

 典型的な薩摩人である山本は、


「議を言うな!」


 と大喝して抗議の声を圧殺した。

 結果、怒り狂った旧幕臣派の将校により、山本の私邸に爆発物が投げ込まれるという前代未聞の事件が発生した。

 投げ込まれたのは、ニシンの缶詰であり爆弾ではなかったのだが、実際に爆発したのでここでは爆発物と表記する。

 なぜニシンの缶詰が爆発するのかは、筆者の技量では説明が困難なため、読者の自学自習に頼ることとし詳細は省くものとする。

 とにかくそれは高圧が架かっていたので爆発した。

 状況説明を求める明治天皇からの呼び出しを受けて山本は参内しようとしたが、あまりの悪臭により参内は叶わず、天皇の命令を全うできなかったため辞職を余儀なくされた。

 このような形で優れた軍事行政官であった山本を失うことは、日本海軍にとって大きな損失だったと言える。

 以後、日本海軍においてニシンは縁起が悪いとして兵食に用いられることはなくなった。

 ずれた話を日露協商後の日本海軍に戻す。

 当時の日本海軍にイギリス海軍に対抗できるだけの戦力はなく、配備できるだけの予算もなかった。

 財布の紐を握っているのは議会であり、議会は不必要な軍拡には絶対反対の立場だった。

 そのため乏しい予算で対抗できる戦力として、日本海軍は沿岸要塞の建設と水雷艇の大量配備に注力することになる。

 これは師匠のフランス海軍もやっていることであり、沿岸防衛に徹してイギリス海軍の接近を拒否するという戦略だった。

 貧しい日本海軍の戦略としては極めて正しい。

 しかし、兵員の3割が沿岸要塞で陸上勤務というのは海軍として果たしてどうなのかという意見は多かった。

 同時期、日本海軍が土台のコンクリートを船型に整形した沿岸砲台を建設したのは、せめて自分たちが海軍であることを忘れないようにするための涙ぐましい努力だったと言える。


「海軍よ、石の船に乗ってどこへいく?」


 というのは当時の日本海軍を揶揄した新聞記事の投稿である。

 しかし、1906年にドレッドノートが就役すると日本海軍にも戦艦建造の機運が盛り上がってきた。

 弩級の語源となったドレッドノート級戦艦は前弩級の2倍の火力と革新的な高速性能を併せ持ち、高い遠距離砲戦能力を誇った。

 ドレッドノート級の登場によってそれまでの戦艦は一切陳腐化した。

 日本海軍も例外ではなく、既存の戦艦4隻は一挙に陳腐化して頭を抱えた。

 さらにロシア海軍が弩級戦艦の建造に着手したという情報が入ったため、戦力バランスを維持するために日本海軍も弩級戦艦の建造を開始した。

 開始したと言っても、1900年代の日本に弩級戦艦を作れるだけの技術的な基盤はなく、建造は外国頼みであった。

 日本海軍は艦艇建造を外国に依存する状態を国防の危機と考えて国産化を図ってきたが、小型艦ならともかく大型艦は無理だった。

 そんな状態を脱却し、一気に日本の艦艇建造技術を世界水準までに引き上げる大掛かりな計画が立案された。

 仮称伊号巡洋戦艦建造計画。

 それこそが、ぱっとしない日本海軍唯一の希望であった。

 戦艦の完成品輸入のみならず、その建造技術一式までも外国から輸入するという野心的な計画である。

 しかして、その希望は多くの壁にぶつかった。

 予算の確保は議会の反対で遅れに遅れた。

 そもそも日本に戦艦を売ってくれる国が見つからなかった。

 弩級戦艦を発明したイギリスは最初に候補から除外された。日米協商を敵視するイギリスが戦艦を売ってくれる可能性は全くなかった。

 そこで師匠のフランス海軍と交渉になったが、フランスもまた弩級戦艦の建造を開始したばかりで、輸出に回せる余裕はなかった。

 アメリカもまた同様である。

 イタリアはかなり熱心に売り込みをかけてきたが、完成品輸入はともかく建造技術一式となると難色を示した。

 イタリアの戦艦建造は、かなりの部分でイギリスの技術援助を受けて成立していたことから、それを転売したと知られたらイタリアの明日はない。

 結局、日本の計画に応えられるのはドイツ帝国しかなかった。

 イギリスと対立していたドイツは戦艦建造を通じて日本との同盟関係構築を狙っていた。

 極東の日本に高性能なドイツ製戦艦を配備すれば、イギリス海軍に戦力分散を強いることができるという軍事的な計算もある。

 仮称伊号巡洋戦艦は1912年1月17日にドイツのブローム・ウント・フォス社に発注され、ハンブルクで建造が始まった。

 ドレッドノートに遅れること6年であった。

 ブローム・ウント・フォス社が提案したプランは、12インチ(30.5cm)45口径砲を最新技術で製造した三連装砲塔に収めて3基9門とし、最新型の蒸気タービン機関にて26,000tの船体を27.5ktで走らせるというものだった。

 船体の割に主砲口径が小さいが、ドイツは大口径砲製造技術でイギリスに遅れをとっており、1912年時点ではこれが望みうる最大の主砲口径であった。

 巡洋戦艦を自称していたが、防御重視の設計から、その実態は高速戦艦というべきものだった。

 日本海軍はブローム・ウント・フォス社の提案に満足し、技術取得のために大量の将校と造船官達をハンブルクに送り込んだ。

 彼らはそこでドイツの最新技術を取得し、日本に持ち帰る予定だった。

 そのために日本海軍は入念に選りすぐりの人材を選抜した。

 日本海軍の艦政本部はハンブルグにあり、と言われるほどだった。

 2番艦以後はドイツから部品を輸入して国内で建造し、3番艦以後は徐々に部品の国産率を高めていき、4番艦では100%国産戦艦とする。

 それが日本海軍の思い描いていた未来であり、この計画が100%完全に達成されれば、日本の建艦技術は一気に世界水準に達する予定だった。

 ・・・予定だった。

 サラエボの銃声は日本海軍の未来を壊滅させた。

 就役間近であった仮称伊号巡洋戦艦改め巡洋戦艦「金剛」はドイツ海軍に接収された。

 さらにドイツへ派遣していた大量の海軍将校や造船官達も帰国が不可能になり、敵性外国人としてドイツ当局に逮捕されるという最悪の事態となった。

 所謂、金剛事件である。

 この事件は戦力に劣るドイツ帝国海軍が完成直前だった金剛の”売却”交渉を持ちかけて、日本側が拒絶し、ドイツ側が強引に接収を試みて、銃撃戦に発展したものである。

 日独双方に多数の死傷者が出たことから、ドイツ政府は国内の日本人を敵性外国人として一斉に予防拘禁した。

 逮捕された者は捕虜収容所へと移され、終戦後に帰国したが多くは過酷な捕虜生活で体調を崩しており、現役に復帰できたものは僅かだった。

 天才造船官として艦政本部に君臨した平賀譲のように収容所から脱走を試みてドイツ軍に射殺されたものもいた。

 この事件は日本の対独感情を著しく悪化させ、日本の対独宣戦布告の理由にもなった。

 重要なことなので、もう一度記述するが、日本海軍は入念に選りすぐりの人材を選抜してドイツに送っているのである。

 昨日まで手をとりあって戦艦建造に協力してきたドイツ海軍将校達はすまなさそうな顔で、


「悲しいけどこれ戦争なのよね」


 と言ったのかは定かではないが、ともかく仮称伊号巡洋戦艦建造計画は日本海軍の未来を担う人材を巻き添えにして完膚なきまでに壊滅的な失敗に終わった。

 ドイツ海軍に接収された金剛改めブリュンヒルトは、その高性能からフランツ・フォン・ヒッパー中将の巡洋戦艦戦隊に編入され、旗艦としてユトランド沖海戦に参戦した。

 ブリュンヒルトはイギリス海軍の巡洋戦艦インディファティガブルを撃沈するなど、大きな戦果をあげたため、イギリス海軍から日本政府に苦情が来た。

 その苦情は日本海軍の間抜けぶりをあげつらい徹底的にこき下ろして罵倒するものであったが、日本の金でドイツに戦艦1隻を献上してやったようなものなのだから、苦情だけで済んだことに感謝するべきだろう。

 ブリュンヒルトはユトランド沖海戦を生き残ったが、1917年11月21日にバルト海で作戦行動中にロシア海軍の敷設した機雷によって沈没した。

 ブリュンヒルトの戦没に対して日本海軍の将校達が、


「金剛沈んだドイツ死ね!」


 と品のないことを叫んだかもしれない。

 仮称伊号巡洋戦艦建造計画の失敗は日本海軍内部に感情的な反ドイツ集団(ドイツ死ね死ね団)が形成される原因となった。

 この時、海軍がドイツに抱いた感情(怒り、悲しみ、憎しみ)を表現するのは難しい。

 しかし、敢えて筆写を試みるとするならば、田舎(極東)に住むぱっとしない青年が、都会(欧州)に住む美少女と遠距離恋愛の末に婚約を交わしたその日に彼女をチャラ男に寝取られ、風俗店(店名:バルト海)に沈められたような感覚だろうか。

 なるほど、たしかに殺意しか湧いてこない。

 イギリスに罵倒され、議会で袋叩きに遭った日本海軍が弩級戦艦建造を再開するのは1916年のことで、日本海軍が独力で建造したのが戦艦扶桑と山城である。

 ドレッドノートから遅れること10年であった。

 この2隻は図面だけが届いていた金剛の設計をベースに、船体中央に砲塔を1基追加して12インチ砲12門と火力を強化したものとなった。

 日本海軍が扶桑型で無茶な火力強化に走ったのは、イギリス海軍は1915年に超弩級戦艦クイーンエリザベス(15インチ砲8門)を就役させていたためである。

 12インチ砲搭載の山城と扶桑は完全に周回遅れであった。

 しかも火力強化のために船体中央に砲塔を追加したことから、主砲斉射時に爆風が艦全体を覆うという問題が発生し、斉射戦術が不可能になるという欠陥が明らかになった。

 最新技術として鳴り物入りで導入された3連装砲塔は故障が続発。船体の装甲材質にも欠陥がありクラックが発生。さらに機関は所定の出力を発揮できず、速力が22ktに低下するなど扶桑型が失敗作なのは明らかだった。

 扶桑型の失敗を受けて次級の伊勢型戦艦では1500箇所もの修正を施したが、根本的な技術不足から性能は似たようなものだった。主砲も12インチ砲のままだった。

 大量の造船官を失って艦政本部が壊滅した日本にはまともな戦艦が作れなかったのである。

 イギリスと軍事同盟を結んでその技術を導入できる体制があればもう少し違う風景があったかもしれないが、そんなものはなかった。

 ちなみに同時期にロシア海軍が配備したガングート級戦艦と扶桑型・伊勢型が非常に似たデザインなのは、どちらも出処がドイツのブローム・ウント・フォス社だからである。

 両者の性能は極めて似通ったものとなったのは、当時の日本の造船技術のレベルがその程度であったことを示している。

 日本海軍にとって最後の希望はドイツ賠償艦の譲渡だった。

 日本は4隻の戦艦を貰い受けることになっていた。ちょうど金剛型巡洋戦艦4隻分である。

 ドイツの賠償艦を徹底的に分析することで、次世代型の戦艦がつくれるはずだった。

 しかし、1919年6月21日にスカパ・フローで抑留中のドイツ艦隊が「ドイツ海軍の誇り」を守るために自沈。全滅した。

 日本海軍の希望は潰えた。

 怒り狂った日本海軍は戦艦4隻分と同価値の賠償金を請求し、物納でドイツに納付させている。

 具体的には前述した海軍内部の感情的な反ドイツ集団(ドイツ死ね死ね団)をハンブルクに送り込み、ブローム・ウント・フォス社を中心にドイツの造船設備10万t分(金剛型巡洋戦艦4隻分)を接収させたのである。

 日本海軍が持ち去った設備は多岐に渡り、工作機械はもちろんのこと、砲身製造用の水圧ハンマーやガントリークレーン、さらに廃棄処分される予定のドイツ戦艦の部品(マッケンゼンの主砲や機関、測距儀など)が日本の手に渡った。

 日本海軍の略奪により、ハンブルクは廃墟と化しドイツ造船業界は大打撃を受けた。

 その結果、ドイツ海軍内部に感情的な反日集団(日本死ね死ね団)が形成されることになるのだが、それはまた別の話である。

 そんな状態で1922年を迎えた日本海軍にとって、ワシントン海軍軍縮会議は忘れたい苦い思い出しかない。

 日本海軍の主力艦保有量は対英1.75割(35%)に制限された。

 海軍の本音は3.5(70%)割だったが、そんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。

 欧州大戦による日本経済の発展で、海軍の予算は以前よりも大きく増えていたが、財布の紐を握る議会が軍拡競争などを認めてくれるはずもなかった。

 国家存亡の危機を救った救国の英雄でもいて、海軍の政治的な発言力が議会のそれを圧倒するようなことになっていれば話は別かもしれないが、日本海軍にそのような超法規的存在は一人もいない。

 もちろん、16インチ砲を搭載する戦艦を16隻つくるような豪華絢爛な軍拡計画など存在しようもない。

 せめてもの慰めは、建造中の戦艦2隻の保有が認められたことぐらいだった。

 それも師匠のフランスとイタリアの援護とアメリカの同情によって辛うじて認められたものであり、あまり褒められた話ではなかった。

 フランスとしては弟子の戦艦保有量が減らされると連動して自国の戦艦保有量も削られかねないと考えた結果であり、援護により日本に恩を売っておくという意味もあった。

 イタリアの思惑も似たようなものだった。

 そうして1925年に完成した日本初の超弩級戦艦が、「長門」と「陸奥」である。

 この2隻はワシントン海軍軍縮条約の制限一杯の排水量(35,000t)を持つ条約型戦艦であった。

 条約型戦艦とは、軍縮条約で決められた最大サイズ(35,000t)に軍縮条約で決められた最大の主砲(15インチ砲)を搭載した戦艦のことである。

 15インチ連装4基8門を搭載して26ktの快速を発揮する長門と陸奥によって日本海軍は量はともかく質は世界に並んだと胸を張った。

 しかし、よく見れば主砲が1919年に製造されたドイツ帝国海軍のものであったり、船体設計がマッケンゼン級のカーボンコピーだったりした。

 そもそも、長門型と同じ火力のクイーンエリザベスは1915年に就役しており、やはり10年は遅れているのだった。

 それが1920年代の日本海軍の精一杯だった。




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― 新着の感想 ―
[良い点]  海軍ざまぁ見ろという気分になります。あひるちゃんボートでも恋出ればいいのに。
[一言] これ、龍馬はたぶん保科さんの正体を唯一聞いて知ってたっぽいなぁ。そうでもなきゃ経済特区はまだしも、関東大震災を予期した動きはできないだろうし。 それにしても本当にこの世界の日本は綱渡りの連続…
[一言] はて、開戦当初は、日本は米国と同じで中立国だったはずでは? 日本人を拘束する根拠がありません。 中立国のスイスか北欧に一時的に退去出来たのでは?
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