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架空兵器実戦投入



架空兵器実戦投入


 沖縄を巡る攻防で、日本は圧倒的な大勝利を得た。

 しかし、戦争は終わらなかった。

 MSTO諸国は講和斡旋に動き出していたが、当事者のアメリカ合衆国がまだ負けを認めていなかった。

 認めていないというよりは、認めることができないという方が正しい状態だったかもしれない。

 アメリカ世論はまだまだやる気十分だった。

 殆どのアメリカ人は、多少の犠牲が出たとしてもこの期を逃さず、徹底的に日本を叩いてしまうべきだと考えていた。

 オキナワで海軍が負けたことは理解したが、実際にどの程度の損害が出たのは巧妙にぼかされていた。

 彼らが頼みにしていた戦艦ユナイテッド・ステイツもアメリカも海の藻屑になっていたのだが、アメリカ人がそれを知るのは戦後のことであった。

 嘘の発表をしたアメリカ政府は、嘘を隠すためにさらに大きな嘘をつくという悪循環に陥り、破滅的な事実を事実と認めることができなくなっていた。

 そのため、ホワイトハウスでは本当に沈んだ戦艦とまだ沈んでいない戦艦がしばしば混同して語られ、さらに現実認識が遠のくことになった。

 戦線が遠のくと楽観主義が現実に取って代わる。そして、最高意思決定の段階では現実なるものは、しばしば存在しない。

 戦争に負けている時は特にそうだった。

 もちろん、日本側もこれぐらいで戦争を止めるつもりは全くなかった。

 日本軍は本気の本気でアメリカという国家を地図から消し去るために最終戦争計画を立案し、そのために必要な爆撃機と反応弾の量産化に議会のGOサインがでていた。

 21世紀現在、日本は世界最大の核燃料生産国となっているが、その核燃料生産設備は概ねこのとき建設されたものがそのまま使用されている。

 同様に中島エアロスペース(中島飛行機:1982年改称)が所有する北海道千歳工場は年産3000機のジェット旅客機を作る能力があるが、実は工場の能力は3割しか使用しておらず、残りの7割は世界最終戦争のために保管状態となっている。

 話を1952年に戻すと沖縄戦後、アメリカ軍は戦略爆撃作戦に傾倒していった。

 海軍が壊滅した以上、他に日本へ打撃を与えられる手段は戦略爆撃しかなかった。

 日本海軍は沖縄戦での消耗から戦力再編成を余儀なくされたので、1952年4月から3ヶ月間は空の戦いとなった。

 アメリカ空軍は手持ちの戦略爆撃機(1,200機)を全てマリアナ諸島に進出させた。

 4月以前は、沖縄攻略のために航空基地などの戦術目標を狙っていたアメリカ軍の戦略爆撃航空団は、いよいよ本来の任務である戦略爆撃に投入された。

 米空軍のボマーコマンドを統べるカーチス・ルメイ空軍大将などは、沖縄のようなちっぽけな島を狙うよりも、最初から戦略爆撃に全力を注ぐべきだとして、回ってきた出番の遅さに愚痴を言っていた。

 それが恐ろしく楽観的な見通しだったことはすぐに判明した。

 1952年4月25日、名古屋にある三菱航空機の発動機工場を狙ったB-29/B-50の90機編隊は、硫黄島から飛ぶ早期警戒管制機に捕捉され、太平洋上で100機以上の迎撃戦闘機の猛攻を受けた。

 日本空軍は最新の旭光や震電改、四式戦や三式戦まで投入して総力をあげた迎撃戦を展開し、飛来した米重爆の10%を撃墜した。

 発動機工場への爆撃も戦闘機隊の執拗な妨害により失敗に終わった。

 投下された爆弾の殆どは工場周辺の民家に着弾し、少なくない一般市民に死傷者が出た。

 損害に青くなった米空軍は、続く4月28日の爆撃行に大編隊爆撃戦術を採用し、400機の爆撃機を送り込んだ。

 大編隊爆撃戦術とは要するに絨毯爆撃であり、爆撃目標以外にも流れ弾が大量発生するので民間人への付帯被害は当然ながら大きなものとなる。

 だが、戦闘機の護衛がつけられないため、爆撃を成功させるために大規模編隊でのコンバットボックスをつくり爆撃機自身で自衛するしかなかった。

 さらに陽動や電子妨害を徹底することで、迎撃戦闘機を回避する最大限の努力が払われた。

 その結果、以後の爆撃では損害率はやや減少して7%まで下がったが、それでも多すぎる損害だった。

 三菱の発動機工場への爆撃は7回行われ、工場を完全破壊したが、損耗率が7%を下回ることは一度もなかった。

 この時点で、米空軍は200機あまりの作戦機を1ヶ月足らずで失っていた。

 さらに日本軍は硫黄島から執拗に航空攻撃を繰り返し、多数の米重爆を地上撃破していた。

 その損失も加味すれば4月末までに米空軍は300機近い爆撃機を失っていた。

 本国からの補充は届いていたが、損失を埋めるほどではなかった。

 アメリカは戦時動員を進めていたが、爆撃機を作るボーイング社の体制は平時の延長線でしかなく、損害を上回る生産力などあろうはずもなかった。

 工場の増設や工員を増やせば、損失を上回る数の生産は可能かもしれなかったが、それには1年以上はかかる見込みだった。

 アメリカ軍の戦争戦略は短期決戦であり、そのような長期戦を想定した生産計画はどこにもなかった。

 損害の多さに米空軍の参謀たちは青くなったが、ルメイ大将は


「これからもっと死ぬ」


 と平然としていた。

 そして、実際にそのとおりとなった。

 米空軍の次なる狙いは、中島飛行機の武蔵野工場であった。工場は首都東京にあるため、名古屋以上の防空網が敷かれていると予想されていた。

 そのため、これまで以上に大編隊爆撃機でなければ成功は期し難いため、560機の爆撃機が作戦に参加した。

 さらに昼間戦闘機の攻撃を避けるために攻撃方法を夜間無差別絨毯爆撃に変更した。

 工場周辺には一般市民の住む市街地が広がっていたが、それを避けて夜間に精密爆撃するのは不可能だった。市街地ごと工場を吹き飛ばすしかなかった。

 1952年5月11日、東京を目指して飛び立った米重爆群は洋上にて硫黄島に進出していた六式戦闘機火竜の迎撃を受けた。

 火竜は日本陸軍航空隊が最後に制式化した戦闘機で、空軍に移管されたあとは専ら夜間戦闘機として使われていた。

 メッサーシュミットMe262をライセンス生産した火竜は、1952年時点では性能的にはもはや一線級とは言えなかった。ただし、レーダー操作員を乗せられる複座型ならまだ夜間戦闘機としては使用可能だった。

 挿絵(By みてみん)

 昼間戦闘機の旭光や震電改の代わりに米重爆の大編隊を迎え撃った火竜は、空対空ロケット弾(R4M)を駆使してB-29を次々と撃墜していった。

 ちなみに迎撃に参加した火竜のうちの幾つかは、日の丸ではなく白いダビデの星を胴体に描いていた。

 東イスラエル共和国軍は建国まもないながらも空軍機を東京防衛のために派遣していた。

 日本でライセンス生産されたナチス・ドイツの戦闘機に乗ったユダヤ人がアメリカ軍機と戦うというのは誠に奇妙な話であったが、ショー・ザ・フラッグという点においては満点に近い行動であったと言える。

 しかし、関東一円に配備されている火竜は東イスラエル共和国の派遣機を含めても55機しかなく、500機を超える爆撃機を全て撃ち落とすことなど最初から不可能だった。

 それは初の実戦投入で多数の米重爆を撃墜した八式地対空誘導弾(SAM)”奮龍”も同じことだった。

 ミサイルの数よりも爆撃機の方が多ければどうにもならなかった。

 三式12高や、五式15高もレーダー射撃とVT信管で多数の米重爆を撃墜したが数の暴力に押し切られて爆撃を許してしまった。

 中島飛行機の武蔵野工場は設備の30%を破壊され、製造中だった航空機は飛び立つ前に爆砕された。

 空襲警報により一般市民の退避は完了していたが、それでも5,000名を超える死傷者が出た。

 偏西風で爆弾の多くが目標から逸れたことが民間人の被害を増やした。退避地域よりも外に風で爆弾が流されるとは予想外であった。

 手術後で体調が万全では無いにも関わらず今上帝はすぐに被災地域を見舞った。

 灰燼くすぶる焼け野原のありさまは新聞報道により全国へ広まり、報復を求める声が高まった。

 開戦直後からアメリカに対する全面反応兵器攻撃を主張する感情的な反米集団(アメリカ死ね死ね団)は爆発的に増殖しており、日本政府は対応に苦慮していた。

 日本空軍は観艦式襲撃直後に頭に血を上らせてアメリカへの全面反応弾攻撃を行う直前まで行っていたのだが、手術後に意識を取り戻した大元帥が慌てて止めた。

 大元帥は報復のエスカレートが人類絶滅戦争に発展する可能性を危惧しており、限界まで報復攻撃には反対していた。

 しかし、ここに至っては忍耐の限界を突破した。

 なお、中島飛行機武蔵野工場爆撃で撃ち落とされた米重爆は121機に達し、出撃機の4分の1を一度に失った米空軍ボマーコマンドは二度と同規模の攻撃を実施することはなかった。

 日本空軍の報復は1952年5月15日に実施された。

 北海道の千歳基地から発進した360機の富嶽改が、アラスカ上空を通過してカルフォルニアのエルウッド精油所と関連施設を爆撃した。

 ちなみに5,000馬力級のターボプロップエンジンに換装した富嶽改の爆弾搭載量は27tに達しており、250kg爆弾108発を搭載可能だった。

 トラブルで引き返した機体や陽動や電子妨害機を除いても、エルウッド製油所を襲った富嶽改は300機を越えており、約8キロトンの爆弾を投下した計算になる。

 夜間爆撃であったが、対地レーダーの精度は十分で精油所は完全破壊された。

 石油パイプラインも多くの箇所で寸断され、焼夷弾が消火困難な原油火災を巻き起こした。

 日本空軍のボマーコマンドはこれまでの鬱憤を晴らすかのように、西海岸各地を爆撃していった。

 日本空軍が狙ったのはカルフォルニアの石油関連施設と大都市周辺の鉄道関係施設、そして港湾施設だった。

 空軍発足以前に、日本陸海軍は自ら実施した満州地域の爆撃がどれほど効果があったのか綿密な調査を行っていた。

 それだけではなく、さらにイギリス空軍による対ドイツ爆撃の被害やその影響を英独双方との合同調査委員会を設置して詳細に分析していた。

 その結果として、イギリス空軍の対ドイツ夜間無差別爆撃は効果が非常に低かったことが判明した。

 軍需工場を含む都市への無差別攻撃は、すぐに損害が復旧されており、多大な犠牲を払った割に効果がなく爆撃が本格化した1942年以後もドイツの軍需生産は増え続け終戦の1944年にはピークに達していた。

 イギリス空軍の戦略爆撃はそれに費やした犠牲に全く見合うものではなかった。

 逆に日本海軍航空隊が行った満州爆撃は、非常に高い効果を発揮し、短時間で満州社会主義共和国の工業生産を壊滅させていた。

 理由は満州の戦後統治を考えて、都市部への無差別攻撃を避けて、黒竜江油田や鉄道などの交通麻痺や燃料供給システムへの攻撃に専念していたことだった。

 日本軍としては交通マヒでソ連軍の補給が止まればいいという程度の考えだったが、物流が止まったことで、連鎖的に工業生産のサプライチェーンが破壊され、工場を爆撃するより広範囲に軍需生産を阻害する効果があった。

 燃料供給システムへの攻撃も同様である。軍需工場が無傷でも、部品が送られてこなければ工場が無傷でも何の意味もないのだった。

 アメリカは自動車社会であることから、物流の多くの自動車に依存しており、その燃料供給を遮断することは大きな効果を見込めた。

 日本空軍は執拗にカルフォルニアの石油関係施設を爆撃して回った。

 その効果はすぐに現れ、市中のガソリン価格が暴騰し、それに連動する形で西海岸の物価が急カーブを描いて上昇していった。

 アメリカ政府は物価暴騰阻止のために配給制を敷いたが、鉄道施設が破壊されて物流が滞ったので、配給するための商品がないという状態になった。

 先の大戦から多くを学んでいた日本空軍の戦略爆撃は非常に計画的かつ効果的であり、アメリカ空軍に本当の戦略爆撃がどういうものか知らしめることになった。

 なお、日本空軍の爆撃は西海岸に限定された。

 東海岸も富嶽改なら爆撃可能だったが、そのためにカナダの領空を通過する必要があった。

 それは政治的に問題が多すぎたのである。

 ただし、被弾して不時着する場合はカナダ領内に降りることになっていた。

 日本政府はイギリスを通じてカナダと裏で話をつけており、領内通過拒否を飲む代わりに、不時着機とパイロットの保護を約束させていた。

 カナダ軍に抑留されたパイロットは、終戦後に全員、無事帰国している。

 これがアメリカ領内に不時着するとなると、怒り狂ったアメリカ市民の報復を覚悟せねばならず、捕虜の生還率は70%まで下がる。

 3割で済んでいるあたり、アメリカは文明国であると言えるだろう。

 ちなみにアメリカ軍の解釈では、富嶽改の航続距離が不足しており、東海岸は安全ということになっていた。

 しかし、東海岸も決して戦争とは無縁ではいられなかった。

 日本列島から地球を半周する航海を経て、大西洋まで進出した日本海軍の伊三百一型潜水艦群にも攻撃命令が下っていた。

 基準排水量3,300tという軽巡洋艦並の船体を持つ伊三百一型潜水艦の武器は大型のセイルに搭載したR号兵器(V2ミサイル)であった。

 V2ミサイルをコピーしたR-1号の搭載数は僅かに2発だけで、浮上しなければ発射できないという欠点があった。それでも200km先から潜水艦が地上目標を攻撃できるのは革新的といえた。

 1952年6月1日、伊311と僚艦の伊312がニューヨークを攻撃した。

 4発のR-1は無事飛翔し、数分間隔でニューヨークのソーホー付近に着弾した。

 この爆撃での軍事的な被害は皆無であり、人的被害も数名でしかなかった。着弾地点が倉庫街で、しかも夜間だったので殆ど無人だったのである。

 しかし、攻撃を受けたニューヨークではパニックが発生した。

 成層圏から音速の十数倍の速度で落下する1tの高性能爆薬は、深夜のニューヨークを震撼させるには十分すぎた。

 なお、R-1弾道ミサイルは精密攻撃不可であるため、東海岸への攻撃は最初から政治的な効果を狙った嫌がらせであった。

 発射されるミサイルも、多くて1、2発に過ぎない。

 東海岸に展開した伊301型潜水艦は合計12隻で、ローテーションを組み潜水母艦からミサイルを補給しつつ、弾道ミサイル攻撃を続けた。

 超音速で落下する弾道ミサイル攻撃に対して事前に空襲警報で避難を促すことは不可能だった。

 弾道ミサイルの攻撃とは、ミサイルが着弾して大爆発が発生した後に、ようやく落下前のミサイルが発したソニックブームが地上に到達してその爆音を聞こえるという攻撃なのである。

 即ち、東海岸にすむ数千万人のアメリカ人は、それこそ本人が死んだということにさえ気が付かないような超音速の無警告爆撃に24時間怯え続けなければならないということだった。

 もちろん、理性ではミサイルの数が少なく、偶然、ミサイルの落下地点にいて、爆撃に巻き込まれて死ぬ確率は極めて低いということは分かる。

 だが、理性だけで恐怖を克服できる人間はそれほど多くなかった。

 せめてもの救いは弾頭が通常であることだけだった。

 もちろん、伊三百一型潜水艦には通常ではない方の弾頭も保管されており、命令さえあれば弾頭を換装していつでも通常ではない攻撃が可能となっていた。

 1952年6月11日には、伊303から発射したR-1の一発がエンパイヤステートビルに偶然にも命中。大火災を発生させた。

 松明のように燃えたエンパイヤステートビルは消火不能になり、2時間後に火災の熱で鉄筋構造の強度が低下したことで、上層階から無残にも崩れ落ちた。

 攻撃が早朝だったことから、エンパイヤステートビルの炎上と倒壊は多くのニューヨーク市民の目撃するところとなった。

 エンパイヤステートビルは、マンハッタンでも特に目立つ高層建築であり、アメリカ経済の繁栄を象徴するシンボルだった。

 それがもろくも崩れされる様は、”アメリカ”という国家そのものの崩壊を連想させるには十分すぎた。

 ミサイル攻撃を止められないアメリカ政府に批判が殺到した。

 追い詰められたジョン・P・ケネディ大統領は、


「ロケットマンには然るべき報いを受けさせる」


 とさらなる報復攻撃を宣言した。

 ちなみにロケットマンとは、当時の日本国首相の東条英機のことである。

 1952年6月15日、米空軍は東京の中心部に爆撃した。

 爆撃目標になったのは丸の内で東京のマンハッタンともいうべき高層ビル街であった。

 この爆撃は完全な無差別絨毯爆撃で、大量の焼夷弾が使用されたことから、火災旋風が発生し、10,000名を超える死傷者を出した。

 ちなみに皇居にも焼夷弾が落下し、御所が炎上している。

 大元帥は防空壕に避難して無事だった。

 この攻撃に315機のB-29とB-50が投入されたが、作戦機の半数が撃墜されるという破滅的な損害が発生して、米重爆部隊は再起不能になった。

 さらに米空軍に止めを刺すべく、サイパン島やテニアン島の航空基地を一一式爆撃機「飛鳥」が襲った。

 飛鳥は富嶽の後継機として開発が進められていた後退翼ジェット爆撃機であった。

 高度16,000mを時速1,000kmで飛ぶ飛鳥は、ソ連の迎撃戦闘機を高度と速度で振り切るという戦闘機よりも速い高速爆撃機だった。

 ただし、速度性能を追求するためにやや航続距離が短く戦略爆撃として使うには爆弾搭載量も5tまでと少なかった。

 反応兵器でも使えばそれで問題ないのだが通常兵器ではやや火力不足だった。

 飛鳥は最新鋭機ということで数が揃うまで戦線投入を見送られていた。

 米重爆の発進基地破壊のために出撃した飛鳥は迎撃のP-80を振り切って爆撃に成功し、多数のB-29を地上撃破した。

 その際に飛鳥爆撃隊が発した


「我に追いつく敵機なし」


 という電文はあまりにも有名である。

 挿絵(By みてみん)

 飛鳥の爆撃は滑走路を破壊しつくし、続く空母艦載機の攻撃を容易ならしめた。

 1952年6月18日、休養と再編成、さらに上陸部隊の編成を終えた日本軍により大反攻作戦が始まった。

 最初の攻撃目標はもちろんマリアナ諸島であった。

 第3艦隊の艦載機により制空権を確保すると第2艦隊の艦砲射撃のもとで10万の日本軍が敵前上陸を行った。

 米陸軍は水際迎撃を試みたが、それはサイパン島の奪還を早める効果しかなかった。

 水際防御のために日本海軍は新三式弾を初めて実戦で使用した。

 新三式弾とは、12インチ砲以上の戦艦用に作成された特殊砲弾で、機密保持のために新型の三式弾という扱いとなっていたが作動原理は全く別物であった。

 旧三式弾は一種の榴散弾で、敵機に焼夷弾子をばら撒くというものであった。

 それに対して新三式弾は拡散性の高い可燃性物質を高圧放出し、拡散したガス雲に適切なタイミングで点火することで強力な熱衝撃波を発生させるというものだった。

 要するに燃料気化爆弾であった。

 上陸地点に展開した米軍を殲滅するために第2艦隊の戦艦部隊は新三式弾を大量に使用した。

 戦艦紀伊と尾張が発射した20インチ新三式弾が作り出したきのこ雲は洋上の上陸船団からも目視可能なほど巨大なもので、反応兵器が使用されたと誤認された。

 遮蔽物のない水際に展開した米軍は一方的に殲滅された。

 上陸した日本軍は残敵を掃討し、サイパン島は1952年7月3日奪還された。テニアン島も奪還され、グアムの海兵隊も絶望的な抵抗の後に降伏した。

 トラック環礁から既にアメリカ軍は撤退しており、マーシャル諸島からも逃げ出していた。

 失地を回復した日本軍はアメリカ軍の抵抗を粉砕しながら前進し、1952年7月25日にはミッドウェー島を攻略した。

 もちろん、米空母が待ち伏せていて空母4隻が一度に火だるまになるような都合のいい展開など起きるはずもなかった。

 日本軍の次の目標は米太平洋艦隊の根拠地であるハワイだった。

 ハワイの運命はもはや風前の灯火といえた。

 アメリカ軍はハワイ防衛のために増援を送ろうとしていたが、ハワイにたどり着けた船は半分もなかった。

 ハワイ近海には水中高速型の伊201型潜水艦の艦隊が遊弋し、近づく船を片っ端から撃沈していた。

 アメリカ海軍の対潜部隊は輸送船団を守るためにあらゆる努力を積み重ねたが、


「ライミーとは比べ物にならないぐらい下手くそ」


 と日本のサブマリナー達から酷評される程度の能力しかなかった。

 イギリス海軍の対潜部隊と死闘を演じてきた日本海軍の潜水艦部隊にとって、アメリカ海軍は物足りない相手だった。

 ディーゼル潜水艦ですらどうにもならないのに、水中25ktを発揮する反応炉搭載型潜水艦401などはもはや伝説の船幽霊か何かを相手にするようなものだった。

 日本軍がミッドウェー島を攻略し、ハワイが危険になると米太平洋艦隊は残存艦艇を脱出させたが、伊401潜水艦がこれを捕捉して戦艦ニューハンプシャーを撃沈した。

 さらに空母オリスカニーも仕留めた伊401は逃げ惑う水上艦艇をしつこく追い回し、一日に16万tの船舶を沈めた。

 反応炉搭載型潜水艦の威力は圧倒的で、適切な対潜装備をもたない水上艦は高価な水上標的に成り下がった。

 ハワイに孤立したアメリカ軍はアラモ砦の故事を引き合いにだして無理やり士気を鼓舞していたが、戦う前から決着はついていたと言える。

 強力な沿岸砲台も空から降ってくる誘導爆弾には無力だった。

 日本空軍は飛鳥重爆を投入して、5.5t改トールボーイ誘導爆弾”カリバーン”で砲台を一つ一つ潰していった。

 カリバーンは10tのエクスカリバーに比べれば貫徹力に劣るが、比較的軽いため飛鳥でも運用可能であり、陸上砲台を基礎ごと粉砕するには十分だった。

 飛鳥は真珠湾のドックで修理中だった戦艦ウィスコンシンにカリバーンを投下し、竜骨を叩き折って完全破壊するなど、対艦攻撃兵器としても十分な破壊力があった。

 成層圏を戦闘機よりも速く飛べる飛鳥はハワイの航空基地攻撃にも多用された。

 第3艦隊の攻撃は総仕上げのようなもので、ただの残的掃討戦であった。

 第2艦隊の艦砲射撃も新三式弾による地雷原や水際の機雷原の掃討に重きが置かれていた。

 アメリカ軍はサイパン島の水際迎撃で壊滅的な打撃を被ったことでハワイ戦では内陸での持久戦を展開した。

 そのため島嶼戦では珍しい戦車戦が発生した。

 擬装で艦砲射撃や空爆をやり過ごした米陸軍のM26中戦車の1個中隊が、日本軍を奇襲して歩兵部隊を蹂躙した。

 増援に駆けつけた八式中戦車の1個中隊は120mm高速徹甲弾でM26を一方的に撃破して、これを壊滅させた。

 満州で戦車師団をすりつぶすような戦車戦を繰り広げてきた日本陸軍にとって、このような戦いはポケットの中の戦争のようなものだった。

 制空権を喪失したアメリカ軍は爆撃でまとめて撃破されないように戦車を分散配備してトーチカ代わりにして頑強に抵抗した。

 楽観的なムードのまま上陸した日本陸軍は米軍を侮っていたことを反省し、ハワイ攻略に本腰を入れた。

 具体的には大量の火砲やカチューシャロケットを展開して、抵抗するアメリカ軍を抵抗地域ごと吹き飛ばした。

 日本軍がオワフ島を制圧したのは1952年8月3日だった。

 これで太平洋戦争は一区切りついたといえた。

 日本政府はハワイ攻略と並行してアラスカへの上陸作戦を展開しており、作戦終了後に国際連盟の安全保障理事会を通じてアメリカに和平を呼びかける予定だった。

 ハワイやアラスカを占領したのは戦後を見据えた行動で、戦時賠償として割譲を要求するためである。

 日本政府はもう二度とアメリカ人に本土を攻撃されないように、太平洋からアメリカ軍の拠点を一掃するつもりだった。

 MSTO加盟国も勝負あったと考えており、和平工作に動いていた。

 戦争を手仕舞いにするにはこのあたりが丁度いい塩梅だった。

 ヨーロッパ諸国はソ連の動きが気になり始めており、これ以上日米の喧嘩が続くのは精神衛生によろしくなかった。

 だが、ハワイ陥落で焦ったアメリカ政府は禁忌に手をつけてしまう。

 1952年8月6日午前8時15分、十数機のB-50爆撃機がハワイ上空に進入した。

 戦闘機の迎撃を避けるために分散して目標上空に進入したB-50はオワフ島のヒッカム飛行場に進出していた一〇式戦闘機の迎撃を受けて7機を失った。

 だが、それでも問題なかった。

 迎撃を逃れた3機のうちの1機は核分裂反応爆弾を搭載していたのである。

 第3艦隊第2機動群の空母「翔鶴」と「瑞鶴」、戦艦「赤城」及び護衛の特型巡洋艦12隻は対空砲火でその1機を撃墜したが、既に反応弾は投下された後だった。

 濃縮ウランを使用したガンバレル式核分裂反応爆弾”リトル・ボーイ”は高度200m付近で信管を作動させ、プロメテウスの火を解き放った。

 反応弾攻撃を受けた各艦は反応開始から0.3秒以内に熱線により艦艇塗料および遮蔽されていない場所にあった可燃物(人間を含む)が燃え上がり、続く衝撃波によって粉々に吹き飛んだ。

 熱線と衝撃波を逃れた者も大量の放射線を浴びて次々に倒れていった。

 200万t近い放射能汚染された海水が巻き上げられ、毒々しい色のキノコ雲が20km先からも観測することができた。

 やがて放射能汚染物質を含む黒い雨がワイキキビーチに降り注いだ。

 ただちに救護活動が始められたが、強烈な放射線が救護活動を阻んだ。さらに救護隊員も放射線の影響で倒れて、二次災害を拡大させた。

 空母翔鶴、瑞鶴は艦内火災により弾薬庫が誘爆して沈没。戦艦赤城は損傷が酷いため艦底付近で生き延びていた生存者を回収して海没処分された。

 アメリカ軍の反応兵器使用は全世界を震撼させた。

 日本軍は直ちに報復体制をとり、各地の弾薬庫から反応弾が引き出され、富嶽改や飛鳥に搭載された。

 これを受けてソ連軍も警戒態勢を引きあげ、同様の措置をとった。

 連鎖的にヨーロッパのMSTO加盟国も戦争準備体制となった。

 世界中で一斉に核の撃鉄が引き上げられ、絶滅戦争のトリガーに指がかかった。

 国際連盟安全保障理事会は緊急会合を開き、緊張緩和に向けた話し合いが始まった。

 アメリカのカボット国連大使は、先に日本軍がサイパン島やハワイで反応兵器を使用したと主張したが、それは苦しい言い訳だった。

 日本軍が使用したのは燃料気化爆弾であり、各国の観戦武官も新三式弾が反応兵器ではないことは確認済だった。

 事実を認めようとしないアメリカの姿勢により会合は泥沼となった。

 絶望が深まる中、アメリカ軍は再び反応弾攻撃を実施した。

 攻撃を受けたのはアラスカ上陸作戦を実施中の日本陸軍第14軍で、上陸地点に投下されたプルトニウム爆縮式核分裂反応弾”ファットマン”により26,000人が死傷した。

 この攻撃は守備側のアメリカ軍を巻き込むもので、フォールアウトによりアメリカ軍にも急性放射線障害で倒れるものが続出した。

 2回目の反応弾攻撃により、全世界が反応兵器戦争の恐怖に包まれた。

 世界各地の大都市では食料品店で買い占めが起きるなどパニックが広がった。

 1952年8月9日は暗黒の土曜日として記憶されることになる。

 

「生存か、しからずんば破滅か」


 二者択一を迫られた欧州各国はのぼせ上がったカウボーイを鎮めるには、欧州が一致団結して行動するしかないという結論に達した。

 欧州各国の意見を調整し、取りまとめたのはイタリアのムッソリーニ統領だった。

 大戦を生き延びた老練な独裁者の政治手腕は未だに健在だった。

 ムッソリーニは不退転の覚悟を見せるために、ヴィットリオ・ヴェ(ローマ・ファイト)ネト級戦艦(・クラブ)4隻を中心とする艦隊を大西洋に送り出した。

 これを受けてフランス海軍もリシュリュー級戦艦(サロン・ド・ベル)4隻(サイユ)を出撃させた。

 フランスが動けば、イギリス海軍も出ないわけにはいかなかった。プリマスから出撃した戦艦ヴァンガード(イギリスの誇り)は、空母イーグル及びアーク・ロイヤルと共にあった。

 ドイツ海軍も負けじと戦艦ビスマルクとティルピッツ、そして欧州最強戦艦のフリードリヒ・デア・グローセと僚艦ウルリヒ・フォン・フッテンを出撃させた。

 ドイツ陸軍はペーネミュンデのミサイル発射基地に世界初の大陸間弾道ミサイルA-22を据え付け、液体燃料を注入して発射態勢に入った。

 当然、弾頭は通常ではない。

 ヴェルナー・フォン・ブラウンはヴァルター・ドルンベルガーと共に組み上がったミサイルを見あげて、こう言った。


「次があったら、人間が乗れるのをつくりましょう」


 全欧州の軍事力を動員した上で、英仏独伊は共同声明を発表し、日米に即時停戦を求めた。

 それが受け入れられない場合、地中海条約に基づき4カ国は対米宣戦布告と全面反応兵器攻撃に踏み切ると宣言した。

 欧州から拒絶されたアメリカは西側世界の盟主になるという目的を失った。

 アメリカ政府が停戦受け入れを表明したのは1952年8月13日である。

 あとは日本の返答次第だった。

 日本が停戦を拒絶し、報復攻撃に踏み切れば全面反応兵器戦争が始まる。

 世界が滅びるか、生き延びるか、全ては日本人の手に委ねられた。

 1952年8月15日正午より日本政府は重大発表を行うとして、日本全国に緊急テレビ放送を行った。

 テレビがある家庭や街頭テレビ、家電製品店に人々は詰め寄り、固唾を飲んで放送開始を待った。

 ブラウン管に現れた今上帝による詔書朗読は正午ちょうどに始まり、5分間で終わった。

 殆どの人間は独特の言い回しや漢語が続く玉音放送を理解できなかった。

 しかし、


「堪え難きを堪え、忍び難きを忍びて・・・」


 というフレーズは聞き取りやすいこともあって、多くの人間の耳に残った。

 そして、どうやら戦争が終わったらしいということを雰囲気で理解した。

 1952年8月15日は希望の金曜日として記憶されることになった。

 こうして世界は救われたのだった。

 





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― 新着の感想 ―
[一言] 三国干渉うけたようなものですよねこれ 報復も許されない停戦 屈辱!
[一言] 飛鳥の行けぬ空はなし。
[良い点] 50年代にもつれ込んだガチンコ戦争の、この古いけど未来な感じはやっぱり燃えます [一言] ついに、一応の決着。 一億総火の玉……無茶もいいとこなやぶれかぶれのそれではなく、正しく「タマと…
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