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1950年


 1950年


 第二次世界大戦後のインドシナ半島の歴史は、フランス植民地帝国との闘争で書きつくすことができる。

 1944年6月1日に停戦が発効し、第二次大戦が事実上終了すると日本軍は東南アジア各地から軍事力を撤収していった。

 アジア各地では日本軍撤収後から一気に独立に向けた動きが加速した。

 インドネシアでは1944年6月2日にスカルノがインドネシア独立宣言を発表し、日本軍撤収後に再支配を目論んだオランダ軍を一蹴して1945年8月15日にオランダ政府に独立を認めさせた。

 しかし、インドシナ半島ではそうした動きは鈍かった。

 フランスの植民地政府は健在であり、フランス軍もまた同様だった。

 戦中の日本軍もヴィシー・フランスとの関係を重視して、現地の独立勢力を支援することはなかった。

 この点が、日本軍が自ら(止む得なく)軍政を敷いて独立準備政府を組織したインドネシアとインドシナ半島の違いだった。

 ただし、日本政府は人種平等の観点から植民地のようなものは全て廃絶するべきだと考えており、密かにベトミン(ベトナム独立同盟会)と連絡をとって撤収時に遺棄した兵器が彼らの手に渡るように手配していた。

 インドネシア独立宣言で触発されたベトミンは1944年7月15日にインドシナ半島全域で武装蜂起した。

 これにより、長い長いインドシナ戦争が始まることになる。

 どれくらい長いかといえば、1950年のジュネーブ和平協定成立によりフランス軍が撤収するまで6年に渡って戦いは続いた。

 これほどまでに長い戦いとなったのは、ベトミンの軍事力の低さがあった。

 初期のベトミンには、インドネシアのように日本軍の手によって育成された正規の軍事組織(インドネシア独立軍)がなく、素人や民兵に毛が生えた程度だった。

 士気の低い植民地軍が相手ならともかく、フランス本国軍が派遣されるとベトミン軍では勝負にならず、ゲリラ戦に徹するしかなかった。

 ではフランス軍が圧勝したかといえばそうでもなかった。

 戦災でボロボロになっていたフランスに大軍を派遣する能力はなく、ベトミン軍に決定的な打撃を与えることはできなかった。

 さらにアジアの海を支配する日本海軍が有形無形の圧力をかけて兵力の増派を妨害した。

 フランス軍はハノイへの直接攻撃を目論んだが、ハイフォン港に日本海軍の戦艦武蔵が錨を下ろしていては近づくことさえままならなかった。

 一応、フランス軍も戦艦リシュリューを極東に派遣していたのだが、18インチ砲9門搭載した64,000tの巨大戦艦をどうにかできるはずもなかった。

 この時、戦艦武蔵はホー・チ・ミン首相の表敬訪問を受けており、呉の海軍博物館にはホー・チ・ミンと武蔵乗員で撮影した集合写真が展示されている。

 ベトナム政府が発行する記念切手に、ヤシの木が茂るハイフォン港に停泊する戦艦大和や加賀といった図柄が採用されているのはこのためである。

 ホー・チ・ミン首相は巨大な武蔵を見上げて、


「これは本当に動くのかね?」


 と質問したのは有名な話である。

 その後も日本海軍は常時必ず1隻は戦艦をハイフォン港に派遣し、フランス艦隊のベトナム北部沿岸への接近を牽制しつづけた。

 トンキン湾には常に日本海軍の空母が展開して、”演習”と称して戦闘機を在空させ、フランス空軍の動きを逐一ベトミン軍に通報した。

 駆逐艦や軽巡洋艦はフランスの兵員輸送船につきまとい航路妨害などの嫌がらせを続けた。

 ブチ切れた戦艦リシュリューは粘着する日本駆逐艦に主砲を向けた。

 主砲を向けられた駆逐艦「雪風」は、


「こちら<雪風>。われは戦艦にあらず」


 と、35,000tもある戦艦リシュリューを煽り返した。

 嫌味に関してフランスは世界でもトップクラスのセンスをもっていたが、日本海軍はそのフランスに学んだ軍隊であった。

 さらに反植民地主義という点では日本よりも余程強烈なアレルギーをもつ中華民国はベトミン軍を熱心に支援した。

 蒋介石は軍縮で余った武器弾薬を供与し、中国国内でベトミン軍に軍事教練を施した。

 兵器供与や軍事教育の提供という点ならソ連の支援もあり、ベトミン軍はゲリラの集まりからベトナム政府の正規軍へと急速に発展していくことになる。

 日中とソ連の共闘体制は典型的な政治の呉越同舟であったが、反植民地という点では彼我の利害は一致しており、意外なほどに上手くことは進んだ。

 最終的に相容れないことはわかりきっていたが、それはベトナムが独立した後で考えればいいことであった。

 日本海軍の嫌がらせと無尽蔵に思える中ソの武器支援、強化されたベトナム正規軍を率いるボー・グエン・ザップ将軍に叩きのめされたフランスはジュネーブで和平交渉の席についた。

 和平交渉の結果、フランス軍は全面撤退し、インドシナ半島(ベトナム、カンボジア、ラオス)の独立を認めた。

 フランスが支援していた南部のベトナム国については、1953年に選挙で国家統一を決めることになった。

 国土統一に王手をかけていたベトナム政府はこの決定に難色を示したが日本と中国の説得により和平協定を受け入れた。

 日本はフランスを追い詰めすぎて、地中海条約機構(MSTO)の調和が乱れてソ連に付け込まれることを恐れており、ある程度の妥協が必要だと考えていた。

 ジュネーブ和平協定の結果、ベトナムの南北分断が決定した。

 日中はその後の展開を楽観視しており、選挙で平和裏に国家統一が成し遂げられるならそれに越したことはないと考えていた。

 日本は国情の安定には立憲君主制が最も優れるという信念があり、追放された院王朝を名目君主として統一ベトナムに復帰させ、その下に北部の社会主義勢力と南部の資本主義勢力を議会政治で包摂する構想を抱いていた。

 ホー・チ・ミンもこの構想には前向きで、日本の先例に習おうと考えていた。

 日本政府は国費でベトナムから大量の留学生を受け入れ、3年後に生まれる新国家に蒔く種としようとしていた。

 日本で学んだ留学生達が帰国するころには、ベトナムは選挙で統一されているはずだった。

 若い彼らの力によって、ベトナムは素晴らしい国になるに違いなかった。

 しかし、そうした明るい未来は訪れなかった。

 フランスの後釜に座る形でベトナム国を支援したアメリカ合衆国は、親米政治家のゴ・ディン・ジエムを大統領に据えたベトナム共和国政府を樹立した。

 アメリカの後押しを受けたベトナム共和国政府はジュネーブ和平協定から脱退した。

 南ベトナムに電撃訪問したアメリカ大統領ジョセフ・P・ケネディはゴ・ディン・ジエムと会談し、南ベトナムの自由と独立を守るためにアメリカ軍派遣を確約した。

 それに前後してフィリピンの米軍基地からアメリカ海兵隊が出動し、南ベトナム各地に上陸していった。

 海兵隊を運ぶ米アジア艦隊は、露骨に日本艦隊を挑発した。

 進路を妨害する日本艦に対して米艦は体当たりで強引に進路をこじ開けた。体当たりを受けた日本駆逐艦の嵐では負傷者が出た。

 1948年に脳出血で死去した中島知久平から政権を引き継いだ東条英機首相はアメリカの策謀に激怒した。

 当然だった。

 アメリカの行動は和平交渉の成果を全てぶち壊しにするものであり、ベトナムをさらなる血の深みに誘うだけの意味しかなかった。

 はっきりといえば、これはアメリカによる侵略だった。

 ただちに日中共同で対米非難声明が発表された。

 アメリカ政府はこれに正面から反論して北ベトナムにおける日中ソの共闘体制をMSTO加盟国への背信行為と批判。

 自らを、


「真の自由と資本主義の守護者」


 であるとして、日本との対決姿勢を全面的に打ち出した。

 アメリカの反論に対して、MSTO諸国の反応は割れた。

 ドイツ、イタリアはもとより植民地をもっていないため、日本の反植民地主義には肯定的だった。北欧諸国も同様で植民地支配を時代遅れのものと見なしていた。

 対して、イギリスやフランス、オランダといった旧植民地帝国はアメリカの動きに好意的だった。

 特にフランスは嘗ての弟子から散々嫌がらせを受けたあとだったので、アメリカ海軍の展開を見て大いに溜飲を下げた。

 対ソ包囲網を形成するMSTOといえども、その内情は一枚岩ではなかった。

 特にイギリスとフランスはMSTOを主導する日独伊に対して苛立ちをつのらせており、アメリカがその気になったのなら、MSTOに加盟してもらって日本軍には極東にお引取り願えないだろうかと考えていた。

 アメリカ軍の大軍がヨーロッパに展開すれば、それだけ自国の軍事負担が減るため、経済が低迷する英仏にとって喜ばしいことだった。

 それほどまでにアメリカ軍の軍備は強大であった。

 特に海軍力は日本海軍に匹敵する規模まで拡大していた。

 アメリカ海軍は1937年1月1日に軍縮条約が失効すると海軍拡張に転じ、35,000tクラスのノースカロライナ級戦艦2隻を皮切りにサウスダコタ級戦艦4隻、アイオワ級戦艦6隻に、モンタナ級戦艦4隻と次々に建造し新世代戦艦16隻を海に浮かべていた。

 戦後も各国が軍縮に転じる中でアメリカ海軍だけは建艦を続けており、日本海軍が建造した大和型戦艦が18インチ砲を装備する64,000t級の巨大戦艦であると知ると18インチ砲搭載の改モンタナ級のルイジアナ級戦艦4隻を建造した。

 ルイジアナ級はモンタナ級の16インチ砲3連装砲塔を18インチ砲連装砲塔に換装した間に合わせの船に過ぎず、アメリカ海軍の本命は世界最大最強というタイトルを日本海軍から取り戻す20インチ砲搭載戦艦のユナイテッド・ステイツ級だった。

挿絵(By みてみん)

 ユナイテッド・ステイツは基準排水量100,500tの船体に20インチ砲3連装3基9門を搭載した世界最大最強の戦艦で、2番艦アメリカと共に1950年3月3日に就役した。

 このような巨大戦艦を建造するに至ったのは、アメリカ海軍には日本海軍には20インチ砲搭載戦艦を作れないだろうという予想があったからだった。

 何故かといえば20インチ砲とその対応防御を施した戦艦はどうしても排水量が10万tクラスまで拡大してしまいスエズ運河を通過できなくなるからである。

 ヨーロッパに艦隊を送らなければならない日本海軍はスエズ運河を一つの基準としていた。

 1943年に戦艦石見(基準排水量59,070t)がスエズを通過した際は、燃料や弾薬を抜いた軽荷の状態でようやく通過できた。

 1946年に戦艦大和(基準排水量64,000t)がヨーロッパ諸国に始めてお披露目された際も同じ措置で運河を通過したが、ぎりぎりのラインだった。

 大和型以上の大きく重い船はスエズ運河を通過できないため、希望岬を回らなければならなくなり著しくコストパフォーマンスが悪いものになってしまう。

 日本海軍の主敵はギリシャのテッサロニキ港に駐留するソ連地中海艦隊であり、損傷時に日本本土へ回航するためにもスエズ運河の通過は欠かすことができない条件と考えられていた。

 また、日本軍は核反応兵器の実用化に成功していたので、大和型以上の巨大戦艦保有には懐疑的であった。

 1947年9月1日に日独伊仏は合同で反応兵器実験を実施し、これに成功した。

 日独英仏伊波が資金を持ち寄り、各国の物理学者を結集して完成させた世界初のプルトニウム爆縮型核反応兵器は、伊領リビアの砂漠で核の炎を解き放ち、世界に衝撃を与えた。

 水上艦艇に対する実験は1948年7月1日に実施され、マーシャル諸島のビキニ環礁にて廃艦になった戦艦長門や軽空母龍驤その他旧式艦艇33隻に対して核反応兵器が投下された。

 戦艦長門は2発の反応爆弾に耐えたが、水中爆発した3発目で艦底を破壊され、放射能汚染された海に沈んだ。

 戦艦の装甲は反応兵器攻撃にもある程度有効であることが判明したが、艦艇内の実験動物は放射線によって全滅しており、実戦においても同様の事象が発生すると考えられた。

 例え核攻撃に装甲で耐えても、乗員が死んでいては操艦は不可能であり、戦艦は核反応兵器には無力であるというのが日本海軍の結論だった。

 反応兵器開発に成功したMSTO諸国は、反応兵器共同保有ニュークリア・シェアリングを展開し、加盟国へ反応兵器攻撃があった場合に反応兵器で反撃することになった。

 強大なソ連軍に正面から向き合うポーランドなどは反応兵器さえあれば、ソ連軍恐れるにたらずといった論調が見受けられたが、それほど単純な話ではなかった。

 インドシナ戦争のようにニュークリア・シェアリングを実施するMSTO加盟国同士(日仏)が対立する場合もあった。

 反応兵器の破壊力に幻惑された一部の軍人や政治家は、反応兵器さえあれば通常兵器が要らないと考えたが、それは暴論というものだった。

 アメリカ合衆国は1948年に反応兵器実験に成功し、ソ連も1950年に反応兵器を保有するに至って、MSTOによる核の独占は崩壊した。

 結論として、日本海軍はアメリカ海軍の軍拡競争に対して、スエズマックスサイズである大和型戦艦の量産化で対抗することとした。

 この決定に接したイギリス海軍やフランス海軍はクソマジメな日本人もたまには面白いジョークをいうものだと考えたが、日本海軍が本気で言っていることが判明すると笑うのをやめるべきか、それとも爆笑するべきか大いに悩んだ。

 挿絵(By みてみん)

 4隻で建造終了予定だった大和型戦艦は、5番艦以後も改良や軽量化を重ねて、合計12隻も建造されることになった。

 最後期大和型(9番艦以後)に至っては、ユナイテッド・ステイツに対抗するために主砲を18インチ三連装砲から、20インチ連装砲に換装して攻撃力だけは互角になるように改良された。

 1951年末時点での日米艦隊の戦艦戦力は以下のとおりである。


 35,000t級

 日本2隻             米国6隻

 赤城、天城            ノースカロライナ、ワシントン

                  サウスダコタ、インディアナ

                  マサチューセッツ、アラバマ

 45,000t級         

 日本4隻             米国6隻

 加賀、土佐            アイオワ、 ニュージャージー

 伊豆、肥前            ミズーリ 、ウィスコンシン

                  イリノイ 、ケンタッキー


 60,000t級        

 日本13隻            米国 8隻

 石見               モンタナ 、オハイオ

 大和、武蔵、信濃、甲斐      メイン 、 ニューハンプシャー

 駿河、越後、出雲、丹後      ルイジアナ、コネチカット

 紀伊、尾張、相模、周防      バーモント 、カンザス

 

 100,000t級

 日本 なし            米国2隻

                  ユナイテッド・ステイツ、アメリカ

                 

 さらに第二次大戦では多目的に活躍した航空母艦は、翔鶴型4隻、大凰型1隻、鳳翔型2隻にジェット化対応改装を終えていた。

 鳳翔型は大戦終結後に就役した基準排水量45,000tの装甲空母だった。

 艦名の鳳翔は航空母艦としては2代目となる。ちなみに初代鳳翔は停戦後に軍縮の一環として惜しまれながらも解体処分された。

 二代目鳳翔には経費節減のために転輪や生活家具、厨房器具などの流用可能な艤装品が初代鳳翔から移植されており、日本海軍全ての空母の母と慕われた初代鳳翔は、日本海軍最強空母に生まれ変わったと主張する軍艦マニアもいる。

 挿絵(By みてみん)

 アメリカ海軍でジェット化対応している空母はエセックス級6隻のみで、母艦航空戦力はほぼ互角か、艦載機の性能では日本がやや優勢といえる。

 以上のように、日本軍に匹敵する軍事力をもつアメリカに、MSTOに加盟してほしいと考えるヨーロッパ諸国は多かった。

 ユダヤ人に対するジェノサイドで人種問題が非常にセンシティブになった1940年代以後であっても、黄色人種の日本人にヨーロッパでウロウロされるのは精神衛生に悪いと考える白人勢力はまだまだ多かった。

 少なくとも、ソ連が妙な気を起こさない程度には、MSTOは2つに割れていたと言えるだろう。

 しかし、日米が激突するような事態は誰も望んでいなかった。

 それこそ、ソ連が喜ぶだけである。

 ましてや日米は核保有国同士であり、全面戦争となればそれは即ち反応兵器戦争になってしまう。

 核実験により放射線が人体に齎す呪いのような効果が明らかになりつつあり、大量の反応兵器をぶつけ合う戦争は人類絶滅を招く可能性が示唆されていた。

 そのため、アメリカのMSTO加盟に前向きな英仏にさえ、アメリカの一方的で性急な行動に懸念を抱く者がいた。

 そもそも、アメリカ大統領のジョセフ・P・ケネディの人間性が信じられないという人間も多かった。

 イギリスのチャーチルはその代表的な人物といえる。

 チャーチルに言わせてみれば、JPKはヒトラーの尻尾のような男だった。

 JPKは大戦前にルーズベルト政権下で駐日大使を務めており、彼の役割は中ソ事変に介入した日独合同義勇軍「鷹の爪軍団」に米国製兵器を供与する窓口であった。

 ルーズベルト政権が日独との連携にのめり込んでいった時の中心人物であり、ナチスシンパだった。

 反ユダヤ主義の標榜や、ヒトラー擁護発言も日常茶飯事であった。

 禁酒法時代にマフィアと手を組んで酒の密輸で蓄財を図り、マフィアからの裏情報を駆使して、インサイダー取引を繰り返していたという黒い噂があった。

 ケネディ家は王室のないアメリカでは、ロイヤルファミリーと称されるほどの影響力と資産をもつ名家だったが、JPKに関しては白よりも黒が目立ちすぎた。

 JPKは1940年の大統領選挙でルーズベルトが落選すると駐日大使を解任されたが、その後も日本への武器売却を通じて、ナチス・ドイツとの連絡を保ち続けていた。

 そのため日本の政界ではJPKはルーズベルトのような親日家だと考えられており、1948年の大統領選挙に民主党からJPKが出馬すると日本ではJPK大統領待望論さえでた。

 日本政界は孤立主義で話の分からないウィルキーに失望していたのである。

 また、なぜか日本に対して敵対的なアメリカ世論も民主党政権になれば変わるかもしれないという希望的な観測もあった。

 JPKはネオ・ニューディル政策を引っさげて、共和党候補のダグラス・マッカーサーを破って、ホワイトハウスの主になった。

 ルーズベルト時代のブレーンの多くが、JPKと共にホワイトハウスに戻ってきた。

 これもチャーチルに言わせてみれば、ナチの残党であった。

 JPK政権で空軍総司令官に就任したチャールズ・リンドバーグなどは思想的には完全にナチであった。

 チャーチルは共和党候補のマッカーサーをさほど評価していなかったが、JPKは論外だと断じていた。

 惜しむらくは、敗戦の責任をとる形で引退していたチャーチルの言葉に耳を傾けるものが誰もいなかったことだろう。

 チャーチルの警鐘は無視された。

 JPKはアメリカの立て直しを米国市民に訴え、経済の回復と国際的な孤立打破を目標に掲げた。

 そして、前述のとおりベトナムで暴挙に出たのである。

 JPKの暴挙に対して、アメリカの国内世論は拍手喝采を送った。

 アメリカ世論は猛烈な勢いで経済を拡大して、アメリカの地位を脅かす日本を最大の脅威とみなしていた。

 1950年に実施された米国の対日世論調査では、「戦争をしてまでも日本の発展を阻止すべき」が70%にもなった。

 日本人の側からすると何をそんなに恐れているのか意味不明な状態といえた。

 実際のところ、日本経済が拡大しているというよりも、アメリカ経済が縮んでいるという表現が経済学的に正しく、アメリカの経済政策が間違っているだけだった。

 アメリカはソ連の脅威から最も遠く離れているのだから、不必要な軍拡を停止してそれを民生に振り向けるだけで良かったのである。

 ソ連に対抗しなければいけない日本の方がよほど多くの軍備を抱えて財政負担に苦しんでおり、経済的にアメリカが一人勝ちすることは十分に可能だった。

 だが、アメリカ人の多くは自国の繁栄を強化するよりも、アメリカの経済的繁栄を脅かすものを何が何でも排除しなければならないと考えていた。

 そうした行動は長い人類の歴史において散見される事象であった。

 古くはローマに追い詰められたカルタゴや、オスマン帝国に圧迫されたヴェネツィア、スペインの脅威に晒されたイングランド。日清戦争における日本帝国もそうだった。

 追い詰められた海洋国家は、何が何でも攻勢に出て敵を叩こうとする。

 アメリカ合衆国は2つの大洋に挟まれた海洋国家であり、其の例に漏れなかった。

 1951年4月からスウェーデンのストックホルムで日米交渉が始まり、アメリカ軍の南ベトナム撤兵問題が協議された。

 日本側の代表として吉田茂特命全権大使が交渉にあったが、結果は尽く不首尾に終わった。

 優れた外交官である吉田は、アメリカ側にまともに交渉する気がないことにすぐに気がついて本国に警告を送った。

 それを裏付ける証拠として日本軍統合参謀本部(1947年発足)の暗号部隊が、アメリカの外交暗号を解読して、アメリカ側の外交訓電の詳細を入手した。

 日本軍は先の大戦でイギリスの暗号解読で苦戦した経験から、多額の予算を費やして暗号部門を拡大し、国産の真空管式デジタルコンピューターを十数台投入してアメリカの軍用、外交暗号をかなりの部分まで解読していた。

 日本海軍は暗号解読のために魚雷の爆発事故で東太平洋に沈んだ米駆逐艦エルドリッジを海底からサルベージして暗号機と暗号表を入手するようなことまでやっていた。

 エルドリッジは深海に沈んだためアメリカ海軍はサルベージを諦めていたが、日本海軍は極秘にそれを実行し、成功させていた。

 訓電の詳細分析により、スウェーデンでの交渉目的が時間稼ぎであることが判明したが、何のための時間稼ぎであるか不明だった。

 日本陸軍の分析官は、フィリピンからの海兵隊移動に着目し、南ベトナムへの兵力増派と分析した。

 これは非常に大きな説得力があった。

 交渉するふりをして南ベトナムへ兵力を増派し、然るべき戦争準備を整えたうえで北ベトナムを挑発して一気に戦争を仕掛けるというのは有り得る話だった。

 今のところ、北ベトナム政府は日米交渉に望みを託して、軍事行動を控えていた。

 しかし、米軍が挑発を繰り返せば、その忍耐はどこかで尽きるだろう。

 北ベトナム軍が暴発すれば、それを口実に米軍は北ベトナムへと侵攻する。

 そうなれば、ベトナムは戦争に逆戻りだった。

 ベトナムはフランスを追い出すのに6年の歳月と何十万人という犠牲を積み上げてきた。

 国力が低下していたフランスが相手でも、それほどの歳月と犠牲が必要だった。

 世界1位の経済力を誇るアメリカとの戦争になれば、どれほどの歳月と犠牲者が必要になるのか検討もつかなかった。

 そもそも、勝利の望みがあるとは思えなかった。

 ベトナムとアメリカの国力差はどれだけ控えめに計算しても100倍以上の差があった。

 それでもベトナムは戦うだろうと東条首相は予想した。

 国家の独立とはそれほどまでに重いものだった。

 しかし、同時にそれは不要な戦いであるとも考えた。

 アメリカが余計なことをしなければ、必要ない戦いであった。

 東条英機がアメリカを憎悪したのはまさにこの一点に尽きると言ってよかった。

 東条は日本国の首相であり、その役割は日本の国益を最大化することだった。

 日本の軍事力とは、畢竟、日本人のためだけにあるのだ。

 それ故に東条の苦悩は深かった。

 だが、それでも東条は、日本首相の役割を踏み外すことになっても、日本の利益ではないとしても、ベトナムのために何かしなければならないと考えていた。

 超大国とはそういうものだからだ。

 日本は世界に対して、特別な責任があると東条は考えた。

 もちろん、ベトナムを助けたところで、彼らが日本に恩義を感じて、自国の利益を左前にしてまで日本のために何かしてくれるわけではない。

 それでも、何の利益にもならないとしても、そうした損得計算を超えた価値判断こそ、超大国たる所以であると東条は考えた。

 東条は日本陸軍の退役軍人であり、第二次世界大戦前はどちらかといえばタカ派として鳴らしていた人物であった。

 しかし、苦悩する東条の瞼に浮かぶのは戦いや勝利の記憶ではなく、低く雲が垂れ込めるポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所で拾い上げた幼児の骨のかけらだった。

 

センソウヲケイベツスルモノ

 ウォースパイト・トージョー


 というのは、東条英機の死後にその戦後の歩みを調べ上げ、やや感情過多な表現で書き綴ったイギリスのジャーナリストが亡き東条に贈った記事のタイトルである。

 東条は南ベトナムへの米軍増派阻止のために海軍艦艇派遣を命じた。

 命令を受けた連合艦隊は兵力移送状況を空から監視するために、空母の増派が望ましいと考えた。

 結果、トンキン湾の空母部隊が増強されることになった。

 この決定が後に大きな意味を持つことになるのだが、1951年10月20日時点では誰もそれに気が付かなかった。

 トンキン湾に向かうことになった空母鳳翔と龍翔の艦長や乗員達は、11月3日に東京湾で開催される観艦式に出られなくなり、残念だとしか考えなかった。




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― 新着の感想 ―
[気になる点] うわー、ついに日米開戦かなぁ... アメリカはずっと世界大戦経験してないから 第二次世界大戦の時のアフリカでのアメリカ軍の時と同じになりそう....
[一言] 西欧連中、ポーランド首相の言葉をもう忘れたのか。おめでたい頭だこと。
[一言] なんかもう頭の中でガトーさんが 「東京よ!私は帰ってきた!」 って叫んでるんですけどー トンキンかトーキョーかどっちだ?
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