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終戦の風景



 終戦の風景


 1946年3月7日、アメリカ合衆国のボストンで開催された講和会議にて参戦各国が講和条約に調印し、第二次世界大戦は法的に終了した。

 全世界で1,000万人を死に至らしめた悲惨な戦争は停戦から2年の歳月を経てようやく終わった。

 講和条約の調印式はアメリカで最も古い格式を持つボストン・オペラ・ハウスで行われたが、会議そのものはワシントンDCで行われている。

 このあたりはベルサイユ講和条約と同じだった。ベルサイユ講和条約も調印式はベルサイユ宮殿であったが、会議そのものはパリで行われている。

 列強国のうちで唯一中立を保っていたアメリカ合衆国の仲介により講和会議が斡旋されたことから、講和会議の開催がアメリカで行われるのは別段、大きな問題はなかった。

 しかし、会議の開催場所となると条件が難しかった。

 日本は西海岸のシアトルを希望していたが、イギリスは東海岸のニューヨークを希望した。

 ソ連はアメリカ領内での開催そのものに反対して洋上会議を逆提案するなど、講和会議開催の地は紆余曲折を経て最終的にボストンと定められた。

 ボストンを指定したのは、和平交渉を呼びかけたドイツだったとされる。

 なぜボストンを選んだのかは意思決定に関して明確な根拠書類が存在しないために現在でも確認できていない。

 しかし、臨時政府の代表に選ばれたカール・デーニッツ提督の自伝によれば、ドイツ外務省の誰かが考えだしたイギリスに対する嫌味という説が現在は最も広く信じられている。

 ボストンといえば、紅茶色に染まった港がアメリカ独立戦争の発端となった。

 その故事をなぞらえてボストンが選ばれたというのが現在の定説となっている。

 ことの真実がどうであれ、会議に出席したチャーチルにとってはキツイ皮肉だったことは間違いないだろう。

 第二次世界大戦で疲弊したイギリスは世界帝国の地位を完全に失って、長い低迷の時代に突入していくことになる。

 アジア植民地のマレー半島やシンガポールは戦後すぐに独立し、インドもイギリスの手を離れた。

 戦争中に日本軍が占領した地域は、日本軍の手によって独立準備組織が作られており、もはや宗主国のコントロールを受け付けなかった。

 独立戦争を戦う力のないイギリスは完全に影響力を失うよりも、少しでもマシな手がかりが残ることを選び、アジアのイギリス植民地を次々に手放していった。

 オランダやフランスはあくまで植民地の独立を認めず、武力行使に至ったが結果は無残なものであった。

 蘭印はインドネシア独立軍が再上陸したオランダ軍を叩き出して独立を宣言。仏領インドシナも状況は似たようなものだった。

 日本は植民地のような前時代的な代物をこの世から消し去りたいと考えていた。

 仏印も蘭印も停戦で日本軍が撤退する際に、


「送料が無駄だから」


 という理由で占領時に持ち込んだ武器弾薬を現地で廃棄処分(と言う名の放置)したことから、独立勢力は手をつけられないほど強大化した。

 もちろん、日本軍には日本軍の言い分があり、廃棄処分をした後で処理業者が違法に廃棄予定の武器を転売しても、罰するべきは違法行為に手を染めた処理業者であって、日本軍には何ら責任がないというものであった。

 違法行為に手を染めた処理業者が、日本軍の設立した実態のないペーパーカンパニーであることはある種の愛嬌のようなものだった。

 文句を言おうにも、


「じゃあ、復興資金は必要ありませんね」


 と日本に言われたら、フランスもオランダも詰みなのでどうしようもない。

 戦災で荒れ果てたヨーロッパを復興するには、絶対に日本の経済力が必要だった。

 日本は復興計画としてトージョープランを策定し、ヨーロッパ復興に多額の資金を提供する立場にあった。

 戦時の永田内閣で陸軍大臣として辣腕を奮った東条英機は、終戦内閣として発足した中島知久平内閣において軍服を脱いで外務大臣に転身し、ヨーロッパの経済復興計画の策定と実行に邁進した。

 トージョープランの骨子は日本が欧州諸国に復興資金を低利(ほぼ無利子)で貸し付けることであった。

 もちろん、日本円を借りたところで欧州諸国にとってはどうにもならない。

 どれだけ日本円を借りたところで、国内では使い道がないからだ。

 トージョープランの狙いは復興資金としての日本円を貸し出して、日本企業への復興資材発注に使用させ、それを梃子に欧州経済に日本企業を進出させることだった。

 それによって円の国際的な価値を向上させ、円をイギリスのスターリング・ポンドに代わる国際通貨とすることを狙っていた。 

 経済力ならアメリカもあるのだが、戦後のアメリカは戦争中に日英双方に武器を売るといった露骨な漁夫の利を狙ったことが仇となり国際的な信用を著しく低下させていた。

 平時はともかく戦時には頼りにならない国だという印象が人々には強く残った。

 さらに戦争が終わっても、ソ連軍がヨーロッパに大軍を展開している状況は変わらなかったので、日本のヨーロッパへのコミットメントがなくなれば、それこそ一大事だった。

 ソ連軍は大戦末期のどさくさにまぎれて、ユーゴスラビアやブルガリアに侵攻し、停戦発効後もバルカン半島に居座っていた。

 ルーマニアとハンガリー、ブルガリアでは選挙の結果、社会主義政権が成立した。

 選挙といっても、投票先が共産党しか無い形だけのもので、実態としてはソ連の衛星国でしかなかった。

 ユーゴスラビアでは共産党が武装蜂起して国王が逃亡、ユーゴスラビア王国が崩壊し、ヨシップ・ブロズ・チトーによるユーゴスラビア連邦が成立した。

 ギリシャではソ連の支援を受けたギリシャ共産党が選挙で議会の過半数を獲得している。

 結果、ヨーロッパの南東部は赤化することになった。

 トロツキー書記長はジブラルタル海峡決戦でイギリスが敗北したことを知ると、対ドイツ本土侵攻戦に準備していた兵力を転用して、バルカン半島の赤化を進めた。

 トロツキーは大戦を勝利で終わらせることを諦めたが、永久世界革命のための橋頭堡を残すためにバルカン半島への進出を狙ったのだった。

 不凍港獲得のためにバルカン半島へ出るのは帝国時代からのロシアの伝統的外交政策でしかなく、満州国が崩壊して遼東半島を失った以上はそうするしかないのだが、トロツキーに言わせるとそういうことになるらしかった。

 トロツキーは全世界の労働者の希望を担う永久革命論者だったが、同時にロシア人だったということである。

 停戦後にすぐに日本へ帰還する予定だった遣欧艦隊と遣欧軍団が東地中海に浮かぶキプロス島に21世紀現在まで駐留しつづけることになったのはそのような理由があった。

 話をトージョープランに戻すと、日本からのほぼ無利子の貸付によってヨーロッパは急速に復興に向かい、日本経済はヨーロッパ世界にまで市場を拡大した。

 ちなみにドイツは欧州枢軸の盟主としての意地から日本に金は借りず、アメリカから金を借りて(結局は金を借りるしかない)戦後復興に臨んだが、国内状況は酷いものだった。

 ドイツではヒトラー時代に膨らんだ債務(メフォ手形)がナチスドイツ体制崩壊と同時に爆裂し、イギリス空軍による本土爆撃による生産設備の破壊と合わさって、前大戦の終結後と同様にハイパーインフレが発生して紙幣が全て紙切れになった。

 ヒャルマル・シャハト博士がライヒスバンク総裁に復帰して、ハイパーインフレを終息させたが、戦後しばらくは貨幣経済が止まってドイツの田舎では物々交換が行われていたほどであった。

 さらに政界は非ナチ化の嵐が吹き荒れた。

 ナチス・ドイツ体制が崩壊すると各地で隠蔽されていた強制収容所の実態が明らかになり、全世界を震撼させることになった。

 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所では、1943年だけで14万人の”劣等人種”がガス室に送られて処刑された。

 1946年に東条外相は独立を回復したポーランドを訪れ、アウシュヴィッツ強制収容所の施設を見学している。

 見学中に何気なく拾い上げた小石が、子供の骸骨を砕いたものであることに気がついた東条外相があまりの悲惨さに落涙したエピソードは有名だろう。

 なお、ナチス・ドイツの同盟国である日本に人道犯罪幇助の責任を問う声があるが、これについては完全な言いがかりであると言える。

 日本政府はナチスの迫害を逃れて脱出した大量のユダヤ人難民の受け入れに奔走しており、ドイツ政府から引き渡し要求も完全に拒絶してる。

 民間レベルでもユダヤ人救済に動いた人々が大勢いた。

 坂本財閥の大番頭だった中島知久平がドイツのユダヤ人問題に古くから関わっているのは有名な話だろう。

 ユダヤ人の国外脱出を助けたのは坂本財閥の船会社である坂本海運で、大量のユダヤ人難民が海路で開戦前に脱出することができた。

 坂本海運は赤字覚悟でハンブルグから神戸への格安直行便を開設したのである。

 船賃が払えないものには人道上の配慮から12回分割払いを認めるなど、坂本財閥や中島の反ナチス・親ユダヤ姿勢は徹底していた。

 難民の数が増えすぎて神戸市の行政機能がパンクすると中島は坂本龍馬や保科祥雲の遺産を全て換金して、仮設住宅建設費などの救済事業に充てた。

 保科祥雲の遺産には国宝(会津松平家代々の家宝)も含まれており、周囲の猛反対に遭った。

 しかし、保科家当主の保科四郎は自分自身が西南戦争の戦災孤児であったことから、


「思い出だけがあればいい。これはあの人の遺志だ」


 と述べてユダヤ人救済事業に協力した。

 開戦によりハンブルグからの海上脱出路は閉ざされたが、中島はすぐにリトアニア航路を開設してユダヤ人の国外脱出ルートを確保した。

 日本は1940年12月8日に参戦するまで中立国であり、坂本海運の客船は中立国船舶として攻撃対象外であったが、バルト海は機雷が大量に敷設され、潜水艦が潜み、いつ爆撃されてもおかしくない危険な海であった。

 リスク以外に何もない航海であったが中島の姿勢に感化された多くの船員が、


「我々は、彼らにとって最後の希望だ」


 と奮起して一丸となって危険な航海を12回も成功させている。

 ただし、全てが上手くいったわけではなく、触雷沈没した対馬丸は3,000人のユダヤ人と共にバルト海に沈んだ。対馬丸はSOSを発信したが、バルト海沿岸諸国は誰も助けにこなかった。1,000名ちかい漂流者が冷たいバルト海に投げ出され、そのまま水死した。

 中島はリトアニアのカナウスに赴任した日本領事館領事代理の杉原千畝と手を結び、ユダヤ人の国外脱出に日本参戦の日まで奔走した。

 中島の行動に日本政府外務省は難色を示したが、坂本財閥が圧力をかけて黙らせた。

 海路以外でも様々な経路で日本に向かうユダヤ人がいて、中島は鉄道大臣、軍需大臣としての権能を駆使して難民を救済した。

 中島や坂本海運の手により国外に脱出したユダヤ人は200万人に上った。

 1944年6月の停戦発行後に中島は終戦内閣として遂に首相に登りつめ、1948年に脳出血で死去するまでその地位にあった。

 優秀な経済テクノクラートであった中島の手腕により、膨れ上がった戦時生産の整理と民生移行が成し遂げられた。

 戦時体制の解体と平行して、その任期中に中島が最も心を砕いたのはユダヤ人の樺太への入植事業であった。

 1941年6月に日本軍が占領した樺太は、本来はソ連領(1875年樺太千島交換条約)であったが、日本政府は軍事占領を継続し、政府支援のもとで樺太にユダヤ人難民を入植させ開拓事業を行わせた。

 ユダヤ人による住民自治を経て、1948年5月14日に東イスラエル共和国が樺太に建国された。

 ソ連は樺太の新しい独立国の存在を否認し、樺太を不法占拠する武装勢力扱いしたが、各国は東イスラエル共和国の建国を認めた。

 ソ連包囲網に参加する国が増えるのは結構な話であった。

 戦後にきな臭いことになりかけていた中東問題(パレスチナ地域)が解決するというのなら、なおさら反対する理由はどこにもなかった。

 東イスラエル共和国の建国は中島の豪腕と戦後混乱期というどさくさがなければ不可能な政治的な奇跡といえた。

 そのために奔走し、過労で倒れた中島は脳出血でこの世を去ったが、その最期は非常に穏やかなものだったと言われている。

 首都になったユジノサハリンスクの中央公園には1951年に建国の功労者として中島の巨大なレリーフが建設された。そのレリーフの礎石には東イスラエル共和国建国に関わった全ての人々を顕彰するために氏名が刻まれており、前述の杉原千畝や保科四郎の名前も記されている。

 ちなみに杉原はリトアニア時代のスタンドプレーで外務省に睨まれて居づらくなり、1943年に中島の引き抜きで軍需省に移ったのちに、中島内閣では内閣官房に抜擢された。

 杉原は東イスラエル共和国建国の実行部隊のトップとして中島首相と行動を共にし、さらに中島の死を看取った。

 さらに余談だが、中島は死の直前に自分の日記や個人的な蔵書を全て焼き捨てるというやや不可解な、解釈によっては不審なことをしている。

 そのために東イスラエル共和国の建国経緯は中島が関わった部分が空白になり、今なお不明な部分が多い。さらに戦前、戦中の中島の行動も多くの記録が失われた。

 焼き捨てられた蔵書には、坂本龍馬や保科祥雲から中島に遺産として渡ったものが含まれており、近代日本の歴史研究家の中には中島の行動を非難する人間は多い。

 陰謀論者の中には、中島が焼き捨てた蔵書には近代日本の歴史を根本から覆す内容が記されており、中島は全ての証拠を隠滅して自らの死によってそれを封印したと言う人間もいる。

 東側諸国や感情的な反日グループには中島はナチス・ドイツのユダヤ人絶滅計画を知っていて、それを日本の利益となるように利用したとして中島を悪し様に語るものが多い。

 しかし、中島がユダヤ人の国外脱出を幇助したのは1933年からで、ナチス・ドイツが完全な絶滅計画を決定する遥か以前から活動しており時系列的に辻褄があわない。

 単純に中島が人道の人だったと考えるのが自然であろう。

 ただし、中島はただの人道家だっただけではなく、難民として流出した高級人材の収集と確保には余念がなかった。

 大戦末期のシベリア戦線に投入され、第二次世界大戦最強のレシプロ戦闘機というタイトルを確保した中島飛行機の四式戦闘機「疾風」の心臓(光18気筒2,200馬力)の開発成功には、ユダヤ系人材の確保がなければ不可能だったろう。

 20mm機関砲6門を搭載し、排気タービン付きのエンジンにより、高度10,000mを時速700kmで飛ぶ疾風は、ソ連戦闘機を全く寄せ付けなかった。

 挿絵(By みてみん)

 同じエンジンを搭載した三菱の烈風艦上戦闘機は大戦には間に合わなかったが、日本海軍最後のレシプロ戦闘機としてその性能は有終の美を飾ったと言えるだろう。

 1947年に初飛行した七式陸上攻撃機「富嶽」は6基の光18気筒をターボコンパウンド化して最大出力3,700馬力を発生させ、太平洋無着陸横断飛行を達成した。

 大戦に間に合った日本陸軍の四式重戦車も、その開発にはヘンシェル社で勤務していたユダヤ系エンジニアが重要な役割を果たした。

 理化学研究所にて、日本の仁科芳雄と共に世界初の実用的原子炉の開発に尽力したアルベルト・アインシュタイン博士も中島の親ユダヤ姿勢に感化されて日本へ亡命したユダヤ人科学者の一人である。

 大戦中に活躍したわけではないが、戦後ドイツでベストセラー作家となったアンネ・フランクは1939年にハンブルグから船で日本に脱出した。

 アンネはナチス・ドイツ崩壊後に帰国し、その日記を出版したところ大ベストセラーとなり人気作家として道を歩むことになった。

 これは余談だが、過酷な少女時代を送ったせいかアンネの作風はハードなものが多く、ポリティクス小説やミリタリー小説の傑作をいくつも生み出している。

 暗殺されなかったヒトラーがソ連を征服した後、アメリカを侵略するという設定のホワイトスター・ブラッククロスはアンネ文学の最高峰に位置づけられている。

 ヒトラーが建造した超巨大戦艦ヒンデンブルク号とアメリカ側で参戦した日本海軍の超巨大戦艦大和武尊が激突するシーンは、その精緻かつ白熱した描写から熱狂的なファンを獲得した。

 ホワイトスター・ブラッククロスは1960年にはドイツで映画化され、日本でも吹替版が公開されている。

 なお、映画化の際には日本海軍の命名規則を無視した部分が修正され、ヒンデンブルク号と対決した戦艦は大和武尊から播磨に差し替えられた。

 映画版のホワイトスター・ブラッククロスは小説版には存在しない80cm列車砲を搭載した戦艦アドルフ・ヒトラー(ビスマルク級戦艦が5隻合体する超兵器。アンネの別作品ブラウ・サロンに登場する)が参戦するなど、アンネファンに対するサービスが充実しており、21世紀にデジタル・リマスター版を公開されるなど、今なお評価が高い。

 ちなみにアンネ・フランクはハードな作品を出版する際は、女性ということで色眼鏡をかけられないようにペンネームを使用しており、ホワイトスター・ブラッククロスの著者グロース・サトー(日本生活時代に親切にしてくれた人物の変名)とアンネフランクが同一人物であることを知らない人が多い。

 さらに余談だが、グロース・サトーは非常に遅筆で知られており(アンネフランク名と平行して執筆していたのである意味仕方がない)、小説版ホワイトスター・ブラッククロスは完結に15年もかかっている。前述のブラウ・サロンに至っては20年を要したが、アンネが非常に長命だったので無事に完結した。

 話を戦後のドイツに戻すと、前述のとおりユダヤ人に対する人道犯罪が判明して、ドイツ政界は大混乱になった。

 ナチス党幹部はすでにクーデターで逮捕されており、計画的大量殺人容疑で裁判が始まったが親衛隊長官のヒムラーが裁判前に自殺、主だった幹部も自殺するか逃亡しており、追求は不徹底に終わった。

 ドイツ政府は非ナチ化を推進したが、ナチ党関係者を全て政府から排除すると政府機能が停止するため(それほど党と政府は一体化していた)、過去に口をつぐんで新生ドイツ政府に残ったものは多かった。

 さらに前述のとおり経済がハイパーインフレでパンクし、ユダヤ人に対する個人保障やヒトラー時代に併合したオーストリア、チェコスロバキアへの賠償、ナチスが収奪したフランスやオランダの資産の返還など、ドイツに対する賠償要求は山のように積み上げられていた。

 ボストン講和会議においてドイツ臨時政府はすべての責任をヒトラーとその一味に押し付けて、国家賠償は150年間分割払いにしてもらい、個人賠償は個別交渉することで決着を図ったが、ドイツの前途は多難といえた。

 ヒトラーの妄想につきあった結果がこのザマとも言える。

 ちなみにヨーロッパ枢軸の片割れであるイタリアでは、ムッソリーニ統領が政治的な命脈を保ちファシズム体制を維持した。

 新たにファシズム体制を築いたスペインのフランコ将軍と共にムッソリーニは1970年代まで30年に渡って、独裁体制を維持していくことになる。

 イタリアは本土が戦場にならず、イギリス空軍の空爆も僅かだったことから復興ビジネスで外貨を稼ぎ、1950年代に高度経済成長を達成して、ヨーロッパ主要国としての地位を築いた。

 スペインもその恩恵をうけており、フランコ体制下でようやく近代スペインの混迷に終止符が打たれた。

 しかし、どちらもバルカン半島を制圧したソ連に向き合える力はなかった。

 イタリアは戦前に併合したアルバニアが赤化したバルカン諸国に包囲されており、その防衛(アルバニア橋頭堡問題)に頭を悩ませた。

 日本や欧州諸国は伊領アルバニアを赤化したバルカン諸国に対する資本主義のショーウィンドウと位置づけたことから、イデオロギー対立の焦点となった。

 アルバニアへの人口流出に怯えたソ連とバルカン諸国が築いたのが、冷戦を象徴することになるアルバニアの壁である。

 ポーランドはビスワ川で分断され、東側にはソ連の支援を受けたポーランド人民共和国が成立した。

 西側諸国はポーランド共和国を支持し、ポーランドは分断国家となった。

 戦争が終わっても、ソ連の脅威は減るどころか、ヨーロッパにおいてはさらに勢力を拡大していた。

 ヨーロッパを守るためにはソ連に対抗できる軍事同盟政策が必要なのは明らかだった。

 それはヒトラーに振り回された反省を踏まえた対等で、効果的なものでなければならなかった。

 ユーラシア大陸にまたがる対ソ包囲網は戦後も有効であり、ローマに置かれた枢軸国最高司令部は縮小、解体どころか新しい同盟国を追加して拡大・発展し、1949年4月4日に地中海条約機構(Mediterranean Sea Treaty Organization)が結成された。

 MSTOという略語の方が人口に膾炙しているだろう。

 対抗してソ連が結成したのが、ブダペスト条約機構となる。

 MSTO本部はローマに置かれた。

 地中海条約機構には独・英・仏・伊・西・蘭・波・墺・瑞・諾・丁・葡といったヨーロッパ各国に加えて、アジアから日本が参加した。

 アメリカ合衆国は参加しなかった。

 イギリスのチャーチルはアメリカの参加を求めたが、ポーランド首相から馬鹿を見るような蔑んだ顔で、


「ポーランドは1939年9月を繰り返すつもりはない」

 

 と言われたら、チャーチルといえども返す言葉がなかった。

 ドイツ侵攻時に英仏から見捨てられた愚をポーランドは二度と繰り返すつもりはなかった。

 ポーランド政府は大戦中は日本と敵対していたが、ドイツとの同盟を遵守して地球の反対側から世界最大規模の艦隊を送ったことに関しては敬意を示し、今後の同盟国として大いに期待するところだった。

 日和ったアメリカ人は問題外だった。

 この点はムッソリーニも同意して、日本人の義理堅さに敬意を示すところだったが、アメリカを除外して対立構造を作ってしまうことを憂慮していた。

 そこでオブザーバー枠での参加をアメリカに打診したが、アメリカ合衆国は孤立主義的見地から拒絶した。

 中華民国は熟慮の末、正式加盟を見送ったがオブザーバー参加枠に入った。

 日本と中国は1948年12月1日に日中安全保障条約を結んでおり、間接的にMSTOに参加していると言ってもいいだろう。

 中華民国は1947年に満州社会主義共和国(偽満州国)と中華人民共和国を打倒し、国家統一を果たしたが、国土は荒廃しきっていた。

 さらに戦後は長大なソ連国境を守る軍事的な負担に苦しむことになった。

 また、東トルキスタン社会主義共和国のようにソ連の支援を受けて”不法”に中国の領土を占領する武装勢力が完全に殲滅されたわけでもなかった。

 大戦末期に中華民国軍は東トルキスタンに侵攻したのだが、ウイグル人の猛烈な抵抗に遭い、駐留ソ連軍の反撃により叩きのめされて逃げ帰った。

 蒋介石は日本に援軍を頼んだが、東トルキスタンのような地の果てにあるどうでもいい(日本にとっては)場所に援軍を送る余裕などあるはずもなかった。

 戦後中国は国家経済を救うために猛烈な勢いで軍縮せざる得ないほど疲弊しており、戦後も東北部(旧満州)に日本軍は駐留しつづけることになった。

 ちなみに大戦末期の中華民国軍の総兵力は400万人もいた。

 戦中の日本陸軍でも総兵力は250万でしかないことを考えると、中国の軍拡は明らかに行き過ぎていた。

 日本軍が撤退すれば即座にソ連が南下してくるのは目に見えており、日本との同盟関係を強化するしか生き延びる方法はなかった。

 戦時中に築き上げた日中の共闘体制は強固なものであったから、国内世論も日中が共にソ連に立ち向かうことには肯定的であった。

 もちろん、戦後の中国市場は日本企業にとっての金城湯地であることは言うまでもない。

 東条外相は未だに戦災で荒廃したままの北京と発展に次ぐ発展で肥大化していく東京を往復し、日中安全保障条約の締結に尽力した。

 日中安全保障条約の調印式は東京で行われた。

 ちなみに1948年は東京オリンピックの年である。1940年開催予定が大戦勃発で中止に追い込まれてから、8年越しの開催だった。

 一応、順番的には次の開催地はロンドンなのだが、イギリスはオリンピックどころの状態ではなかったので、日本が1948年の開催国となった。

 1948年の東京オリンピックで、日本では水泳で金メダルを獲得するなど、経済や軍事力だけではなく、スポーツの分野でも世界に並び、そして頂点(水泳だけだが)をとった記念すべき大会であった。

 平和の祭典を迎え、繁栄の極みにある東京を見た蒋介石は、


「北京が東京のような大都会になったら、天皇陛下を招待したい」


 と述べている。

 彼の夢が実現するのは半世紀後(2008年の北京五輪)のことだった。

 ムッソリーニと同様に彼も終身の独裁者として中国に君臨し、自由化を求める民衆を弾圧して戒厳令を敷き、軍政を推し進めた。

 中華民国が改革開放路線に転換し、政治の民主化が達成されるのは1990年代のことである。

 その後の中国の経済発展については、21世紀の日本に生きる我々にとってはリアルタイムで間近に見ているものなので説明は割愛する。

 話を1940年代後半に戻すと、この頃の日本はアジア、ヨーロッパと忙しく動き回っていた。

 続々と独立したアジア各国や中東各国は、非白人国家である日本の繁栄に倣おうとして様々な援助を求めていた。

 1940年代から60年代にかけて日本の中央官庁に勤務した公務員は殆ど全員が最低3回は現地指導に駆り出されて、アジアや中東各国に出向いて新興独立国の国家建設に従事させられている。

 民間企業からも、これはという人材が青年海外協力隊に招集(現在とは異なり当時は半ば強制だった)され、世界各地に派遣された。

 この時の経験と築かれた人脈は戦後日本の政治経済外交における貴重な財産となった。

 もちろん、全てが上手くいったわけではない。

 インドネシアのスハルトによる開発独裁の腐敗やイラク王国のように近代化が受けいれられず、暴力革命で王政が打倒される例もあった。

 しかし、マレーシアやシンガポールのように日本の指導を独自にアレンジして成功を収める場合もあった。

 ペルシャ王国のように若き王が改革を受け入れ、立憲君主制のもとで苦労して民主化を果たし、イスラムの伝統を維持したまま近代化と両立させて、日本の予想を遥かに超えるほどの発展を得た場合もあった。

 ヨーロッパにおいても、日本は主導権を発揮した。

 戦争が終わってもソ連の脅威は依然として変わっておらず、バルカン半島制圧によりヨーロッパでは大戦前よりもむしろ強大化していたと言える。

 戦後のドイツは政治が非ナチ化で混乱し、経済は戦災により弱体化していた。

 イギリスやフランスも植民地を失って衰退していく途上にあった。

 イタリアとスペインは上手くたちまわっていたが、ソ連に対抗できるほどの力はない。

 結果として、日本は欧州においても何くれと世話を焼かなくてはいけなくなってしまった。

 MSTOへの参加がそうであったし、何か国際会議があれば必ず日本は参加を求められた。

 それどころか、会議の主催者であることを求められていた。

 日本は1948年にインドネシアのバンドンでアジア会議を主催した。

 このような国際会議をアジアで開催できる外交的・政治的な力量をもっているのは日本だけだった。

 日本が主催する国際会議は増える一方で、減ることはなかった。

 戦争は終わったはずなのに、戦争中や戦争前よりも日本は忙しくなってしまった。

 日本は、政治・経済・軍事のみならず文化や教育さえも全力回転して最大出力を発揮し、資本主義と共産主義という2つのイデオロギーで分断された世界の半分を支えるべく、忙しく、忙しく、忙しくこまねずみのように働いていた。

 日本人の多くはそうなった理由はさっぱり理解していなかったが、そうであることが分かった途端にそれを受け入れて、何があってもその役割をとにかく真面目に果たさなくてはならないと思い込み、ひたすら真面目に愚直に邁進した。

 まことに奇妙なことであるが、日本人を日本人たらしめているのは、この根拠不明の真面目さにあることは、トロツキー書記長も同意しているところである。

 トロツキーは、党の機関紙に寄せたコラムにおいて限界に達した資本主義が共産主義との戦いで生き延びるとしたら、それは日本人の生真面目さという脆弱な根拠によるものだろうと皮肉を述べている。

 バンドンのアジア会議に出席した東条外相の生真面目で大して面白くもない顔は当時の日本人の心象そのものであったと言えるだろう。

 しかし、その結果として日本に世界中の富と人材と情報が集まり、戦時中の莫大な政府支出によるインフレーションとあわさり1949年には国民総生産(GNP)がアメリカ合衆国の90%にまで拡大した。

 日本が第二次世界に参戦する1940年時点で対米3割だった国力が、10年たらずで3倍以上に拡大したのである。

 そして、1949年時点の日本の経済成長率は7%という高い数値を保っており、数年以内に日米の経済力が逆転するのは確実だった。

 アメリカは戦争特需がなくなると酷い戦後不況に突入し、1946年には経済がマイナス成長に突入するなど、外交的な孤立と不景気で苦境に陥った。

 日本が資本主義世界の盟主であることは確定的に明らかであり、その座を人々は「超大国」と呼び表した。


 超大国、日本


 明治維新から僅か半世紀の出来事であった。

 だからこそ、アメリカ合衆国はとてつもなく焦った。

 以下は、当時のアメリカの心象風景を描写したものである。


 戦争が終われば、武器は売れなくなる。

 もう誰もアメリカ製の武器を欲しがらない。

 民生品はどうだろうか?日本製の方が高性能で安い。やはり売れない。

 だから、戦争が終わった途端に大不況に逆戻りした。

 トージョープランで、日本は復興ビジネスを上手に独占した。仕事はコナイ。

 何をやってもウマくいかない。

 ロケットも、飛行機も、戦車も、ジェットエンジンも、家電製品も、乗用車も、トラックも、コウサクキカイも、日本人の方が上手く作れる。ナンデだろう?

 中東で水よりも安く石油が掘れる大油田が見つかった。オメデタイ!

 中東の油田が日本とヨーロッパに独占された。オメデタクナイ!!

 水よりもヤスイ中東の石油があるから、カルフォルニアの石油はもう誰もカイニコナイ。

 カリフォルニアのユデンはもう駄目だからリストラ。それが資本主義のゲンソクだからシカタガナイ。

 ナニをやってもウマくいかない。

 蒋介石はアメリカの武器でソレンと戦ったのに、日本の方バカリ見ている。ユルセナイ。

 国際会議の中心にいるのはイツモ日本人。アメリカは会議にもヨバレナイ。

 大して面白いジョークもイエないクソマジメのクセに、なぜか日本人ばかりがチヤホヤされる。ユルセナイ。

 超大国なんて、日本にはブンフソウオウ。ユルセナイ。

 ブロードウェイが、ニホンのギンザみたいな街だなんて言われるのはタエラレナイ。

 ソンナミライが来るかもしれないなんて、ユルセナイ。

 ナニヲヤッテモウマクイカナイ。

 誰がロシア帝国から日本を助けた?アメリカだよ。おぼえてる?

 貧しい日本にお金をいっぱいカシテあげた。ドル外交、おぼえてるよね?

 地震でトウキョウがメチクチャになったときもタスケテあげた。おぼえてるでしょ?

 ソレンと戦うために武器もガソリンもほしいだけウッテあげた。おぼえてるって言ってね?

 

 それなのに、ソレナノニ、それなのに、ソレナノニ、どうして?


 ニホンジンダケガウマクイクノ?


 ユルセナイ・・・許さない。





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― 新着の感想 ―
[気になる点] > グロース・サトーは非常に遅筆で知られており(アンネフランク名と平行して執筆していたのである意味仕方がない)、小説版ホワイトスター・ブラッククロスは完結に15年もかかっている。 ダ…
[一言] いつも楽しく読ませていただいています。 アメリカがテロ者の国になって日本にテロの嵐が来そう(小並感)。
[良い点] 完結させてくれるA君の戦争! 続きが読み切れるだなんて、ああなんて大A君! もう一人のA君はしめやかに爆発四散! ワザマエ!
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