ソビエトでは、あなたが革命と遭遇する
ソビエトでは、あなたが革命と遭遇する
1914年6月28日、サラエボ事件。
オーストリア・ハンガリー二重帝国の皇太子がセルビア人青年によって暗殺された。
この事件は政治的な暗殺劇の枠を一気に飛び越えて、ヨーロッパに未曾有の大戦争を呼び込んだ。
ヨーロッパにおける大規模戦争としては普仏戦争(1870年)以来となる。
半世紀近く列強国がひしめくヨーロッパの平和が保たれてきたのは、各国が戦争回避のために同盟関係を構築し、勢力均衡を保つことに腐心してきたからだった。
特に普仏戦争戦争後、ヨーロッパの勢力均衡を図ったドイツ帝国宰相ビスマルクの手腕は天才的という他ない。
問題は、人々が長く続く平和に飽きてしまったことだろう。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が29歳の若さで即位したとき、人々は若い新皇帝が唱える新航路(植民地獲得政策)に魅せられて、喝采を送ったものだった。
ビスマルクは解任され、彼の残した遺産はつまらないものとみなされて破棄された。
以後、ドイツ帝国はひたすらに陽の当たる場所を目指して軍事力を背景とした力の外交を展開していくことになる。
その結果、ドイツは周辺国との軋轢を強め、孤立していった。
1914年時点で、ドイツの同盟国は弱兵で有名なイタリアと時代遅れのハプスブルク家の帝国しかなく、他には死に体のオスマンだけだった。
しかもイタリアは日和見的な態度をとっており、本気で英仏と敵対する意思はなかった。
ドイツは孤立し、追い詰められており、そうであるがゆえに短期決戦に訴えるしか戦争に勝利する見込みはなかった。
他の全ての戦線を捨てて、全力でベルギーの中立を無視してパリへ突進するシュリーフェン・プランとは、孤立したドイツが勝利できる唯一の大戦略だった。
シュリーフェン・プランの成否は時間との戦いにかかっていた。
ロシア帝国が動員を開始した時点で、即座に計画実行に移らなければ、成功はおぼつかなかった。
例えパリを占領できても、ベルリンがロシア軍に占領されては意味がないからだ。
それほどまでにドイツ東部の守りは薄かった。
タイムリミットは極わずかで、ヴィルヘルム2世には戦争回避のために交渉を行う時間的余裕がほとんどなかった。
自業自得といえばそれまでだが、結末の悲惨さを考えると瞑目するより他ない。
皮肉なことに、薄いはずのドイツ東部の守りをロシア軍は突破すること叶わず、ドイツ帝国の運命を賭けた一撃はフランスとベルギーの奮戦によって失敗に終わった。
ロシア軍がドイツ軍が想定したとおりの強さの軍隊なら、ベルリンが陥落して半年足らずで戦争は終わっていただろうし、ドイツ軍が想定したとおりにベルギー軍とフランス軍が弱い軍隊であったのなら、パリが陥落して半年足らずでやはり戦争は終わっただろう。
ドイツは戦争開始から数週間で勝利の方式を見失った。
あとに残ったのはベルギーの浜辺からスイスにまで伸びる長く陰鬱な塹壕線だけだった。
二正面作戦を強いられたドイツ軍は包囲の中で消耗していき、最後には海上封鎖による食料不足とアメリカ合衆国の参戦によって戦線を支えきれなくなり国家崩壊に至るのである。
しかし、そんなヨーロッパ情勢など、極東アジアの日本には関係ない話だった。
当時の日本政府にとって重要なのは、欧州が大戦争に突入して、アジアに構っている余裕をなくしたことだった。
日露協商から始まった中国における英米露の勢力均衡を日本は薄氷を踏む思いで生き延びてきた。
日本政府は、ロシア帝国とイギリス帝国とアメリカ合衆国による極東大戦のようなものが起きることを本気で恐れていた。
日露協商でとりあえず戦争は回避されたが、満州に駐留する強大なロシア軍が消えてなくなったわけではなかった。
しかも、日米が接近したことでイギリスは露骨に日本と距離をとるようになっていった。
満州のロシア軍は明治の日本陸軍にとっては絶望的な大兵力であったし、イギリス東洋艦隊は単体で日本海軍を3回殲滅できるだけの戦力だった。
むしろ戦力差という点では、日露協商以前よりも悪くなったと言えた。
そして、アメリカには大統領選挙があり、次の大統領が親日家であるとは限らず、政策変更で日本は見捨てられる可能性があった。
平和になったからこそ、その平和を維持するために明治日本は以前に増して神経をすり減らす日々を送っていたのである。
大国のパワーゲームに巻き込まれた小国の悲哀といえばそれまでだが。
幸いなことに、ロシア帝国は国内の革命未遂事件により満州から南に進出する意欲を失い、イギリスも現状維持できれば満足だったから平和は守られた。
さらに幸運なことに次のアメリカ大統領は極東でのビジネスに大いに関心を寄せていた。
ウィリアム・タフト大統領は前任のセオドア・ルーズベルトがアジアに築いた橋頭堡からの飛躍を狙って積極的なドル外交を展開した。
ドル外交とは、アメリカの豊富な資金を未開発地域に投下して経済発展を支援する代わりに市場開放を迫るアメリカの対外進出政策である。
タフトはドル外交を従来の棍棒外交に代わる平和主義的な政策転換だと考えていた。
しかし、ドル外交はラテンアメリカでは経済的な侵略であるとして各地で大反発に遭遇して失敗し、武力介入という従来の棍棒外交への回帰を余儀なくされた。
ドル外交が成功を収めたのは極東のみだった。
日本は積極的にドル外交に迎合し、これを受け入れたのである。
そうしなければアメリカに見捨てられ、英露の間で孤立するしかないという小国の悲哀もあったが、それ以上に日本は産業革命を進めるための資金が不足しており、市場開放してでも外貨獲得に走らなければならないという経済的な動機があった。
日清戦争が大勝利に終わって大量の外貨(金)を賠償金として得ていれば他のやり方もあったかもしれない。
しかし、ないものはないのである。
タフトは前任のルーズベルトから引き継いだリョーマ・サカモトとショーウン・ホシナという強力な経済コネクションを用いて、多数の合弁会社を設立し、多額のドル借款を貸し付けて日本市場を開放させることに成功した。
さらに日本から経済特区という非常に独創的な提案を受けて、大いなる喜びと共に日本と協定を交わした。
所謂、桂・タフト協定である。
経済特区とは、日本国内に設置された外国企業を誘致するための特別な租税優遇地域のことである。
所得税や法人税、関税が10年間免除される上に、面倒な許認可関係の書類審査が大幅に簡略化されることからアメリカ企業が大挙して日本の経済特区へ進出した。
日本で最初に経済特区に指定されたのは、千葉、尼崎、浜松、中城(沖縄)、台北(台湾)の五箇所だった。
後に倉敷と室蘭、釜石が加わって8箇所となる。
大韓帝国では、釜山と開城、新義に特区が設置された。
日本の高度経済成長を支えた経済特区の仕掛け人は、坂本龍馬と保科祥雲である。
桂太郎首相は市場開放にも経済特区にも反対だったのだが、坂本龍馬と保科祥雲に頼まれては嫌とは言えなかった。
坂本龍馬は長州藩士にとっての大恩人である。
長州征伐で絶体絶命の危機にあった長州藩が勝利したのは坂本が仕掛けた薩長同盟なしでは考えられず、長州藩士の桂にとって坂本は大恩ある”坂本先生”であった。
保科祥雲は逆に悪鬼羅刹である。
京都守護職を務めた松平容保は幕末の京都で長州藩士が何をやってたのか全てを知る立場にあり、たいていの長州藩士の個人情報を握っている。
そして、この二人は坂本財閥のツートップであり、公的にも私的にも仲がよいことで知られていた。
「二人共、幕末で死ねばいいのに」
と桂が述べたかは不明だが、何か思うところがあったのは確かである。
これは余談だが、木戸孝允が早死したのは、維新三傑のうち木戸だけが長州藩士であり、尚且、件の二人の相手を大久保利通に押し付けられたのが原因という説がある。
さらに余談だが、件の二人の類例として近似該当の外国人を選ぶ場合、坂本はタレイランで、保科はフーシェに例えられることが多い。
悪し様に保科を罵りたい場合は、ナチス・ドイツのラインハルト・ハイドリヒが適当だろう。
1900年代の日米ドル外交の象徴は北九州の八幡製鉄所である。
USスチールと日本の合弁会社が1908年から操業開始した八幡製鉄所は、最新鋭のプラント一式をアメリカから輸入して建設された。
建設資金はアメリカからの借款によって賄われており、高炉の火入れには日米両国政府関係者が立ち会っている。
八幡製鉄所の完成で初めて日本は鉄鋼を自給できるようになり、その後の経済発展の土台が完成した。
ドル借款による経済プロジェクトは多岐に及び、その多くはインフラ建設やプラントやパテントの購入に充てられた。
もちろん、インフラ資材やプラントは全てアメリカに発注されており、ドル借款が速やかに本国に回収される内容となっている。
ちなみに海外からのプラント輸入などは、日本では総合商社を介して行われるのが一般的であり、アメリカとの貿易に強い日本最大の総合商社といえば坂本商会というのは少しでも経済知識のある者なら誰でも知っている常識である。
日米ドル外交は、保守派からの激しい反発に直面したが、経済特区からドルの奔流が押し寄せると反対の声はかき消されていった。
朝鮮半島においても状況は同じだった。
むしろ、資本主義的な経済知識がないぶん日本よりも滑稽な展開が発生した。
大韓帝国の支配者層は日本政府から派遣された政治顧問の言われたとおりに書類にハンコを押しただけだったのである。
それだけでなぜ釜山が上海や香港のような大都会に発展していくのかさっぱり理解できず首をかしげるばかりだった。
ドル外交により1900年代の日本は高度経済成長時代(第一次産業革命)となった。
ラテンアメリカでは失敗したドル外交がなぜ日本では成功したのか?
原因は複合的なものだが、まずは借り手に大きな違いがあった。
日本は明治維新以来、様々な国内投資を行ってきた。
文盲を根絶するために国民皆学制度を整え、欧米列強のそれを模倣して近代法体系や裁判制度を整備し、産業や経済に必要なインフラ整備を進めた。
さらに国家の安全保障体制を確立し、国内の治安も高い水準で保ってきた。
その結果、経済発展の土台が形成され、そこに大量の資本が投下されたことで高度経済成長が実現したと考えられている。
ラテンアメリカ諸国は治安に問題を抱えていたり、近代法体系が未整備(在っても無視されている場合も同じ)な場合があり、資本を投下しても経済発展に結びつかない諸事情を抱えていた。
また、アメリカはラテンアメリカを自国の裏庭(植民地)とみなして、対等なビジネスパートナーとは考えていなかった。
桂・タフト協定のような対等な経済協力協定を結ぶための具体的な力がラテンアメリカ諸国には欠けていた。
もちろん、明治の日本にアメリカと対等の力があったわけではない。
しかし、日米の間には太平洋という距離の壁があり、イギリス・ロシアという力の均衡を保つ外部要因があった。
ラテンアメリカはアメリカから近すぎる上に、イギリス・ロシアといった外部要因もなかったから適切な政治的な距離を保つことは困難だった。
話が逸れたが、日本にとって欧州の大戦争は対岸の火事でしかなかった。
あるいは他人の不幸だった。
そして、他人の不幸とはいつだって甘い蜜の味なのである。
大戦勃発からまもなくして連合国陣営から日本に莫大な注文が殺到した。
欧州各国は戦争遂行のために民需生産を軍需生産に転換していったので、不足する分は日本とアメリカに発注するしかなかった。
高度経済成長に入っていた日本は1914年から異次元経済成長とも言うべき状態へと突入していくことになる。
その旗振り役は現役復帰を宣言した坂本龍馬だった。
坂本は坂本商会ロンドン支店に乗り込むとそこを総司令部とし、連合国が必要とするありとあらゆる商品を日本中から買い集めて売り捌いた。
金さえ払えば、坂本商店は本当にどのようなものでも用立てることができた。
あるフランス軍の将校が、
「特殊作戦のためにクレムリンを用意してほしい」
と冗談で言ったところ、数日後に詳細な参考見積書が坂本商会から届いたというまことしやかな噂話があるほどだ。
欧州大戦で日本は巨利を得て、アメリカから借りた金も返済し、ようやく列強と呼べるだけの経済力を蓄えることに成功した。
繁栄に沸きあがる日本に参戦要請が届くのはある意味、当然のことだった。
西部戦線は無限に人命を飲み込む大量殺戮の場となっており、イギリス・フランスは疲弊しきっていた。
この要請に対して、日本政府は慎重姿勢をとった。
日清戦争の苦い思い出があったからである。
日本とイギリスが軍事同盟でも結んでいれば話は別かもしれないが、そのようなものはなかった。
むしろイギリスは大戦勃発前に日本に対して敵視政策をとっていたぐらいである。
しかし、最初は権高だったイギリス・フランスが徐々に懇願とも呼べる態度をとるようになり、ドイツの太平洋・東洋利権の譲渡を非公式に提案すると、日本も国益の観点から連合国陣営として参戦することを決めた。
まず、地中海に駆逐艦を派遣することになった。
それで日本政府は終わりにするつもりだったが、英仏は執拗に陸軍派遣を求めた。
さらにロシア帝国も日本に援軍派遣を求めてきた。
東部戦線を担うロシア帝国はドイツに連戦連敗しており、息も絶え絶えという状態だった。
ロシア帝国は援軍を派遣するなら東清鉄道の南半分を譲渡してもいいと提案してきた。
この提案には日本政府もさすがに心が揺らいだ。
日本と同時に提案を受けていたアメリカ合衆国も即答を避けたが、さらなる大陸利権獲得に内心は涎が止まらなかった。
戦費調達にアメリカが協力することを確認した日本政府は東部戦線に陸軍派遣を決定した。
東部戦線に陸軍を送ってしまえば、これ以上英仏からしつこく陸軍派遣を要求されることはないだろうという計算もあった。
英仏に比べて工業力に劣るロシアは、大量の武器弾薬を日本から輸入しており、派遣先での補給が比較的容易という事情もあった。
フランスは兵隊の被服から武器弾薬、給与まで全てを負担するという破格の条件を提示していたのだが、日本はその手には乗らなかった。
派遣軍は1個軍(4個師団)、軍司令官には児玉源太郎陸軍大将が選ばれた。
当時の日本陸軍はやっと13個師団体制を確立したばかりで、その4分1の兵力を遠い欧州に送るというのは大きな決断であり、慎重の上に慎重を期す必要があった。
派遣軍司令官の選定も叶う限りの最高の人材を選んだ結果だった。
児玉大将は、
「陸軍は児玉でもつ」
とまで謳われた逸材の中の逸材で、陸軍大臣を歴任した日本陸軍の至宝であった。
日清戦争においても軍功をあげ、台湾総督として行政官の才能も発揮していた。
海外にもその名が知られている児玉が派遣軍司令官に選ばれたのは、彼なら派遣軍を無事に日本まで連れて帰ってくれるだろうと期待されたからだった。
参戦を決めた日本政府だったが、やはり自国とは無関係の戦争に兵士を送ることは不本意であり、派遣先のロシア帝国とも相談して可能なかぎりドイツ軍がいない戦線に配置するように依頼していた。
勝利ではなく、生きて帰ること。
それが児玉に課せられた使命だった。
ある意味、勝利することよりも難しい任務であったと言える。
日本陸軍東部戦線派遣軍(以下、児玉軍)が配置についたのは、1917年2月であった。
児玉軍が配置についてから僅か3日後、ロシアの首都ペトログラードで警官隊が食料を求めるデモ隊に発砲したことをきっかけに大暴動が発生した。
ロシア2月革命である。
ウクライナの最前線にいた児玉が2月革命を知るのは皇帝ニコライ2世が退位させられた3月15日であった。
中央同盟軍はロシア軍の動揺に気がつくと好機と見て大攻勢をかけていたから、児玉軍はその対応に忙殺されることになる。
ロシア臨時政府が発足して戦争継続が決まったが、社会混乱で物流は途絶えがちになり、児玉軍も補給が欠乏した状態になっていった。
日本政府は臨時政府と交渉して児玉軍を撤退させようとしていたが、革命の混乱でそもそも誰と撤退を交渉したらいいのかわからない状態だった。
通信は途絶し、本国とも連絡がつかず、児玉軍はロシアの大地奥深くで孤立した。
児玉は乏しい食料を部下と分け合い、ありとあらゆる手段で武器弾薬をかき集め、彼が持つ全知全能を駆使して中央同盟軍の攻撃に耐えていたが、やがて忍耐の限界が訪れた。
ロシア臨時政府は軍事的な勝利により兵士の支持を取り付けるべく、無謀な大攻勢を計画し、児玉軍にも参加を命じたのである。
1917年7月のケレンスキー攻勢は散々な失敗に終わり、ロシア軍を完全に崩壊させた。
この攻勢に児玉軍は参加していない。
作戦参加を命じられた時点で、児玉は臨時政府を見限り、戦線離脱を決意していた。
要請していた補給が届けられる気配は一切なく、児玉軍の兵士は食料不足でやせ衰え、畑を耕して食料の自給自足に努めている有様だったのだから、攻勢など問題外であった。
そもそも本国との通信がいっこうに回復しないというのは明らかに異常であり、児玉の臨時政府に対する不信感は頂点に達していた。
実際のところ、ロシア臨時政府は児玉軍の存在を持て余していた。
ドイツ軍と戦わせて始末しようと考えていたという説もある。
本国との通信途絶はロシア臨時政府による妨害によるものだった。
しかもロシア臨時政府は日本政府に対して児玉軍は戦線後方の安全な場所にいると嘘の説明をしていた。
児玉が臨時政府の欺瞞に気がついたのは、明石機関の密偵による通報があったからだった。
明石機関とは明石元二郎大佐(当時)が築いた日本陸軍の対ロ諜報組織である。
日露協商が成立した後もロシア帝国軍は満州に大軍を駐留させていたから、情報収集活動は継続して実施されなければならなかった。
ちなみに明石機関の常設化を決定したのは、参謀本部時代の児玉である。
明石機関を率いた明石大佐は最終的に陸軍大将に上りつめ、明石機関を日本最大の情報組織である陸軍参謀本部情報総局へと育て上げた。
児玉は明石機関と連携を保ち、ロシア臨時政府の内部情報を入手し、その動向をある程度掴んでいたのである。
しかし、軍人として命令を完全に無視して一方的に前線から離脱することは躊躇われた。
正式な命令もなく軍を動かすのは国家から預かった兵を私することになる。
軍隊の私物化ほど忌まわしいものはないと児玉は考えていた。
ロシアのボルシェビキ革命家達が軍に浸透してそれを革命の道具(私物化)にしていく手練手管を間近で見ることになった児玉にとって、それは吐き気を催す外道であった。
また、混乱が回復して、正式な命令によって日本に帰国できる可能性もあった。
それを信じて耐え忍んでいた児玉だったがもはや限界だった。
日本陸軍は不本意ながらも貴重な兵力を欧州に派遣することになったが、そうであるが故にその派遣から最大限の成果を持ち帰るべく、派遣軍には選りすぐりの俊英を集めていた。
陸軍の次世代を担う若者達を鍛え上げることも児玉に課せられた使命であった。
永田鉄山や東条英機、岡村寧次、小畑敏四郎といった20年後に日本陸軍の中核を担った人材は、全て児玉軍にその名を連ねていた。
後に彼らは児玉軍時代をして「児玉学校」と呼ぶほど、大きな影響を受けた。
永田鉄山は国家総力戦の時代を体感し、その理論化と実現を図るために軍服を脱いで政界に進出し、20年後に首相へと上り詰めた。
東条英機はドイツ陸軍航空隊の銃爆撃から逃げ惑った経験を糧に日本陸軍随一の航空派として航空行政に辣腕を奮った。
岡村寧次は陸軍参謀本部にあって、自分が経験した絶望的な飢餓と補給の欠乏を二度と繰り返さないために万全の後方支援を整えることに腐心した。
小畑敏四郎は児玉にも認められた作戦立案の冴を参謀総長として存分に奮ったが、兵士を送り出すときは彼らを必ず生きて帰すために退路の確保を怠らなかった。
児玉は時間が許すかぎり次の世代を担う若者に実地での教育を施し、大きな仕事を任せて責任をもたせ、時には銃弾の雨を掻い潜らせることで、鍛え上げた。
若者たちは見事にそれに応えた。
児玉軍が壊滅することは、日本陸軍の明日が壊滅することと同義であった。
彼らを守るために児玉は自らの意思で軍人の本分を逸脱することを選んだのだった。
そして、決断した後の児玉の行動は電光石火であった。
児玉は臨時政府からの命令書を偽造すると、
「より重要度の高い戦域への移動」
という名目を以て戦線から速やかに離脱した。
児玉軍の戦線離脱については特に問題にはならなかった。隣接する戦区のロシア軍将校にとってそれはもっともなことだと思えたからだ。
児玉軍の戦力はウクライナ戦線最強と認識されており、なぜこんな重要度の低い戦線に彼らがいるのか不思議がっているほどだった。
さらにロシア軍の将校達は兵隊が自分たちの命令ではなく、ソビエト(理事会)の命令しか受け付けないという組織崩壊のさなかにあり、外国人のことに構っている余裕をなくしていた。
児玉軍は撤退の際に邪魔となる重装備を破棄するため、貯蓄していた砲弾を全て中央同盟軍に撃ち込んでから戦線離脱した。
にわかに猛烈な砲撃を受けた中央同盟軍は、ロシア軍の攻勢準備射撃と勘違いして防御態勢をとった。
そのため児玉軍は追撃を受けることなく撤退に成功した。
そして、無謀なケレンスキー攻勢が大失敗に終わり、ロシア軍全体が崩壊していくという大混乱の中、児玉軍は軍用列車を乗り継いで東へ東へと向かった。
軍用列車の調達はもっぱら偽造した命令書によって行われたが、それが常に上手くいくとは限らなかった。
ロシア帝国軍の憲兵隊は大混乱の中でも職責を果たそうと苦心しており、幾度となく児玉軍は危機に陥った。
冗談のような話だが、後に首相となる永田少佐(当時)は、銃を構えて詰問するロシア軍憲兵隊に対してロシア語がわからないモンゴル人のフリをすることで切り抜けた。
ロシア帝国は広大なのでロシア語のわからないロシア人は珍しくなかった。
そうした機転が効かない相手には38年式歩兵銃を水平に構えることで対処した。
長い日本陸軍の歴史において、列車をハイジャックした経験のある陸軍大将は後にも先にも児玉源太郎ただ一人だけである。
1917年10月25日、児玉軍はウラル山脈を越えた。
同日、ロシアの首都ペトログラードにて、ボルシェビキ革命家が武装蜂起し、10月革命が始まっている。
これは児玉軍にとって有利に働いた。
革命の混乱の中にあって、敢えて外国人と関わりにあいになりたいとは思うものは少なく、児玉軍の移動はむしろ順調になった。
少し事情が分かるものは、彼らが遠い極東の島国からドイツ軍と戦うために来た援軍であることを知っており、食料を分け与えるなど好意的だった。
最大の難関であるウラル山脈突破に成功したことで、児玉軍にもほっとした空気が流れた。
本国との通信も回復し、正式な撤退命令が下りたことで児玉が命令違反に問われる可能性もなくなった。
撤退は順調で、本国から救出部隊(シベリア出兵)が進発したことも分かっていた。
しかし、運命は児玉軍に過酷な試練を課すことになる。
1917年11月18日、ウラル地方のエカテリンブルクの郊外にて、児玉軍の前路を偵察中だった捜索騎兵中隊が奇襲された。
攻撃したのはボルシェビキ軍の一団であり、攻撃そのものは大したものではなかった。
ボルシェビキ軍は火力に乏しく、正規軍を相手にするときは一撃離脱のゲリラ戦法を用いるのが常であった。
よって普段ならさっさと離脱するはずである。
しかし反撃を受けると何故かボルシェビキ軍が頑強に抵抗したので、不審に思って周囲を探索したところ、負傷した老人とその家族と思しき人々を発見した。
捜索騎兵は情報収集を任務とする関係でロシア語に明るいものが多かったことから、すぐに事情を把握して軍司令官の児玉を呼び出すことになった。
陸軍大将の児玉を呼び出せる人物は、日本なら天皇陛下か内閣総理大臣ぐらいしかいなかった。
そこはロシアなので、ロシア皇帝ぐらいしかいない。
つまりはそういうことだった。
児玉軍は全く偶然にも、ロシア皇帝ニコライ2世とその家族を保護した。
ニコライ二世は既に退位した後であり、実際には元皇帝だったのだが、例え元であろうと、前であろうと、ニコライ二世であることに変わりはなかった。
彼が亡命を望んでいるのなら拒否するという選択肢はないのである。
児玉は努めて平静を装ったが、その空気はウラル山脈を突破したときよりも重かった。
革命で赤く染まりつつあるロシアの大地で、皇帝一家を救出するということは、火薬庫の中で火のついたマッチを拾うようなものだった。
皇帝一家を奪われたボルシェビキ軍の追撃は必至である。
児玉の予想通り、ウラジーミル・レーニンは皇帝一家が奪われたことを知ると
「いかなる犠牲を払っても」
と、付け加えた上で奪還を指示し、不可能な場合は殺害するように命令した。
ボルシェビキの精鋭部隊と虎の子の装甲列車が児玉軍に迫撃した。
児玉軍は捕虜となっていたチェコ人を解放して戦力に加え、追撃するボルシェビキ軍と激戦となった。
幸運なことに児玉軍はシベリア鉄道の沿線各地で日本から児玉軍に送られる予定だった武器弾薬食料、そして新兵器を回収することができた。
それは戦車(ルノーFT17)であった。
日本はフランスから戦車を輸入し、児玉軍に配備するために準備を進めていた。
しかし革命の混乱によって予定通りに児玉軍には届かなかった。
児玉軍に送られた戦車の大半は行方不明となったが、シベリア鉄道の倉庫に死蔵されていた10両は偶然にも児玉軍に回収された。
幸いなことに日本陸軍は半分はフランス陸軍を模範としていたことから、フランス語に明るいものが多く、フランス語のマニュアルを読み解くことは可能だった。
さらに解放捕虜のチェコ人は機械に強く(チェコはオーストリアの工業地帯である)、なんとか戦車を動かすことができた。
日本陸軍初の戦車隊は日本人とチェコ人の混成部隊だったのである。
背後から迫るボルシェビキ軍の攻撃を防ぐ盾として、戦車は大活躍した。
戦後に日本陸軍が戦車の研究開発に多くの予算を割いたのは当然といえるだろう。
新兵器を手に入れた児玉軍だったが、ボルシェビキ軍の追撃は厳しく、レナ川の川辺で児玉軍は完全に包囲されてしまった。
そこで児玉は唯一の退路であるレナ川にかかった橋を爆破させた。
あえて背水の陣を敷くことで士気を鼓舞する。
・・・と見せかける計略だった。
ボルシェビキ軍の指揮官はまんまと児玉の計略にひっかかった。
児玉軍が橋を爆破して退路を断ったと知るや逆撃を予想し防御態勢をとったのである。
その間に児玉軍は破壊した橋を速攻で修復(-30度の凍てついた川に浸かって)し、レナ川を渡ってボルシェビキ軍の追撃を振り切った。
1918年2月28日、児玉軍はバイカル湖の湖畔で日米の救出部隊と合流し、ついにその任務を完遂した。
これが日本陸軍の伝説となったシベリア大返しの概要である。
生還した兵士は派遣軍全体(6万名)のうち、約半数の2万5千名だった。
これに解放捕虜のチェコ軍団を加えた5万人が日本の土を踏むことになる。
多くの兵士は生きて帰国できるとは考えておらず、生き残った喜びを噛み締めた。
チェコ人達は地球の反対側まで連れてこられて呆然としていた。
児玉は東京に帰還すると事の次第を天皇に上奏した。
児玉は国軍を私にしたことを謝罪した上で、解放捕虜のチェコ人に対する寛大な処置を求め、シベリア大返しで体感することになったボルシェビキズムの脅威を訴えた。
児玉は日本人で最初にボルシェビキズム(過激レーニン主義)の脅威に警鐘を鳴らした人物になったのである。
ここからは余談となるが、解放捕虜のチェコ人は本来は中央同盟軍の兵士であり、国籍の上では敵兵として扱うのが正当な措置だった。
しかし、日本政府は彼らを亡命者として扱い、大戦終結まで匿った。
21世紀現在、チェコ共和国とスロバキア共和国は東欧随一の親日国なのはそのような歴史的な経緯がある。
また、児玉の采配に心酔したチェコ人のかなりの数が戦後も日本陸軍に残ることを望んだため、日本陸軍に外人部隊が設置された。
外人部隊といえば本家はフランス陸軍だが、フランスに学んでいた日本陸軍にはそれまで外人部隊がなかった。
日本陸軍外人部隊の象徴となる黄色い星をあしらった汎スラヴ色の三色旗はチェコ由来のものである。
21世紀現在も日本陸軍外人部隊は健在であり、緊急展開部隊として世界各地で活動している。
児玉と共に来日したニコライ2世は天皇と会見し、救出に謝意を述べたものの日本での生活には馴染めず、まもなく従兄弟が王族をやっているスウェーデンに亡命した。
ただし、第四皇女のアナスタシアだけは日本に残ることを望んだ。
彼女が日本に残ったのは奇跡的な救出となった1917年11月18日のあの日に出会った運命の人(彼は日本陸軍の騎兵将校だった)と結ばれるためだった。
確かに乙女の危機に際して白馬に乗って助けに現れた(全て実話)のだから、それは運命だったに違いない。
これは余談だが、アナスタシア皇女と日本人騎兵将校の子孫が21世紀現在日本のアイドル声優(非常にロシア語が上手い共産趣味者)というのはその筋では有名な話である。
さらに余談だが、児玉の計略に乗せられてまんまと児玉軍と皇帝一家に逃げられたボルシェビキ軍の指揮官は職務怠慢の罪に問われ銃殺となった。
銃殺された指揮官の氏名は長らく不明だったが、21世紀初頭に機密指定が解除されたことで氏名が判明した。
銃殺された指揮官はイオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリというグルジア人の共産党員だった。
ジュガシヴィリにはペンネームがあり、そちらの方が発音が簡潔なため、日本人には覚えやすいかもしれない。
彼のペンネームはスターリンである。