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そして、黄色い風が吹き抜ける


 そして、黄色い風が吹き抜ける


 戦略爆撃の考案は第1次世界大戦に遡る。

 その実践は、ツェッペリン飛行船の爆撃によるロンドン空襲に始まり、1916年以後はゴータ爆撃機が夜な夜なブリテン島を襲った。

 それらは敵国の民衆心理に打撃を与えることを目的としていた。

 そのために実質的な被害はそれほどではなかった。

 少なくとも敵国の軍需産業を完全破壊するようなものではなかった。

 しかし、空襲の最中は都市機能が麻痺し、軍需工場では労働者の出勤拒否が大量発生するなど、戦争継続に困難が生じるほどの波及効果があった。

 世界初の戦略空軍であるイギリス空軍の発足は、こうした背景を抜きにして考えることはできない。

 第一次世界大戦が終結してもイギリス空軍は縮小・解体されることはなく、むしろ陸海軍に比べて予算上の優遇措置を受け、戦略爆撃理論と防空戦略を磨き上げていくことになる。

 イギリス空軍が誇るランカスター重爆撃機やスピットファイアはそうして生まれた。

 独ソ戦が始まり、イギリス本土への圧力が減るとイギリス空軍は総力をあげてランカスター重爆の増産に取り組み、1941年から徐々に規模を拡大して1942年には1,000機規模でドイツ本土を夜間爆撃するほどになった。

 対ソ戦で大量の戦闘機や地上攻撃機を必要とするドイツにとって、大量の生産資材を必要とする4発重爆撃機の生産は夢のまた夢だった。

 ただし、ドイツ空軍の防空能力の向上により、1942年中のイギリス空軍のボマーコマンドは出撃のたびに大損害を出しており、戦略爆撃が継続できたのは出血よりも輸血量が多かったからというブラッディなものであった。

 特に防空戦闘で重視されたのは高射砲だった。

 防空戦闘機部隊に供給する燃料が不安になり始めていたドイツにとって、貴重なガソリンの消耗を避けたいという意味もあったし、ヒトラーが高射砲に期待を寄せていたという要素も大きかった。

 ただし、高射砲や防空組織の拡大は既に前線へ送る兵士が不足しはじめていたドイツにとって、人的資源の負担が大きかった。

 そのため1943年に入ると防空組織拡大のためにヒトラー・ユーゲントの少年兵や予備役(50歳以上の男女)まで動員することになる。

 この点において柔軟に戦力を配置できる航空戦力の方が高射砲よりも人的資源の負担は少なかった。しかし、プロイェシュティ油田の喪失で戦争経済に大きな穴が空いたドイツにとっては、高射砲の優先順位を高くするしかなかった。

 インドを失って戦争経済に大穴が空いたのはイギリスも同様であったが、大西洋航路はUボート対策の拡充により安定化しており、アメリカからレンドリースがあるかぎり戦争継続は可能だった。

 ただし、アメリカからの借金が倍に増えることになった。

 戦後の返済計画を考えた場合、イギリスには勝利する以外に生き延びる道はなかったので、ドイツ本土爆撃は万難を排して続けられた。

 1943年1月時点で、世界最大の戦略爆撃航空団をもっていたのはイギリスであることは論を俟たないが、では次点がどこかといえばそれは日本だった。

 1943年に入ると日本海軍航空隊もまた1,000機単位の爆撃機で満州、シベリア各地を爆撃していた。

 その主力を担ったのは、二式陸上攻撃機、途中で命名規則が変わったことから「深山」という方が有名になるだろう。

挿絵(By みてみん)

 アメリカ軍のB-17に非常によく似ているが、微妙に違うことから違う機体である。

 特に機首がHe111後期型のような段差なしになっているのが大きな特徴と言える。それ以外はどうなのかと指摘されれば、力なく笑うしかない。

 そういう説明をしなければならないほど両者は似通っていたのは、深山の開発母体がルーズベルト大統領の置き土産であるXB-17だったからである。

 機首以外の変更点として、B-17のエンジンが単列9気筒のライトR-1820であったのに対して、深山は複列14気筒のハ41(1,900馬力/排気タービン装備)を装備していた。

 ただし、ハ41はR-1820を国産化した光発動機(ハ8)を14気筒化したもので、R-2600とパーツ類が殆ど同じという代物であった。

 中島飛行機のエンジン部門はカーチス・ライト社の強い影響下にあり、社長の中島知久平もそれを良しとしていた。

 中島は社内において自由な議論や意見表明を尊重し、若い技術者の好きにさせていることが多かったが、発動機開発については強いイニシアチブを発揮した。

 中島飛行機ではエンジン開発は技術導入段階からカーチス・ライト社に一本化し、徹底的にその指導と協力を仰いだ。

 液冷の三菱や川崎に対して空冷の中島という棲み分けを完成させたのも、中島知久平である。

 ハ41を18気筒化したエンジンがハ44(2,200馬力)となる。

 大戦中に中島飛行機が造ったエンジンは、光系列(光9気筒、光14気筒、光18気筒)の3種類しかない。

 中島飛行機は光発動機の開発・改良に全力を傾け、大戦後期に完成した決戦航空兵器の殆どが光18気筒エンジンを搭載するほどの成功を収めた。

 中島のイニシアチブは命名規則にまで及んでおり、光18気筒エンジンの開発に際して、社内から名称変更が提案され、誉という新しい名前が付きそうになったとき、


「縁起が悪いからやめろ」


 と制止するほど強いこだわりを見せた。

 何がどのように縁起が悪いのかは不明である。

 中島は1943年から軍需大臣として日本の戦時生産に辣腕を奮ったことから日本のアベルト・シュペーアとも称される。

 しかし、シュペーアがヒトラーの後援を得ているのに対して、中島は坂本財閥の大番頭として君臨していた実績があり、戦時生産の拡大のみで両者を比較するのは不適当であるろう。

 それはともかくとして、深山はB-17よりパワーのあるエンジンを装備したことにより、燃料搭載量を大幅に増やしており、4tの爆弾を搭載して6,000km飛行することが可能だった。

 また装甲板や武装も強化されており、12.7mm機銃を多数搭載し、操縦席付近は15mmの装甲板で囲んでいた。

 4発機でありながら航空魚雷も搭載可能で、800kg航空魚雷なら4本、水上艦用の魚雷を改造して作成された2t航空魚雷なら2本まで爆弾倉に収まった。

 ただし、深山が航空雷撃に使われたことは殆どなく、装備可能という程度の話だった。

 深山に期待されたのは地上の戦線を遥かに飛び越えて、敵国の生産拠点を爆砕する戦略爆撃だった。

 1942年以降、日本軍は満州において正面からソ連軍と戦うのを避けていた。

 というのも、地上戦では守りを固めたソ連軍は強敵で、日本軍は攻勢に出ては大損害を出して元の戦線に戻ることを繰り返していた。

 大損害に懲りた日本陸軍は、地上での攻勢を一旦中止して、戦略爆撃でソ連軍の後方支援体制を破壊することとした。

 ただし、それはそれで茨の道であった。

 何しろ満州は中国の固有の領土であり、同盟国の領土にイギリス空軍がやっているような夜間無差別爆撃を行うことは政治的に不可能だった。

 蒋介石は戦後の復興を見据えて満州の工業地帯をできるだけ無傷で手に入れたいと考えており、都市部への無差別爆撃には徹底的に反対した。

 政治的に都市爆撃や夜間爆撃を封じられた日本海軍第8(ストラテジー)航空艦隊ボマーコマンドを率いる大西瀧治郎中将は、慎重な検討の上で陸の通商破壊戦として満州に貼り巡らされた鉄道交通網を爆撃することとした。

 鉄道駅や機関車庫、操車場や貨物ヤード、貯炭所、給水所が爆撃目標となり、それらをできるだけ一般市民の犠牲者がでないように精密爆撃することになった。

 もちろん、流れ弾で住宅街に爆弾が落ちることはあったが、それはいわゆる、コラテラルダメージというものに過ぎない。軍事目的の為の、致し方ない犠牲だ。

 焼け出された市民には、日本海軍において戦略爆撃を主導した大西瀧治郎中将を鬼大西と呼んで呪った。

 念のために解説すると満州や中国本土では、鬼は邪悪なものやつまらない存在という罵倒語であり、日本の力強いイメージとは異なるので注意が必要である。

 また、大西は過酷な命令を連発したことから味方からも鬼畜大西と呼ばれていた。

 昼間爆撃は対空砲や戦闘機の迎撃を受けやすいので味方の損害は大きかった。

 イギリス空軍が大雑把な夜間無差別爆撃を採用していたのとは対照的である。

 実際のところ、損害の大きい昼間精密爆撃は大西にとっても苦渋の選択であった。

 ただし、何事にも例外というものがあり、犠牲の多い昼間爆撃が大好きな狂人もいた。

 なぜならソ連空軍は深山迎撃に総力をあげて大量の戦闘機を差し向けてきたので、空中戦が大好きな戦闘機パイロットにとって、深山のエスコートは非常に愉快な任務と言えた。

 ハンス・ヨアヒム・マルセイユにとってもそうだった。

 彼は分厚い軍規違反履歴書が祟って1939年にドイツ空軍を放逐される形で日独合同義勇軍「鷹の爪軍団」に送られた戦闘機パイロットだった。

 そして、世界大戦勃発により島流しになった一人でもある。

 マルセイユは島流しにされたときに己の運命を呪ったとされるが、ソ連軍機との空中戦でそれを発散させることを覚えた。

 ただし、駆け出しのころの彼は機材の使い方が荒かったので、ドイツから持ち込んだBf109Cはすぐに使い物にならなくなった。

 代わりにあてがわれたのが九六式艦上戦闘機で、マルセイユはすぐにその旋回性能の虜になった。

 鷹の爪軍団が機材の消耗で日本へ引き上げる1940年5月までに彼が撃墜したソ連軍機は45機にもなった。

 ソ連軍機との戦いで腕に磨きをかけたマルセイユに零式艦上戦闘機が与えられたのは1941年1月11日のことだった。

 20mm機関砲3門の強大な火力と優れた旋回性能を持つ零戦は、マルセイユの手に操られたときに恐るべき凶器と化した。

 中華民国空軍の教官として中国に戻ったマルセイユは教官業務の傍らに空中戦に出動し、多数のソ連軍機を撃墜した。

 1941年3月11日には南京上空でソ連軍のI-16の編隊(12機)に単騎で挑みかかり、6機を撃墜している。

 この時の空中戦は蒋介石も目撃しており、マルセイユは蒋から呼び出しを受けた。

 褒美に何がほしいと尋ねる蒋に対してマルセイユは、


「空中戦の自由」


 と応えて蒋を驚かせた。

 以後、マルセイユは空中戦で自由に戦うことができるようになった。

 ただし、それは中国の空だけであったから、ルーデルや他のメンバーが帰国するために空母へ乗り込んでインド洋に向かったときマルセイユはアジアに残る道を選んだ。

 蒋から気に入られたマルセイユは兵舎を離れて中国人召使い付きの豪華なテントに暮らすようになり、夜な夜なテントからは女の嬌声が響いたと言われている。

 そんなマルセイユの特別扱いを面白くないと思った多くの戦闘機パイロットが彼に挑んだが、全員を返り討ちにしている。

 1942年9月25日には撃墜スコアが200機を越えて


「中国の天空はマルセイユでもつ」


 とまで蒋から激賞された。

 ソ連軍戦闘機の迎撃に苦しんでいた大西中将が、スーパーエースのマルセイユを放っておくはずがなく、第8航空艦隊に引き抜きをもちかけた。

 マルセイユは快適な中国での生活を手放すのを惜しんだが、大西は中隊長の地位と空戦の自由を認めることで彼を説得した。

 マルセイユは追加条件として、中隊のパイロットと機材を自由に選ぶ権利を要求し、大西に受け入れられた。

 これがマルセイユ中隊の始まりである。

 派手好きのマルセイユの発案で翼端を黄色に塗っていたため、黄色中隊とも呼ばれる。

 黄色中隊は平均飛行時間が4,000時間を越えるものだけが入ることを許された。事実上のエースパイロット部隊である。

 戦後に著書が大ヒットした坂井三郎(251機撃墜)もマルセイユ中隊の一人である。

 ちなみにマルセイユは中隊長としては無能といって差し( つか)えなく、中隊長としての日常業務は全て笹井醇一中尉が代わりに行った。

 笹井もエースパイロットとして名高く、最終撃墜数は121機である。

 マルセイユ中隊は爆撃機の前路を掃討する任務を割り当てられ、常にソ連戦闘機の大軍と戦うことになった。

 マルセイユはソ連戦闘機の大軍に囲まれても至って平静で、


「遊び相手が多すぎて困るな」


 などと言ったのか定かではないが、一月に50機以上ソ連機を撃墜することもあった。

 装備機は当初、零戦を使用した。

 航続距離の問題から雷電では深山の護衛が困難だったためである。

 ただし、零戦は高度5,000m以上は過給器の性能限界であるため、高度8,000mを飛ぶ深山には追随することは困難だった。

 そのため、直ぐにマルセイユは乗機を陸軍航空隊の二式複座戦闘機に乗り換えている。

 二式複戦、海軍では単座型が採用されたため二式双発局地戦闘機「双戦」と呼ばれる高速戦闘機は大火力で対爆撃機迎撃戦には活躍したが、単発機に比べれば運動性は低かった。

挿絵(By みてみん)

 格闘戦を好むマルセイユは双戦には馴染めず三式戦が採用されると直ぐに乗り換えた。

 三式戦(海軍名称は紫電、飛燕は陸軍の公募愛称)は非常に複雑な開発経緯を持つ戦闘機でしばしば第二次世界大戦中の航空兵器に関する複雑怪奇なトリビアとされることが多い。

 三式戦の原型を開発したのはアメリカのノースアメリカン社であった。

 その開発契機は、イギリス空軍向けのP-40のライセンス生産をノースアメリカン社で行うことを拒否して自社開発を逆提案したことだった。

 優秀な性能を発揮した試作機はイギリス空軍に引き取られ、マスタングとしてイギリス空軍に採用されることになる。

 これに気を良くしたノースアメリカン社はさらなる開発資金獲得のために地上攻撃機型が作成し、それがソ連軍との地上戦に明け暮れる中華民国へ輸出された。

 A-36(地上攻撃型)は低空戦闘でソ連機を圧倒し、その高性能ぶりをアジアでも示した。

 中国空軍の星飛馬中将は、A-36の追加購入と共に高空性能改善を模索することになる。

 一段式過給器装備のA-36は高度3000mを超えると急激にパワーダウンしてしまうため、それより高い高度で飛来するソ連軍の双発爆撃機などの迎撃には使用できなかった。

 特に高速性能や高空性能が改善されたTu-2の迎撃はA-36では困難だった。

 そこで星中将は日本の航空機メーカーに協力を求めた。

 ノースアメリカン社からは拒絶された。

 なぜならマスタングの高性能ぶりに驚いたイギリス空軍が、日本軍にマスタングが渡ることを警戒し、ノースアメリカン社に圧力をかけたのである。

 日本の航空機メーカー各社は既に業務多忙であり、星中将の要請に応えられる状態ではなかったが、唯一飛行艇メーカーの川西航空機だけは例外だった。

 陸上機の高性能化で飛行艇が売れなくなっており、川西は利益の大きい小型機の生産に活路を見出そうとしていたのである。

 陸上機の経験がない川西にとって小型単発戦闘機のA-36の改修は困難と挑戦の連続であったが、三菱航空機の金星64型エンジン(液冷V型12気筒二段式排気タービン付き)をなんとか押し込むことに成功した。

 試験飛行は陸軍航空隊から派遣されたテストパイロットの手によって行われたが、正直にいえば誰もその性能に期待はしていなかった。

 何しろ地上攻撃機に飛行艇メーカーが三菱のエンジンを押し込んだだけの機体であり、そんな胡乱げな代物が、まともに飛ぶとは誰も思っていなかったのである。

 そのため、試験機が高度8,000mで時速703kmを発揮すると計器や観測機材の故障が疑われ、狂喜乱舞したのは星中将ただ一人だけだったという逸話がある。

 ちなみにイギリスでは同じ機体に二段二速スーパーチャージャー付きのマーリンエンジンを装着することでマスタングを作り上げた。

 ターボチャージャーとスーパーチャージャーという違いはあっても両者の機体はほぼ同一である。高度8,000mにおいて時速703kmを発揮できる点も同じだった。

 マスタングの装備は12.7mm機銃6門であるため、モーターカノン込で20mm機関砲5門を備える三式戦の方が火力では勝るという評価が多い。

 三式戦の生産は川西航空機で行われた。

 さらに大量生産が求められたため、豊田自動車が零戦の生産ラインを転換して生産した。

 ちなに三式戦は大量生産に配慮した設計を当初から採用しており、生産コストは零戦の3分の2まで低減されていた。

 三式戦は航続距離が長く、爆撃機の護衛には最適の戦闘機だった。

挿絵(By みてみん)

 マルセイユ中隊にも優先的に配備され、マルセイユの神がかった空戦術をさらに高めた。

 マルセイユは三式戦について高速域での運動性の高さを手放しで褒めている。大量の燃料を搭載できるため空中戦に集中できることも利点として強調した。

 ただし零戦に比べて上昇性能が低く、速度を失うと立て直しが苦しい点を欠点とした。

 そのため、マルセイユは軽量化のために両翼の機関砲を下ろしてモーターカノンの1門だけで出撃することが多かった。

 彼の神業にかかれば、それだけで十分だったのである。

 ただし、彼の真似をできる人間はマルセイユ中隊でも笹井と坂井の二人しかいないため、他の中隊機は通常装備の三式戦で出撃している。

 真似できる方がどうかしてるという意見もある。

 マルセイユ中隊は12機しかいないが、マルセイユの悪ふざけで彼の乗機は黄色13番機(ゲルプドライツェーン)とされた。

 出撃機は常に5機で、マルセイユと彼を援護する1個小隊で飛ぶことが多かった。

 そして、それで十分だった。

 黄色中隊の基地を襲った24機のYAK戦闘機を僅か5機で迎撃し全機撃墜するなど、黄色中隊の力はもはや神がかりであった。

 ソ連空軍のパイロットにとって翼端が黄色の戦闘機に遭遇することは死を意味していた。

 反対に友軍にとっては勝利のシンボルとされ、その姿を見るだけで苦戦する地上部隊の士気が回復する効果があった。

 ソ連軍の攻撃で苦境に陥った陸軍部隊の指揮官が、


「嘘でもいいから、黄色の13が来たと言え!」


 と叫んだこと(しかも、その直後に本当に来た)は有名な逸話である。

 トロツキーはマルセイユに5万ルーブルの賞金をかけたが、誰も彼を撃墜することはできなかった。

 多くの犠牲を払ったが戦略爆撃は確実に極東のソ連軍を疲弊させていった。

 満州の工業地帯が壊滅し、シベリア鉄道の運行が止まった1943年末にはソ連軍の活動は大きく下降線を書き、特に航空戦力は回復不能になっていった。

 満州の地上戦もその経過に合わせるように日本軍が戦線を押し上げ、長春やハルビンといった満州の主要都市が次々と陥落していった。

 補給が切れたソ連軍に対して全面攻勢に出た日本軍は総兵力150万まで拡大しており、圧倒的な物量で補給の切れたソ連軍の絶望的な抵抗を粉砕していった。

 1941年には苦戦したT-34も日本軍にM4(a)中戦車が配備されたことで苦戦する相手ではなくなっていた。

挿絵(By みてみん)

 M4(a)中戦車は日本に輸出されたM4中戦車に日本が独自に改良を施した戦車で、ソ連軍が多用する対戦車ライフルに対抗するためにドイツ軍のアドバイスで装着したシュルツェンが外見上の大きな変更点だった。

 後にシュルツェンは成形炸薬弾防御に効果があることが判明し、一式中戦車などにも装備されている。

 日本軍はM4中戦車の火力を改善するために、主砲をドイツで開発された88mm高射砲に換装した。日本国内でライセンス生産していた88mm高射砲をM4中戦車に搭載することはさほど難しいことではなかった。

 国産主砲に換装したM4中戦車はイギリスにも存在し、17ポンド砲に換装したファイアフライが有名であろう。

 M4中戦車は日英双方に輸出され、日本にはディーゼルエンジン装備のM4A2が主に輸出され、ガソリンエンジン装備のM4がイギリスに回された。

 九七式中戦車や一式中戦車に比べて機動力に優れたM4(a)中戦車の配備で日本軍はT-34とも互角に戦えるようになった。

 88mm高射砲は遠距離からT-34を撃破可能だった。

 もちろん、無改造のM4中戦車も大量に使用されたが、誰も火力に劣る無改造のM4には乗りたがらなかった。無改造のM4は榴弾威力の高い75mm砲を搭載して歩兵支援に向いていたので、多くが自動車化歩兵師団に1個大隊ずつ配備され、戦車師団や機械化歩兵師団にM4(a)が配備されるのが通例とされた。

 殆どの日本戦車兵はなぜM4に最初から88mmクラスの大口径砲を搭載しないのかアメリカ軍の考えに首を傾げた。

 無改造のM4中戦車の火力は一式中戦車と同等で、T-34/85やトロツキー重戦車の相手は厳しいものがあり、しばしば腕のいい戦車兵が乗ったトロツキー重戦車がM4を相手に猛威を奮うことがあった。

 大抵の場合は、航空支援がすぐに到着して爆撃で撃破されるのが通例だが、たった1両のトロツキー重戦車が17台のM4(無改造)を一方的に撃破して逃げおおせることもあり、戦車ギャップは日本陸軍の悩みの種だった。

 しかし、安くて大量に手に入るM4中戦車とその改造型は大戦中、事実上の日本の主力戦車として君臨した。

 ただし、日本軍もM4で満足していたわけではなく、本命は鹵獲したT-34の技術やドイツから供与された技術など、海外から導入した先端技術と国産技術を組み合わせた理想的な戦車となる四式重戦車だった。

 満州戦線の末期に登場した四式は、それまでのどこか野暮ったい日本戦車からデザインが一新され、前面装甲はT-34のような傾斜した一枚板の装甲になっていた。

 均質圧延鋼装甲で作られた100mmの傾斜装甲(60度)は、T-34/85の砲弾を寄せ付けず、122mm砲装備のLT2重戦車(トロツキー重戦車2型)でも接近しなければ貫通不能だった。砲塔正面に至っては防盾込で220mmもあった。

 四式の装甲防御に恐慌状態となって突撃を図るソ連戦車を撃破する100mm戦車砲は海軍の10センチ高射砲(65口径)を転用した高初速砲で、1,000mで200mmの装甲板を貫通できた。

 長10サンチ高射砲は三式12センチ高角砲/高射砲の開発成功で不要になった廃品であったが、廃品利用に在るまじき火力を発揮した。

 ドイツから入ってきたトーションバーサスペンションに、T-34のような幅広の履帯を組み合わせ、機動力と重量分散を両立する大直径のオーバラップ転輪を配し、M4中戦車のものをコピーしたトルクマチック式無段変速により滑らかな操縦を実現していた。

 エンジンは三菱の航空機用エンジン(瑞星)エンジンをデチューン(700馬力)したものを搭載し、T-34の技術を模倣してRR駆動方式により57tの車体を機動させた。

 まさに無敵の戦車で、日本陸軍の理想とした敵を頑然と受け止めるダムのような戦車だったと言えるだろう。

 熟練した戦車兵に操られた四式重戦車は、2,000m先からT-34を撃破することもあった。

 ある日本戦車兵が新聞記者のインタビューに対して、


「T-34はブリキ缶だぜ」


 と応えたのはあまりにも有名だろう。

 残念なことに四式重戦車の配備は満州戦線末期で、ソ連軍の戦車は燃料不足で動けなくなっており、その高性能を披露する機会はさほど多くなかった。

 また、あまりにも理想を追いすぎた設計のために初期不良に悩まされ、高価で数が揃わなかったのが不幸だった。総生産台数は1,000両ほどだった。M4中戦車が1万両近く輸入されたことを考えるとその数はいかにも少なかった。

挿絵(By みてみん)

 満州や中国の戦場で補給の切れたソ連兵を小突き回すのなら、軽量で整備性の高いM4(a)中戦車や無改造のM4中戦車の方が便利だったのである。

 ただし、四式で完成された技術は、戦後の日本戦車開発の土台になったことは確かで、1970年代末まで日本戦車は四式重戦車の改良発展型といえた。

 話を1943年末に戻すと満州戦線の敗退で、中国本土に侵攻したソ連軍は孤立した状態となった。

 アメリカからの兵器輸入で強化された中華民国軍は反攻に転じ、1943年8月には南京前面や上海周辺からソ連軍を排除した。

 ソ連の中国派遣軍は103万人の兵員を抱えていたが、補給が切れて制空権を喪失した状況ではできることは多くなかった。

 極東ソ連軍を率いるゲオルギー・ジューコフ大将は粘り強く防衛戦を指揮して、終戦まで中華人民共和国の首都北京を守り抜いたが、中国派遣軍は完全に遊兵化して戦略的な意味を失っていた。

 ジューコフは中国戦線を破棄して満州とシベリアを全力で防衛するべきだと考えていたが、政治的にそれは不可能だった。

 極東のソ連軍にとっての希望は一日でも長く持ちこたえてヨーロッパ戦線でドイツが打倒されることだけだった。






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― 新着の感想 ―
[一言] かなりレッド・サンブラッククロスを参考にされていますね。(ソコトラ島)四式戦車等々、
[良い点] 良い点と言うかレッドサンブラッククロスのオマージュが時々見受けられますね。この回に出てきた四式戦車は レッドサンブラッククロスの七式戦車に似ていますね。別の回のソコトラ島の攻略で駆逐艦が爆…
[一言] これ、ここから超大国に育成するなんて可能? タイトル回収はあるのだろうか
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