私をインドに連れてって
私をインドに連れてって
1941年11月26日、日本海軍連合艦隊は堀悌吉GF長官直卒の下、リンガ泊地を出撃した。
連合艦隊はインド洋で55隻の上陸船団と合流し、進路を西に定めた。
目標はセイロン島の攻略。
インド亜大陸の先端に浮かぶイギリス・インド洋戦略の要を攻略し、インド洋の制海権を確保することが目的だった。
連合艦隊は数の多くの新鋭艦を艦列に加えて、その戦力は飛躍的に強化されていた。
新鋭艦の目玉といえば、新戦艦の金剛と比叡だった。
新開発の16インチ連装砲3基を前後にバランスよく配置したスマートなスタイルは日本海軍の新しい時代の始まりを感じさせるには十分だった。
さらに大型正規空母の翔鶴と瑞鶴も艦隊に加わっていた。
軍縮条約に捕らわれる必要がなくなった翔鶴型空母は基準排水量27,000tの船体に艦載機約100機を搭載可能だった。
日本海軍航空隊の関係者が理想としてきたアメリカ海軍のレキシントン級空母に漸く肩を並べた翔鶴型2隻の参戦がなければ、セイロン島攻略は不可能だった。
巡洋艦戦力も充実しており、青葉型巡洋艦4隻と最上型航空巡洋艦4隻の合計8隻が投入された。
最上型航空巡洋艦は金剛型とペアを組んで通商破壊/防衛を行う航空偵察力の高い巡洋艦だった。最上型は各8機(合計32機:軽空母1隻分)の水上機を搭載し、本作戦でも空母部隊の補完戦力としてその偵察力を期待されていた。
さらに大型艦に侍る小型艦も真新しいペンキの色をしていた。
小型艦は2種類あり、一つは改特型巡洋艦群だった。
改特型巡洋艦(朝潮型)は2,700tの船体に新開発の14サンチ単装砲4門、61サンチ酸素魚雷4連装2基、ボフォース40mm機銃や25mm単装機銃、対潜収束迫撃砲、対潜爆雷をバランスよく搭載していた。
速力も海面状態がよければ40ktという高速艦(通常は37kt)であった。
建造当初には存在しなかった対空電探(21号など)も1941年末になると搭載するようになっていた。
もう一つは陽炎型駆逐艦(甲型)だった。
陽炎型は改特型巡洋艦の半分程度の排水量(1,500t)の船体に12サンチ高角砲4門や各種水雷兵装、対潜兵装を載せるなど、バランスは取れていたが排水量相応の船だった。
日本海軍においては駆逐艦とは戦術的に酷使される消耗品だった。
故に陽炎型は144隻もの大量建造が行われた。
より簡易で性能を限定した乙型駆逐艦(松型)に至っては205隻が建造された。
さらなる簡易生産型で対潜作戦用の丙型(168隻)は艦名が足りなくなり、番号名で呼ばれることになった。
甲型以上の機関は国産品であったが、乙型の半数は数量整備のためにアメリカから輸入したギアード・タービン機関やディーゼル機関、タービン・エレクトリック機関などを搭載して完成した。
さらに小型の丙型(1,000t)に至っては9割がアメリカに遠洋捕鯨船として発注され、納品された後に日本で武装を搭載して完成した。
これは余談だが、丙型は捕鯨船ということもあり、大型冷蔵庫が設置されていた。そのために航海中も長期間にわたり生鮮食品を食べることができたため前線の兵士からは好評だった。
アメリカのGE社製の冷蔵庫は非常に高性能で、国産品で同程度の性能を持つものが現れるのは1950年代後半まで待たなければならないほどだった。
そのため戦後に丙型を解体する際には艦内冷蔵庫は丁寧に回収され、民間に広く払い下げられた。農協や漁港の冷蔵庫の多くがGE社製なのはこのためである。
戦後に程度のいい丙型は捕鯨船に戻され、食料不足解消のために多くの船が南氷洋や北氷洋で鯨漁に参加している。
予備役に戻された艦長とその乗員が、銀行から金を借りて船と漁具の払い下げを受けて漁船として活動した例もあった。
話を1941年11月に戻すと金剛や翔鶴のような新鋭艦の他にマレー沖海戦の損傷から復旧した戦艦長門や陸奥、中型空母の蒼龍、飛龍も併せて出撃していた。
戦艦4隻、空母4隻、重巡8隻の堂々たる主力艦隊であった。
主力の進発に先んじて多数の遊撃部隊もインド洋に展開し、既に多くの戦果をあげていた。
日本海軍のインド洋での通商破壊戦は、シンガポール陥落(1941年3月)以前から始まっており、開戦前に先行配置していた伊号潜水艦12隻が活動中だった。
インド洋戦隊と呼ばれることになる伊号潜水艦のグループは商船改造の特設潜水母艦から補給を受けながら数ヶ月に渡って、無防備なインド洋を荒らし回った。
1940年12月から1941年3月までの間に、インド洋で撃沈されたイギリス商船は150万tに及んだ。
日本海軍は第一次世界大戦の戦訓から、対英戦争戦略として通商破壊戦を研究してきたこともあって、その手際はドイツ海軍よりも一枚上手だった。
2,000t級の伊号潜水艦はドイツ海軍の羨望の的であり、高い攻撃力と長大な航続距離、すぐれた静粛性を高いバランスで一致させていた。
潜水艦部隊とは別にインド洋では積極的に水上艦による通商破壊戦が展開された。
その中心となったのが戦艦伊勢と日向だった。
扶桑型に準じた近代化改装を施された伊勢と日向は最高速力30ktの高速戦艦に生まれ変わっており、遊撃戦には最適の船になっていた。
1941年6月から10月までの4ヶ月間に渡って伊勢と日向はインド洋や南大西洋を遊撃し、延べ26万tの商船を撃沈した。
潜水艦部隊ほどの戦果が上がらなかったのは、セイロン島に後退したイギリス東洋艦隊が輸送船団に戦艦(クイーンエリザベス、ウォースパイト、ヴァリアント)の護衛をつけていたためである。
しかし、伊勢と日向を捕捉撃滅するためにイギリス海軍が多数の巡洋艦や駆逐艦を動員したことは、潜水艦による襲撃を間接的に補助する効果があった。
戦艦の護衛がつけられないオーストラリア方面は戦艦扶桑、山城の天下で、いくつかの輸送船団が戦艦の突入を受けて全滅するという悲劇に見舞われた。
扶桑型や伊勢型の12インチ砲は格下を始末するには最適の主砲で、狙われた船団護衛の駆逐艦やコルベットは逃げ惑うしかなかった。
護衛駆逐艦やコルベットは20kt程度しかでないので、高速戦艦に襲われたら逃げることも突撃して華々しく散ることも叶わなかった。
オーストラリアはイギリスにとって重要な兵員供給国であったが、1941年10月には海上交通の安全が確保されるまでという条件付きで、追加の兵員供給を拒否した。
北アフリカでロンメルのドイツ・アフリカ軍団と向き合うイギリス軍にとって、オーストラリア軍の増派拒否は大きな痛手であったと言える。
さらに1941年11月には準備を整えた連合艦隊による全面攻勢が始まった。
イギリス海軍はリンガ泊地に日本海軍の主力が集結しているという情報を掴んでおり、迎撃戦のために東洋艦隊の主力を集結させていた。
イギリス東洋艦隊には、新鋭戦艦のプリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを加え、追加の空母として新鋭艦のインドミタブルが配備された。
イラストリアスとハーミスに加えて、インドミタブルの参加によってイギリス東洋艦隊の航空戦力は100機あまりとなり、本国艦隊を凌ぐ戦力を確保したことになる。
ただし、クイーンエリザベス級の3隻は船団護衛に使うため、艦隊司令のカニンガム中将の手元には残らなかった。
遊撃戦艦の伊勢と日向はセイロン島上陸作戦を側面援護するため、アフリカ沿岸や紅海に進出して挑発を繰り返しており、船団護衛から戦艦を引き上げた場合、輸送船団に絶望が生まれる可能性があった。
高速戦艦を使ってイギリス海軍に戦力分散を強いて、その間に決戦を挑むというのはドイツ海軍が考えていたZ計画艦隊の基本構想であった。
Z艦隊が完成する遥か以前に戦争が始まってしまったのでその構想は水泡に帰したが、日本海軍がそれを実現したとも言える。
攻めてくる日本艦隊に対してやや劣勢の艦隊を率いることになったカニンガム提督は秘密基地のアッズ環礁に艦隊を秘匿し、セイロン島を囮にして背後から奇襲する作戦を立てていた。
誘いの餌となるセイロン島には可能な限り多数の航空戦力を集めた。
旧型のハリケーン100機に加えてフルマー複座戦闘機42機と新型のスピットファイアMk.Vも50機が用意された。
本来ならスピットファイアは200機ほど用意できるはずだったが、半数が輸送中に船ごと沈められ、残りの半分はビルマ方面に投入された。
日本陸軍はセイロン島攻略を側面支援するためにビルマ方面で攻勢に出ており、1941年10月には陸軍航空隊がカルカッタを強襲爆撃するなど、インド本土の航空戦力をビルマ方面に引きつけていた。
日本海軍の母艦航空戦力は蒼龍・飛龍が各80機、瑞鶴・翔鶴が各100機の合計360機であった。
そのうち制空権確保のために半数(190機)が戦闘機とされた。
これは南方作戦の際に、制空権確保が大きく侵攻作戦に寄与したという客観的な事実に基づく編成変更であった。
引き続き陣頭指揮をとる連合艦隊司令長官の堀悌吉大将は、戦艦金剛に指揮官旗を掲げて1941年12月3日にセイロン島沖にその姿を現した。
戦闘はイギリス空軍の飛行艇による日本艦隊発見で始まった。
偵察に成功した飛行艇はレーダーによる誘導を受けた零戦隊に撃墜されたが艦隊の位置情報を知らせる時間はあった。
連合艦隊は巨大な上陸船団を伴っており、奇襲は不可能だと考えていたから発見されたことに動揺はなく、整然とコロンボへの強襲爆撃を行った。
コロンボ強襲では、迎撃に出たスピットファイアと零戦隊との間に激しい空中戦が起こった。
イギリス空軍の新型スピットファイアに対する期待は非常に大きなものだった。
メッサーシュミットを相手に鍛えられた彼らなら、東洋の神秘的な戦闘機も撃退できると考えていたのである。
しかし、戦いは零戦隊の圧勝に終わった。
なぜなら零戦が最も得意とする低速での格闘戦にスピットファイアが積極的に乗ってしまい速力の優位を殆ど活かすことができなかったからである。
欧州戦線ではスピットファイアはドイツ軍機に対して水平面での旋回戦で一般的には優位だった。
マレー半島やビルマの戦いでは、日本軍機が格闘戦に優れていることは既に判明していたが、撃墜されたのはハリケーンのような鈍重な重戦闘機であった。
新型のスピットファイアなら違うと考えたゆえの悲劇だった言えるだろう。
また、高温多湿の環境はスピットファイアにとって過酷で、粘性の高い空気によって速力低下が著しく、気温の低い高空に上がるとオイルが凍結するという不具合が発生した。
イギリス本土周辺のような高緯度地域で戦うならスピットファイアはベストな戦闘機だっただろうが、赤道付近ではそうではなかった。
ちなみに日本は夏の気温が30度を超える上に、モンスーンによって海から大量の湿気が運ばれてくるため高温多湿な環境である。
零戦はその空で生まれた戦闘機であり、赤道直下の過酷な環境にもよく耐えていた。
スピットファイアよりも鈍重なハリケーンやフルマーでは零戦には全く相手にならず、またしても零戦隊は神話的な強さを見せつけることになった。
ただし、日本艦隊はややセイロン島への攻撃にハマりすぎており、忍び寄る東洋艦隊への警戒がおろそかになっていた。
そのため、戦艦金剛の対空レーダーが接近する東洋艦隊の放った奇襲攻撃部隊を捉えたとき、軽いパニックが発生した。
日本艦隊の各空母は対地攻撃用の兵装を満載した攻撃隊を甲板に乗せており、マッチ一本で引火誘爆する危機的な状況だった。
カニンガム中将の思惑通りの展開と言えるだろう。
幸いなことにレーダーによる早期警戒が実施されていたことから、東洋艦隊の空襲は致命傷にはならなかった。
なお、日本海軍のレーダー実戦使用はセイロン島侵攻作戦が初めてだった。
日本軍のレーダー研究は陸海軍が別々に行うというやや非効率的な形態となっていた。
先行していたのは陸軍で、海軍がレーダーに注目したのはイギリス軍がバトル・オブ・ブリテン(1940年7~8月)にてレーダーを使用して効果的な迎撃戦を行ったという情報が入ってからのことである。
日本海軍のレーダー開発はイギリス海軍に比べて大きく出遅れていたと言えるだろう。
開戦(1940年12月)時点では、日本製の艦載レーダーは試作段階であり、レーダーを装備した水上艦は存在しなかった。
それでも1941年11月までに実戦投入に耐えるレーダーを配備できたのは、アメリカから高性能な真空管やマグネトロンなどの部品や基礎技術を買うことができていたからだった。
完成品の購入も行っており、日本海軍航空隊は早期警戒用にアメリカ製のSCR-270やSCR-268などを使用していた。
舶来品に抵抗がない海軍に対して陸軍は完全国産化を目指して独自の道を歩んだが、部品についてはアメリカ製に頼る部分が多かった。
ちなみにイギリス軍もレーダーの部品はアメリカに発注しており、日英の両軍が鹵獲した相手のレーダーを分解すると中から全く同じアメリカ製の真空管が出てきて驚嘆したというエピソードがある。
話が逸れたが日本艦隊を奇襲したイギリス海軍機は、レーダーによる早期警戒と迎撃誘導をうけた零戦隊により目立った戦果もなく撃退された。
イギリス軍の戦闘機は旧式のシーハリケーンやフルマーで、スピットファイアでも苦戦する零戦を相手にできることは多くなかった。
そもそも攻撃隊の数が40機足らずで、雷撃機が複葉機のソードフィッシュではどうにもならなかった。
タラント空襲でイタリア海軍の戦艦3隻を撃破したソードフィッシュだったが、真昼に防空戦闘機と強力な対空砲火に守られた艦隊を強襲するのは無謀だった。
艦載機の開発に失敗したことがイギリス海軍の悲劇だったと言える。
イギリス東洋艦隊の奇襲を退けると堀GF長官は索敵機の数を増やして東洋艦隊を捜索し、反撃に転じた。
しかし、イギリス東洋艦隊は奇襲に失敗したと見るとすぐさま反転して逃亡に移っており、偵察機が発見した艦隊の大半は空襲圏から離脱した後だった。
堀提督は追撃を諦めて、セイロン島攻撃に専念する考えだった。
連合艦隊の目標は、セイロン島の攻略であって敵艦隊の撃滅ではなかった。
しかし、飛龍・蒼龍を擁する第2航空戦隊の山口多聞少将からの再三に渡る意見具申に折れる形で一度だけ空襲を許可した。
山口提督の率いる空母飛龍には新型の試製二式艦上爆撃機が搭載されており、その長大な航続距離を用いれば退避中の東洋艦隊を爆撃することは十分に可能だった。
ただし、試作品だけあって数が少なく、セイロン島侵攻作戦に間に合ったのは僅か5機だけだった。
日本海軍の航空技術廠が開発した二式艦爆は、その試験に同盟国ドイツからやってきた義勇軍の生き残りが関わっていた。
最近、ソ連の巨大戦艦を撃沈したハンス・ウルリッヒ・ルーデルもその一人だった。
もちろん、ルーデルは急降下爆撃ができるのなら船に乗ってインド洋まで乗り出すことを厭うものではなく、自分の意見が反映された試作機に乗り込んで、意気揚々としていた。
二式艦上爆撃機は航空技術開発のための技術試験機で、最新鋭の機構を多数導入して、高性能を確保していた。
比較試験のために5機の二式艦爆も全て別形式になっており、ルーデルの乗機は艦爆でありながら単座機になっていた。
ルーデルは二式艦爆の防弾装備が軽視されている点を指摘し、多少の飛行性能低下は止む得ないものとして防弾の徹底強化するべきだとした。
さらに肝心の爆弾搭載量が少なすぎるので、最低でも1tまで各種爆弾を搭載できるようにするように訴えた。
他のドイツ人パイロットの主張も同様で、日本軍の爆撃機は爆弾搭載量が少なすぎるという不満があった。
二式艦爆は少数生産の実験機だったので、ルーデル達の意見を吸い上げて、試験用機体に反映させることはそれほど難しいことはではなかった。
ルーデルの二式艦爆(以降はRS型)は爆弾倉を大型化して1.2t爆弾を搭載可能とし、主翼の爆弾架を強化して250kg爆弾を左右に各1発ずつ搭載できるようにしてあった。
1.2t爆弾を抱いて急降下爆撃ができるように、15mmの防弾板は機体フレームに固定されて構造材の一部として使えるようにされた。
さらに戦闘機並の運動性があるのだから、本当に戦闘機と戦える武装を施すべきというルーデルの主張により、20mm機関砲が搭載された。
二式艦爆のエンジンはドイツのDB601をライセンス生産したもので、プロペラ軸内が中空になっておりホ5を搭載することは当然可能だった。
機首の7.7mm機銃もより強力な12.7mmのホ103に換装された。
ちなみに日本は国内で液冷の金星エンジンやハ40を余裕で開発、配備できるだけの技術的な基盤があり、DB601のライセンス生産は難しいものではなかった。
では、なぜ国産エンジンを二式艦爆に搭載しなかったのかといえば、二式艦爆が少数生産の試験機の類であり、エンジンも技術導入を兼ねていたからだった。
エンジンそのものよりも、日本海軍が興味を持っていたのはボッシュ社の燃料噴射ポンプで、どちらかといえばエンジンはオマケに近いものだった。
改造によってRS型の重量は増大したが、エンジンをライセンス生産する愛知航空機の手によりブースト圧を上げる改良が施されたアツタ21型は1,450馬力まで発揮可能だった。
RS型を見た空技廠のエンジニアが、
「こんなの艦上爆撃機じゃないわ!ただの戦闘爆撃機よ!!」
と叫んだかどうかは定かではないが、たしかに戦闘爆撃機であった。
なお、最大爆装時に空母からの滑走発艦は不可能で、カタパルト発進専用とされた。
飛龍から飛び立った攻撃隊は護衛の零戦12機と二式艦爆5機の合計17機だった。
僅か17機で戦艦2隻、空母3隻の東洋艦隊を攻撃するのは一見無謀に思えるが、実際に無謀だった。
攻撃隊は挺身攻撃(自殺攻撃)と考えられており、特に二式艦爆5機は全機未帰還になると予想された。
そのため、航空戦隊司令の山口少将は惜別のために飛行甲板に降りてルーデルと握手を交わす写真を従軍記者が撮影している。
山口少将はルーデルの率直な態度と敢闘精神を階級や人種を越えて深く尊敬しており、露助の巨大戦艦を葬った英雄にせめてもの別れを告げたかったのか、非常に厳粛な表情を写真におさめている。
ルーデルの表情も似たようなものだったが、実際に彼が考えていたのはどうやったらイギリスの空母に爆弾を命中させられるかということであり、自殺攻撃だとかそういった意識は特になかった。
イギリス東洋艦隊を求めて出撃した飛龍攻撃隊が接敵したのは1941年12月6日の午後1時13分だった。
ルーデルにとっては残念なこと(他のパイロットにとっては幸いなこと)にイラストリアスなどの高速艦は逃げた後で、低速のハーミスが護衛の駆逐艦3隻に守られてノロノロと逃げているところだった。
なお、ハーミスの艦載機は全てソードフィッシュになっており、上空援護にはイラストリアスから発進したフルマー複座戦闘機が10機が在空している程度であった。
ほぼ同数の零戦隊にフルマーは一瞬で駆逐され、安全になった空を艦爆隊が堂々と侵攻し、急降下爆撃でハーミスに過剰なまでの打撃力を叩きつけた。
この時の急降下爆撃の命中率は89%という驚異的なものだった。
もちろんルーデルは1.2t爆弾をハーミスの飛行甲板の真ん中に命中させている。
過剰な爆撃を受けたハーミスは火山のように火を噴いてインド洋に沈んでいった。
こうしてルーデルの伝説に新しい1ページが付け加えられたのである。
その後の戦闘は空母4隻による制空権獲得と艦砲射撃の支援を受けた陸軍3個師団の上陸により決せられた。
セイロン島のイギリス軍降伏は、1942年2月12日のこととなる。
イギリス軍降伏以前から日本海軍航空隊は地上攻撃支援と通商破壊戦のためセイロン島の飛行場へと進出していった。
インド洋の通商破壊戦において重要な航空機材は2つあった。
一つは一式陸上攻撃機だった。
双発で運動性の高い一式陸攻は、800kg航空魚雷1本を抱いて輸送船狩りに出動した。
魚雷を装備せず、800lの大型増槽を搭載すれば一式陸攻は6,000kmも偵察飛行することができた。
偵察飛行時の一式陸攻はアラビア海やベンガル湾のほぼ全域を偵察圏内に収めることができたので、発見されたイギリス海軍の輸送船団は夜になると必ず潜水艦の襲撃を受けることになった。
潜水艦ならまだマシで、高速戦艦や空母機動部隊が襲ってくる場合があった。
当然のことながら、イギリス空軍による陸攻基地への爆撃は熾烈を極めた。
防空戦闘で威力を発揮したのが二式局地戦闘機で、命名規則変更後は雷電である。
局地戦闘機とは、日本海軍の独特の用語で陸上運用する機体は全て局地戦闘機扱いとなる。
中ソ事変での戦訓から、基地防空のために上昇力と火力発揮を第一に設計された雷電はイギリス空軍のスピットファイアに近い機体と言える。
両者は爆撃機迎撃のために上昇力と火力に重きをおいており、格闘戦は必ずしも得意(それでも普通にこなしたが)ではなかった。航続距離が1,000km程度というのも共通している。
雷電を開発したのは零戦に引き続き三菱航空機である。
爆撃機用の火星エンジン(液冷V型12気筒:1,800馬力)に日本軍の戦闘機としては初めて排気タービンを装備していた。
排気タービンは高高度での出力低下を軽減し、機械式過給器のようにエンジンパワーを割く必要がないため馬力向上に有利だった。
ただし、爆撃用に開発された火星エンジンはモーターカノンを装備できず、雷電は翼内機関砲(20mm4門)装備となった。
高度8,000mで時速660kmという快速を発揮した雷電は、陸攻基地防空に最適の機材であり、次々にイギリス軍爆撃機を葬っていった。
海軍航空隊の空爆により、ベンガル湾方面の海上交通線は完全に途絶した。
ビルマ方面も海軍の支援を受けた日本陸軍が海岸沿いに進み、北からはファルケンファイン少将に指揮された独式装備の中国軍6個師団が南下してイギリス軍を挟み撃ちにした。
乾季のビルマやインド北部の戦場は視界がひらけており、機械化部隊の侵攻作戦にはもってこいの地形といえた。
ソ連軍のT-34に苦戦した一式中戦車は、イギリス軍の鈍重なマチルダ戦車相手には有利で、補給途絶で制空権を喪失していたイギリス軍に日本軍の侵攻を押し止めることは不可能だった。
沿岸伝いに侵攻する日本軍がカルカッタに入城したのは1942年5月となる。
カルカッタは大英帝国によるインド支配の中心であり、その失陥はイギリスによるインド支配の終わりを人々に知らしめることになった。
同月末には、Uボートでドイツから来日したチャンドラ・ボースがカルカッタに入り、自由インド仮政府の樹立を宣言している。
永田鉄山首相は、当初チャンドラ・ボースをナチスよりの人物と考えて忌避し、日本で以前からインド独立運動を継続していたビハーリ・ボースを仮政府の中心に据えたいと考えていた。
しかし、ビハーリ・ボースの体調が思わしくなく交代を訴えていたことから、チャンドラ・ボースと止む得なく面会することになり、会談でその人柄に感銘を打たれて全面的な支援を約束した。
ただし、カルカッタより先への陸上侵攻は不可であった。
如何なる計算を以てしても日本軍の補給体制ではインド全域を占領するなど不可能であり、カルカッタ周辺を占領したあとは防衛体制に入る計画だった。
カルカッタを落としたのはインド全土の民衆運動を喚起するためで、イギリスのインド支配を混乱させて、インドを利用できない状態にすることが日本軍の目的だったのである。
また、シンガポールやビルマ作戦で大量に獲得したインド人捕虜をチャンドラ・ボースが引き取ってくれるなら、それに越したことはなかった。
捕虜を食べさせるために多額の経費がかかる上に、親切心でカレーを給食すると「こんなものはカレーではない」などと文句をいうので、インド人捕虜の取り扱いに日本軍は頭を悩ませていたのである。
最終的にチャンドラ・ボースの自由インド仮政府及びインド国民軍に加わったインド人兵士は6万人にのぼった。
インド独立の父であるマハトマ・ガンジーは日本軍の手を借りた独立には反対だったが、カルカッタ陥落以後は、それまでのイギリスに対する戦争協力姿勢を打ち切って、非暴力主義の抵抗運動を復活させた。
インド各地では怠業や命令不服従による社会混乱が頻発し、港湾や鉄道駅では労働者が荷役作業を拒否したため、出荷されない製品が野ざらしに積み上げられた。
その中にはイギリスの戦争遂行に必要な軍需物資も多く、特に北アフリカの戦場に送られるはずだった武器弾薬紅茶が多数含まれていた。
港湾作業の停止は通商活動の停止を意味しており、1942年半ばからインド洋のイギリスの海上通商は危機的な状況となった。
イギリス軍はインド航路の灯火を守るため、1942年5月5日に仏領マダガスカルへと上陸した。
アフリカ大陸東岸に位置するマダガスカル島は、フランスの植民地でヴィシー・フランスの管理下にあった。
アフリカ大陸沿岸航路を制圧するにはもってこいの立地であり、イギリス政府はマダガスカルのフランス植民地政府に自由フランスへの参加を促していた。
しかし、交渉結果は芳しくなかった。
フランスはメルセルケビール海戦(1940年7月)で、戦艦ブルターニュをイギリス海軍の攻撃で失っており、イギリス政府に不信感をもっていた。
イギリス軍としては、休戦後のフランス海軍が枢軸に加わらないための予防措置であったが、インド洋に日本軍が侵攻してきた現在では、不味い判断だった。
日本政府はマダガスカルの植民地政府への働きかけを強めており、条件付きの基地借用を申し出ていた。
植民地政府の反応は良好で、セイロン島制圧の後に進駐することが決まった。
イギリスは日仏交渉の内容を諜報活動で掴んでおり、交渉による解決を諦めてマダガスカルへの武力侵攻を決意した。
日本の連合艦隊はセイロン島攻略で消耗しつくしており、イギリス海軍にとっては反撃の好機だった。
大型空母の翔鶴と瑞鶴は艦載機が払底し、再編成と航空機輸送のために後方へ下がり、蒼龍はブレニム軽爆撃機の攻撃により中破して本土へ回航された。
残りの空母は飛龍1隻しかいなかった。
主力である戦艦も長門と陸奥は艦砲射撃で砲身命数を使い切り、整備と休養のためにリンガ泊地へ戻っていた。
伊勢と日向は遊撃戦の最中で、他の巡洋艦群も出払っており、すぐに動かせる戦艦は金剛と比叡の二隻のみだった。
長門と陸奥の代わりにインド洋へ進出した大型巡洋艦の高千穂と穂高を加えても、戦艦2,大巡2,空母1にしかならない。
対するイギリス海軍は、戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスとラミリーズに加えて、空母イラストリアスとインドミタブル、さらにハーミスの補充としてフォーミダブルが加わっていた。巡洋艦(軽巡も含む)に至っては7隻もいた。
イラストリアス級空母3隻というのは、本国艦隊を超える航空戦力だった。
イギリス海軍はセイロン島沖海戦から多くを学んでおり、現代海戦においては制空権の確保が勝敗を決するという考えがあった。
そのため、腐った艦載機をアメリカ製に載せ替えるなど、改革を進めていた。
日本海軍も考えは同じだった。
そのため、飛龍1隻では勝利はおぼつかないとして、マダガスカル救援には慎重論が多かった。
しかし、堀GF長官は出撃を決意した。
フランス海軍は日本海軍とっての師匠筋にあたり、その窮状を見過ごすことは欧州遠征を考えた場合、大きなマイナスだったからである。
マダガスカル島沖海戦は1942年5月12日に生起した。
イギリス東洋艦隊を率いるカニンガム中将は、日本海軍は必ず救援に来るという想定の元で警戒態勢を敷いていたが、上陸部隊を援護するF部隊の想定は楽観的だった。
F部隊は上陸作戦支援のためラミリーズとイラストリアスと巡洋艦5隻を使用しており、カニンガム提督の手元には戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルス、インドミタブルとフォーミダブルしか残らなかった。
イラストリアスとインドミタブルの艦載機は合計(88機)しても、飛龍1隻分80機とさして変わらない戦力にしかならない。
イギリス海軍の建造した装甲空母は防御に優れていたが、攻撃力が低かった。
しかし、艦載機を米国製に載せ替えたことで、以前よりもマシな戦いができるようになっていた。
海戦が飛龍艦載機の先制攻撃で始まると迎撃に出たF4Fは零戦とほぼ互角の戦いとなった。
しかし、高速の二式艦爆を全て阻止することは不可能だった。
もちろん、その先頭を切って飛ぶのはルーデルである。
実はこの時、ルーデルはセイロン島の対地攻撃支援で対空砲火により負傷しており、病院船に入院していたのだが、飛龍の出撃が決まると病院船から脱走(泳いで)して飛龍にたどり着き、出撃に間に合わせたという逸話がある。
なお、ルーデルは特に書き置きなどを残さなかったので、ルーデルは失踪扱いとなって大騒ぎになった。
海戦後に病院船に戻ったルーデルを投げ飛ばしてベッドに沈めた看護婦とルーデルは結婚し、戦争終結後に日本に帰化することになった。
ルーデルの細君の実家は日本の忍び柔術の道場で、ルーデルは自らの戦争経験を基に古流柔術を独自にアレンジしたゲルマン忍術を創始することになるのだが、それはまた別の話である。
イラストリアスの飛行甲板は装甲化されていたが、耐えられるのは500kg爆弾までで、ルーデルの投下した1.2t爆弾には耐えられなかった。
爆撃で速力が低下したイラストリアスは一式艦上攻撃機の雷撃を回避できず、魚雷2本が命中した。
最終的にイラストリアスに命中した爆弾は1.2t爆弾2発と航空魚雷2本だった。
イラストリアスは爆発炎上して総員退艦命令が出された。
堀GF長官は、以後の航空戦指揮を山口少将に委ねると金剛、比叡、高千穂、穂高を率いてイギリス東洋艦隊に突進した。
これに対してイギリス艦隊の対応は混乱したものだった。
致命的だったのは、航空反撃の指示が不明瞭だったことで、突進する水上艦と空母のどちらを優先して攻撃するべきか、明確になっていなかった。
そのためインドミタブルの航空反撃は、先に発見された水上艦部隊に集中した。
集中したと言っても11機のアルバコア雷撃機にできることは少なく、上空直掩の零戦隊によって殆どは魚雷投下前に壊滅させられた。
護衛のF4Fは手強い相手だったが、雷撃機が複葉機ではどうにもならなかった。
そして、母艦のインドミタブルも悪魔のごとき練度で投下された1.2t爆弾によって爆発炎上し、母港に逃げ帰るしかない状態になった。
カニンガム中将はF部隊と合流して巻き返しを図ったが、インドミタブルが機関の破損で速力低下しており、見捨てないかぎり合流は間に合いそうになかった。
インドミタブルは貴重な正規空母のため、自沈させるわけにはいかない。
カニンガム中将が直卒するプリンス・オブ・ウェールズとレパルスと堀GF長官の金剛と比叡が接敵したのは1942年5月12日午後4時11分だった。
双方が高速戦艦であるため、距離が詰まるのは早く接敵から25分で25,000mまで接近した双方が砲撃を開始した。
先に発砲したのはプリンス・オブ・ウェールズで、16インチ砲3連装3基の合計9門の主砲が初めて敵戦艦に対して砲火を放った。
プリンス・オブ・ウェールズは、キング・ジョージ5世級戦艦の2番艦で、軍縮会議決裂を受けてイギリス海軍が建造した新世代戦艦だった。
基準排水量44,500tの船体に新開発の16インチ砲を搭載しており、29ktを発揮する高速戦艦だった。
イギリス海軍は軍縮条約前に世界最大の巡洋戦艦フッド(基準排水量41,000t)を就役させており、条約の縛りがなければ40,000tクラスの戦艦を建造し、運用する能力は十分に確保されていた。
インフラの制限から35,000tまでが限界だった日本海軍に比べるとさすがにイギリス海軍の層は厚かったといえる。
イギリス東洋艦隊はインドミタブル離脱までの時間稼ぎに徹するため、頻繁に進路を変更したため双方共に命中弾は発生しなかった。
さらに視界が低下したため、一旦、砲撃戦は中止された。
砲撃戦が再開したのは日没後で、インドミタブルの離脱を確認したカニンガム中将は正統派の同航戦を指示し、堀GF長官がそれに応じたために真正面から砲撃戦となった。
砲戦距離が短くなる夜戦は防御力に劣る金剛と比叡にとっては望むところであり、砲撃戦開始から4斉射目で金剛の16インチ砲弾がプリンス・オブ・ウェールズの舷側装甲を貫通して艦内で爆発した。
しかし、金剛の装甲もプリンス・オブ・ウェールズの16インチ砲弾に抜かれており、甲板上は火の海になっていた。
高速発揮のためにやや防御力を犠牲にしていた金剛型で10,000t以上格上のプリンス・オブ・ウェールズの相手をするには無理があった。
さらに上陸支援中だったF部隊の英巡洋艦部隊及び駆逐艦隊が増援に現れると日本艦隊は劣勢になっていった。
大型巡洋艦の高千穂と穂高、護衛の駆逐艦群が突撃粉砕射撃をおこなったが、英駆逐隊の放った魚雷が比叡に命中して、比叡は戦列から脱落した。
孤立した比叡は袋叩きに遭いプリンス・オブ・ウェールズの砲撃によって撃沈された。
数的劣勢の中で奮闘した大巡高千穂も多数の砲弾を浴びて比叡のあとを追うことになった。
もはや日本艦隊が戦機を失ったことは明らかだった。
堀GF長官は牽制のために魚雷を一斉発射させ、イギリス東洋艦隊の艦列を乱すと戦場から離脱した。
追撃はなかった。
なにしろ遊撃戦艦の伊勢と日向がマダガスカル島のクーリエ湾に突入し、停泊していた上陸船団を轢殺している最中だったからである。
イギリス軍が上陸したクーリエ湾に突入した伊勢と日向は主砲、副砲、さらに高角砲や対空機銃など全ての砲門を開き、全力射撃を行って火の海を作り出した。
視認可能な範囲にあった揚陸済の軍需物資も全て艦砲射撃で焼き払われた。
既に兵員は上陸した後だったが、重装備の類や弾薬はまだ船倉に残っていた。また、帰りの船がなくなっため、上陸した部隊が離脱することもできなくなった。
さらに慌てて引き返した戦艦ラミリーズが、待ち伏せていた伊号潜水艦の雷撃を受けて撃沈されるという大失態だった。
上陸船団の護衛という本来の任務を放り出したF部隊の失態は軍法会議に発展している。
堀GF長官の積極策は全て、遊撃戦艦の伊勢と日向を突入させるための壮大な囮だった。
イギリス軍が作戦失敗を認めてマダガスカル島から撤退したのは1942年5月29日のことだった。装備を捨てて東洋艦隊の各艦に乗り込んだ陸兵は南アフリカまで後退し、艦隊もそのままケープタウンを母港にした。
日本軍がマダガスカルに進駐を果たしたのは1942年6月3日のことである。




