レイド・オン・トウキョウ
レイド・オン・トウキョウ
1951年11月3日、東京湾浦賀沖にて厳かに日本海軍観艦式が開催された。
参加艦艇は100隻、航空機98機であった。
艦隊は第1列から第5列までに別れて整列し、大元帥(今上帝)の観閲を受けた。
御召艦は、戦艦「紀伊」が選ばれた。
紀伊は大和型戦艦9番艦にあたり、基準排水量62,000tの船体に20インチ連装砲3基6門を搭載した改大和型戦艦ともいうべき船だった。
他の大和型よりも一回り大きな主砲を搭載したのは、アメリカ海軍のユナイテッド・ステイツ級戦艦に少しでも対抗するためだった。
ちなみに紀伊は主砲が一回り大きくなっていたが、大和型の中では最軽量となっていた。
というのは、1番艦の大和は設計ミスで不必要に過剰防御だったり、搭載燃料が多すぎることが判明し、5番艦以後は装甲防御や燃料タンクの削減が実施された。
紀伊は設計最適化をさらに推し進めた結果、1番艦の大和より2,000tも軽く作られており、舵の応答性などが著しく向上していた。
文句なしに日本海軍の最強戦艦であり、御召艦にこれ以上相応しい船はなかった。
御召艦の前をいくのは先導艦「春風」だった。
春風は大戦中に就役した特型巡洋艦の後期生産型の1隻で、対空火力強化のために三式12サンチ連装高角砲4基8門と電探連動式高射装置を搭載するために基準排水量が3,500tにまで拡大していた。
その他に61センチ5連装魚雷発射管1基、多連装対潜噴進砲、対潜音響追尾魚雷を備えた。
近接防空装備としては大戦中に多用したボフォース40mm機銃に代えて、国産の八式八糎単装高角砲を3基搭載していた。
八式八高はリボルヴァー式の自動装填装置を装備した自動砲で、電探連動式の高射装置を使って近接信管付きの3インチ砲弾を毎分45発発射可能だった。
春風も間違いなく日本海軍の最新鋭艦と言える。
御召艦のあとに続く、供奉艦は航空巡洋艦の最上と三隈であった。
最上と三隈は水上偵察機を下ろして、対潜ヘリコプター(フォッケ・アハゲリス Fa433)を搭載することで、ヘリコプター搭載巡洋艦となっていた。
航空対潜作戦における最上型の運用成績は非常に良好で、対潜部隊の中核となることが期待されていた。
最初に観閲を受ける第1列には、大和、武蔵、熊野、鈴谷、大鯨、晴風、峰風、沖風、伊211、伊215、伊171,伊170,伊161が整然と威儀を正していた。
伊211や伊215は大元帥の興味をひいた。
なぜなら、その2艦は隣に並ぶ伊171のような水上艦に近い形式ではなく、どちらかといえば魚類に近いデザインだったからである。
大元帥は海中生物の研究者であったから、伊211と伊215について下問があった。
伊211は大戦終結後に就役したドイツ海軍のUボートXXI型を元に日本で建造された伊二百一型潜水艦の11番艦だった。
在来型の潜水艦が水上航行を重視し、必要に応じて潜水するのに対して、伊二百一型潜水艦はシュノーケルを使って常時潜水し、基本的に浮上航行はしない一般的な意味でも潜水艦らしい潜水艦だった。
水中速力は17ktに達しており、これは在来型潜水艦の2倍だった。
大量の電池を搭載することで潜水航行時間も在来型の2倍となっており、旧式対潜艦艇では手も足も出ない高性能艦に仕上がっていた。
伊二百一型潜水艦を大型化した伊三百一型もあったのだが、観艦式には参加していなかった。伊三百一型は機密兵器であるR号兵器(V2ミサイルのコピー)を搭載した弾道弾搭載潜水艦だったからである。
日本海軍は本当の意味で理論上は永久に潜水していられる潜水艦、即ち核反応炉搭載型潜水艦(伊四百一型潜水艦)も保有していたが、観艦式でお披露目するには刺激が強すぎた。
続いて第2列では、加賀、土佐、蒼龍、飛龍、不知火、黒潮、早潮、灘潮、天津風、時津風、巻雲、太刀風が大元帥の観閲を待っていた。
蒼龍と飛龍は観艦式に出席した唯一の空母だった。
翔鶴型4隻(翔鶴、瑞鶴、紅鶴、白鶴)のうち、翔鶴と瑞鶴は欧州に派遣されていた。紅鶴と白鶴はトンキン湾にいた。
大鳳は呉工廠にて改装工事中のため観艦式に出席できる状態ではなかった。
本当なら鳳翔型の鳳翔と龍翔が観艦式に参加予定だったのだが、急遽、トンキン湾へ移動することになり、代わりに練習空母扱いの蒼龍と飛龍が観艦式に出ていた。
戦前設計の蒼龍と飛龍をジェット化対応改装するのは機関の残り寿命から考えて無意味であり、着艦練習や兵装実験用空母として残されていた。
日本海軍は艦載機のジェット化にあたって、とにかく母艦が大きくなければどうにもならないことに気づき、最低限でも翔鶴型クラスの艦型が必要だと考えていた。
そのため大戦中就役した雲龍型のような軽空母を次々に退役させ、フランスやイタリアに売却していた。
フランス海軍に売却された祥龍はラファイエットとしてフランス国産空母が完成するまでフランス海軍の主力艦隊で任を全うした。
イタリア海軍に売却された瑞龍はファルコに名を変え、イタリア国産空母のアキーラと共にイタリア海軍空母機動部隊を編成した。
ちなみにドイツ海軍は国産のグラーフ・ツェッペリンを1946年に漸く完成させ、イギリスから賠償艦として受け取ったインプラカブルとインディファティガブルをそれぞれマックス・インメルマンとリヒトホーフェンに改名して使用している。
インプラカブルとインディファティガブルは、イラストリアス級を無理やり二段式格納庫にした関係で、天井が低すぎて新世代機が搭載できないなど問題の大きい空母だった。
イギリス海軍は賠償名目で体よく産業廃棄物を押し付けたと言える。
1951年11月3日午前9時12分、御召艦「紀伊」が第3列に差し掛かったところで、紀伊の対空レーダーが接近する航空機の編隊を捉えた。
観艦式には陸上攻撃機など航空機が多数参加する予定だった。
しかし、予定よりも来るのが早すぎた。しかもその数は400機近かった。
レーダーの故障が疑われたため、紀伊の艦長は大元帥にさとられないようにため息をついてレーダーのスイッチを切るように命じた。
電子機器の故障は珍しいことではなかった。
同時刻に、館山にある日本空軍(1947年発足)のレーダーサイトも東京湾に進入する大編隊を捉えていたが、
「観艦式の参加機だろう」
ということで特に気にしていなかった。
もちろん、警報の類も発令されていなかった。
同日午前9時27分、観艦式上空に進入したアメリカ海軍の奇襲攻撃部隊アルファ1を指揮するジョージ・H・W・ブッシュ海軍中佐は、
「鷲は舞い降りた(Eagle Has Landed)」
という歴史に残る電文を発し、全軍突撃を命じた。
低空に舞い降りたAD-4スカイレイダー攻撃機が次々に魚雷を投下していったが、艦艇からの反撃は全くなかった。
人々は呆然としたまま魚雷を投下する米軍機を見ているだけだった。
攻撃が集中したのは空母飛龍と蒼龍で、米軍はたっぷり3個中隊を差し向けて爆弾12発と魚雷11本を命中させて2隻を完膚なきまでに破壊して東京湾へ沈めた。
御召艦の紀伊も攻撃され、魚雷3本が命中。爆弾2発が甲板上で炸裂した。
大元帥は観閲台から投げ出され重傷を負った。
米軍機は小型艦には目もくれず、大物の戦艦に思うがままに魚雷と爆弾を叩きつけ、15分程度で去っていった。
攻撃が終わったあと、残ったのは阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
攻撃の損害は以下のとおりである。
沈没 艦隊指揮艦 大鯨
空母 飛龍、蒼龍
戦艦 土佐、武蔵
巡洋艦 最上
駆逐艦 不知火、舞風
大破 戦艦 石見、丹後、甲斐、相模
中破 戦艦 紀伊、駿河
大損害だった。
特に不沈戦艦とされた大和型の武蔵が航空攻撃で沈んだことは衝撃以外の何者でもなかった。
実際のところ武蔵が沈没したのはダメージコントロールの中枢である艦長や高級士官が爆撃でまとめて全滅し、まともな指揮がとられず隔壁閉鎖や排水ポンプの使用が不適切だったことによる自滅に近いものであった。
それでも大和型が沈んだことには変わりなかった。
他の損傷艦も1年近いドック入りが確定しており、戦力としてはカウントできなくなった。
開戦初日で主力艦隊が壊滅状態になった。
艦隊を指揮する連合艦隊司令部も艦隊指揮艦大鯨と共に全滅していた。
田中頼三GF長官は大鯨の甲板で他の高級幕僚と共に2,000ポンド爆弾の直撃を浴びて細切れ肉となって東京湾に散らばっていた。
幸いなことに第二次攻撃はなかった。
奇襲攻撃部隊を率いるアーレイ・バーク海軍中将は、当初の予定どおり一撃離脱に徹して、危険地帯になった日本本土近海から急速に離脱しつつあった。
これが観艦式襲撃事件の概要である。
英語圏ではレイド・オン・トウキョウという方が一般的である。
攻撃開始の5分前にワシントンDCでは国務長官のR・クラフトが駐米大使の山梨勝之進に宣戦布告文書を手交していた。
山梨が大使館に戻ると既に攻撃が終わっており、本国に警告を送る暇もなかった。
日本海軍は完全な奇襲攻撃を食らった。
後に徹底的な検証と責任追及が行われたが、最終的な結論としては奇襲阻止は不可能だったということになっている。
実際のところ、アメリカ軍の戦争準備は非常に用意周到なものだった。
アメリカ軍の奇襲計画(マッキンリー計画)としてまとめられ、1年以上前から周到に戦争準備を重ねて実行されたものだった。
アメリカ軍は機密保持のために、攻撃の3ヶ月前からアルファ部隊の無線封鎖していただけではなく、攻撃に参加したエセックス級空母6隻の通信士を上陸させ、ハワイの陸上通信基地から偽電を打つことで空母がハワイ近海で演習を行っていると誤認させていた。
奇襲部隊の経路も入念に選ばれたもので、民間船舶が少なくなる冬の北太平洋航路を使って、アルファ部隊を隠しとおした。
日本海軍の対潜哨戒機も飛んでいたが、その多くはベトナム問題のために南方に移動しており、本土近海の守りは手薄な状態だった。
観艦式開催のために手薄な警備は、さらに手薄な状態になっていた。
スパイ活動を警戒して、アメリカ軍内部でも奇襲計画を知るものはごく一部に限り、”登山計画”といった暗喩で情報のやりとりが行われていた。
日本海軍の通信傍受部隊や暗号部隊も”登山計画”という単語が頻出することには気づいていたが、それが何を意味しているのかは把握できていなかった。
ちなみに攻撃開始の無線符丁は「マッキンリー山に登れ」である。
マッキンリー山はアラスカにある北米で最も標高の高い山岳で、北米先住民からデナリと呼ばれていた。標高はエベレストよりも2,700m低いが、高緯度にあるため夏でも気温は-20度まで下がるというのはまた別の話であろう。
もちろん、日本側にも落ち度はあった。
そもそも日本軍には反応兵器保有国同士で全面戦争など起こり得ないという思い込みがあった。
もしも全面戦争になれば、それは即ち全面反応兵器戦争を意味する。
というのが日本軍の考えであり、それはアメリカ軍も避けるだろうと考えていた。
日本もアメリカも先進国であり、守るべきものを山程抱えていた。
富嶽やBー36によっていつでも相手の本土に反応兵器を投下できる体制が確保されており、お互いに東京やニューヨークを人質にとっている状態だった。
だから戦争など起きるはずがない。
それが核抑止理論の根幹であり、それが間違いならソ連に対する抑止力は存在しないことになる。
しかし、現実は違った。
アメリカ軍が採用したのは全面通常兵器戦争であり、ファーストストライクに反応兵器は使用されなかった。
確かにアラスカやハワイの空軍基地には反応兵器を搭載したB-36が待機していたが、待機してるだけだった。
日本軍が反応兵器を使い始めたら、反応兵器で対応するための待機であり、自分からそれを使うという考えはなかった。
反応兵器で抑止できるのは、相手の反応兵器だけであり、戦争そのものを抑止する効果はないというが最終的な結論になる。
ちなみに、アメリカ軍の戦争計画では、最初から最後まで日本軍が反応兵器を使用しないかぎり、通常兵器で対応することになっていた。
アメリカの戦争計画は最短で1年、最長で1年半でこの戦争を終わるものだった。
開戦奇襲で日本海軍の主力艦隊を壊滅させ、同時にマーシャル諸島へ侵攻。
日本軍が態勢を立て直すまえに、マリアナ諸島を制圧し、B-29やB-36による対日戦略爆撃を実施する。
もし奇襲から生き残った日本艦隊が迎撃に出てくれば、優勢な艦隊を以てこれを撃滅する。
日本艦隊が出てこない場合は、対日戦略爆撃を継続して沖縄に侵攻し、完全に日本のシーレーンを封鎖する。
アメリカ海軍の予想では、沖縄近海こそ日米艦隊決戦の地と考えていた。
沖縄は日本にとってのジブラルタル海峡であり、沖縄を失うことは海外からの輸出と輸入が完全に閉塞されることを意味する。
先の大戦でイギリス海軍がそうしたように、日本艦隊も不利を承知で出撃せざるをえない。
それでも出てこなかったら、出てくるまで海上封鎖と戦略爆撃を続けるだけだった。
むしろ、不気味な勢いで成長を続ける日本経済を破滅させるのには、その方が都合がよいとも言える。
アメリカの戦争目的は、日本経済の壊滅だった。
ローマがカルタゴを破壊してその跡地に塩をまいたように、日本の工業地帯に塩(焼夷弾)を空からまくのが目的だった。
南ベトナムは陽動と口実にすぎなかった。
もちろん、あまり戦争が長引きすぎてソ連が動き出しては困るので、適当なところで戦争は切り上げる必要があった。
敗戦で日本が弱体化した分は、戦勝国のアメリカが補うことになる。
政治も経済も軍事も日本が座っている席にアメリカが座る。
MSTOにも加盟し、アメリカがその盟主となる。
なぜなら、それは神に愛されているアメリカ合衆国の運命だから。
だってそうでしょう?両大洋に挟まれた完璧な立地条件、あらゆる天然資源に恵まれた広大な国土。しかも暖かく暮らしやすい上に、完璧な民主主義だってある。
こんなに恵まれた国家が、超大国でないのはおかしい。
日本はきっと何かズルい手を使って、その座をアメリカから奪ったに違いない。
だから、開戦奇襲のような卑怯な手をつかっても、それは全て日本が悪いのだ。
ジョセフ・P・ケネディ大統領とその取り巻きが考えていたことは、だいたいこのようなことであった。
また、日本と戦争をすることでヨーロッパ諸国から受けていた「戦争ができない腰抜け」という評価を払拭するという意味もあったと言われている。
強いていうならば、学校でボッチになっている子供が教室に現れたゴキブリやスズメバチを率先してスリッパで叩きにいくメンタリティとも言えるだろうか。
イタリアのムッソリーニ統領は観艦式襲撃事件を電話で知らされると、暫し黙考したあとで天を仰いで、こう言った。
「私がバチカンを爆撃してローマ法王を爆殺しようと言ったらどうするかね?」
「殺してでも止めますよ」
と側近のイタロ・バルボは応えた。
ソ連のトロツキー書記長もほぼ同時刻に電話で観艦式襲撃事件を伝えられた。
トロツキーは興奮して冷静さを失い、部屋にあった家具や書籍を窓から投げ捨て、酒類のビンを叩き割り、ピストルを乱射した。
トロツキーは混乱するボディーガードに向けてこう言った。
「シャーマンだ。2,000年以上続く、シャーマンの家系の後継者が、それはロシア皇帝のような権威をもっていて・・・神に等しい、神の子孫が存在するとして、とにかく、そういう至高存在がいるとして、それを傷つけたり、殺害されそうになったら、信者達はどうする?」
ボディーガードは機転を効かせて、
「ソビエトに神はおりません!」
と応えることで粛清を逃れたという逸話がある。
老いたトロツキーは判断力が低下(認知症という説もある)しており、このような意味不明なことを叫ぶのは日常茶飯事だったが、この時のトロツキーは間違いなく正気だったと言える。
観艦式襲撃事件が日本全国に伝わると、日本全国でほぼ自動的に一般市民が東京に向かって土下座を始め、全国の神社および寺院で今上帝の平癒を祈る祈祷、読経が読まれた。
キリスト教会でさえ信者達が十字架に張り付けにされた神の子に向かって、神の子孫とされる人物の手術成功を祈った。
東京の千代田城前広場は、皇居に向かって土下座して祈りをささげる人々で埋め尽くされ、手術成功の号外が出るまで帰ろうとしなかった。
ソ連と異なりアメリカには神がいて、ひょっとしたら本当に神に愛されている国かもしれなかったが、皇帝もいなければ国王もいなかった。
ましてや天皇という一切の権力をもたない公平無私で日本文化の伝統を継承する祭祀など、およそ理解不能であった。
もちろん、アルファ部隊が故意に殺害を企んだわけではないが、結果としてそうなったのだから、責任は彼らにある。
アメリカ人には全く想像もできないことだったが、日本人というさして見栄えのしない扁平な顔をした黄色人種の精神は、怒り狂って目を鮮血のように赤く染めた巨大昆虫の群れのような状態になっていた。
もちろん、日本人の民衆が徒党を組んで日本国内のアメリカ企業を襲撃したわけではない。
日本各地にある経済特区では奇襲攻撃の日にもアメリカ企業が通常どおり営業しており、日本国内のアメリカ企業に勤めるアメリカ人は普通に存在した。
実際のところ、日本国内に根を張っていたアメリカ企業群にとって、本土の異常な反日世論の盛り上がりは、迷惑以外の何者でもなかった。
親日派のアメリカ企業や経済界は日米協商を日中安全保障条約のような形に発展させ、間接的にMSTOに参加する形をとるべきだと考えていた。
日本側も当初、日米同盟には積極的であった。
しかし、その可能性は実現しなかった。
なぜならば戦時債務問題がクリアできなかったからである。
戦後の日米最大の外交問題は平たくいえば、借金の返済であった。
1941年にレンドリース法が成立すると日本は戦争遂行に必要なあらゆる物資をアメリカに発注した。
これらはすべて有償援助であり、戦後に長期融資という形で返済する約束になっていた。
ちなみに日本は113億ドルの融資を受けていた。
イギリスは日本の倍額である214億ドルの融資を受けたが、敗戦国となったイギリスに返済能力はなかった。
そこでアメリカは大幅な融資の減免と返済繰延を実施した。
戦後イギリスの親米姿勢は、全てこの戦時債務の減免に端を発していると言える。
借金をかなりの部分でチャラにしてもらったのだから、頭が上がるはずがない。
では、日本はどうなったのかといえば、きっちりと全額取り立てることになっていた。
イギリスの借金を減免した以上、日本から取り立てなければアメリカは貸し倒れになってしまう。
返済繰延も認められなかった。
戦勝国である日本には支払い能力があるのだから、借りた金を返すのは当然という認識もあった。
戦後不況を迎えていたアメリカは国内世論からしても日本の債務減免を認めることは不可能だった。アメリカにとって父祖の国であるイギリスは別格だった。
日本政府は、返済については異論はなかった。
これまで借りた外債はすべて遅滞なく返済しており、そのことを一種の国際的な信用だと考えていた日本政府は戦時債務の返済に意欲的だった。
問題は返済に必要な外貨をどのようにして獲得するかであった。
戦後日本がトージョープランで欧州市場へ強引な進出を図り、アジアの新興独立国市場や中国市場を政治的な策謀を駆使して独占し、北米市場へダンピングに近いやり方で進出を図ったのは、まことに皮肉なことであるがアメリカに借金を返済するためであった。
借りた金を返すために外貨を獲得するしかないのだから、それは必然だった。
もちろん、同時に国民を食わせていなければいけないのだから妥協の余地もない。
日本人の意識としては借りた金は返すのが当然であり、そのためにどんな方法を駆使しても金を集めるのが誠意であった。
問題はその誠意が結果として、アメリカの経済的利益を著しく侵害していることであった。
もう少し日本人が不真面目か、不誠実に振る舞って戦時債務をデフォルトしていれば戦争をしなくて済んだという分析もあるぐらいである。
日本政府は日米協商を最大の外交資産と考え、国家の利益をアメリカと折半することで国家の発展と安全保障を確保してきた。
日本が第二次世界大戦を乗り切れたのも、日米協商あればこそである。
もしも、アメリカが債務を減免していたならば、日米は永遠の友となっただろう。
アメリカの経済後退も最小限となり、中国市場や欧州市場を日米で折半することも政治的に十分可能だった。
日米の国家統合さえ可能になったという研究さえあるほどである。
しかし、借りた金を返すために金を稼がなければならなくなった日本は、アメリカと国家の利益を折半することは不可能になっていた。
ぶっちゃけていえば日米は借金返済で揉めて友情ブレイクだった。
話を1951年11月に戻すと、開戦と同時にマーシャル諸島への爆撃が始まり、同月20日までに全ての島嶼がアメリカ軍の占領下に入った。
重要な拠点になりえるクェゼリン環礁やエニウェトク環礁には日本海軍の根拠地隊が展開していたが、海兵隊はこれを一蹴した。
戦力差は圧倒的であり、上陸してきた米海兵隊は数百名の陸戦教育を受けていない根拠地隊ではまるで相手にならない戦力だった。
そのため、海兵隊は戦う前に降伏勧告を行って、彼らに投降の機会を与えた。
先の大戦でも日本軍は不利な状態になると簡単に降伏する傾向があったので、戦いはあっさり片付くと思われた。
しかし、根拠地隊は降伏を拒絶して、全滅するまで徹底抗戦した。
最後は生き残りが弾薬庫に火を放ち、数十名の海兵隊員を巻き添えにして自爆した。
もちろん彼らの抵抗は戦争そのものの推移には何ら関係のない出来事であり、アメリカ軍のスケジュールを妨害する効果はなかった。
だが、勘のいい海兵隊員の何名かは、何かがおかしいと思った。
文字通り、本当に全滅するまで戦う軍隊など、この世に存在しないのだ。
しかし、日本軍は全滅した。文字通り、最後の一人までゲリラとなって海兵隊を悩ませて射殺されて死んだ。
それでもアメリカの戦争機械を止める効果はなかった。
1951年11月20日には、アルファ部隊によりトラック環礁への大規模な空爆が行われた。
日本軍の抵抗は対空砲火だけで、戦闘機の迎撃はなかった。
在泊艦艇も撤退したあとだった。
この攻撃でトラック環礁の基地機能は完全に破壊され、同月28日には海兵隊が上陸して12月18日までに環礁の各地を制圧した。
ここでも日本軍は絶望的な抵抗を行って、海兵隊を悩ませた。
当初は捕虜から情報を得るために負傷兵の救助を行っていた米海兵隊は、トラック上陸以後負傷兵の救助を止めた。
なぜなら死んだふりをした日本兵が手榴弾で衛生兵を巻き添えにして自爆する事件が続発したためである。
海兵隊の損害は増えていたが、本土から陸軍部隊が追加で派遣され不足分を補った。
そして、スケジュールどおりにマリアナ諸島に侵攻していった。
1951年12月28日、マーシャル諸島に展開したB-29の空爆によりサイパン島は炎上した。
さらにアルファ部隊による空爆が仕上げとなり、日本軍の施設を徹底的に破壊した。
グアム島に事前に運び込んでいた長距離砲も動員して、サイパン島には徹底的な攻撃準備射撃が振る舞われた。
アメリカ軍が上陸したのは1952年1月5日だった。
予想に反して、日本兵は抵抗しなかった。
それどころか、島の住民と共に疎開したあとで、サイパン島は無人の島になっていた。
潜水艦の偵察では多数の船舶がサイパン島に向かっており、日本軍の増援が上陸して待ち構えているはずだった。
しかし、実際におきたことは逆だった。
サイパン島に来ていた船団は住民を疎開させるための船団で、防衛部隊も併せて撤退した後だったのである。
嫌がらせにサイパン島にあった病院にペスト患者収容施設という偽の看板が立てられており、騙された海兵隊員がパニックを起こしたぐらいだった。
もちろん、上陸作戦において若干の事故やトラブルで死者や負傷者がでるのは想定のうちで、損害ともいえない損害だった。
無駄に弾薬と時間を消費したため、アルファ部隊のバーク中将や海兵隊司令のターナー中将が叱責されたが、その程度の話だった。
占領したサイパン島やテニアン島、さらにグアム島はただちに航空基地が建設、あるいは拡充されB-29やB-36が展開して、対日戦略爆撃体制が構築された。
日本軍の対応は偵察機が飛来する程度で、抵抗らしい抵抗はなかった。
アメリカ軍は日本空軍が自慢する富嶽重爆襲来を予想していたが、それさえもなかった。
不気味といって良かった。
全く軍事的には無益な抵抗を行ったかと思えば、重要拠点をあっさりと捨てる日本軍の行動は意味不明だった。
艦隊主力が瀬戸内海に集まっていることは無線傍受で掴んでいたが、何をしているのかは不明なままだった。
偵察に送り込んだ潜水艦は帰ってこなかった。
アメリカ海軍の潜水艦は世界大戦戦中に建造されたガトー級やバラオ級、テンチ級で構成されていた。
これらは水上航行を重視した潜水艦で、水中では8kt程度が限界だった。
日本海軍の対潜部隊にとって馴染みの深い相手で、イギリスへの輸出バージョンをゲップがでるほどインド洋で沈めてきたものだった。
大型陸上攻撃機の連山を改造した対潜哨戒機「大洋」は、レーダー哨戒と磁気探知機を組み合わせて、米潜を捕捉すると対潜音響追尾魚雷で容赦なく撃沈した。
急遽、以前の乗員をかき集めて現役復帰した松型駆逐艦でさえ、対潜音響追尾魚雷や多連装対潜噴進砲を装備していて、大戦型の潜水艦では手も足もでなかった。
アメリカ海軍の潜水艦部隊は何もできないまま損害ばかりが増える1943年のドイツ海軍の悲哀を味わうことになった。
そのため潜水艦からの情報はアテにできなかった。
情報収集のために、グアム島に進出したF-13(B-29の偵察型)が日本海軍の呉基地を偵察するために飛び立った。
しかし、F-13も帰還しなかった。
高高度を飛行するF-13の捕捉、迎撃は非常に困難だと考えられていたが、日本空軍のジェット機に追尾されていると無線で訴え、そのまま通信を断った。
一応、米軍も開戦前に情報を集めるだけ集めており、日本空軍のジェット戦闘機についてはかなり詳細な知識を得ていた。
日本空軍の主力戦闘機は七式戦闘機「震電改」であった。
震電は最初はレシプロ戦闘機だったが、ジェットエンジン(ネ120)が実用化されるとジェット化され、1948年にはさらに改良された推力2t級のエンジン(ネ220)を搭載していた。
性能的にはP-80と同程度だと考えられており、F-13も震電改に撃墜されたと考えられた。
アメリカ軍の情報部隊は、日本がドイツから後退翼技術の提供を受けてさらに革新的なジェット戦闘機を造っていることを知っていたが、その姿は不明なままだった。
関東方面に偵察に出たF-13も未帰還になった。
やはり、撃墜される前にジェット機の追尾を受けていることを知らせていた。
日本本土上空の守りは固そうだった。
戦略爆撃を担当する米空軍は、小笠原諸島にあるレーダーサイトを破壊して日本軍の早期警戒網を無力化しないかぎり、戦略爆撃部隊が大きな損害を被ると見ていた。
特に硫黄島には長距離レーダーと多数の航空部隊が進出しており、これを無力化するか、占領する必要があると考えていた。
海軍は一日もはやく日本のシーレーン遮断のために沖縄に侵攻すべきだと考えており、空軍の要求は迷惑なものだった。
ジョセフ・P・ケネディ大統領の最終判断は、硫黄島攻略だった。
日本本土爆撃はアメリカの対日戦争戦略の中でも大きなウェイトを占めており、その障害になるものは排除するという判断だった。
対日速攻を訴えるバーク中将は苦虫を噛み潰したが、大統領命令には逆らえなかった。
1952年2月10日、硫黄島攻略作戦が発動された。
バーク中将の指揮するアルファ部隊はトラック環礁を出撃した。
アルファ部隊には上陸作戦を支援するチャーリー部隊も加わった。
C部隊はジェット化対応改装から漏れたレシプロ機用の空母部隊で、古めかしいヨークタウン級(エンタープライズ、ヨークタウン、ホーネット)を使用していた。
ただし、艦載機はF4Uコルセアの後期型で固められており、上陸支援なら十分な戦力であった。
硫黄島攻略はアルファ部隊が制空権を確保した後、チャーリー部隊がレシプロ攻撃機で上陸支援を担当することになった。
もちろん、マリアナ諸島に展開した米空軍部隊からの航空支援もある。
アルファ部隊が硫黄島を空襲したのは2月17日だった。
硫黄島を襲った米攻撃隊は、ここで始めて日本軍の本格的な抵抗に遭遇した。
レーダーで空襲を察知した日本空軍は震電改を発進させ、硫黄島上空で待ち構えていたのである。
迎撃に発進した震電改は52機、さらにターボプロップエンジンに換装した烈風改24機も空中戦に参加した。
烈風改はもとは艦上戦闘機だったが、空軍発足時に空軍へ移管されたものが多かった。
空軍は烈風を改修してターボプロップエンジンの試験に使用した。
燃費の悪い初期のジェット機では長距侵攻作戦が困難だったので、ターボプロップエンジン機にも一定の戦力価値があると思われていたのである。
迎撃を受けた米軍機はF9Fパンサーが震電改との空戦に突入し、世界初のジェット機同士の空中戦となった。
F9Fと震電改の空戦は概ね互角だった。
烈風改ではジェット機の相手は無理で、レシプロ機のスカイレイダーに的を絞って攻撃をかけた。
硫黄島空襲は成功したが、アルファ部隊は大きな損害を出すことになった。
対空砲火も今までになく強力で、多くの作戦機が損傷により廃棄処分された。
だが、硫黄島の日本軍戦闘機部隊は制圧され、米空軍のB-29や改良型のB-50による夜間絨毯爆撃で航空基地も破壊された。
硫黄島のような孤島の基地で空母機動部隊の全力攻撃に対抗するのは困難だった。
ジェット機さえいなければ、チャーリー部隊のコルセアだけで上陸支援は十分だと考えられた。
しかし、それは甘い見通しだった。
アルファ部隊が後退した隙をついて、日本本土から飛来した一〇式陸上攻撃機「天河」がチャーリー部隊に大打撃を与えた。
ネ270を装備した三菱航空機の一〇式陸上攻撃機は1950年に採用されたばかりのジェット爆撃機であった。
レシプロ機のような直進翼機で、登場時点で旧式化していた一〇式陸攻であったが、4,000kmを超える航続距離を持つことから、旧式空母を襲うには十分だった。
また、一〇式陸攻そのものは旧式設計であっても、爆弾倉に抱いていた一〇式空対艦誘導弾は旧式どころの兵器ではなかった。
一〇式は大戦末期にドイツ空軍が実用化したヘンシェル Hs293の技術を日本海軍が発展させたもので、世界初のアクティブレーダーホーミング方式の対艦ミサイルだった。
45km先から、チャーリー部隊の空母に向けて発射された一〇式空対艦誘導弾は高度400mを巡航し、先端に搭載された電探によって目標を捉えるとエンタープライズとヨークタウンにダイブ攻撃を行った。
艦内で120kgの高性能爆薬が炸裂したエンタープライズとヨークタウンは大破炎上した。
米軍にとって幸いなことに一〇式空対艦誘導弾はダイブ攻撃のみで、水線付近を攻撃する機能はないため二隻が沈むことはなかったが上陸支援の継続は不可能だった。
米太平洋艦隊は作戦中止を決定した。
バーク中将は言わんこっちゃないと臍を噛んだが全ては後の祭りだった。
アルファ部隊の空母は無傷だったが優秀なパイロットの多くと機材、そしてなにより貴重な時間を失った。
トラック環礁に後退して態勢を立て直したアメリカ軍が沖縄攻略作戦を発動したのは、1952年3月14日だった。
アルファ部隊を率いるバーク中将は、不安を抱いたまま沖縄に向かうしかなかった。
アルファ部隊の後ろには、米海軍自慢のユナイテッド・ステイツ級を含む戦艦16隻を擁するブラボー部隊(指揮官ウィリス・A・リー大将)が続いた。
米太平洋艦隊の主力が沖縄近海に姿を現したのは1952年3月18日だった。




