ロンメル・オーヴァードライブ
ロンメル・オーヴァードライブ
1942年6月28日、ソ連軍はルーマニアに侵攻。
目標はヨーロッパ最大の油田地帯であるプロイェシュティ油田の占領だった。
作戦名は火星。
ソ連軍は1940年から1941年の膨大な損害を受けて、ドイツ本土への正面攻撃を避けて、ドイツの石油供給源であるルーマニアを攻撃した。
石油がなくなれば、ドイツ軍の航空機や機甲部隊も動けなくなるからだ。
イギリスなら戦略爆撃機で空爆するところだが、ソ連にはそのようなものはないため、直接軍隊をおくるしかなかった。
プロイェシュティ油田は年産4,300万バレルを誇り、ドイツとイタリアの石油消費の半数を賄っていた。
ルーマニアでは1940年にファシスト政治家のイオン・アントネスク将軍が国民投票で総統の地位について親枢軸外交を推進していた。
しかし、ドイツのポーランド侵攻や西方戦役に参加したわけではなく、ソ連がドイツに侵攻した1940年8月以後も中立を保っていた。
ルーマニアの国力を考えれば、賢明な対応と言えるだろう。
アントネスクは戦争の惨禍から祖国を遠ざけるために慎重に行動していた。
しかし、国家経済を回すためにどうしても石油を独伊に売却するしかなかった。
その結果としてソ連に目をつけられる危険性は十分に理解しており、国境の守りを固めると共に石油の売却代金として戦車や航空機を多数購入して軍備拡張を進めていた。
ドイツはプロイェシュティ油田防衛のために軍の派遣を打診していたが、アントネスクはこれを断っていた。
ドイツ軍進駐を口実にソ連の侵攻を招く恐怖の方が勝っていたのだ。
また、ドイツから購入した武器でルーマニア軍の近代化も進んでおり、防衛に徹するならソ連軍とも戦えると考えていた。
実際にはルーマニア軍がソ連軍の縦深攻撃に対応することは不可能であり、攻勢開始から2日で国境の守りは突破されることになった。
ソ連軍の侵攻は素早く攻勢開始から10日で100km突破に成功し、国境にいたルーマニア軍20万が包囲殲滅された。
ハンガリーもまたソ連軍の侵攻を受け、似たような状態に陥った。
ドイツ軍がいないハンガリーやルーマニアにおいて、ソ連軍は無敵の軍隊だった。
ルーマニアもハンガリーも中立を宣言していたが、これは全く無視された。
ただちにドイツ軍が出動し、ハンガリーではソ連軍を押し返したが、ルーマニアは救援が間に合わずプロイェシュティ油田とブカレストはソ連軍の手に落ちた。
プロイェシュティ油田の陥落にヒトラーは衝撃を受け、直ちに奪還作戦が立案された。
ドイツ軍の備蓄燃料の層は薄く、生産と消費が自転車操業状態であったからヒトラーの危機感は極めて大きなものだった。
一応、ドイツは平時には絶対に採算がとれない人造石油技術を開戦前から重要な燃料供給源として保護し、育成を図ってきたので直ちにドイツ軍が行動不能になるわけではなかった。
しかし、人造石油で賄える石油需要は全体の半数程度であり、プロイェシュティ油田が回復しなければドイツ軍が半身不随になることは目に見えていた。
ヒトラーは油田奪還を最優先命令としたが、同時に油田が完全破壊され使用不能になる事態も想定しなければいけなかった。
なぜなら、自分が逆の立場に立つことになれば、必ずそうするからだ。
ヒトラーにとってのプランBとは蘭印からの石油輸入だった。
蘭印の原油生産量は年間6,700万バレルで、その生産力はプロイェシュティ油田を上回っていた。
その他にも蘭印で算出する銅や錫、マンガン、ニッケル、タングステンといった希少金属や天然ゴムがドイツ国内では不足しており輸入が必要だった。
もちろん、ドイツ人の精神的燃料であるコーヒーも、である。
そのため、ルーマニア戦線が危機的な状況であるにも関わらず、増援が北アフリカに送られた。
北アフリカでは”砂漠の狐”ことエルウィン・ロンメル元帥がエルアラメインで、イギリス中東軍と対陣しており、増援の到着を待っていた。
ロンメルが北アフリカの地に降り立ったのは、1941年2月のことだった。
その前史として、イタリア軍の北アフリカでの戦いがあった。
イタリア軍の戦いについては、負けたという三文字で十分なので割愛する。
実際には、それほど単純ではないのだが、兵力差が圧倒的だっためどうにもならなかった。
イタリアのムッソリーニ統領は増援を派遣しようとしたのだが、ドイツ救援のために兵力の大部分を東部戦線に送っており不可能だった。
1940年8月にソ連軍がドイツへ侵攻するとイタリアからドイツへ多数の増援部隊(兵員30万及び軽戦車1,000両)が送られた。
ドイツ派遣イタリア軍は空挺部隊を含む精鋭であり、マンシュタイン元帥も感嘆するほどの強靭な戦いぶりを示した。
マンシュタインは、
「彼らが先の大戦でこのような戦いぶりを示していたら・・・」
と述べたかは定かではないが、イタリア軍の戦闘力は決して低いものではなかった。
もしも、スペインの内戦が数年にわたって続き、イタリアがだらだらと12兆リラほどつぎ込んで親枢軸勢力を支援していたら、イタリア軍は貧乏神に呪われた状態になっていただろうが、スペイン軍部の反乱はあっさり鎮圧されたのでそのようなことは起きなかった。
東部戦線のイタリア軍の戦いぶりは、ヒトラーのイタリアに対する感情を大きく好転させた。
ファシストとして経歴はムッソリーニの方が先輩であり、政権奪取もムッソリーニの方が早かったのだが、ヒトラーは国力の差からイタリアを下に見ていた。
イタリア軍東部戦線派遣軍の戦いぶりは、その認識を改めさせた。
しかし、その代償に北アフリカのイタリア植民地は無防備な状態となり、イギリス軍の侵攻を受けて次々と失われていった。
ヒトラーは東部戦線への支援に対する返礼として、北アフリカ防衛に対する支援を表明し、ドイツ・アフリカ軍団(DAK)が編成された。
そして、前述のとおりロンメルが北アフリカへ派遣されることになったのである。
ヒトラーが考えていたのは、あくまでリビア・イタリア植民地の防衛であり、スエズ侵攻などは考慮の外であった。
ドイツ軍上層部は派遣そのものに反対しており、ヒトラー自身も政治的な事情がなければこのような決定はしなかったと後に述べている。
しかし、イタリア軍が30万の兵力を東部戦線に送っていることを考えれば、返礼としては小さいものだったと言える。
実際のところ、北アフリカへ送られた兵力は半個装甲師団に過ぎず、イタリアの方が確実に持ち出し分は大きかった。
ムッソリーニは、ドイツが倒れたら次は自分という冷静な計算があり、その計算は日本が参戦に至った思考回路とほぼ同じだったと言える。
DAKとロンメルに期待されていたのはリビアの防衛であり、DAKはそのために使うには適度に規模の小さな兵力だった。
北アフリカはドイツにとって適当にイギリス軍を撃退して独伊の政治的な連帯を示すだけの戦場に過ぎなかったのである。
しかし、ロンメルは北アフリカに到着するとすぐに威力偵察の名目で攻勢を開始し、縦横無尽の機動戦で侵攻してきたイギリス軍を打ち破った。
ベルリンとローマからの進軍停止命令を完全に無視したロンメルの独断専行は、本来ならば軍法会議ものである。
しかし、ロンメルは圧倒的な戦果でそれを覆してみせた。
また、ロンメルがヒトラー子飼いの将軍だったことも無視できないファクターだろう。
ロンメルを解任しようとする動きが軍部にはあり、ヒトラーがそれを抑えていた。
英中東軍司令官アーチボルド・ウェーヴェル大将は反攻を期してバトルアクス作戦(1941年6月)やクルセーダー作戦(1941年11月)などで巻き返しを図ったが、成果は芳しいものではなかった。
西からやってくる日本軍に対処するために戦車や航空機といった砂漠の機動戦では死活的に重要な兵器の補給が滞っていたためである。
それでもロンメルのDAKを一時的に後退に追い込むことには成功していた。
DAKは英中東軍以上に補給が滞っていたのである。
ポーランド正面が抜かれたら即座にベルリンが戦場になる以上、補給の優先順位は東部戦線が最も高く、次にイギリス空軍の爆撃に対処する本土防空部隊や西部戦線となる。
一旦は後退に追い込まれたロンメルだったが、イギリス軍の追撃がそれほどのものでないことにすぐに気が付き、新しい戦略と増援さえあればキレナイカ奪還は難しくないと考えていた。
増援としては新年の祝いにヒトラーからⅤ号戦車が届いた。
75mm43口径砲を装備したレオパルドは、見通しの効く砂漠の戦場では猛威を奮った。
さらにアルベルト・ケッセルリンク空軍元帥率いる第2航空艦隊がマルタ島に猛爆撃(1942年1月~)を加えて、DAKの補給線に対する攻撃を阻止した。
マルタ島にはイギリス海軍の潜水艦と対艦攻撃機が配備されており、DAKの輸送船の44%を撃沈していた。
イタリア海軍は輸送船護衛のために艦隊型駆逐艦まで動員していたが、ドイツ軍のエニグマ暗号が完全に解読されており、独伊軍の動きは筒抜けだった。
あまりにも損害が多すぎるのでイタリア軍内部にスパイがいるとロンメルが疑うほどであった
しかし、マルタ島を空から封鎖したことで、輸送船への被害は6%まで低下した。
また、1941年11月に日本軍がインド洋で大攻勢に出ていたこともロンメルにとってプラスに働いた。
ビルマやセイロン島防衛のために多数の戦車や航空機が投入され、イギリス中東軍は戦力が引き抜かれて弱体化した。
どの程度弱体化したかと言えば、ガザラに敷設された地雷原と鉄条網の陣地のいくつかを地雷があるように見せかけた偽陣地にせざる得なかったほどだった。
ロンメルは入念な偵察で偽地雷原の場所を突き止め、内陸の砂漠から迂回する部隊と偽陣地突破部隊に軍団を分けて、イギリス軍を奇襲した。
ガザラの戦い(1942年6月)を制したDAKはキレナイカもトブルクも奪還した。
イギリス軍はエジプトへ撤退し、エル・アラメインに陣を敷いた。
この戦功により、ロンメルは元帥に昇進することになった。
開戦前のロンメルの階級は少将に過ぎず、僅か3年で元帥に昇進したことは異例中の異例であった。
ロンメルとしては元帥杖よりも増援と補給が欲しかったのだが、彼の願いはすぐに叶うことになった。
プロイェシュティ油田がソ連軍に占領され、ドイツの石油供給が逼迫したため、蘭印から石油輸入のためにスエズ運河を奪取する必要があったからである。
ロンメルが得た増援は大量の砲兵だった。
エジプト侵攻において攻防の焦点となったエルアラメインは低地が広がり、ロンメルの得意とした機動戦が不可能な地形である。
イギリス軍は狭い範囲に戦力と大量の地雷原を埋設し、強固な防衛線を築いていた。
広大な砂漠ではそのような防衛線は迂回されてしまうので役に立たないのだが、狭隘な地形のエル・アラメインだけは例外だった。
そこでロンメルはエルアラメインの戦いは機動戦ではなく、火力戦になると想定して本国に砲兵の増援を要求し続けていた。
機動力が使えないのなら、戦闘を決するのは火力あるのみだった。
ロンメルが要求した火砲は75mm以上の野砲・榴弾砲合計2,000門という途方もないものであった。
しかも砲兵と砲弾を輸送するためのトラックを確保するために、イタリア軍をエル・アラメインから撤退させるという条件付きだった。
これにはムッソリーニが難色を示した。
なぜならエジプト侵攻の手柄をドイツに独占されてしまうからだ。
イタリアでは、ムッソリーニの人気は下落傾向だった。
ヒトラーはムッソリーニを説得し、イタリア空軍へドイツ製戦闘機や爆撃機、高射砲を供給するという援助と引き換えにイタリア軍のエルアラメイン撤退を認めさせた。
ムッソリーニもプロイェシュティ油田の陥落で国家経済の干死が迫っている状況では自分の支持率を気にしてる場合ではないことぐらいはわかっていた。
火砲に関しても北フランス防衛やノルウェー沿岸防衛のための”大西洋の壁”に充当する予定分を振り向けてかき集めた。
イギリス軍はインド洋で日本軍相手に連戦連敗しており、当分、北フランスに上陸する余力はないという判断である。
さらに航空支援も一時的に本土防空部隊を引き抜く形で拡充された。
戦力を拡充したドイツ第2航空艦隊はDAKにとって喉に刺さった魚の骨であるマルタ島の封鎖を徹底した。
イギリス海軍はマルタ島への補給を試みて、ジブラルタルとアレキサンドリアから艦隊を出撃させたが、艦隊航空戦力をマダガスカル島沖海戦で消耗しており、ドイツ空軍を排除してマルタ島にたどり着くことはできなかった。
マルタ島は1942年9月7日に燃料不足で火力発電所が止まり停電となった。
停電により淡水造水装置が動かなくなり、自動的に断水となった。
これは人口に対して水源がなく、造水装置に頼っていたマルタ島にとって致命傷だった。
干死から住民を救うため、マルタ島は独伊に降伏を余儀なくされたのである。
これによってロンメルの後顧の憂いは完全に排除された。
ロンメルは攻勢開始日を1942年10月23日と定めた。
イギリス中東軍は暗号解読でDAKの攻勢が迫っていることを察知していたが、半ば諦観の念でそれを迎えるしかない状態だった。
中東軍の司令官はバーナード・モントゴメリー大将は防衛戦を得意とする将帥であったが、防衛の資材がまともに届かない状況ではできることは限られていた。
1942年5月にセイロン島が陥落して以来、インド洋航路は大西洋よりも危険な海になっていた。同年6月には仏領マダガスカル島に日本軍が進駐し、アフリカ沿岸航路が途絶した。
1942年に入るとインド洋で大規模な船団を組むのは危険になったので高速船での独航が増えていた。
下手に船団を組むと高速戦艦の突撃や空母機動部隊を空襲で一網打尽にされかねないからである。
実際に1941年7月11日に空母イーグルと護衛駆逐艦9隻によって編成された大規模な輸送船団(44隻)が希望岬を経由してスエズを目指したが、マダガスカル島からの航空攻撃で大損害を受けた。
さらに空母翔鶴、瑞鶴を中心とする機動部隊の空爆を受けて空母イーグルが沈み、最終的にスエズにたどり着けた船は9隻という悲劇的な結末に終わった。
大規模船団は潜水艦に対しては有効だが、水上艦や空爆に対しては無力ということが立証された。
1942年8月には翔鶴型空母3番艦紅鶴がインド洋に入り、空母は3隻体制となった。
空母蒼龍の復帰(1942年10月)を待って、日本軍は紅海の入り口であるソコトラ島に押し寄せ、イギリス軍の抵抗を排除してこれを占拠した。
上陸した日本軍に対して1個戦車大隊のリー・グラント中戦車が反撃に出て上陸橋頭堡まで侵攻したが、海岸に接近した特型巡洋艦「初雪」が主砲の水平射撃(14サンチ砲4門)でこれを撃退している。
包囲されても抵抗をやめずに手榴弾を投げてきたイギリス兵に対して、初雪がY砲(爆雷投射装置)で応じたことはあまりにも有名だろう。
Y砲発射を命じた初雪艦長が、
「火薬は詰まっている」
と言い放った故事は兵器の応用には無限の可能性があることを今に伝えている。
ちなみに手榴弾は1個760gに対して、対潜爆雷は1個160kgある。
ソコトラ島の占領でスエズへの道は完全に閉ざされ、日本海軍によるインド洋制圧が完了した。
モントゴメリーは地形と乏しい資材を最大限に活用した防御陣地「モンティー・ホール」をエルアラメインに作り上げ、ロンメルの攻勢を待ち構えていたが戦略的に包囲されており、最初から勝敗は明らかだった。
DAKの攻勢はそれまでにない大規模砲撃で始まり、殆どが砲撃で終わった。
反撃してきたなけなしのM4中戦車(レンドリース品)の突撃も砲兵の阻止射撃だけで完封してしまったほどだった。
制空権さえドイツ軍は確保しており、地上を動くものは全て攻撃対象となった。
モンティー・ホールの地雷原も砲撃によって耕され、鹵獲戦車を改造した地雷原処理車両によって速やかに突破された。
DAKのエルアラメイン突破は1942年10月26日だった。
エルアラメインの先に防御に適した立地はなく、アレキサンドリアの陥落は1942年11月5日。カイロ陥落は11月15日だった。
DAKがスエズ西岸に到達したのは1942年12月2日となる。
スエズ運河はイギリス軍の手によって沈船で閉塞されており、機雷も敷設されていたことからただちに使用できるわけではなかったが、それは時間と労力の問題だった。
アレキサンドリアのイギリス地中海艦隊はベイルートに脱出していたが包囲網は着実に迫っていた。
イギリス地中海艦隊が残存艦艇と輸送船をかき集めて強行脱出作戦を敢行しジブラルタルまで撤退するのは1942年12月28日だった。
日本軍もエルアラメインの勝利に乗じる形で、ペルシャやイラク沿岸に上陸して、拠点を確保していった。
それを阻止する戦力はイギリス軍には残っておらず、日本軍の上陸から程なくして各地のイギリス軍が暴徒に包囲され壊滅していった。
日本軍がやったことは軍事施設などを爆撃した程度だったが、植民地支配の象徴が木っ端微塵に吹き飛ぶ様はペルシャ人やイラク人の勇気を奮い起こすには十分だった。
日本軍がペルシャ湾の最奥にあるクェートに上陸したのは1942年11月22日のことである。
ただちに航空基地が開設され、海軍航空隊が進出した。
その後、自動車化歩兵の日本軍3個師団がバスラ、バクダッド、ダマスカスなどの主要都市に進駐していった。
なお、イラク領内では戦闘らしい戦闘は殆どなく、むしろ現地の外国人が無政府状態に陥った都市部で孤立し、虐待や暴行を受けていて保護を求められた。
女性への性的暴行が非常に多く、中には性奴隷に貶されている場合もあった。
殆どの日本人にとって女性を戦利品か何かのように扱い、性奴隷として売買するなど全く理解不能の事態であった。
ユダヤ人への憎悪犯罪についても同様である。
日本軍中東派遣軍司令官の安達二十三中将はイラクやペルシャの惨状を憂いて、早急な秩序回復のために憲兵隊の増派を要請している。
スエズを渡ったDAKと日本軍が握手したのはヨルダン川であった。
この時、日本軍には対岸にいるのがドイツ軍であることがなかなか伝わらず、武器を向けるなど混乱した対応になった。
DAKは鹵獲したイギリス軍の装備を使用していたので遠くから見るとイギリス軍にしか見えなかったのである。
業を煮やしたドイツ軍の指揮官が対岸から浅瀬を歩いて渡ってきて、それが有名なロンメル元帥だと気がついてようやく誤解がとけたという逸話がある。
なぜ元帥がそんなところ(最前線)にいるのかについては、ロンメルなら仕方がないという記述をパウル・カレルは「砂漠の狐」に残してる。
ヨルダン川で日独が握手したことで、ユーラシア大陸にまたがる対ソ包囲網が完成した。
あるいは日本列島の東京から中国沿岸、南支那海、シンガポール、セイロン島、ソコトラ島からスエズを経てイタリアに至る枢軸海上交通網から真珠の首飾り戦略と呼ぶ場合もある。
ソ連を包囲する真珠の首飾りの完成を以て、日本軍はインド洋にて攻勢から守勢へと転換していくことになる。
日本にとってインド洋航路が破壊するものから、守るべきものへと変わったのだった。
パレスチナで行われた日独軍の交歓には二式艦爆で駆けつけたルーデルも参加している。
ロンメルはアジアで活躍しているドイツ人パイロットの英雄をよく知っており、ルーデルと固い握手を交わしてその戦績を激賞した。
日独連絡線が開設されたことで、日本や中国にとどまっていた日独合同義勇軍「鷹の爪軍団」の生き残りはドイツへ帰国することになった。
ルーデルもドイツのために戦うことを望み、日本の好意でプレゼントされた二式艦爆で1943年2月25日にベルリンのテンペルホーフ空港に着陸した。
ベルリンの総統官邸に招かれたルーデルはアジアでの戦績を表彰され、ヘルマン・ゲーリング国家元帥から柏葉騎士鉄十字章を受勲している。
これでルーデルのアジアでの戦いは終わったが、共に戦った日本海軍に彼が残した足跡は大きなものがあった。
彼が開発に参与した二式艦爆の思想は、流星艦上攻撃機に引き継がれた。
流星艦上攻撃機は1972年まで改修を繰り返して現役にとどまるなど、その完成度の高さは彼の助言によるところが大きいと言えるだろう。
時代の流れの中でルーデルの足跡の多くは忘れ去られていったが、21世紀現在でも日本海軍にはルーデル式健康法が息づいている。
ルーデル式健康法とは、ルーデルが空母の艦内生活で考案した健康法で、艦内の簡易サウナで身体を十分に温めた後に空母の飛行甲板から海面に飛び落りて風圧と海水によって急速冷却を行うというものである。
ちなみに空母の飛行甲板から海面までおよそ11mある。
ルーデル式健康法は身体の健康を保つだけではなく、急降下爆撃に必要な胆力を養う効果があり、艦上爆撃機パイロットを中心に広まり、戦闘機パイロットも参加していった。
海面に飛び込む前に冷えた牛乳を一気飲みするルーデル式健康法第2も存在する。
ただし第2は胃腸が弱いものには下痢のリスクがあるため実践にはよくよく注意が必要である。
話を1943年に戻すと、スエズ運河の掃海が終了したのが1943年3月だった。
最初の遣独輸送船団がスエズを通過したのが1943年3月25日である。
船団の運行計画は最高機密とされ、秘匿名称としてインド洋に発生する熱帯性低気圧になぞらえて”サイクロン”と呼称された。
サイクロン船団(S船団)は、日本に向かう東行(SE)とドイツへ向かう西行(SW)があった。
日本に向かうSE船団ではドイツ製の工作機械や機械部品、各種兵器サンプルやスェーデンの高品質鉄鉱石、北アフリカの岩塩(工業塩)が運ばれた。
ドイツへ向かうSW船団には、蘭印の原油や天然ゴム、錫、銅といった工業原料や中国産のタングステンが積み込まれていた。食料品も多数送られた。
もちろん、コーヒーもである。
特に重要なのは原油の輸送で、日本はアメリカからT2タンカー(基準排水量21,000t)を多数購入してS船団に使用した。
イギリスもアメリカから買ったT2タンカーを大西洋で使用していたので、しばしば友軍誤射の原因となった。
ドイツ軍はプロイェシュティ油田の奪還には失敗し、プロイェシュティを半包囲した状態で、1942年の冬を迎えたので蘭印の原油輸送はドイツにとっての命綱だった。
ちなみに日本は石油消費の95%をアメリカからの輸入によって賄っており、蘭印の原油を全量ドイツに輸送しても戦争遂行に問題はなかった。
さらに日欧間の海上交通が開通したことで、欧亜の枢軸国首脳会議の開催が可能となった。
1943年5月13日に、枢軸国の首脳が一同に会したカイロ会談が開催された。
ドイツからはアドルフ・ヒトラー総統、イタリアからはベニート・ムッソリーニ統領、日本から永田鉄山首相、中国からは蒋介石総統が出席して今後の戦争戦略について話し合いが行われた。
ちなみに議長を務めたのはイタリアのムッソリーニだった。
ヒトラーは会議の主導権を握ろうとして演説を始めてしまい永田を呆れさせ、蒋介石は途中退席しようとするなど、会議の出だしは散々だった。
会談が辛うじてまとまったのはムッソリーニの卓越した語学力と調整能力のおかげだった。
ムッソリーニは国力の限界から外交に活路を見出しており、ハンガリーやルーマニア、ユーゴスラビア、ギリシャやブルガリアといった南欧、東欧の中小国との合従連衡を進めており、外交で戦後の発言権を確保しようとしていた。
これらの国々は圧倒的な軍事力をもつドイツに対して物言うことは不可能だったが、イタリアが間に入ればドイツに対しても一定の影響力を行使することができた。
ムッソリーニは日独や中小の枢軸国の間を取り持つことで、枢軸国の中でイタリアの地位を高めようとしており、それは成功を収めたといってもいいだろう。
カイロ会談の結果は、カイロ宣言として発表された。
宣言の骨子は、ソ連を悪の侵略国として認定し、日独伊によって懲罰を与えるというものだった。
ソ連が不当に占拠している中国領土(特に満州社会主義共和国)は中国の固有の領土であると認定し、即時返還させるものとした。
また、日独伊は現在の占領地に対して如何なる領土的な野心ももたず、戦争終了後の適当な時期に民族自決の原則によって解決することが確認された。
さらに重要なのはイギリスに対して和平交渉の機会を与えるという一文だろう。
イギリスさえ戦争から下りてくれれば、枢軸国は全力を対ソ戦に傾けることができるようになる。
ヒトラーもイギリス本土への上陸がもはや不可能であるという現実認識があり、イギリスとの和平には前向きだった。
そのためにはある程度の譲歩も止む得ないと考えていたほどだった。
もともと、ヒトラーにはイギリスとは協調関係を保ち、ソ連に集中するという戦前の構想があり、イギリスとの和平には意欲的だった。
しかし、イギリスからの回答は否であり、チャーチルはファシズム国家の打倒まで戦い続けると宣言した。
日本は議会制民主主義国家だったのだが、チャーチルによればファシズム支援国家にはまやかしの民主主義しか存在しないことになる。
それならソ連を支援しているイギリスにもまやかしの民主主義しかないことになるのだが、チャーチルの心には幾つもの棚があるので、何の問題も生じないらしかった。
チャーチルの二枚舌を打ち砕くには、その源泉となっている海軍力を破壊するしかなかった。
それが可能なのは日本海軍しかないため、連合艦隊は地中海、そしてその先まで遠征することが決定された。
ドイツ海軍はイギリス海軍のUボート対策の充実により劣勢に立たされており、とてもイギリス海軍を打倒する能力はなかった。
イギリス海軍どころか、ソ連海軍のバルチック艦隊に敗退してバルト海の制海権を失っており、ビスマルクとティルピッツはドイツ本土の母港に逼塞している有様だった。
なお、欧州遠征にあたっては日独伊の緊密な協力が不可欠であるという判断から、枢軸国最高司令部の設置が決定された。
最高司令部の設置には軍権を独占したいヒトラーが激怒しかけたが、それなら蘭印原油は送れないと日本から言われたらどうしようもないので、怒りの発作を抑えるしかなかった。
日独伊の軍人のみならず政治、外交の調整のために多数の文民が加わった枢軸国最高司令部はムッソリーニの提案によりローマにおかれることになった。
ベルリンにおいたらヒトラーの介入でどうなるか分かったものではなかった。
ムッソリーニがそれをしないという保証はなかったが、ヒトラーよりはマシだと考えられたので永田や蒋介石も同意した。
もともと高級将校であった永田や蒋介石は、ヒトラーの素人くさい軍事戦略を聞かされることにうんざりしており、政治家としてはムッソリーニの方にシンパシーを感じ、軍人としてはドイツ軍の高級将校達の方が頼りになると考えていた。
ヒトラーの魔力が通じるのはドイツ国内だけで、外に出たら彼はドイツ国の指導者でしかなかったのである。
孤立したヒトラーは最高司令部の設置に同意したが、その司令長官だけはドイツから出すことを絶対条件に据えた。
これはムッソリーニも永田もドイツの軍事負担の大きさからして妥当であると考えたが、それに相応しい人物となると一人しかいなかった。
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥が枢軸国最高司令部司令長官としてローマに赴任したのは1943年6月3日だった。




