坂の上の雲以前に坂道が登れない件について
坂の上の雲以前に坂道が登れない件について
日清戦争(1894年)は、明治日本が国家の安全保障を追求した結果、発生した。
ユーラシア大陸から突き出す朝鮮半島は、日本列島に向かう大陸橋であり、日本は本土防衛のために朝鮮半島を占領するか、最低でも親日国家勢力を築く必要があった。
朝鮮半島が清やロシア帝国に支配され、釜山や済州島に敵性艦隊が駐留し、即座に日本の海上交通を破壊できる体制が確立されれば、日本はその暴力に屈服するしかなくなる。
日本は植民地に転落し、日本人は尽く人間ではなく、奴隷として扱われるだろう。
明治日本の悪夢とはまさにこのようなことであった。
19世紀末の、欧米列強の帝国主義が極限まで発達した世界において、これを妄想や杞憂と片付けることは不適当である。
当時の日本人は本気の本気で、民族の生存を賭けて朝鮮半島をめぐるパワーゲームに参加していた。
日本にとって不幸だったのは、その危機感を朝鮮半島を支配する李氏朝鮮と共有できなかったことだろう。
李氏朝鮮の指導者達は、腐敗しきった中世的な支配構造を温存することしか頭になく、自らの運命を宗主国の清に委ねることを是としていた。
1894年1月、大規模な農民反乱に直面した李氏朝鮮政府は、自力での反乱鎮圧が不可能と悟ると宗主国の清に軍隊派遣を求めた。
これにより朝鮮半島が清の軍事的影響下に置かれることを危惧した日本政府は、天津条約 (1885年)に基づき、朝鮮半島に陸軍を派遣した。
日本の派兵に驚いた李氏朝鮮政府は反乱軍と和解して、緊急事態は去ったとして日清双方に撤退を要求した。
日本政府はこれを拒絶し、軍事力を以て朝鮮半島の制圧を決意する。
独力で国内の反乱勢力を鎮圧できず、外国に軍隊派遣を要請するような脆弱な李氏朝鮮政府を存続させることは、日本にとって有害無益だった。
朝鮮が独力で改革を行って、適正な軍事力を保有して国家として独立を確保していれば、もう少し協力のしようがあったのだが、現実は非情である。
日本の宣戦布告は1894年8月1日だった。
戦闘はそれ以前に始まっており、漢城周辺で日清両軍が激突していた。
緒戦は日本軍が勝利をおさめて漢城周辺から清軍を排除した。
この勝利で日本軍には勢いがつき、各地で清軍を撃破しつつ朝鮮半島を北上していった。
しかし、その勢いは長くは続かなかった。
平壌を占領して清朝国境の鴨緑江に到達すると、日本軍はもはや息も絶え絶えといった様相を呈するようになる。
初めての対外戦争という不慣れもあったが、日本軍の消耗は事前の想定をはるかに超えるものだった。
理由はいくつか考えられる。
そもそも日本軍はそれほど強力な軍隊とは言えなかった。
確かに装備や編成は近代化されており、中世的な体制を引きずっている清軍に比べれば遥かに強力に見えた。
しかし、内情は必ずしもそうではなかった。
明治政府は四民平等を掲げて士農工商からなる身分制度を解体し、国民の平等と能力本位の人材活用を基礎とする新国家建設を目指した。
学制(1872年)のような国民皆学の布告はその具体的な展開である。
次の展開として国民皆兵制度の創設が構想された。
しかし、それには紆余曲折があった。
政府内部の路線対立があったためである。
明治政府は、革命戦争が新体制(薩長土肥)と旧体制(旧幕府・列藩同盟)の共倒れを防ぐために和解という形で終わったことから、内部に多くの旧体制派を抱えることになった。
国民皆兵に強固に反対したのはそうした旧体制派であった。
旧体制派は軍役を士族で独占することで、士族の特権(帯刀や秩禄制度)を維持しようと考えていた。
軍役は武士の専権事項であるとした彼らの主張は、薩長土肥の保守派にも相通じるところがあった。
さらに政権参加していた公家グループも、国民が武装して易姓革命が起きることを本気で恐れており、国民皆兵には否定的だった。
妥協案として、1873年に制定された徴兵令は徴兵対象を士族に限定していた。
一応、志願すれば平民でも入隊は可能とされたが、将校になれるのは士族と華族に限定した。
どれほど本人に能力があっても平民がなれるのは下士官までなのである。
これで有為な人材が集まると考えるのは無理があった。
集まった人材も、次第にやる気が失せていく。
もしも、戊辰戦争がより少ない犠牲者で終結し、大村益次郎や山県有朋のような軍務に通じた人物が明治政府で活躍していればこんな妥協案には決して同意しなかっただろう。
しかし、多くの人材を失った明治政府は旧敵である旧幕臣系の人材なくして成り立たないのも事実であった。
陸軍大臣にまで上り詰めた近藤勇(新選組)や海軍大将となった榎本武揚(旧幕府)は、その優れた見識やリーダーシップで明治の創業期を支えた。
弱体な明治陸軍が佐賀の乱や神風連の乱、西南戦争で勝利できたのも旧幕臣の活躍によるもので、彼らを頭の堅い守旧派として十把一絡げに否定するのは適当ではない。
これは余談だが、西南戦争における旧幕臣、特に元新選組出身者の勇猛果敢な戦いぶりは特筆に値するものだった。
西郷軍が強固に防衛した田原坂をわずか1個連隊で突破した土方歳三大佐の活躍は広く知られるところである。
新選組の元隊士達は西南戦争において、献身的に戦場へ身を投じた。
決して、合法的に薩奸を殺せるのが嬉しくて堪らないとか、そういうわけではない。
興味深い写真が西南戦争の戦勝記念に撮影された。
西郷の死に意気消沈する薩長閥の将校と喜色満面の旧幕臣(特に土方歳三)系将校のコントラストである。
それはそのまま明治政府内部の深刻な対立を現していた。
そうした温度差は軍を動かすドクトリンにも反映されていた。
日本陸軍の歩兵操典はプロイセン式とフランス式が混在しており、統一した軍事行動に問題を抱えていた。
なぜか?
江戸幕府は近代陸軍建設に関して、もっぱらフランスに支援を求めた。
ナポレオン・ボナパルトとグランド・アルメの伝説的な強さは鎖国政策下にあった日本にも伝わっており、ナポレオンは日本国内では「奈翁」として広く知られていた。
よってその最強の軍隊に習うことは、合理的な選択であったと言えるだろう。
薩長に接近するイギリスに対抗するフランスの思惑も手伝って、幕府陸軍はフランス式で建設された。
フランスの思惑は幕府が瓦解したことで空振りに終わったが、その遺産は明治陸軍に引き継がれた。
初期の明治陸軍はフランス式だったのである。
しかし、フランスが普仏戦争(1870年)に破れたことから、明治政府はフランスから学ぶことはないとして、フランスを破ったプロイセン式への転換を図った。
これに明治陸軍内部の旧幕臣は猛反発することになる。
なぜならば、それまで培った経験や学識が無意味になるからである。
実際のところ、明治政府の主導したプロイセン式への転換は、兵制を一旦白紙状態にすることで旧幕臣の影響力を排除する意図があった。
ちなみに旧幕府系でも会津藩はドライゼ銃を国産化するなど、幕末からプロイセン式の兵制を取り入れていた。
松平容保の先見性が光るところである。
結局、ドクトリンも徴兵令と同じく妥協案が採用され、フランス式とプロイセン式の良いところを取り入れるという玉虫色の決着となる。
フランス式とドイツ式が混在し、朝令暮改が繰り返された結果、訓練方法や軍令に統一性を欠いた状態となり、日清戦争でその欠陥は露呈することになった。
これは余談だが、フランス式とドイツ式の混成は悪いことばかりではなく、日本からの兵学教官派遣要請にドイツ帝国が応じたのは、敵対国のフランスが派遣要請に応じていたためである。
フランスへの対抗心から、ドイツは大モルトケの直弟子であるクレメンス・W・J・メッケルを日本に派遣し、参謀教育に当たらせた。
メッケルの日本陸軍近代化に果たした役割は大きく、メッケル来日がなければ日清戦争に踏み切ることは不可能だったと言われるほどである。
明治海軍においても状況は同じだった。
海軍の場合はフランス式とイギリス式の混在である。
初期の明治海軍はフランス式で建設された。
日本海軍の横須賀海軍工廠は、旧幕府がフランスの技師レオンス・ヴェルニーを招いて建設した横須賀製鉄所が基礎となったものである。
艦内で供される料理も全てフランス料理であった。
イギリス料理を敢えて導入する意義など、この世のどこにもありはしないからだ。
陸軍同様に旧幕臣の影響力排除を狙ったイギリス式への転換は強い反発に直面し、ドクトリンの変更は中途半端な状態で終わっていた。
1894年9月17日に生起した黄海海戦において、清海軍の北洋艦隊主力を捕捉撃滅するチャンスに恵まれながらも、大半を取り逃がしてしまったのは、艦隊行動に統一性を欠いていたことに原因を求められる。
さらに明治海軍は高陞号事件を引き起こし、その未熟さを露呈した。
高陞号事件とは、清軍の輸送船として傭船されていたイギリス商船を日本海軍の巡洋艦が取り逃がしてしまった事件である。
清の陸兵1,100名輸送していた高陞号を臨検した日本の巡洋艦「浪速」は国際法上、これを拿捕・撃沈する権利をもっていた。
しかし、列強のイギリスの怒りを買うことを恐れた「浪速」の艦長は、停船させた高陞号が逃走を図ると追跡せず、これを見逃してしまった。
後に明らかになったことだが、高陞号の船長らは武装した清軍の陸兵に脅されて操船を強要された状態であり、これを撃沈することは何ら違法ではなかった。
高陞号の船長は解放後に、清軍の違法行為を本国に報告し、清の戦争犯罪が明らかになった。新聞報道もされたことから清は国際評価を大きく落とすことになる。
しかし、同時に日本海軍の不味い対応が暴露され、国際法に疎いマヌケな蛮族の軍隊として物笑いの種とされてしまった。
もしも、「浪速」の艦長が国際法に精通した人物であったのなら、高陞号事件の撃沈を完全に合法であると確信して実行できる決断力のある人物であったのなら、明治日本海軍が恥辱に塗れることはなかったことだろう。
しかし、現実は非情だった。
戦線は鴨緑江で膠着し、日清両軍は鴨緑江を挟んで1894年の冬を越すことになる。
冬の間に大規模な増援を受け取った清軍は雪解けと同時に逆渡河作戦を発動し、鴨緑江の戦い(1895年4月15日)が始まる。
この戦いは日本の勝利に終わったものの、日本軍が守勢に回ったことは明らかだった。
この結果を受けて、戦争を勝利で終わらせることが不可能と悟った首相の大久保利通は、周囲の反対を押し切ってアメリカ合衆国に講和の仲介を依頼した。
大久保利通、彼こそは明治日本が天から与えられた天才の中の天才である。
戊辰戦争で多くの人材を失った明治日本において、大久保利通の存在感は圧倒的だった。
明治維新三傑の木戸孝允が病に倒れ、西郷隆盛が西南戦争を引き起こし、旧幕臣守旧派の巻きかえしを経てもなお、明治維新の精神が破られなかったのは大久保の存在なしでは考えられない。
その能力故に彼が初代内閣総理大臣に就任したことは、旧幕臣派であっても(土方歳三は除く)異論はなかったほどである。
政治家に必要な冷血を溢れんばかりに携えた熱血漢であった大久保は、数多の犠牲者と莫大な戦費を費やしたこの戦争を、勝利で終わらせることを諦めることができた。
どれほど彼が政治的な冷血漢であったかは紀尾井坂事件に詳しい。
紀尾井坂事件とは、1878年5月14日に大久保が赤坂仮皇居に向かう途中(紀尾井坂付近)、島根県士族6名が大久保に抗議するため集団自決を図った事件である。
抗議の自殺を図った彼らに大久保は一瞥もくれず、そのまま馬車で通過した。
そもそも彼らが自殺したことに大久保が気づいていなかったという説もがあるが、一般的には大久保が彼らの抗議の死を無視して通り過ぎたと考えられている。
また、自殺ではなく他殺であり、大久保暗殺を図った不平士族を何者かが暗殺し、自殺に見せかけたのではないかという説もある。
暗殺者暗殺説のような陰謀論が生まれた背景には、大久保があまりにも多くの政治的な対立の中心にいたことがあげられる。
大久保と旧幕臣守旧派との内部抗争は多岐に及んだ。
その中でも最大の政治抗争は廃藩置県と大日本帝国憲法制定だった。
廃藩置県は、第2の明治維新ともいうべき大変革であり、封建制度の完全解体を目指したものだった。
当然のことながら廃藩置県は守旧派の激しい反発に直面した。
特に奥州は列藩同盟が解散した後も新政府との政治的な距離があり、廃藩置県には絶対反対の立場をとった。
そのため全国一斉の廃藩置県は断念され、段階的な実施とせざるえなくなった。
奥州の廃藩置県実施は、1880年のことで第3次廃藩置県という段階的な実施の最後でようやく実現した。
廃藩置県が終わっても、地方制度を巡る戦いは終わらなかった。
政府から派遣する県令ポストを内務官僚で独占して中央集権的な支配を確立したい大久保と藩=県の政治的な自律性確保を追求する守旧派の戦いは1899年の文官任用令改正まで続くことになる。
最終的に日本の地方自治制度をめぐる戦いは自由民権運動に合流した守旧派が勝利し、県令公選制度が確立することとなる。
県令公選制度が日本の民主化に資するところは大きく、明治の自由民権運動における一つの頂点とも言える。
しかし、短期的にみれば大久保の目指した中央集権的な自治制度の方が迅速な経済開発を進める上では有利である。
長期的にみれば地域の実情に合わせた経済政策を採ることができる民主的な自治制度の方が効率的になるが、明治の日本にとって必要だったのは開発独裁的な大久保の手法だった。
大日本帝国憲法(1889年2月11日公布)においても、政府内で大久保と守旧派の激しい政治抗争があった。
問題となったのは首相と内閣の規定である。
大日本帝国憲法が模範としたドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)には君主である皇帝の権力を阻害する危険性から首相職や内閣制度の規定がなかった。
憲法調査のためにドイツへ派遣された大久保腹心の伊藤博文も天皇の権力を阻害する可能性のある首相職の創設には否定的だった。
帝国憲法の草案では、首相も内閣規定もなく、天皇が国務大臣の輔弼を受けて親政を行う形式をとっていた。
そこに敢えて大久保が首相職と内閣規定を盛り込んだのは、政府の権力を法的に強化しなければ明治維新の成果が危ういという危機感があったからである。
旧幕臣が多い軍部は、明治政府を軽んじているところがあった。
大久保が薩摩藩の下級武士であったことから、幕府の直臣であったものたちはその命令を無視することになんら躊躇もなかった。
前述の西南戦争において、大久保は故郷と西郷のために早期停戦を図り奔走したが、その多くは軍部の暴走によって無意味になった。
特に新選組系の将校(具体的には土方歳三)は、西郷軍を徹底的に掃討し、不必要なまでに火力を使用して敗残兵狩りを行った。
西郷の死体が見るも無残な状態で発見されたのも、新選組系の将校の仕業だった。
大久保の悲しみは深く、西郷の悲惨な最期を知ると動揺して家の中をうろつきまわり、鴨居に頭を打ち付けて涙を流すことなく、慟哭した。
大久保の故郷である鹿児島は軍部の暴走により徹底的に焼き尽くされ、明治の歩みをさらに遅らせることになった。
明治政府において、旧幕臣や列藩同盟の首魁と見られていた松平容保は、西南戦争において何ら指導力を発揮できなかった。
明治政府参議としての容保は明らかに精彩を欠いており、投げ槍な対応に終始していた。
精神的に疲れ果てていたと言えるだろう。
擦り切れていた容保にとって、戦争は対岸の火事でしかなかった。
しかし、派遣参議として鹿児島の惨状を目の当たりにした容保は救護活動と復興に駆け回り、私財を投じてまで鹿児島救済に奔走した。
鹿児島復興に果たした容保の役割は極めて大きなものであった。
21世紀現在においても、鹿児島には郷土の裏切り者として大久保の銅像は建立されていないが、仇敵であるはずの松平容保の銅像があるのはこのためである。
後に保科家を継承することになる保科四郎は、焼け跡にて容保に救われた戦災孤児だった。
保科四郎が語るところに拠れば、
「生きていてくれて、ありがとう」
と焼け跡から拾い上げた幼子を抱きしめ、まるで自分が救われたかのように涙したという。
容保は鹿児島の惨状について、その責任が自分自身にあると考えていた。
確かに容保がかつて守ったものが、鹿児島に厄災を呼び込んだのは事実であった。
鹿児島救済に奔走した容保の意識にあったのは贖罪だったことは想像に難くない。
容保は西南戦争の後始末が一段落すると明治政府を辞して、名を保科祥雲に改めて坂本財閥に入り、実業界に専念することになった。
明治時代を”生き直した”と言われるほどの保科祥雲の活躍は、西南戦争の悲惨と贖罪意識を抜きにしては考えられないというのが歴史家の支配的な意見である。
その贖罪意識は、容保の名乗りにも現れている。
容保が名乗った雅号の祥雲は、実は西郷隆盛の雅号である。
西郷隆盛の雅号としては南洲が著名であるが、幕末の京都で短い期間だが祥雲を雅号に使用していた。
幕末の京都といえば、京都守護職として容保が活躍していた時代であり、当初は佐幕派であった薩摩藩とも協力関係にあった。
最終的に敵対することにはなったものの、容保は西郷の人柄に敬服し、立場や身分を越えた友誼を育んでいた。
容保は徳川一門衆でありながら、
「天下の識見、議論では負けぬが、天下の大事を決する人物は彼だろう」
と語って、家臣に窘められるほどであった。
容保は西郷の悲惨な最期を深く悼み、西郷がかつて用いた雅号を引き継ぎ、その思想的後継者であろうとした。
西郷の思想を端的に表現した「敬天愛人」を世に広めたのは保科祥雲の功績である。
坂本財閥の思想的柱石となった「敬天愛人」の精神は後継者達の手によって実現されることになるが、それはまた別の話である。
話を帝国憲法制定に戻すと、ドイツ憲法にあるような軍部の帷幄上奏権や統帥の独立などを日本の憲法に盛り込んだら、軍部(旧幕臣派)による政府の無力化もありえると大久保は考えていた。
今風にいえば、シビリアンコントロールの確立こそ、大久保が目指したものだった。
大久保は万難を排して憲法に首相と内閣規定を盛り込こんだ。
実際のところ帝国憲法制定により、ようやく明治政府は軍部の統制を確立したと言えた。
日清戦争も、憲法制定によって初めて安心して軍を海外展開できる体制が整ったから勃発したともいえるだろう。
しかしながら、前述のとおり日本の軍力は清を上回るものではなく、勝機は遠のきつつあった。
日本の要請に基づきアメリカは戦争の調停に乗り出した。
講和会議の舞台になったのは山口県下関市の料亭春帆楼で、日本から全権大使として伊藤博文が出席し、清からは李鴻章が交渉にあたった。
交渉開始当初、李鴻章は尊大な態度をとっていた。
清は本国領をいささかも失っておらず、清に有利な条件でなければ講和は受け入れられないとして、日本が要求した李氏朝鮮の独立承認や領土割譲、償金の支払いを一切拒否した。
清は長期戦になれば有利という感触を得ており、敗北を取り戻してから改めて交渉すればいいと考えていたのである。
そこでエドウィン・ダン駐日アメリカ公使の提案により、日本軍は台湾に侵攻、これを電撃的に占領した。
結果、揚子江周辺に戦火が及ぶことを警戒したイギリス・フランスの圧力から、李鴻章の態度は大きく軟化することになる。
台湾と澎湖諸島の割譲と李氏朝鮮の独立(宗主権の否定)を承認した李鴻章だったが、償金の支払いは断固として拒否した。
そのため伊藤は交渉中止の許可を大久保に求めた。
回答は否であり、大久保は賠償金を取り下げてでも交渉を纏めるように指示した。
ここに日清戦争の講和条約である下関条約が締結された。
日本の戦争目的は国家安全保障の確立であり、そのために必要なのは独立した朝鮮の存在だった。領土や賠償金などは二の次でしかない。
当初の戦争目的達成を以て戦争を終わらせた大久保の判断に誤りはなかった。
しかし、当時の日本の国内世論は多くの犠牲者を出したにも関わらず賠償金が得られなかったことに大いに落胆した。
さらにアメリカが講和の仲介手数料として、朝鮮半島の鉄道敷設権や鉱山の採掘権や漁業権などの経済利権を得たことが知れ渡ると政府への非難が殺到した。
日本人が血と汗を流して独立させた朝鮮をメリケン人に売り渡すことなど、到底許されるものではなかった。
東京にあった私邸が怒り狂った群衆に放火され全焼(大久保の家族は不在で無事だった)したが、大久保は超然的な態度を貫き通した。
これは余談だが、それまで日本には首相官邸というものがなく、私邸を放火され焼け出された大久保一家のために建てられたのがその始まりである。急いで建てられたことからやや安普請であり、関東大震災で全壊する羽目になった。
自分の正しさは半世紀後に必ず理解されるとして、大久保は断固として日清戦争を終わらせ、約束通りアメリカに朝鮮開発を委ねた。
実際のところ、当時の日本に朝鮮半島を防衛し、資本主義的に開発するだけの力はなかった。
国内開発が精一杯であり、朝鮮に投資する資金など何処にもなかったのである。
それどころか戦費の返済のために戦後も増税を継続したため、日本国内は戦後不況に見舞われた。
賠償金を得られれば話は変わっただろうが、無いものは無かった。
当然のことだが、ドイツから大枚をはたいて大規模な近代製鉄所を輸入するなど、夢のまた夢である。
戊辰戦争で散った人々がもう少し多く生き残って明治政府で辣腕を奮っていれば違った展開があったかもしれない。
しかし、当時の日本にはこれが精一杯だった。
大久保利通は日本の限界を理解し、最低限の勝ちを拾う道を選んだのである。
日清戦争終結を期に大久保は政界引退を表明。
その翌年の1897年5月14日に歴史的な役割を終えてこの世を去った。
最期の日々は愛する家族に囲まれた幸福なもので、病床にあっても笑顔を絶やさず、親友の西郷隆盛からもらった手紙を胸に抱いて逝った。
大久保は自身の判断が理解されるのは半世紀後だと考えていた。
しかし、戦後の割と早い段階で大久保の判断は民衆に受け入れられるようになる。
というのも、日本人にとって初めての大規模な対外戦争において、それなりの勝ちが得られたのは、冷静に考えれば奇跡的なことであった。
しかも相手は日本が長く唐の国として敬意を払ってきた清である。開戦前は本当に勝てるのか、よくて引き分けか、苦戦は免れないと覚悟していた相手だった。
新聞は勝った勝ったと騒いでいたが、結局、鴨緑江を渡ることもできなければ、定遠も鎮遠も撃沈することはできなかったのだ。
豊臣秀吉の朝鮮出兵と豊臣家滅亡の故事を引き合いに出して、これ以上大陸に関わるのは縁起が悪いという意見もあった。
日本はよく善戦し、辛勝か、引き分けに近い形で戦争は終わった。
それが日本国内の日清戦争に関する一般的な理解だった。