坊ノ岬沖海戦
坊ノ岬沖海戦
アメリカ軍は沖縄上陸に先立って、西日本の各地に猛烈な爆撃を行った。
空爆の中心となったのは、B-29とその改良型であるB-50とB-36だった。
何れもやや旧式なレシプロ爆撃機だった。
しかし、密集編隊で飛行すれば、迎撃戦闘機を返り討ちにできる可能性もあった。
実際に西日本の航空基地を爆撃した米爆撃機隊は迎撃に出た烈風改や四式戦、三式戦といったプロペラ戦闘機の少なくない数を撃墜している。
ロートルの三式戦で米重爆の密集編隊を攻撃するのはかなり無茶なことであった。しかし、戦後の軍縮で予算不足の空軍では、旧式機であっても使わざるをえなかった。
高性能な最新機材は中ソ国境から動けなかった。
ソ連が南下すれば反応兵器を使うしかなくなるからだ。
重要拠点の硫黄島のような場所ならともかく、それ以外は三式戦や烈風改のような旧式機で間に合わせるしかなかった。
数少ない震電改は沖縄と南九州に集中配置された。
米空軍も九州への攻撃が非常にブラッディなものとなることを予想し、できる限りの新兵器を投入して、これに対抗した。
マリアナ諸島からの爆撃行では戦闘機の護衛はつけられない。
そのための硫黄島攻略だったのだが、日本空軍の抵抗により攻略作戦は中止された。
その代替手段として投入されたのがF-85ゴブリンだった。
F-85は所謂、寄生戦闘機であった。
F-85は母機となったB-36から発進し、空戦を終えると専用フックで母機に戻るという非常に独特な運用方法を採用した。
南九州の航空基地攻撃に投入されたB-36にはF-85が搭載され、合計で100機程度のゴブリンが作戦に参加した。
迎撃に出た震電改は、F-85の奇襲によりかなりの数が撃墜されている。
ただし、奇襲が成功したのは1度だけで、以後日本軍はゴブリンを無視して米重爆のみを攻撃するようになった。
なぜなら空中での母機帰投が極度に困難で、燃料も少ないF-85は放っておいても勝手に自滅するからである。
西日本の田舎にある郷土博物館や歴史館、学習館などには、21世紀現在でも母機に帰投できずに燃料切れで不時着したF-85ゴブリンが30機以上も展示されている。
F-85ゴブリンは全体で100機程度しか生産されていない非常にレアな機体だが、西日本の田舎にいけば割と普通に見ることができる。
結局、米重爆にとって最も効果的な自己防衛手段は、防御機銃や密集編隊ではなく、電波妨害で対空レーダーや要撃戦闘機の迎撃管制を混乱させることだった。
専用の電子妨害機を投入した知覧基地への爆撃は戦闘機の迎撃をかわして大戦果をあげており、米空軍はF-85を前線から引き上げて、以後、電子妨害を徹底することになる。
話を1952年3月に戻すと、米空軍の猛烈な爆撃にも関わらず、日本海軍航空隊は活発に対潜哨戒機や陸上攻撃機を飛ばして、必ず攻めてくるだろう米太平洋艦隊の主力を捜索していた。
日本海軍は必ず沖縄にアメリカ軍が上陸するという想定の上で行動していた。
なぜかと言えば、新しい連合艦隊司令長官の神重徳海軍大将が、
「絶対、アメ公は沖縄に来る!まちがいありましぇんっ!」
と言っているからである。
根拠を尋ねると暗号解読の結果がそうなっていると神長官は答えていたが、彼の人間性を知る人間は、
「絶対、勘で決めている」
と思っていた。
日本陸軍はフィリピンに近い台湾に米軍が上陸すると考えていたのだが、海軍の強引な(主にGF長官の)説得により、台湾への兵力転出を中止した。
さらに陸軍は沖縄に中ソ国境から精鋭機械化部隊を引き抜いて送ることになった。
神GF長官が絶対にソ連は動かないと保障し、全責任を負うとまで言われては断りきれなかった。
どのように責任をとるのかは皆目見当がつかなかったが。
もしも当てが外れていたら目もあてられなったが、サイコロの目は日本に微笑んだ。
GF長官の親戚には本当に神様がいるかもしれなかった。
1952年3月23日に米艦載機の大軍が沖縄を襲った。
嘉手納基地には空軍の震電改がいて、迎撃戦を展開したが一度に400機以上の攻撃を集中されてはどうしようもなかった。
同日、知覧基地から発進した一〇式陸攻攻撃機がついにアルファ部隊を捉えた。
陸攻は一〇式空対艦誘導弾を発射しつつその位置を打電して、直後にF9Fに撃墜された。
発射された空対艦誘導弾は米軍の電子妨害により命中しなかった。
アメリカ軍の電子戦能力は極めて高いレベルにあった。
何しろ大戦中に日英へレーダーや電子妨害装置、その構成部品を卸していたのはアメリカ企業なのである。
硫黄島攻略戦で使用した一〇式空対艦誘導弾はアクティブレーダーホーミング用の電波を米軍に記録されており、既に対策がとられていた。
アルファ部隊へ陸攻隊が殺到したが、早期警戒と戦闘機の迎撃を受けて大損害を出した。特に誘導兵器がまるで当たらなかったのは致命的だった。
妨害電波対策に対策に無誘導兵器である航空魚雷が持ち込まれたが、レーダー連動の対空砲(VT信管付き)の対空砲火を掻い潜って雷撃を成功させるのは至難の業だった。
それができないから、誘導兵器を造ったのである。
沖縄上空の制空権を掌握したアルファ部隊の傘のもと、戦艦部隊による上陸支援射撃が行われた。
20インチ砲搭載のユナイテッド・ステイツとアメリカも艦砲射撃を行った。
ユナイテッド・ステイツとアメリカが実戦に参加するのはこれが始めてだった。
2.2tもあるユナイテッド・ステイツの20インチ砲弾は、着弾地点に巨大なクレーターを作り出した。
その衝撃波は、砲撃地点から遠く離れた那覇市でも感じることができるほどで、那覇市の地震観測所が着弾の衝撃波を記録している。
アメリカ軍の上陸開始は1952年4月1日だった。
沖縄防衛のために編成された第13軍団(4個師団)の総司令官長勇陸軍大将は、連合艦隊による救援を待つという方針の元、水際迎撃を避けて内陸での持久戦を採用した。
海軍と空軍が要求していた嘉手納基地防衛にはたっぷりと2個連隊戦闘団が投入され、決して航空基地を奪わせない態勢だった。
中ソ国境から引き抜かれた第9師団、第11師団及び第24師団は完全な機械化歩兵師団で、さらに軍団砲兵や戦車連隊の増強まで受けていた。
戦車だけで300両もあった。
主力は八式中戦車だった。八式は四式重戦車の発展型で、主砲を長10サンチ高角砲から、三式12サンチ高射砲に変更して火力を高めた戦後第1世代MBTともいうべき車両になっていた。
エンジンも問題が多かったガソリンエンジンから液冷V型12気筒ターボチャージャー付きのディーゼルエンジンに換装され、トロツキー重戦車三型でさえ持て余すという化け物に仕上がっていた。
それだけの戦力があれば水際での迎撃も可能だと思われたが、長大将は連合艦隊が救援に来たあと撤退する米軍を殲滅するために温存を選んだ。
連合艦隊の救援は確定事項であった。
その連合艦隊が米軍の前に姿を現したのは1952年4月6日だった。
豊後水道を通過中の艦隊を米空軍のF-13が発見、通報した。
第2艦隊(指揮官:有賀幸作中将)は進路を南西にとり、沖縄に向けて突進した。
大和、信濃、越後、出雲、尾張、周防、加賀、伊豆、肥前、赤城、天城
日本海軍に残された全ての戦艦が集められた艦隊だった。
旗艦は大和に置かれた。
艦隊司令の有賀中将は大和の艦長を務めたことがあり、大和型としては一番古い大和に特別の愛着をもっていた。
幕僚からの反対もなかった。全員が日本の運命を賭けた決戦に臨むのなら、大和よりも相応しい船はないと考えていたのである。
ブラボー部隊を率いるウィリス・A・リー大将はこれこそ日本海軍の主力だと考えた。
しかし、アルファ部隊のバーク中将の判断は違った。
空母がいないのである。
おそらく戦艦部隊の後方にいると思われたが、偵察機が次々に撃墜されるため、空母の所在は不明のままだった。
第2艦隊と決着をつけるためにブラボー部隊が前進し、アルファ部隊は後方に下がって、上空直掩を担当することになった。
戦艦の相手は戦艦がすればいいという判断だった。
10万t戦艦ユナイテッド・ステイツとアメリカを擁するブラボー部隊(戦艦18隻)は、質も量も共に日本艦隊を圧倒的に上回っており、極めて士気は高かった。
やがて、前進するブラボー部隊の対空レーダーが強烈な妨害電波を受けた。
それは空襲が始まる予兆で、艦隊の早期警戒機がジャミングに苦しみながら高速で接近する航空機を捉えた。
しかも、それは高度14,000mを飛行していた。
電波反射の強さから、それが日本空軍が誇る6発戦略爆撃機「富嶽改」であることが直ぐに判明した。
巨大な富嶽改の24機編隊、2個梯団が妨害電波を撒き散らしながらブラボー部隊に向けて緩降下を開始した。
ただちにF9Fが迎撃に向かったが、F9Fの前には護衛の一〇式戦闘機「旭光」が立ち塞がった。
空戦に入ったF9Fのパイロット達はすぐ旭光が今まで相手にしてきた震電改よりも遥かに優れた戦闘機であることに気がついた。
旭光の主翼は後退翼になっていて、高速飛行時の運動性が震電改よりも高くなっており、F9Fでは空中分解するような速度域でも機敏に旋回してきた。
ドイツから入手した後退翼技術を使った三菱航空機の旭光は戦後第1世代型戦闘機というべきものに仕上がっていたのである。
護衛の旭光がF9Fを蹴散らすと富嶽改は艦隊が打ち上げる対空砲火を物ともせず突進し、巨大爆弾を投下した。
高度10,000mから投下されたにも関わらず、あまりにも巨大なそれは洋上からも目視可能だった。
重量10tの改グランドスラム誘導爆弾”エクスカリバー”が初めて実戦投入された瞬間だった。
エクスカリバーは日本空軍が対ユナイテッド・ステイツ用に用意した秘密兵器で、第二次世界大戦中にイギリス空軍が開発した”グランドスラム”を戦後に譲り受け、ドイツから入手した誘導爆弾”フリッツX”と組み合わせて発展させたものだった。
「1弾、1艦を屠る」
というエクスカリバーは戦艦ユナイテッド・ステイツ以外にもソ連軍のロケット発射基地やシベリア鉄道の橋梁なども爆破対象となっていた。
エクスカリバーを運用できるのは富嶽改のみである。
その富嶽改も爆弾倉に改装を施した特別機のみがエクスカリバーを使用可能で、日本空軍の第716爆撃飛行中隊と第6爆撃飛行中隊の2個中隊分しか用意されなかった。
誘導方式は指令誘導だったが、機械による自動式になっており、一度、ロックオンしてしまえばあとは誘導装置が自動的に目標を爆撃した。
エクスカリバーの弱点は母機が艦隊上空まで進入しなければならないことであった。
その間は対空砲火から逃げることもできず、一方的に打たれ続けなければならない。
エクスカリバー投下前に、ウースター級軽巡の6インチ対空砲で6機の富嶽改が撃墜された。
しかし、投弾に成功した18機は過たずにブラボー部隊旗艦のユナイテッド・ステイツと僚艦アメリカに10t爆弾を叩きつけた。
音速を超えて命中したエクスカリバーは、ユナイテッド・ステイツの400mmある水平装甲を紙障子のように撃ち抜いて、艦内奥深くまで到達した後に大爆発を起こした。
エクスカリバー3発が命中したユナイテッド・ステイツは竜骨を叩き折られて、真っ二つになって沈んでいった。
僚艦のアメリカも、弾薬庫が誘爆してきのこ雲の下に消えた。
60,000t級のメインやコネチカット、オハイオ、ルイジアナは1発の被弾でも致命傷だった。
奇襲効果を最大に高めるためにこれまで秘匿されてきた日本軍の秘密兵器は所定の効果を完全に発揮した。
巨大戦艦と共に指揮官を失ったブラボー部隊は一撃で士気崩壊を起こした。
当然だった。
10万tある巨大戦艦が真っ二つになって沈んで、動揺しない人間がいたらそれは精神異常者であろう。
バーク中将はなんとか混乱を収拾しようとしたが、アルファ部隊にも報復の時が迫っていた。
第2艦隊の影に隠れていた第3艦隊(指揮官:加来止男中将)が艦載機一斉攻撃を放っていた。
防空のF9Fはこれまでの戦いですでに消耗しつくしていた。
七式艦上戦闘機”旋風”はF9Fと同じ直進翼の旧世代ジェットだったが、数でF9Fを圧倒した。
アルファ部隊の護衛艦は空を殺意で塗りつぶすように対空砲を打ち上げたが、400機を超える敵機に襲われて全てを防ぎ切ることは不可能だった。
アルファ部隊を攻撃した流星改はターボプロップエンジンエンジン機で、性能的にはAD-4とさして変わらなかったが、そうであるがゆえに爆弾搭載量は3tと豊富だった。
AD-4よりも優れた点として、流星改は航空魚雷なら3本まで搭載可能だった。航空魚雷へのこだわりを捨てないのは実に日本海軍らしいと言える。
もちろん、ルーデルの置き土産である1.2t徹甲爆弾での急降下爆撃も可能である。
爆弾と魚雷を浴びたアルファ部隊のエセックス、タイコンデロガ、ハンコックは洋上で停止、甲板を破壊されたバンカーヒルとランドルフは戦闘不能。無傷なのはオリスカニー1隻だけになった。
バーク中将は全軍に撤退を命令し、沈みゆくエセックスと運命を共にした。
退艦と再起を求める部下に対して、
「ノーサンキュー」
とだけ述べて艦内に消えた。
海兵隊司令のターナー中将は沖縄に上陸した部隊を救うために最善を尽くしたが、もはやどうにもならなかった。
連合艦隊の勝利を確認した第13軍団は総攻撃を開始した。
戦後の日本陸軍は一つの真理に達していた。
無停止梯団攻撃を特徴とするソ連軍の機動戦に対抗するもっとも優れた手段とは、戦術核兵器の配備や、機動防御や要塞建設などではなく、自らがソ連軍になることであった。
それが満州やシベリアで散々に苦労した日本陸軍のたどり着いた結論だった。
戦後の日本陸軍はソ連軍の組織編成や装備を徹底的に模倣したソ式編成に組織編成していたのである。
これには赤軍元帥のミハイル・トゥハチェフスキーも苦笑いするしかなかったという。
カチューシャロケットから200mmカノン砲、120mm重迫撃砲まで豊富なロケット・火砲を取り添え、野戦ロケット砲兵(V2ミサイル)まで擁する日本陸軍の火力は完全にアメリカ軍を凌駕していた。
海岸橋頭堡にV2ミサイルが雨あられと降り注ぎ、集積した物資が爆発炎上する中で、火力支援を受けた300両の八式中戦車が二個梯団に分かれてアメリカ軍に殺到した。
第1梯団は食い止められたが、無傷の第2梯団はアメリカ軍の戦線を奥深くまで食い破り、海岸橋頭堡に突入を果たした。
逃げ惑う海兵隊員を日本戦車が轢き潰すのを見たターナー中将は上陸した部隊の収容を諦めた。
せめて洋上に残った部隊と輸送船だけでも撤退させようとしたが、どう考えても撤退よりも第2艦隊の戦艦群が突入してくる方が早かった。
ターナー中将は逃げ出そうとしていたブラボー部隊の生き残りを海兵隊式罵り手帳を駆使して呼び戻し、上陸部隊離脱までの時間稼ぎを図った。
上陸船団を守る米艦隊と日本艦隊は正面から激突した。
海戦に参加した米戦艦は合計10隻だった。
アイオワ、 ニュージャージー 、ミズーリ 、ウィスコンシン、イリノイ 、ケンタッキー
モンタナ 、 ニューハンプシャー、バーモント 、カンザス
質・量共にその戦力は第2艦隊と互角だったが、士気が明らかに低下しており最初から逃げ腰になっていた。
彼らはいつまた巨大爆弾が降ってくるのか気が気ではなかったのである。
しかし、その可能性は実現しないものだった。
日本空軍のエクスカリバーは2会戦分用意されていたが、母機の富嶽改が対空砲火で穴だらけになっており、とても再出撃できる状態ではなかった。
米艦隊の士気低下を見た有賀提督は焦ることなく米艦隊を圧迫し、1隻ずつ確実に葬っていった。
対ユナイテッド・ステイツ用に20インチ砲を搭載した尾張と周防はモンタナ級の防御を確実に食い破り、少しずつ戦闘力を削いでいった。
20インチ砲連装3基6門は実用的ではないという批判があった尾張と周防はそうした戦前の評価を覆すように米戦艦をノックダウンしていった。
小艦艇同士の戦いは日本の圧勝で、制空権をとった日本軍が流星改を飛ばして米駆逐艦をロケット弾で掃射した。
装甲らしい装甲もない駆逐艦へのロケット弾攻撃は非常に効果的で、航空支援を受けた特型巡洋艦群が水雷突撃を敢行し、米巡洋艦戦隊に酸素魚雷を浴びせた。
大型巡洋艦のアラスカやハワイは世界で最後に酸素魚雷で撃沈された船となった。
先に士気がくじかれて逃げ出したのは米艦隊で、戦艦ミズーリとモンタナ、バーモントが大破して脱落するともう支えきれなかった。
第2艦隊が失った戦艦は伊豆と天城だけで、その他は被弾して破損していたが主砲や機関は無傷だった。
有賀提督は深追いを避けて、逃げようがない上陸船団の撃滅に向かった。
ターナー中将の海兵隊式罵り手帳はもう品切れで、迫りくる日本製のレヴァイアサン達を諦観の念で見つめるしかなかった。
戦艦による上陸船団への破滅的な攻撃は、多くの沖縄県民の目撃するところとなった。
陸軍は流れ弾の危険があるとして海岸には近づかないように規制していたのだが、アメリカ軍を皆殺しにする鋼鉄製の怪獣の姿をひと目見ようと多くの県民が密かに海の見える場所に集まっていた。
第11師団師団長の西竹一中将は見て見ぬ振りをした。
なぜなら、
「そうだ、あれが我々の待ち望んでいた大和だ」
という西中将の言葉が全てを代弁していた。
第2艦隊の戦艦群は、主砲を水平射撃しながら上陸船団へと突入、雑多な抵抗を薙ぎ払って暴力的な攻撃を行った。
それは卑怯な不意打ちで殺された同胞達へのせめてもの鎮魂であった。
戦艦大和が発射した46サンチ砲弾(榴弾)が船内で爆発した輸送船などは、乗員の陸兵を花火のように空高く撒き散らしながら沈んだ。
護衛の駆逐艦や軽巡洋艦は発射速度の早い12高を乱射して、逃げ惑うLSTを轢殺し、海に投げ出された陸兵をスクリューに巻き込んでひき肉にした。
対潜爆雷や対潜噴進砲がばら撒かれ、泳いで岸に逃げようとしていたアメリカ兵達を水中衝撃で粉々にした。
対潜兵器が尽きると対空機銃が動員され、弾切れになるまで念入りに機銃掃射を行った。
多くのアメリカ兵が、幻想を抱く暇もないうちに狂い、傷つき、倒れていった。溢れ出る血で海を汚し、海水にまぎれて腐り果てる人肉を景気良く撒き散らして海原の一部となったのである。
かれらは人として生まれ、魚の餌として死んだ。
1953年に沖縄県がまとめた中城湾の漁獲量は過去最高記録を更新した。
夜明け前に米軍の上陸船団は海の藻屑となった。
こうして坊ノ岬沖海戦は終わった。
アメリカ海軍の主力艦隊は壊滅した。
特に緒戦の勝利を支えたアルファ部隊とその指揮官アーレイ・バークを失ったのは取り返しがつかない損失だった。
沖縄に上陸した6万の兵員は降伏して捕虜になり、洋上にいた兵員4万人は救助された僅かな例外を除いて戦死した。
もちろん、そこにターナー海兵隊中将は含まれていない。