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ジブラルタル決戦

 

 

 ジブラルタル決戦


 近代スペインの歴史は苦難の連続だった。

 スペインの黄金時代は遥か彼方に過ぎ去り、対外戦争も敗戦が続いて次々に海外領土を失っていった。

 第一次世界大戦は中立を堅持して戦争の惨禍を免れたものの、日米のように大戦を起爆剤に経済を拡大した国家とは異なり、インフレーションによって経済が大混乱に陥った。

 大戦後はロシア革命に触発された大衆運動の嵐が吹き荒れ、1931年に国王アルフォンソ13世は退位へと追い込まれたことで無血革命が成功し、第二共和政が成立した。

 しかし、第二共和政も左右の思想対立の激化により安定せず、労働者の暴動や要人暗殺が相次ぎ、不穏な情勢が続いた。

 そうした中、コミンテルンの指導を受けたスペイン共産党が選挙で勝利し、人民戦線内閣が成立した。

 それに反発した軍部によるクーデターが勃発して、スペインは人民戦線政府と保守派と軍部が推すファシズム軍に分かれて内戦に突入した。

 ちなみに内戦そのものは短期間で終わった。

 イギリスの労働党政権が地中海艦隊を投入して人民戦線政府を支援したためである。

 ファシズム勢力の中心的人物であったフランシスコ・フランコ将軍はイタリアへ亡命した。

 だが、スペインの苦難はそれで終わらなかった。

 スペイン共産党はソ連の指導により過激レーニン主義の一党独裁体制を敷いて、教会や保守的な地主層から財産を没収するなど経済テロルを行った。

 クーデターをおこした軍部には粛清の嵐が吹き荒れ、多くの将校が殺害されるか亡命を余儀なくされた。

 そのためスペインの軍事力は著しく弱体化した。

 1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻するとイギリス・フランスは即座に宣戦布告したが、スペインは参戦を見送った。

 スペインの軍事力は専ら国内反動勢力や分離独立運動の弾圧で精一杯だったのである。

 1940年5月にフランスが敗北し、ドイツと休戦協定を結ぶとまともな軍事力がないスペイン政府は震え上がった。

 頼みの綱はイギリスだけだったが、イギリスも追い詰められており、ドイツ軍が攻めてきたら救援は期待できそうになった。

 スペインの人民戦線政府はドイツ軍の侵攻に備えて戦争準備を進めたが、軍部は無力化されており、国内経済が荒廃しきっていてどうにもならなかった。

 実際、ヒトラーはジブラルタル要塞攻略のためにスペイン侵攻計画(灰色作戦)の準備を軍部に指示しており、1940年8月にソ連の対独参戦がなければスペインはナチス・ドイツに蹂躙されていただろう。

 ソ連軍は一時期、ベルリンを長距離砲の射程内におさめるほど進撃したが、ドイツ軍の反攻によりポーランド戦線は膠着状態に陥った。

 それでもドイツ軍がスペインを蹂躙する可能性が0に等しくなり、スペインの人民戦線政府は胸を撫で下ろした。

 しかし、1943年に入るとそうも言っていられなくなった。

 北アフリカでドイツアフリカ軍団が英中東軍を下して、スエズ運河を奪取した。

 結果、日本海軍が地中海に進出した。

 地中海に展開する日本海軍の艦艇は徐々に増えていき、タラント湾に大艦隊が停泊するようになっていった。

 1943年末には、旅順で鹵獲したソビエツキー・ソユーズ級戦艦3番艦を改修した戦艦石見がタラントに加賀型戦艦2隻を伴って現れた。

 戦艦石見は大連で爆破処分されたソビエツキー・ソユーズ級戦艦4番艦のパーツと大和型戦艦用の艤装品で修復されており、基準排水量60,000tの船体に16インチ砲三連装三基を備える重防御戦艦となっていた。

 石見の修復には技術実験も兼ねており、日本戦艦にしては珍しく複雑な形状をした仏塔型マストではなくシンプルな箱型艦橋を備えるなど、外見からも実験的な要素が大きかった。

 加賀型はようやく完成した日本海軍の決戦用の戦艦であり、金剛型と同じ16インチ連装砲を5基10門備えた。

 挿絵(By みてみん)

 石見、加賀、土佐の就役により、ようやく日本海軍はイギリス海軍のキングジョージ5世級戦艦と正面から戦える状態になったと言える。

 さらに航空母艦も新鋭装甲空母の大鳳が就役して艦列に加わった。

 翔鶴型や飛龍型も順次、改装工事を受けて地中海に進出し、大鳳型や大量就役した雲龍型や千代田型などの改装高速軽空母により、日本海軍空母機動部隊の戦力は正面から陸上航空基地と戦っても勝てる規模まで拡大した。

挿絵(By みてみん)

 それを後方から支える商船改造空母群はアメリカから毎週のように輸入、納品されていた。

 口の悪いものは週刊空母など揶揄したが、対潜掃討や航空機輸送、上陸作戦支援に高速空母群を使わなくて済むようになったのは巨大な戦略的アドバンテージだった。

 日本海軍航空隊も順次、イタリア本土やシチリア島に進出し、マルタにも戦闘機部隊が配置された。

 東地中海が安全になったことでイタリア海軍の主力艦隊もタラント湾に復帰し、日本海軍から提供された艦艇用燃料で訓練を再開し、急速に復興していくことになる。

 枢軸軍の狙いはジブラルタル突破以外に考えられず、スペインの行方が大戦の焦点として浮上した。

 イギリスとソ連は在るべき姿としてスペインに連合側での参戦を要求してきた。

 人民戦線政府の成立にイギリスとソ連は多大な支援をしたのだから、その借りを返すのは当然であるとしたのである。

 スペイン防衛のためにイギリス軍は陸空軍の派遣を行うと提案してきた。

 さらにジブラルタルの返還にも応じるとスペインを誘った。

 もしも提案に応じない場合は、カリブ海のスペイン領土の保障占領も厭わないと恫喝を添えることを忘れないのがイギリス外交の良いところである。

 枢軸側もスペインに交渉を持ちかけており、ジブラルタル奪還のために領土内通行を求めていた。

 参戦は要求されなかったが、ドイツ軍が国内に進駐し、軍事基地を利用することになった。

 どっちについても国土が戦場になるのは避けられなかった。

 そして、どちらも要求を跳ね除けるだけ力もないのがスペインの悲しさだった。

 1943年初頭に計画立案されたスペイン軍の国土防衛計画は、政府を山岳地帯に疎開させ、全人民を武装させてゲリラ戦で侵略軍を消耗させるというもので、まともな軍事的抵抗は最初から破棄されていた。

 海軍に至っては数少ない艦艇を敵に渡さないために港で自沈する予定だった。 

 絶望的な状況に政府内部で責任転換からの内ゲバ争いが始まったが、容赦なくタイムリミットは迫っていった。

 1943年9月に日本海軍はヴィシー・フランスと進駐協定を結び、北アフリカのアルジェリア沿岸に上陸した。

 アルジェリアはフランス植民地において特別な地位があり、国内と同じ県扱い(アルジェリア県)だった。

 アルジェリア進駐はヴィシー・フランスとの緊密な協議がなければ考えられないことであった。

 連合艦隊司令長官の堀悌吉は、フランソワ・ダルラン海軍元帥と交渉してアルジェ進駐を承認させた。

 二人は堀GF長官がフランス大使館駐在武官時代からの交流があり、政治的に微妙な交渉の窓口としては適任であった。

 ローマに枢軸軍最高司令部が設置されると日本海軍連合艦隊はローマの外港であるチヴィタヴェッキアに潜水母艦大鯨を移し、そこを司令部をおいていた。

 連合艦隊司令部は通例は第一艦隊の旗艦におかれ、連合艦隊司令長官は第一艦隊司令と兼務であった。

 しかし、欧州遠征が決まると堀GF長官は第一艦隊との兼務を不可能であると考えて専用の指揮艦に移ることにした。

 連合艦隊司令部が指揮すべき艦隊は西太平洋全域に加えてインド洋、地中海に広がっており、従来の体制では指揮統制が追いつかなかったのである。

 大鯨は潜水艦部隊に指揮統制と補給を行う潜水母艦として建造されたために会議を行う幕僚設備や宿泊施設が充実しており、複数の潜水艦に指示を与える長距離通信設備を持つことから、連合艦隊司令部を置くにはうってつけの船だった。

 一時期は軽空母への改装を検討された大鯨は新たなる連合艦隊旗艦となってチヴィタヴェッキアに錨を下ろすことになった。

 いっそ陸に上がってはどうかという意見もあったが、戦況の推移によってはさらに前進する可能性があったから移動できる船の上に在ったほうが都合がいいと考えられた。

 また、心情的に陸の上から艦隊を指揮するのは受け入れ難いものだった。

 アルジェリアはフランス国内県に準じる扱いであったので港湾インフラが整備されており、ジブラルタルへの足がかりとはしては最適だった。 

 無血で進駐が完了するとすぐに航空基地が建設され、ジブラルタルへの航空偵察が実施された。

 なお、アルジェリア上陸はフランスの心情を考慮して日本軍のみで実施された。

 砲火を交えたばかりのドイツ軍やイタリア軍がいては、フランス人のプライドを刺激すぎると判断されたためである。

 日本軍のアルジェリア上陸を受けて、イギリス政府はヴィシー・フランスに対して宣戦を布告し、ギニアやフランス領アンティル諸島を保障占領した。さらにカサブランカのフランス艦隊を攻撃し、戦艦ジャン・バールを大破着底させた。

 激怒したヴィシー・フランスは枢軸同盟に加わり、イギリスに宣戦を布告した。

 1943年10月2日のことである。

 ヴィシー・フランスが枢軸に加わったことで、日本海軍は南仏のマルセイユ港が使用可能になった。

 マルセイユはフランス海軍の母港であり、1943年10月28日に戦艦金剛がフランス海軍の戦艦リシュリューと並んで入港し、ペタン元帥の表敬訪問を受けた。

 着実にジブラルタルへ迫る日本海軍に対して、イギリス軍は仏領カサブランカを占領し、ダカール港に本国艦隊を進出させて防衛体制を強化した。

 イギリスはジブラルタルを最終防衛ラインだと考えていた。

 ジブラルタルを突破された後では、日本海軍の空母機動部隊に大西洋航路を荒らされ国家経済が失血死するのが目に見えていたからである。

 日本海軍の予想も同じであり堀GF長官も、


「ジブラルタルは今次大戦の関ヶ原」


 と訓示している。

 日英海軍は決戦の地をジブラルタルと定めて動いていた。

 戦国時代の総決算である関ケ原の戦いを決したのは小早川秀秋の寝返りであったから、スペインの去就は決戦の行方を左右するものだった。

 どちらについても国土が戦場になるのは避けられないが、それなら勝つ方に賭けたいと思うのが人情であったが、どちらが勝つのかまるで見通しがたっていなかった。

 イギリスはインド洋の戦いでは敗退したが、未だに強力な艦隊を保持しており、大西洋の戦いではUボートを駆逐しつつあった。

 あまりにも損害が多いため、ドイツが一方的に無制限潜水艦作戦の無期限中止(1943年10月)を宣言したほどである。

 ヒトラーは、


「イギリスに和平の機会を与えるため」


 と演説したが、実際にはUボート艦隊があまりにも大きな損害を受けたため、通商破壊戦を中止せざるえなくなったのが実情であった。

 通商破壊戦の中止にはヒトラーが難色を示したが、日本海軍の堀GF長官がUボートを偵察に専念させるべきだと主張しため、Uボートは大西洋の戦いの舞台から降りることになった。

 東部戦線が1943年夏季攻勢の失敗から切迫した状況になっていたため、Uボートの建造を中止して陸戦兵器の大増産を図るという意味もあった。

 ソ連軍は極東での戦いでは退潮であったが、ヨーロッパでは優勢だった。

 特に1943年7月のプロイェシュティ油田をめぐる攻防戦に勝利したことはソ連の前進に大きく寄与した。

 ヒトラーは1942年のソ連軍の夏季攻勢で失ったプロイェシュティ油田の奪還にこだわり、他の枢軸国の反対を押し切って1943年7月5日にツィタデレ(城塞)作戦を発動した。

 ツィタデレ作戦はルーマニア戦線のプロイェシュティ油田を中心としたソ連軍の突出部を完全に包囲してソ連軍を殲滅、油田を奪還するものであった。

 当然のことながらプロイェシュティ油田周辺はソ連軍の何重にも渡る対戦車砲陣地パックフロントと対戦車壕によって要塞化されており、正面攻撃は愚策でしかない。

 しかし、ヒトラーは日本に石油供給を握られている現状は、ドイツにとって生殺与奪の権を握られているに等しいと考えて、油田奪還にこだわった。

 日本やイタリアは、蘭印の原油輸送が順調であるため、油田奪還の必要性は低く、1943年の夏季作戦はソ連に先制攻撃させて、その後に反攻に転じるべきだとヒトラーを諭した。

 枢軸国最高司令部司令長官に任じられたマンシュタイン元帥も同じ考えだった。

 しかし、ヒトラーは説得に耳を塞ぎ、それどころかマンシュタインを解任しようと画策して日伊から総スカンを喰らい、ドイツ単独でツィタデレ作戦を強行した。

 結果は無残なものだった。

 ソ連軍最高総司令部司令長官のミハイル・トゥハチェフスキー元帥は、諜報活動や航空偵察でドイツ軍の攻勢を察知して、プロイェシュティ突出部を徹底的に要塞化して待ち構えていたのである。

 トロツキー書記長に自信のほどを尋ねられた赤いナポレオンは、


「勝つでしょうな。来てくださるのなら」


 と応えるほどだった。

 ドイツ軍はツィタデレ作戦に100万人の兵員と2,800両の戦車、さらに東部戦線の航空戦力の70%を投入したが、攻勢開始直後に砲兵部隊が準備万端整えて攻撃を待っていたソ連軍の対砲射撃を受けて壊滅。砲兵支援なしでパックフロントに真正面から突撃した戦車部隊は大打撃を受けた。

 Ⅵ号戦車ティーガー、重突撃砲フェルナンドといった新機材を投入したにも関わらず、ドイツ軍の進撃は遅々として進まなかった。

 当たり前だった。機動力で戦車が戦場を支配する時代は遠くに過ぎ去っていた。

 砲兵や航空支援のない戦車機動戦など、ドイツ軍の戦車部隊指揮官でさえ妄想だと切って捨てるようなものになっていた。

 ヒトラーがやろうとしていた戦争は、1940年で終わっているのだった。

 ドイツ軍が力尽きるのを待って、ソ連軍が絶妙と言わざるえないタイミングで反攻を開始するとドイツ軍は総崩れになった。

 ツィタデレ作戦開始から僅か20日後の1943年7月25日には、ブカレストをソ連軍に再び奪われ、8月までにルーマニア全域が失われた。

 ルーマニアのアントネスク総統は亡命を図ったが逮捕されて銃殺刑となった。

 9月11日にはハンガリー首都のブダペストがソ連軍に占領された。

 ドイツ軍はドナウ川に撤退することができたが、大量の兵員と機材を失った。

 この損失は致命傷であり、ドイツ軍はヒトラー・ユーゲントの前線投入や、Uボート艦隊を解体して、その乗員を海軍陸戦師団に振り向けるなど、末期的な対応を余儀なくされている。

 ソ連軍が止まったのはドイツ軍の反撃が功を奏したわけではなく、降雪により自ら止まっただけだった。ソ連軍は来年の戦いに備えて早めの冬営に入るだけの余裕があった。

 トゥハチェフスキー元帥は1944年の夏季攻勢でヒトラーに引導を渡すつもりだった。

 トロツキー書記長も考えは同じで、焦りはなかった。

 たしかにソ連はアジアでは負けていたが、ドイツが先に倒れれば、アジアの負けは後からでも取り戻せるのだ。

 トゥハチェフスキーやトロツキーの懸念事項は、ソ連軍がベルリンに進撃する前に先にイギリス海軍が壊滅してしまうことだった。

 イギリスの継戦意思は海軍力によって支えられており、ジブラルタル決戦でイギリス海軍が負ければ、イギリスが和平に応じる可能性があった。

 保守派のチャーチルが英ソの共闘に否定的なことは公然の秘密だった。

 チャーチルがソ連と手を結んだままなのはドイツ主導の統一ヨーロッパという島国イギリスにとっての地政学的な悪夢を回避するための手段にすぎなかった。

 トロツキーにとっても、チャーチルがイギリスの挙国一致内閣の首相であることは何かの悪い冗談だったのだが、チャーチル以外に1940年夏に追い詰められたイギリスを救える人間がいたかと問われれば、トロツキーでさえNOとしかいえないのだった。

 ドイツとイギリス、どちらが先に倒れるのか?

 スペイン政府は結論を出すことができなかった。

 スペインの首都マドリードでは、連合国と枢軸国の派遣した外交官とスパイが連日連夜火花を散らしたが、どちらも決定的な勝利を得ることはできなかった。

 そもそも1ヶ月で3度も首相が変わる盛大な内ゲバ争いを続けているスペインでは、誰と交渉したらいいのかも不明だった。

 身元不明の変死体(スパイノナレノハテ)でマドリード警察署の死体安置所が一杯になった1943年12月24日、日本陸軍遣欧軍団がアルジェ国境を越えてモロッコへ侵攻した。

 現地のスペイン軍はよくて民兵に毛が生えた程度の装備しかなく、高度に機械化された4個歩兵師団及び2個戦車師団は迅速にモロッコの諸都市を制圧していった。

 突然の侵攻を受けて、スペイン政府は対応策の協議(責任の擦り付け合い)を始めたが、結論が出る前に鳴り響いた空襲警報で地下壕に退避するしかなくなった。

 ただし、クリスマスのマドリードに降ったのは爆弾の雨でもなければ、サンタクロースのプレゼントでもなく、イタリア軍のフォルゴーレ空挺師団であった。

 エンリコ・フラッティーニ中将率いるフォルゴーレ空挺師団は速やかにマドリードの政府施設を制圧し、政府首脳を拘束する斬首作戦を成功させた。

 スペインの人民戦線政府は打倒され、フォルゴーレ師団と共に降下したフランシスコ・フランコ将軍による臨時政権が発足した。

 フランコ臨時首相の命令でモロッコのスペイン軍は日本軍に投降した。

 カタルヘナとバレンシアには日本海軍陸戦隊が上陸し、スペイン空軍の航空基地を確保した。

 人民戦線政府に虐待されていたスペイン軍は、フランコ将軍の帰還を諸手を挙げて歓迎し、各地でスペイン共産党施設がスペイン軍兵士に襲撃され炎上した。

 日伊合同による奇襲作戦(暗号名:ルビコン計画)は完全なる成功を収めた。

 イギリス軍はこの奇襲に対して完全に後手に回った。

 そもそも奇襲を察知することさえできていなかった。

 察知できないから奇襲なのだが、イギリスの情報部隊は何の作戦兆候も察知できていなかったのである。

 何しろ、暗号解読によればフォルゴーレ師団は東部戦線にいるはずで、日本軍の遣欧軍団もオランでイギリス軍の上陸に備えて海岸の防備を固めているはずだった。

 マドリードに現れた輸送機の大群にいたっては地中海のどこにも存在しなかった。

 暗号解読によれば、である。

 日伊軍はイギリス軍が枢軸軍の作戦暗号を解読していることを察知して、それを逆手にとってイギリス軍を奇襲したのだった。

 最初に暗号解読に気がついたのは日本海軍だった。

 インド洋を運行するサイクロン船団に対して、イギリス海軍の襲撃が異様に多すぎたのである。

 1943年5月24日にはケープタウンを根城にする戦艦アンソンと巡洋戦艦レパルスがSE17船団を襲撃し、間接護衛の戦艦伊勢と日向が船団を守るために犠牲になった。

 格上の16インチ砲搭載戦艦と正面からぶつかった伊勢と日向は任務を完遂し、SE17船団が逃げるための貴重な時間を稼ぎ出したが、伊勢は爆沈し、日向も機関が破損して自沈処分するしかなくなった。

 報復のためにアンソンとレパルスを空母瑞鶴と翔鶴を中心とする空母機動部隊が追撃したが逃げ切られてしまった。

 同年6月18日にはドイツへ向かうSW船団18船団が、空母フォーミダブルの襲撃を受けて24隻中12隻が撃沈されるという悲劇が起きた。

 再び瑞鶴と翔鶴が追撃したが距離が空きすぎており、追撃は断念された。

 サイクロン船団はほぼ確実と言って良いほど英潜水艦の襲撃を受け、船団が無傷でコロンボやシンガポールに戻ることは皆無であった。

 戦艦2隻の喪失に、輸送船の相次ぐ損失に頭を痛めた日本海軍は原因を徹底的に検証して、対潜戦術を見直すと共に暗号解読を疑った。

 サイクロン船団の運行は最高機密で、海軍内部でもその運行計画を知るものは極少数だったことから、スパイの可能性は低かった。

 対策として船団の運行に関する一切の通信を封書と航空郵便に切り替えた。

 すると船団への襲撃は激減したのだった。

 1943年末までにはレーダー装備の一式陸攻が船団の前路哨戒を徹底し、陸攻と対潜駆逐隊をセットにしたハンターキラーによる掃討作戦により、潜水艦の攻撃はほぼ完封された。

 様々な検証が行われた結果、日独伊の軍用暗号は概ねイギリスに解読されていることが判明し、日独伊の暗号関係者に衝撃を齎した。

 とくにドイツのエニグマ暗号が解読されることは絶対にありえないことだと考えられていたので、なおのことであった。

 なお、ヒトラーは暗号解読を誰もよりも早く受け入れ、ツィタデレ作戦の失敗を暗号解読とそれを許した暗号部隊に押し付け責任転嫁を図ったので日伊から呆れられた。

 直ちに日独伊の暗号システムが見直されたが、規模が規模だけにすぐに全てを更新できるわけではなかった。

 また、暗号解読を逆手にとり、ジブラルタル突破を図る作戦を日本海軍連合艦隊が立案し、枢軸最高司令部に提案した。

 作戦は日本軍以外にイタリア軍及びドイツ軍の情報部隊も参加し、ルビコン計画として具体化された。

 作戦決行は1943年12月24日とされ、前述のとおり完全な成功を収めた。

 日本陸軍遣欧軍団がジブラルタルの対岸のセウタに到達したのはモロッコ侵攻から1週間後の12月31日だった。

 軍団砲兵の展開は1月3日で、対岸のジブラルタル要塞に向けて砲撃が始まった。

 イギリス軍はカサブランカから北上して遣欧軍団と激戦となったが、対応は完全に後手に回っており、先に拠点を制圧して防衛体制を整えていた日本軍の戦線を突破することはできなかった。

 ジブラルタル海峡は機雷と防潜網で封鎖されていたが、軍団砲兵による砲撃と犠牲を顧みない日伊海軍の水中工作部隊によって掃海が行われた。

 イタリア海軍の水中工作部隊は、人間魚雷(特攻兵器ではない)にまたがって、アレキサンドリア港に忍び込み、1941年12月に戦艦ヴァリアントとクイーン・エリザベスを大破させるなど、優れた力量を誇り、ジブラルタル海峡掃海にも多大な貢献を果たした。

 彼らは地獄の窯が開いたジブラルタル海峡に小さな二人乗りの人間魚雷にまたがって出撃し、機雷と防潜網を除去して見せたのである。

 日伊軍の掃海を妨害するためにジブラルタル港から特攻出撃した駆潜艇から対潜爆雷が散布され水中衝撃波により多数の工作員が犠牲になった。

 衝撃波は大気中よりも水中の方が密度が高いために破壊力が大きく、対潜爆雷の爆発に巻き込まれたらミンチよりもひどい死体しか残らなかった。

 ジブラルタル海峡は海軍水中工作部隊の聖地として、21世紀現在でも毎年、日伊海軍により慰霊祭が行われている。

 ジブラルタル要塞の砲台は3日間に渡る砲撃戦によって全て破壊された。

 最終的に要塞はアルジェのオランからスペインのアルメリア港に強行接岸して上陸した海軍陸戦隊及び陸軍部隊の突入を受けて陥落した。

 スペイン本土及びモロッコの航空機基地に進出した海軍航空隊により、ジブラルタル海峡上空の制空権は確保された。

 日本海軍遣欧艦隊がジブラルタル海峡に姿を現したのは1944年1月11日だった。

 その編成は以下のとおりである。


・日本海軍「遣欧艦隊」 艦隊司令:小沢治三郎中将

 第一艦隊(西村中将)

  BB(戦艦):「石見」「加賀」「土佐」「長門」「陸奥」

         「金剛」「榛名」「霧島」

  CB(大型巡洋艦):「吉野」「吾妻」「蔵王」「吉野」

  DD:16

 第三艦隊(艦隊司令直率)

 第一機動群 (艦載機:350機)

  CV(空母)  :「翔鶴」「瑞鶴」「大鳳」

  CVL(軽空母):「雲龍」「白龍」

  CL:10

  DD:8

 第二機動群 (艦載機:280機)(山口中将)

  CV(空母)  :「白鶴」「紅鶴」

  CVL(軽空母):「祥龍」「瑞龍」

  CL:8 

  DD:8

 第三機動群 (艦載機:220機)(角田中将)

  CV(空母)  :「蒼龍」「飛龍」

  CVL(軽空母):「千代田」「千歳」

  CL:8

  DD:8


・イタリア海軍「地中海艦隊」司令長官:カルロ・ベルガミーニ中将

  BB(戦艦):「ローマ」「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」

  CG:3 CL:3

  DD:8


 海峡を通過する艦隊はセウタの陸軍兵からも目撃され大歓声が送られた。

 陸兵の多くは涙、涙であった。

 全ての犠牲はこの艦隊を無事に通すために払われたのだった。

 しかし、大歓声はすぐに大きなどよめきに変わった。

 海峡の西の水平線にも多数の艦影が現れ、急速に接近しつつあったからだ。

 それはカサブランカを出撃したイギリス海軍の主力艦隊だった。

 イギリス海軍は雌雄を決すべく、全力で出撃してきたのだった。

 海峡出口に布陣したイギリス艦隊は海峡突破を図る西村艦隊に対して、理想的なT字戦法を展開した。

 この時、ジブラルタル海峡に展開したイギリス戦艦は、キング・ジョージ5世、プリンス・オブ・ウェールズ、デューク・オブ・ヨーク、アンソン、ハウ、フッド、レナウン、クイーン・エリザベス、ウォースパイト、ヴァリアント、リヴェンジ、レゾリューションの12隻だった。

 砲火が集中したのは当然ながら先頭の戦艦「石見」だった。

 挿絵(By みてみん)

 石見は旅順要塞で鹵獲した未完成のソビエツキー・ソユーズ級戦艦3番艦「ソビエツカヤ・マンチュリア」を日本海軍が完成させたものだった。

 皮肉なことに1944年1月時点で日本最大最強の戦艦はソ連製だった。

 対抗艦の大和が完成するのは1944年7月のことで、決戦には間に合わなかった。

 西村中将はイギリス海軍が砲火力を最大化するために海峡入り口で待ち構えてT字戦法を採ることを予測しており、重防御の石見に敵の砲火を集中させて、その隙に中央突破を図り、敵の隊列を2分して各個撃破する作戦を立てていた。

 そういうことなら旗艦は先頭艦の石見ではなく、艦列2位の戦艦「加賀」においたらどうかという参謀の意見に対して、


「では、誰が石見に乗るのかね?」


 と西村中将が尋ね返した逸話は有名だろう。

 堂々と指揮艦旗を掲げた石見は、降り注ぐ英国製の16インチ砲弾と15インチ砲弾の雨をかき分けて、イギリス艦隊に肉薄した。

 戦艦石見と西村中将が行ったのはただ先頭を走るだけのことであったが、それこそ至難だった。

 中央突破を恐れた本国艦隊司令長官ジョン・トーヴィー大将は艦隊を転舵させてこれをかわしたが、速力の低いクイーン・エリザベス級3隻やリヴェンジ級2隻は艦隊運動に追随できなかった。

 分離したイギリス艦隊に石見が鼻先を押し込み、ついに日本艦隊は中央突破に成功した。

 艦列から脱落したクイーン・エリザベス、ウォースパイト、ヴァリアント、リヴェンジ、レゾリューションは日本艦隊から集中砲火を浴びた。

 クイーン・エリザベスが撃沈され、ヴァリアントが大破、ウォースパイトは機関が停止して漂流した。

 中央突破までに16インチ砲弾6発と15インチ砲弾7発を被弾した石見は、上部構造物を完全に破壊され廃墟のような有様となったが、18インチ砲弾にさえ耐える重防御により機関及び全砲塔が全力発揮可能だった。

 石見が中央突破に成功したころには、最後尾を走っていたイタリア艦隊もジブラルタル海峡を通過しおえており、いよいよ戦闘は対等な同航砲戦となった。

 イタリア艦隊は日本海軍から燃料を十分に供給され、たっぷりと訓練を積んでいたのでタラントの汚名を返上するべく復讐心に燃えていた。

 日本艦隊は半壊した英低速戦艦部隊の始末をイタリア艦隊に任せると、イギリス海軍の新鋭戦艦群に肉薄した。

 距離が縮まったことにより正確な射撃が可能となり、日英両軍の戦艦は次々と被弾して艦列から落伍するか、さもなくば沈んでいった。

 日本艦隊は土佐が艦列から落伍し、榛名、霧島が撃沈された。

 しかし、引き換えに巡洋戦艦フッドとレナウンを撃沈し、デューク・オブ・ヨーク、アンソンを落伍させた。

 最後まで艦列に残った石見、加賀、長門、陸奥、金剛はキング・ジョージ5世に砲火を集中し、これを撃沈してトーヴィー大将を戦死させた。

 さらに低速戦艦部隊を始末したイタリア艦隊が迫ったためイギリス艦隊は撤退を開始した。

 イギリス艦隊は温存していた巡洋艦部隊が殿を引き受け煙幕を展開し、駆逐隊が魚雷を発射して追撃する日本艦隊を混乱させた。

 この魚雷攻撃で戦艦金剛が大破し、総員退艦となった。

 戦艦同士の戦いは終わったが、後方の日英空母機動部隊同士の戦いは続いていた。

 しかし、戦いは混沌化しており、海戦の行方を左右することはなかった。

 イギリス海軍の空母部隊を率いたトーマス・フィリップス海軍大将は戦艦部隊への航空攻撃を逸らすために派手に立ち回り、日本海軍の空母部隊を挑発した。

 フィリップス提督の狙いは質・量ともに勝る日本海軍空母部隊をカサブランカからの航空支援を利用して封殺することだった。

 フィリップス大将の手元には空母がインドミタブル、フォーミダブル、ヴィクトリアス、フューリアスの4隻しかなく、正面から戦えばどうなるかは火を見るより明らかだった。

 空母機動部隊を率いた小沢治三郎中将はこれまでの経験や物量におごっている部分があり、フィリップス艦隊を楽に始末できると考えていた。

 しかし、艦隊上空には戦闘機部隊の大軍が待ち構えており、大苦戦に陥った。

 イギリス海軍空母機動部隊は艦載機を全て米国製に載せ替えており、以前のような容易い相手ではなくなっていた。

 小沢艦隊の艦載戦闘機は新世代の紫電改(三式戦の艦載型)に置き換わっていたが、イギリス海軍もF6FやF4Uといった新世代機をもっていた。

 さらにカサブランカから発進したモスキートやマスタングの相手もしなければならず、紫電改であっても攻撃隊を全て守りきるのは不可能だった。

 決戦に間に合った流星艦上攻撃機は、急降下爆撃と航空雷撃を兼用し、戦闘機なみの運動性と火力を持つ優れた攻撃機で、戦闘機の迎撃を振り切ってフォーミダブルやインドミタブルに1.2t爆弾を叩きつけたが、引き換えに3割が未帰還となった。

 低空を飛ぶ雷撃機隊の損害はさらに凄まじいもので、フィリップス艦隊への攻撃によって小沢艦隊は攻撃力の殆どを消耗することになった。

 フィリップス大将の作戦勝ちと言えるだろう。

 さらに機動部隊旗艦の大鳳が機雷に触雷し、一時期は転覆寸前になるなど、不運もあった。

 挿絵(By みてみん)

 結果として、日本海軍は質量共に勝る空母機動部隊を活用しきれず、ジブラルタル海峡決戦は戦艦同士の砲撃戦によって決着したのだった。

 戦後もしばらく各国が海軍の主力として戦艦を建造、維持し続けたのはジブラルタル海峡決戦の影響が大きいと言える。

 アメリカ海軍などは戦艦石見の優れた性能に驚き、慌てて改モンタナ級戦艦を追加発注した。

 さらに大和型を超えるユナイテッド・ステイツ級(基準排水量10万t20インチ砲装備)を建造したほどであった。

 戦術反応兵器の普及やレーダーやミサイル技術の発展で装甲防御が無意味になった1950年代以後は退役する戦艦も多くなったが、航空機とセットで維持しなければいけない空母に比べて戦艦は単独で維持可能であるため台所事情が悪い国では空母を退役させて、海軍の象徴として戦艦を残す例が多かった。

 フォークランド紛争でアルゼンチン海軍の戦艦ベインティシンコ・デ・マヨ(元ドイツ戦艦ビスマルク)がイギリス海軍の戦艦ヴァンガードに砲撃戦で敗北し撃沈されるなど1980年代まで戦艦は海軍において一定の地位を保ち続けた。

 一応、ジブラルタル海峡決戦では航行不能になった戦艦ウォースパイトやアンソンが航空雷撃が撃沈されているが、落ち武者狩りで戦闘不能になった船を撃沈しただけであり、戦艦の有用性を否定しきれなかった。

 航空主兵論者の小沢中将は漫然迂闊な作戦展開となり、持論を証明する機会を逸したことを後悔したがどうにもならなかった。

 小沢中将などの海軍航空主兵論者は、戦後に発足した日本空軍(1947年)に移籍して持論の証明をするための苦しい努力を続けることになる。

 なお、イタリア海軍は旧式とはいえイギリス戦艦3隻を撃沈し、タラントの復讐を成し遂げた。

 喜色満面のイタリア海軍に対して気落ちしていた小沢中将は投げ槍ぎみに、


「イタ公だからといって、莫迦にはできんな」


 などと発言して顰蹙を買っている。

 イギリス政府は主力艦隊壊滅を受けて枢軸国との和平交渉に入った。

 1944年2月15日に休戦協定が結ばれ、イギリスは英ソ相互防衛条約を破棄して、世界大戦から脱落した。

 ジブラルタル海峡決戦の勝利により、戦争の天秤は大きく枢軸に傾いた。

 あまりにも傾きが急だったことから、天秤のバランスは崩れてしまい、天秤そのものが壊れることになった。

 1944年4月1日、イギリスとの休戦を受けて対ソ逆侵攻計画を練るために総統大本営ヴォルフスシャンツェにて幕僚会議が開催された。

 会議に出席した国内予備軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐がしかけたスーツケース爆弾が爆発し、会議は物理的に木っ端微塵に吹き飛んだ。

 主催者のアドルフ・ヒトラー総統も同様である。

 後にナチスが極秘に行っていたユダヤ人絶滅計画が明らかになり、大虐殺を阻止した英雄と讃えられることになったシュタウフェンベルク大佐は、


「ドイツのために死を厭わぬというのなら、まず自ら死を実践してみせるべきだ」


 とBBCのインタビューに応えてヒトラー暗殺を決行した動機を明らかにしている。

 しかし、世の好事家は続く一言に重きをおいた。


「しかし、あんなに多くの爆薬をしかけたつもりはなかったのだが・・・」


 爆薬の量が多すぎてヒトラーの死体は損壊が激しく、死を確認するように不必要に時間がかかったため、クーデターの成功は非常に危ういところであった。

 ヴォルフスシャンツェに勤務していて事件に遭遇した多くの職員が、爆発音は2回聞こえたと証言している。

 シュタウフェンベルク大佐の持ち込んだ爆弾は一つきりであった。

 ヒトラーを暗殺したかもしれない第2の爆弾はあったのか、あったとしたらそれは誰が仕掛けたものなのか、それとも全ては単なる無責任な好事家によるゴシップに過ぎないのか。

 ちなみにヒトラー暗殺事件では邦人が一人巻き込まれて死亡している。

 駐ドイツ特命全権大使大島浩が会議に招かれ、事件に巻き込まれた。

 大島は中島飛行機で量産が進む戦略爆撃機(連山)の対独供与プログラムについて説明を行う予定となっていた。

 配布予定の資料は大変分厚いもので、しかも最高機密資料であったことから持ち運びには厳重に封印が施された金属製の大型スーツケースが使用された。

 ただ、それだけの話である。

 ちなみに爆死した大島は「ナチス以上の国家社会主義者」と揶揄されるほどのナチスびいきで、ヒトラーの信奉者であったことで知られている。

 事件に巻き込まれた外国人はもう一人いてイタリア空軍の連絡将校が犠牲になった。

 彼はイタリア空軍の東部戦線派遣について説明を行う予定になっていた。

 派遣される部隊は非常に規模が大きいものであったから、配布予定の資料は大変分厚いもので、しかも最高機密資料であったことから持ち運びには厳重に封印が施された金属製の大型スーツケースが使用された。

 ただ、それだけの話である。

 ちなみに件の将校も、ナチス・シンパとしてイタリア軍では知られた人物で、イタリアの国家憲兵から目をつけられていたことが後に判明している。

 ヒトラーの死を確認したドイツ軍国内予備軍司令部はヴァルキューレ・プロトコルを発動し、軍部によるクーデターによってナチス・ドイツ体制は崩壊した。

 臨時ドイツ政府は1918年の領土保全を条件に、全ての戦争状態の停止と和平交渉の開始を全ての交戦国に呼びかけた。

 アメリカ合衆国政府はこれに飛びつき、臨時ドイツ政府を全面的に支持して中立国として和平交渉の仲介を行うと発表した。

 1944年はアメリカ大統領選挙の年だった。

 2期目を狙うウェンデル・ウィルキー大統領にとって、「平和の使者」というのは自らを飾り立て選挙民にアピールする最高のトロフィーといえた。

 ソ連は不気味な沈黙を保ったが、しばらくして和平交渉の受け入れを表明した。

 1944年6月1日、停戦条約が発効し、第二次世界大戦は終わった。




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― 新着の感想 ―
[一言] 総統閣下ってば枢軸軍のマスコットみたいでかわいい とか思って読んでたらまさかの爆死。おっふ。 航空主兵ってのはもともと陸上の航空基地と空母が連携して漸減邀撃ってものらしいから フィリップス…
[気になる点] ビス子とヴァンガードが1980年代になってタイマンとか何それ、ムネアツ世界だな!
[一言] ヒトラーの霊感より、日伊の暗殺部隊の方が優秀だったか にしても、1950年代に第三次世界大戦が起こりそうな件 空母が何隻か戦没してたような……?
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