日露不戦
日露不戦
日清戦争は、日本と中国にとって大きな分かれ道となった。
曲がりなりにも勝利した日本はアジアにおける唯一の近代国家という立場を手に入れた。
台湾と澎湖諸島という海外植民地を得たことは土地やその物産以上にステータスシンボルとしての価値が大きかった。
それは欧米列強がもっている植民地に比べたら微々たるものであったが、無いと有るでは大きな違いがあった。
20世初頭の世界において、一等国とは植民地をもつ国家であり、日本はその末席に加わったのである。
もちろん日本の国力は欧米列強から見たら塵芥のようなものであった。
しかし、そうであるがゆえに欧米列強からするとやりづらい相手だった。
棘があるくせに大した物産も無い小さな島国日本は魅力のない獲物と言える。
当時の日本で魅力のある物産は絹か陶磁器ぐらいなもので、それ以外は多少、銅が産出する程度であり、植民地化するコストを考えるとどう考えても赤字であった。
棘がある痩せ狼よりも、どうせなら食べごたえのある太った豚にかぶりつきたいと考えるのは誰でも同じことである。
そして、日本のような小国相手に互角の戦いしかできない清は、眠れる獅子ではなく、食いごたえのある太った豚だと認識された。
日清戦争後、欧米列強による中国侵略は激化し、清朝は無力さを露呈した。
結果、民衆の怒りが爆発し、義和団事件(1900年)が勃発する。
欧米から流入するキリスト教思想に反発する保守派や民衆が宗教的な性格をもつ秘密結社を中心にまとまった義和団は、中国の王朝末期にしばしば見られる宗教反乱といえるだろう。
雪だるま式に民衆を吸い上げて膨れ上がった義和団が北京を席巻し、在外公館が襲撃された。
それだけでも致命傷であったが、さらに清朝は無謀にも欧米列国の全部に宣戦布告したため、列強国全てとの全面戦争となった。
破れかぶれという言葉しかなかった。
しかし、理性を働かせて紫禁城を囲んだ義和団の要求を断ったら、怒り狂った民衆に清朝は踏み潰されていた。
勝ち目のない対外戦争と内乱による国家滅亡を二者択一で選んだ結果が、列強国全てへの宣戦布告だったと言える。
作中とは異なる時空に存在する極東の軍事帝国も滅亡直前に似たような二者択一の果てに対外貿易の90%を依存する経済大国に勝ち目のない戦いを挑んだりしているので、末期的な状態の国家がやることは大体似たようなものである。
戦争そのものは、宣戦布告(1900年6月21日)から、僅か2ヶ月で終了した。
北京はあっけなく8カ国連合軍(イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本)に占領された。
僅か2ヶ月で1年かけても日本軍が到達することができなかった北京に8カ国連合軍はあっけなく到達した。
日本も8カ国連合軍に参加していたが、この展開には呆気に取られるしかなかった。
この時、北京を占領した連合軍によって紫禁城の宝物殿が略奪を受け、頤和園などの文化的遺産が多数、破壊された。
日本軍も略奪に参加し、多くの戦利品を得た。約300万両の馬蹄銀や30万石の玄米を鹵獲した記録が残っている。列国中戦利品が最も多かった。
日清戦争で賠償金を得られなかった日本はやや我を忘れていたと言える。
これは不味い対応だった。
ほんの数年前に高陞号事件で蛮族のそしりを受けたばかりの時期に略奪行為に走ったのは外交的には大きなマイナスと言える。
他の列強国も略奪に参加していたことから、日本ばかりが悪とするのは不平等かもしれない。
しかし、時期がまずかったことは確かである。
北京にいたジャーナリストのジョージ・アーネスト・モリソンは、
「日本軍の占領地では女の悲鳴が絶えることがなく犯罪行為が横行した」
とタイムに寄稿している。
ただし、モリソンは他の列強国も同様の略奪行為を行っており、それを平等に批判してることから日本だけが問題視されたわけではない。
後に日本政府はこの軽はずみな行動を死ぬほど後悔することになるのだが、それは少し後の話である。
8カ国連合軍の北京占領は1年に及び、義和団掃討の名目で各国の派遣した軍は中国各地を占領して回った。
その中でも最大勢力となったのがロシア帝国だった。
ロシア帝国は満州を軍事占領し、賠償として遼東半島を割譲させるなど、領土的野心を隠そうともしなかった。
遼東半島の獲得は、ロシアの歴史とって画期的な意義があった。
ロシア帝国は広大な国土を持ち、物産に恵まれた大国であったが、その豊かな物産を海外に輸出するための港を欠いていた。
夏はともかく、冬になると海が凍結してしまい使用不能になってしまう。
そのためロシア帝国は凍らない海と港(不凍港)を求めて、バルカン半島やアフガニスタンに進出し、トルコやイギリス、フランスと血なまぐさい衝突を繰り返してきた。
白衣の天使が活躍したクリミア戦争もその文脈で発生した戦争である。
中国の遼東半島は天然良港である旅順・大連を備え、冬でも決して凍ることなく、ロシアの豊かな物産を輸出にするには最適の立地にあった。
旅順・大連をシベリア鉄道と連結するために建設されたのが東清鉄道である。
ロシア帝国は賄賂を使って清朝の腐敗した官僚達を籠絡して鉄道敷設権を認めさせた。
これは植民地支配のための鉄道であり、満州は事実上、ロシアの植民地となった。
日本はこうしたロシアの動きを何ら牽制することができなかった。
なにしろ日本はかなり早い段階で兵力を撤退させていたのである。
義和団事件において日本政府は日本の軍事力を極東の憲兵として、その存在価値を売り込みたいという思惑があった。
しかし、派遣軍の軽はずみな行動で全て台無しになっており、これ以上恥を晒すまえに逃げ出していたのである。
ロシアを牽制すべきときに、余計なことをしたものである。
満州を占領したロシア帝国は、次に征服すべき土地を朝鮮半島と定めていた。
遼東半島とウラジオストクの間に位置する朝鮮半島を占領しておかなければ、2つの海軍拠点を分断される危険があった。
ロシア帝国としては朝鮮半島南端にある釜山に海軍基地を建設し、遼東半島とウラジオストクの海上連絡線を補強しておきたかった。
対馬海峡はロシア帝国にとって自由な状態であるべきだった。
そのために対馬も占領しておいた方がいいのは自明の理屈である。
可能なら対岸にある日本人がキュウシュウと呼んでいる島の北部も欲しかった。
凍らない港は多ければ多いほど良いに決まっていた。
ロシア帝国は極東征服の手始めに、李氏朝鮮に圧力をかけた。
朝鮮半島には先にアメリカ人が入り込んでいたが、ロシア帝国の眼中にはなかった。
義和団事件で少数の兵力しか派遣しなかったアメリカ人が、強大なロシア陸軍と本気で事を構えるとは思えなかったのである。
日清戦争の結果、独立した李氏朝鮮は大韓帝国を名乗っていたが、近代化改革はまだ始まったばかりであり、ロシアの圧力には抗するべくもなかった。
日本は国家存亡の危機に立たされた。
しかしてその軍備は心もとない規模でしかなかった。
陸軍にはおいてはやっと10個師団体制を確立したばかりで、海軍はそれよりも状況が悪く、ロシア海軍とまともに戦える戦艦は4隻しかなかった。
当時、日本では大型艦艇を国産することができず、全て輸入に頼っていた。
4隻の戦艦(三笠、富士、朝日、敷島)も全てイギリス、フランス、イタリア、ドイツに発注されたものである。
旅順艦隊に対抗するのも厳しい兵力で、もしも戦争になれば日本海軍は戦艦を囮にして本土近海に引き込み、多数整備した小型の水雷艇で奇襲する作戦を立てていた。
こうした発想は完全に沿岸海軍のそれであり、優勢なイギリス海軍に小型の水雷艦艇で対抗するフランス海軍の発想である。
ただし、日本海軍はイギリス式の大艦巨砲主義を全て捨てたわけではなく、戦艦の整備も平行して行っていた。
そのためどっちつかずの不満足な艦隊しか整備できないというのが、明治の日本海軍であった。
海軍内部の思想的な対立は日清戦争を経てもなお解決には程遠い状況であり、日本海軍はただでさえ少ないリソースを奪い合うという非効率的なことを行っていた。
しかし、仮に海軍の兵制が完全に統一されたとしても、これ以上の軍拡は当時の日本では不可能だったと考えるのが一般的である。
もしも、日清戦争が日本の大勝利に終わり、多額の賠償金を得ることができていたら、もう少し状況は違っただろう。
しかし、無いものは無いのである。
そのため日本の国内世論は外交的解決を望む声が圧倒的に多かった。
明らかに勝ち目のない戦いである。
相手は同じアジアの国である清ではなく、ナポレオンを打ち破ったロシア帝国である。
これに勝てると考えるのは極端に脳が薬品に侵されている馬鹿ぐらいしかいない。
日清戦争前には散々主戦論を煽った新聞でさえ大人しいものだった。
しかし、外交的解決が上手くいくという保証はどこにもなく、実際に第一次日露交渉(1903年8月)は不首尾に終わった。
常識的に考えて、圧倒的な大兵力を擁するロシア帝国に日本と妥協しなければならない理由はどこにもないからである。
日本の弱腰姿勢を感じ取ったロシア帝国極東総督エヴゲーニイ・アレクセーエフは、どうやって日本からより多くを奪うか考えを巡らせることになった。
今なら日本を征服できるとアレクセーエフは考えたのである。
ロシア皇帝のニコライ2世も状況を楽観視しており、
「余が望まぬ限り、戦争は起きない」
と、日本を舐めきった態度をとっていた。
彼が望めばいつでも日本を叩き潰すことができると言っているようなものだった。
そして、それはかなりの部分で事実といえた。
陸軍は10倍以上の差があり、最も戦力差の近い海軍でも3倍以上の数的優勢を確保しているのだから負けるはずがなかった。
義和団事件後に日本が水面下で進めていたイギリスとの同盟交渉が上手くいっていれば、もう少し違う展開があったかもしれない。
当時、イギリスは上海・揚子江に商圏を広げており、満州からロシアが南下することを警戒していた。
そこで日本政府はロシアの南下を阻止する防波堤の役割をイギリスに売り込み、同盟交渉を持ちかけていたのである。
大英帝国は19世紀におけるグレートパワーであり、極東でロシアに対抗できる唯一の国家だった。
しかし、イギリスの感触は芳しいものではなかった。
日本の軍事力ではロシアの南下を阻止できないと悲観的に考えていたのである。
さらにイギリスは高陞号事件を起こした国際法に疎い日本いうイメージをひきずっており、野蛮な国と同盟することで、イギリスの国際的な評価が下がることを危惧していた。
日本は義和団事件で北京を占領した際に略奪行為を行っており、高陞号事件で下げたイメージをさらに押し下げていた。
19世紀後半からイギリスは栄光ある孤立という非同盟政策を採用しており、その栄光を捨てる相手として日本はふさわしくなかった。
イギリスとの同盟交渉は暗礁に乗り上げた。
ロンドンで同盟交渉にあたっていた陸奥宗光は交渉が失敗に終わり、
「かくなる上は一兵卒として死に場所を探そう」
と絶望を口にしたほどであった。
日英同盟は国力に劣る日本にとって最後の希望だった。
辞表をしたためていた陸奥を止めたのは、海援隊の同志である坂本龍馬であった。
保科祥雲と共に現れた坂本は陸奥を強引に船へ乗せてアメリカへと誘った。
坂本は、
「策を練るには海の上にかぎるぜよ」
と明朗闊達に将来の展望を語って、絶望しきっていた陸奥を励ました。
保科の頭脳は剃髪して禿頭であったが、知恵の湧き出る泉であった。
大西洋を西に向かう朝顔丸の船中で3人が練った策が、明治の天下三分の計となる日米協商論であった。
坂本と保科は19世紀の超大国であるイギリスではなく、アメリカ合衆国こそ日本が手を結ぶべき国家であると考えていた。
日清戦争後、朝鮮半島の鉄道敷設権を得たアメリカは朝鮮鉄道株式会社を設立し、朝鮮半島の鉄道経営に乗り出した。
アメリカの鉄道建設速度は凄まじいもので、1904年までに釜山から漢城を経て新義州に至る鉄道網の整備を終えていた。
アメリカの工業力はヨーロッパ列強に比肩する水準に達していたのである。
しかも、その発展はまだまだ途上であり、今後のさらなる発展が約束されていた。
広大な国土と豊かな天然資源、そして豊富な移民労働力は、父祖の国のイギリスにはないものであった。
朝鮮鉄道株式会社の代表者は、アメリカの鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンである。
ハリマンは朝鮮半島に鉄道を建設する際において、日本の東武鉄道をパートナーに選んだ。
東武鉄道はアメリカから中古の機関車や客車を購入していたが、その仕入元がハリマンの経営するユニオン・パシフィック鉄道だったからである。
東武鉄道はアメリカ製の機関車、客車、その他鉄道関連設備の取り扱いに精通しており、ハリマンがアジアに鉄道を建設するなら、その能力を活用したいと考えるのは当然要求であった。
確かに朝鮮鉄道の経営者はアメリカ人で、資本もアメリカ資本だった。
しかし、そこで雇用されているのは大半が日本人で、皆、東武鉄道の関係者だったのである。
アメリカ本土から人を船で送るよりも遥かに安くあがるのだから、資本の理屈からいえば日本人を雇うは当然の帰結だった。
また、ハリマンと東武鉄道社長の保科祥雲はビジネスパートナー以上の友誼を結んでいた。
二人は朝鮮鉄道を東清鉄道と接続し、シベリア鉄道を経由して釜山からヨーロッパまで鉄路でつなげる(ユーラシア大陸横断鉄道)という夢を語り合うほどの仲だった。
その夢は異常なまでに詳細なもので、二人が書き残した膨大な量のスケッチがハリマン家に収蔵されている。
列車や駅舎のデザインは当然として、そこで働く従業員の制服から、社員食堂、事務所といった付属施設まで細かくスケッチに書き起こされていた。列車運行管理システムやダイヤグラムまで完全に二人で自作したものが発見されている。
二人がユーラシア大陸横断鉄道で走らせようとしていた列車は当時の科学技術ではサイエンスフィクションの領域に踏み込んだ妄想的なものだった。
つまり、車輪のない列車である。
20世紀初頭の技術ではとうてい不可能な話であり、リニアモーターカーが実現するのは21世紀初頭の話である。
それでも丁寧に列車の一台一台に名前をつけてスケッチを書いた二人の大人のどこか興奮した、同じ病気に罹病していた人間同士の意気投合した喜びを感じ取ることはできるだろう。
要するに、二人は重度の趣味友(鉄オタ)だった。
ハリマンは朝鮮半島がロシアに飲み込まれる不利益の大きさを説き、経済界を通じて議会とホワイトハウスに揺さぶりをかけた。
ハリマンの人間性を知るものは、それが100%趣味であることを知っていたが、現実の利益が伴っている点において、ハリマンは天才的な経営者だったと言える。
親日家のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは経済界や議会が日本支援に傾くなかで、精力的に日露交渉を仲介した。
セオドア・ルーズベルトは坂本龍馬と旧知の仲であり、定期的に手紙のやり取りをするほどの親交があった。
明治維新後、坂本商会がアメリカに支社を設置したときからの付き合いがあり、革命戦争を生き抜いた破天荒な坂本の性格をセオドア・ルーズベルトは好んでいた。
ルーズベルト家と坂本家は家族ぐるみの付き合いがあり、親類のフランクリンも幼き日に東洋からやってきたリョーマ・サカモトとショーウン・ホシナと親交を深めた。
ショーウン・ホシナが幼いフランクリンに与えた影響は大きく、フランクリンは日本語の歌さえ歌うことができるほどだった。
幼いフランクリンが覚えた日本の歌(巫女巫女看護婦、氷精算学教室)は、意味深な歌詞であることから何らかの暗号ではないかという説がある。
日本への興味を刷り込まれたフランクリン・D・ルーズベルトが後にアメリカ大統領になったとき、最初に訪問した国は当然、日本だった。
FDRは秋葉原を訪問することを強く希望し、1930年代に電気産業の集積地として発展しつつあった秋葉原電気街を見て感動したというのはまた別の話である。
この一連の流れを日本の全権大使を務めた小村寿太郎は後で振り返り、保科祥雲や坂本龍馬のコネクション、そしてアメリカに朝鮮を委ねた大久保利通の卓抜した先見性に脱帽するばかりと述懐した。
ホワイトハウスに乗り込んだ坂本と保科、陸奥による直談判を経て日米協商が締結されたのは1903年10月5日のことである。
協商という言葉は経済的な連帯ではなく、政治的な連帯の意味である。
陸奥は”同盟”を使いたかったが、これ以上の踏み込んだ表現は困難だった。
それでもモンロー主義の強い20世紀初頭のアメリカが、日本と手を結んだことは少なくない驚きをもって国際社会に迎えられた。
日米協商により、アメリカは日本に対する治外法権を撤廃して、関税自主権の回復にも同意した。
幕末に押し付けられた不平等条約の改正は日本の悲願であった。
1904年1月12日、アメリカの仲介が入った第二次日露交渉がパリで始まった。
この交渉で小村はロシア帝国の全権大使セルゲイ・ヴィッテの態度軟化を感じ取り、漸く愁眉を開くことができた。
しかし、交渉は簡単には進まなかった。
ロシアはアメリカの介入がブラフではないかと疑っていた。
モンロー主義の強いアメリカが、極東の日本を助けるために軍事力を使うなど容易に信じられるものではなかった。
義和団事件でも少数兵力しか派遣しなかったアメリカは、戦争になっても口先介入だけに終わるのではないか?ヴィッテはそう考えていたのである。
そこでアメリカはロシアに圧力をかけるために、大韓帝国から済州島を99年間租借し、海軍基地を置くと発表した。
済州島に艦隊を展開すれば、旅順のロシア艦隊は黄海に封じこめられてしまう。
ロシアが朝鮮半島を侵すならアメリカは決して座視しないというメッセージだった。
この発表にロシアは不気味な沈黙で答えた。
1904年2月3日、ロシア帝国海軍の旅順要塞を監視していた日本海軍の通報艦が、ロシアの巡洋艦が港内から消えていると急報を発した。
日本全土が緊張に包まれた。
人々は恐れおののき、日本沿岸各地ではロシアの艦隊を見たという誤報が警察に殺到し、パニックが起きた。
奇襲攻撃を警戒し、日本海軍は全力を挙げて消えた露巡を捜索したが、その消息は杳として知れなかった。
1904年2月6日、消息不明の露巡ヴァリャーグが姿を現したのは済州島沖だった。
ヴァリャーグは済州島に停泊するアメリカ海軍東洋艦隊を発見すると、軍艦旗を半旗とした。
ヴァリャーグは戦うためにそこに来たわけではないのだから当然の対応だった。
アメリカ東洋艦隊の各艦が答礼を行うとヴァリャーグは済州島から遠ざかっていた。
これが第二次日露交渉の最も緊張した瞬間だった。
1904年2月8日、ついに日露交渉は妥結にいたり、日露協商が結ばれた。
この条約で、ロシアは大韓帝国の独立を確認し、朝鮮半島での日本の優先権を認めた。
反対に日本は満州でのロシアの優先権を認めることになる。つまり、お互いの勢力圏を相互承認し、その不可侵を約したのである。
こうして明治日本の最大の危機は去った。
日本では多くの人々が日露交渉の行方を固唾を呑んで見守り、妥結の知らせが届くとお祭り騒ぎとなった。
困難な交渉を成功させた小村は救国の名外交官として称揚され、パリから帰国した小村を出迎える群衆の列は横浜港から東京まで延々と続いた。
小村は士族であり、涙もろい男ではなかったが、横浜港を駆けつけた群衆の歓呼には熱いものが溢れるのを抑えきれなかったという。
日露協商成立は、日本の国際的な評価を大きく引き上げた。
不平等条約改正を拒否していた欧州諸国はあいついで改正交渉に応じ、日本は不平等条約の完全な廃止に成功する。
困難な日露交渉を成立させた日本は、欧米列強からその実力を認められ、文明国の列に並んだのである。
もちろん、日本の政治経済軍事力は他の列強国は比較にならないほど弱体である。
しかし欧米人にとって重要なのは、自分たちと同じルールを知っていて、そのとおりに行動できるか否であった。
日米協商と日露協商を経て、極東アジアにおいては満州のロシアと上海・香港を擁するイギリス、朝鮮半島をテリトリーとする日本とアメリカによる勢力均衡が成立した。
明治の天下三分の計とも称される勢力均衡策により、ようやく日本は国家安全保障の安定を見ることになる。
その安定はもしかすると明日にも崩壊するかもしれない儚いものだったが、極東の小さな島国が国力を蓄えるためには十分なものだった。