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ソ連が強すぎて倒せない件について



 ソ連が強すぎて倒せない件について


 1941年5月3日、日本軍は鴨緑江を渡り、満州へと侵攻した。

 これは敵前渡河であったので、事前に激しい準備砲撃が実施され、対岸のソ連陣地を完全に破壊した上で実施された。

 それにも関わらず日本軍はソ連軍の激しい抵抗に遭い多くの犠牲者を出すことになった。

 日本軍の準備砲撃の多くはデコイに吸収され、ソ連軍の多くは陣地転換により軽微な損害で日本軍の敵前渡河を待ち構えていたのである。

 ソ連軍の巧みな防衛戦を指揮したのは、ソ連軍を統べるミハイル・トゥハチェフスキー元帥の愛弟子として名高いゲオルギー・ジューコフ大将だった。

 これから3年に渡って日本軍に煮え湯を飲ませる男は、日本軍の鴨緑江渡河においても眉根一つ動かさず、


「歓迎しよう。盛大にな」


 と述べて防衛戦への自信をのぞかせた。

 ソ連軍の満州防衛にかける意気込みは本気だった。

 1931年の満州革命以来、満州はソビエト連邦の構成国となり、その開発には多額の投資が行われてきた。

 なぜそれほどの重工業が満州に建設されたかといえば、遼東半島の存在が大きかった。

 遼東半島は大連・旅順といった天然の良港を有し、ロシア念願の不凍港であった。

 帝政ロシア時代から遼東半島は極東におけるロシアの政治・経済・軍事戦略の起点となる場所で、シベリアの地下資源を満州で工業製品に加工し、旅順・大連から輸出することはロシア帝国から継承されたソ連の極東経済戦略の基本だった。

 さらに1935年には満州北部で巨大な油田が発見され、第3バクー油田(黒龍江油田)として集中的な開発が行われた。

 油質は悪いものの火力発電用としては十分だったため、黒龍江油田の開発により、満州・シベリア経済は飛躍的に発展した。

 鞍山製鉄所もロシア帝国時代にフランス資本により建設され、ソ連の投資により鉄鋼生産量は600万tまで拡大し、極東・シベリア経済の要となっていた。

 この数字は日本の八幡製鉄所を上回り、併設された軍需工場(鞍山トラクター工場)では最新鋭戦車のT-34すら生産していた。

 極東のソビエト軍を支えるのは満州に建設された重工業地帯だったのである。

 ソ連軍が満州防衛に動員した兵力は74万だったが、それだけの兵力を投入する価値はあった。

 対する日本陸軍が編成した満州総軍の総兵力は56万だった。これに大韓帝国陸軍の45万が加わる計算だった。

 なお、大韓帝国軍は機械化が遅れた歩兵主体の軍隊だったが、装備の多くは日本軍と共通で、歩兵戦闘なら日本陸軍と遜色ないレベルに達していた。

 日本の4分の1以下の経済力しかない韓国にこれだけの規模の陸軍が編成できたのは、海軍を捨てているためである。

 ただし、戦車や砲兵、航空戦力と言った重装備に欠いているため、韓国軍が担当したのは専ら後方警備だった。

 満州総軍の総司令官には石原莞爾大将が就任した。

 平時の日本陸軍は13個師団体制、総兵力18万だったことから第二次世界大戦勃発から2年足らずで戦力を3倍に増やした計算だった。

 さらにインド洋侵攻を担当する南方軍12万もあるので軍拡は4倍以上といえる。

 こうした軍拡が可能となったのは日本陸軍が営々と蓄積していた予備役や文系大学生の動員(学徒動員)といった人的資源の確保もさることながら、アメリカからの武器輸入が大きかった。

 1940年の大統領選挙で共和党のウィルキーが当選すると日米関係は冷却化したが、日米協商体制が無効になったわけではない。

 日本は戦争遂行に必要な軍需物資をアメリカから大量に買い付けることができた。

 ウィルキー大統領も国内経済のために積極的に輸出に応じた。

 1941年3月には民主主義のための兵器廠 (アーセナル・オブ・デモクラシー)の名のもとに、ツケ払いを認めるレンドリース法が成立し、日本軍は無尽蔵とも呼べるアメリカの兵器生産能力を活用できることになった。 

 イギリスもレンドリース法の適用対象となり、アメリカから大量の武器弾薬を購入した。

 ソ連とドイツは平和の敵として経済制裁が発動され、アメリカからの輸入は不可能になった。

 レンドリースの条件としてソ連とドイツへの転売は禁止されたがそれも程度の問題だった。

 ガソリンや工業原料のような無記名の軍需物資まで追跡調査できるはずもないからだ。

 アメリカは日英への武器輸出で潤い、ドイツとソ連(平和の敵)は疲弊していくという一石二鳥の戦略だった。

 もちろん、莫大な借金を背負うことになる日英は、どちらが勝っても戦後に大きなハンデを背負うことになり、アメリカに頭があがらなくなるのは言うまでもないことである。

 ただし、戦後の外交的な孤立については考えていないのか、それとも考え付かなかったのかは不明である。

 仮に英ソ連合が勝てばヨーロッパとアジアの赤化は免れずアメリカは孤立するしかない。

 日独枢軸が勝てばヨーロッパはナチズムに支配され、日独枢軸にアメリカは東西から包囲されることになる。

 孤立を避けるためには日英米のジャングロ・アクシズによる勝利しかないのだがモンロー主義と戦争回避で選挙に勝利したウィルキー政権に、それは政治的に不可能だった。

 先の話は後述するとして、満州総軍に所属する日本兵の多くがアメリカ製の武器を手にしていたのはこのような背景があった。

 なお、アメリカ軍の装備は概ね日本製よりも作りが高級で現場の兵士からは好評だった。

 フルオート射撃ができるB.A.Rや射程や威力に優れるM2重機関銃はその後の日本陸軍の兵器開発に多大な影響を与えた。

 セミオートライフルのM1ガーランドも1942年から供給された。

 正面装備だけではなく、アメリカ製の小型軽量な無線通信機器は指揮系統の近代化に貢献するところが大きかった。

 極めて強力なソ連軍の地上戦力に対して、日本軍は航空支援で対抗しようとしており、そのためには無線通信機器の大量配備が必要不可欠だったのである。

 航空戦力のアメリカ依存は陸戦兵器よりもなお強く、日本陸海軍の作戦機はほぼ100%がアメリカ製の100オクタンガソリンと高品質潤滑油で動いていた。

 アメリカ製のガソリンで飛ぶ日本陸軍航空隊は侵攻作戦に先立って航空撃滅戦を展開し、満州南部のソ連軍航空基地を爆撃した。

 日本陸軍の主力戦闘機は九九式戦闘機だった。

 挿絵(By みてみん)

 九九式戦は川崎航空機が送り出した重戦闘機で、BMW型から発展したハ40(V型液冷12気筒エンジン(1,050馬力))を搭載し、ホ103を4門搭載していた。

 Bf109E型に近い一撃離脱型の戦闘機で、日本陸軍機で初めて水平速度が時速500kmを越えた機体だった。中ソ事変の戦訓を反映し、防弾装備も当初から用意されていた。

 ソ連空軍の主力機は旧式化したI-16やI-15であったから、九九式戦の敵ではなかった。

 新型のYak-1やMIG-3、I-185などといった新型機はヨーロッパ優先のため、制空権は概ね日本軍のものだった。

 さらに陸軍航空隊はアメリカからの輸入機も併用しており、P-40を使用していた。

 九九式戦とP-40は飛行特性が似通っており、火力に関しては12.7mm機銃を6丁装備するP-40の方が上だったが、その分運動性が低かった。ただし、外側の機銃2丁撤去すると九九式戦とほぼ同等になる。

 P-40も旧式なI-16を相手にするなら十分な機体で、頑丈な機体を生かして航空基地への銃爆撃にも使用された。

 日本陸軍のパイロットは軽快な九七式戦に比べると運動性の低い九九式戦やP-40を感情的な理由で嫌っていたが、戦闘を重ねるにつれて意見を変えるものが多かった。

 I-16の改良型は防弾装備が充実しており、九七式戦の火力ではなかなか撃墜できなかった。

 九七式戦の軽快さを引き継いだ一式戦闘機も配備されたが直ぐに火力不足となり、大量生産には至らなかった。

 戦闘機の相手ならともかく、ソ連軍は装甲攻撃機シュトゥルモヴィークのような厄介な敵がいたのである。

 日本陸軍航空隊のパイロット達が求める運動性と火力を同時に実現した機体が現れるのは1941年末で、レンドリースで購入したP-39がそれにあたる。

 輸出用に排気タービンをオミットしたP-39はイギリス空軍から返品を食らうなど散々な評価だったが、低空でソ連軍機と血みどろの殴り合いをやっていた日本陸軍航空隊からは絶賛された。

 大戦中にP-39は改良型を含めて8,000機近く生産され、その全てが日本陸軍航空隊に引き渡されている。

 日本陸軍航空隊のパイロット達は、


「1機でも多くのカツオブシを満州によこしてくれ」


 とアメリカのベル・エアクラフト社に嘆願書を送っている。

 カツオブシとはP-39のことで、ミッドシップ配置のエンジンから来る独特なデザインの日本的な表現である。

 アメリカ陸軍航空隊はP-39の37mm機関砲で対地攻撃でもやっているのだろうと考えていたが、P-39は満州で純粋な戦闘機として運用された。

 満州総軍の侵攻作戦が成功したのは制空権の確保が大きく、強大なソ連軍の砲兵火力もT-34も空爆には脆かった。

 ただし、ベテランの乗ったT-34は手強い相手で、日本軍の一式中戦車は苦戦を強いられた。

 T-34(1940年型)は、低いシルエットで遮蔽物にも潜みやすく、背の高い一式中戦車に比べて隠蔽に優れていた。

 さらに幅広の履帯を装備することで走破性も高く、高速発揮に向いたクリスティー式サスペンションも相まって、一式中戦車は翻弄された。

 一式中戦車は、九七式中戦車の発展型で問題の多かった車体砲を廃止して、回転砲塔に九〇式野砲を転用した75mm戦車砲を搭載した歩兵戦車で、正面装甲は80mmもあった。

 九七式中戦車は装甲板をリベットで接合していたが、砲撃の衝撃でリベットが外されて高速で車内を跳ね回り危険だったので一式中戦車からは全溶接となっている。側面装甲は九七式中戦車と同じ60mmのままだが、車体の溶接化で額面上以上に防御力は向上していたと言える。

 一式中戦車の火力と防御は1941年時点では世界最高クラスだった。

 しかし、歩兵戦車であるため速力は低く時速22kmが限界だった。

 一式がどれぐらい遅いかといえば、トラックで移動する歩兵についていくことができないぐらい遅かった。

 戦車を前面に出して前進するドイツ軍やソ連軍に対して、日本軍は歩兵のあとに戦車が続くといった運用になっていたのである。

 一式中戦車は「歩兵は歩くもの」という前提に設計された最後の歩兵戦車だったと言える。

 挿絵(By みてみん)

 砲塔旋回速度も遅いため、機動性の高いT-34との接近戦は不利だった。

 赤軍元帥のミハイル・トゥハチェフスキーの強い後押しで開発されたT-34は、赤軍兵士からは「ミハイルの子供達たち」と呼ばれ、絶大な信頼を寄せられた。

 ミハイルの子供達の大きい方である重装甲のKV-1重戦車などは一式ではどうにもならず、砲兵か航空支援を呼ぶしかなかった。

 一式中戦車の火力と装甲に自信を持っていた日本陸軍の受けた衝撃は大きく、T-34ショックと呼ばれる一大センセーションを巻き起こした。

 だが、制空権を確保していた日本軍はじりじりと戦線を押上げ、1941年5月26日には遼東半島の付け根にある南山を占領して、遼東半島の封鎖に成功した。

 先端に旅順要塞を擁する遼東半島は、黄海の制海権確保のためには絶対に占領する必要があり、要塞攻略部隊として第3軍団が投入された。

 旅順要塞に立てこもったソ連艦隊は、海軍航空隊の執拗な爆撃にも関わらず未だ健在だった。

 ソ連海軍は停泊中の艦隊が空爆には無力であると考えて、1930年代後半に爆撃から艦艇を守るためにコンクリート製の防空壕を建設していた。

 旅順艦隊の潜水艦や巡洋艦、駆逐艦は防空壕の中で待機しており、旅順を封鎖する日本艦隊の隙を見ては出撃し、日中間のシーレーンを脅かしていた。

 艦艇を空爆から守るブンカーは同じものをドイツ軍も北フランスのUボート基地用に建設中で、ソ連海軍には先見の明があったと言えるだろう。

 第3軍団の司令官を務める本間雅晴中将は慎重に砲兵の前進を待って遼東半島攻略に臨み、1941年6月10日に大連を占領した。

 ソ連軍は戦力を要塞に集中させるために大連を放棄していた。

 大連は満州最大の商港であり、ソ連海軍の造船所があった。

 日本海軍は大連でソ連海軍の大型戦艦と小型戦艦が各1隻ずつ建造中という情報を掴んでいたので直ちに調査隊が派遣された。

 その結果は恐るべきものであった。

 大連にあったソ連海軍の秘密ドックの中には、60,000tもある爆破処分済の巨大戦艦の船体が横たわっていたのである。

 日本海軍はソ連の新型戦艦は40,000t級と見積もっていたが、実際に建造が進んでいたソビエツキー・ソユーズ級戦艦は予想よりも10,000t以上も大きかった。

 同じく爆破処分済だった小型戦艦のクロンシュタット級は20,000t級ではなく、実際には38,000tという条約型戦艦並であることが判明した。

 長門型でも対抗不能な赤い巨大戦艦が完成する前に大連が陥落したことに日本海軍の調査隊は胸をなでおろした。

 しかし、捕虜を尋問した結果は否であった。

 ソビエツキー・ソユーズ級戦艦3番艦ソビエツカヤ・マンチュリアは既に完成しており、旅順要塞港で艤装工事中であるという情報が入ったのである。

 すぐに旅順に対する航空偵察が実施された。

 結果、巧妙に偽装が施された巨大戦艦の存在が確認された。

 航空偵察はそれまでも何十回と実施されていたのだが、偽装工作が完璧だったことや、あまりにも巨大な船体を要塞砲台の一部であると勘違いしていたのだった。

 幸いなことに、ソビエツカヤ・マンチュリアの艤装工事は完全な状態ではなく、3つある砲塔は2つしか装着されていなかった。艦橋の類も工事中だったので戦艦としての戦闘力はない等しい。

 しかし、16インチ砲塔の2つは使用可能と考えられた。

 ソ連軍は要塞防衛のためにソビエツカヤ・マンチュリアを浮砲台として使うつもりだったのである。

 本間中将は要塞攻略には火力の集中を以てするしかないと考えており、大小新旧を合わせて火砲1,000門を掻き集めている最中だった。

 日本陸軍に一門しかない九〇式二十四糎列車加農や沿岸要塞用の30サンチ榴弾砲まで動員するという徹底した火力集中を図ったものの、それらの火砲ではソビエツキー・ソユーズ級戦艦の装甲を貫通することはできないと考えられた。

 急ぎ対策が検討され、最終的に空爆による排除が選択された。

 海軍新鋭の一式陸上攻撃機24機が用意され、戦艦長門の15インチ砲弾をベースに開発された700kg徹甲爆弾による水平爆撃が実施された。

 結果は悲惨なもので、対空砲火によって5機が撃墜され、攻撃隊の半数が修理不能で廃棄処分されるという結果に終わった。

 浮き砲台になったソビエツカヤ・マンチュリアの周りには彼女に搭載される予定だった対空砲が設置されており、手ぐすね引いて日本軍の爆撃を待ち構えていたのである。

 また、命中した700kg徹甲爆弾はソビエツカヤ・マンチュリアの装甲表面を傷つけただけで貫通したものは一発もなかった。

 水平爆撃は3回繰り返され、その全てが無効と判定された。

 海軍の面子丸つぶれであった。

 焦った海軍は小型潜水艦による片道攻撃まで真剣に検討するほど理性を亡くしかけたが、旅順港の防潜網は厳重で潜入は不可能と判断された。

 最終的に日本海軍は建造中の大和型戦艦の砲弾(18インチ)を改造した大型爆弾をぶつけるとういうかなり力任せな結論に至った。

 急ぎ用意できた爆弾は僅か3発しかなく、しかも重量が1.2tもあった。

 公算攻撃になる水平爆撃では命中は期し難いことから、急降下爆撃が選択された。

 問題は、日本には1.2t爆弾を抱いて急降下爆撃できる飛行機がないことだった。

 一応、九九式艦上爆撃機や九九式陸上爆撃機でテストが行われたが、前者は空中分解し、後者は引き起こしができずに地面へ激突するという有様だった。

 挿絵(By みてみん)

 万事休すである。

 旅順攻略は諦めて封鎖に留めたらどうかと慎重策に大勢が傾く中、転機は思わぬところからもたらされた。

 テストで空中分解する九九式艦爆を偶然目撃した日独合同義勇軍「鷹の爪軍団」のあるパイロットが、スツーカなら問題ないと意見具申したのである。

 鷹の爪軍団は大戦勃発や日本参戦で存在意義が失われており、機材やパイロットの消耗から活動は休止状態だった。

 件のパイロットも横須賀にある海軍航空技術廠で新型艦上爆撃機(後の二式艦爆)のテストパイロットとして無聊をかこつ日々を送っていた。

 しかし、彼は猛烈と表現する他無いほどの戦闘意欲に満ちあふれており、繰り返し前線勤務を志願して周囲を困惑させていた。

 ハンスというドイツではありふれた名前(日本の太郎や一郎に相当する)の急降下爆撃機パイロットは自らの手でソビエトの巨大戦艦を沈めてやろうと考えたのだった。

 ハンスの意見具申は、テストの結果概ね事実と認められた。

 Ju-87は簡単な改造で、1.2t爆弾を搭載して急降下爆撃ができるほどの機体強度が確保されていた。

 九九式艦爆は艦上運用のための軽量構造であり、九九式陸爆はもともと陸軍の軽爆撃機だったことから、Ju-87ほどの機体強度がなかったのである。

 すぐにサンプル用に残っていたJu-87(B型)が集められ改造を施された。エンジンなども空技廠によってできるだけチューンナップされた。

 模擬爆弾を搭載してテストした結果、なんとか爆撃可能であると判定された。

 ただし、飛行そのものが恐ろしく難しく、訓練時間もないことから鷹の爪軍団のドイツ人パイロットが招集(件のハンス氏も含む)され、奇襲爆撃部隊が編成された。

 理想的な奇襲のために、囮となる水平爆撃部隊が用意され、漸く戦地に到着した九〇式二十四糎列車加農が対空砲制圧射撃を行う手はずとなった。

 奇襲攻撃決行は1941年7月7日と決まった。

 攻撃は囮の水平爆撃により始まり、位置を暴露した対空砲火を制圧するために九〇式二十四糎列車加農が初めて敵に対して砲撃を行った。

 砲戦距離は42,000mという凄まじいもので、これは大和型戦艦の最大射程距離に等しいものであった。

 制圧砲撃を受けて対空砲火が沈黙する中、3機の特別改造を施されたJu-87がソビエツカヤ・マンチュリアの上空に侵入し、急降下爆撃を行った。

 3機のうち1機は対空砲火により撃墜されたが、2機は投弾に成功した。

 ハンスの投下した1.2t爆弾がソビエツカヤ・マンチュリアの第2砲塔天蓋を叩き割り、内部に突入した後、信管を作動させた。

 第2砲塔は砲弾誘爆によって完全に破壊された。

 第1砲塔も艦内火災のために弾薬庫に注水したことにより使用不能となり、ソビエツカヤ・マンチュリアは完全に沈黙した。

 これが後にレフ・トロツキー書記長からソ連人民最大の敵と名指しされ、永田鉄山首相からマスター・アジアの異名を送られることになるハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐の伝説的な戦いの始まりだった。

 ソビエツカヤ・マンチュリアの沈黙により、第3軍団は旅順要塞に対する総攻撃を敢行。1,000門の火砲で要塞の砲台、トーチカを虱潰しにしていった。

 ルーデル(当時は少尉)もJu-87で出撃(勝手に)し、急降下爆撃でこれを支援した。

 旅順要塞陥落は1941年8月1日である。

 ソ連旅順艦隊は防空壕の中で自沈して果てた。

 ウラジオストクへ脱出できたのは潜水艦だけで、それも日本軍の設置した機雷や追撃掃討戦で僅か3隻しかたどり着けなかった。

 なお、破壊されたソビエツカヤ・マンチュリアは日本軍に鹵獲され、大連で爆破処分されたソビエツキー・ソユーズ4番艦の部品を流用することで修理された。不足するパーツは日本製の部品で補填され、1943年1月に戦艦石見として日本海軍に就役することになる。

 旅順陥落で満州侵攻作戦は初期の目標を達成したが、戦線はいよいよ拡大するばかりだった。

 同年8月には中国最大の鋼都である鞍山市を巡る攻防戦が始まる。

 アジア最大級の製鉄所やT-34を生産していた戦車工場を擁する鞍山市は日本軍としてもなんとしても確保していおきたい重要拠点だった。

 故にその守りは堅く、市街地の尽くが要塞化されており、日本軍はソ連軍排除に手を焼いた。

 日ソ軍は市街地の寸土の土地を巡って激戦となり、結果として日本軍は急速に戦力を消耗していくことになる。

 鞍山市の製鉄所やトラクター工場は砲爆撃の中でも操業を続け、T-34と武器弾薬をソ連軍に供給し続けた。

 結局、日本軍は鞍山市を陥落させることができず、降雪と共に始まったソ連軍の冬季反撃で大打撃を受けて全面撤退を余儀なくされた。

 補助攻勢として実施された沿海州への侵攻も、ウラジオストックを包囲したものの冬季反撃で攻勢開始地点に逃げ帰るという散々な失敗に終わった。

 ジューコフ大将は、日本軍をできるだけひきつけて消耗させた上で、ロシア伝統の冬季反撃で日本軍を一蹴したのである。

 極東ソ連軍が日本軍を殲滅できなかったのは、ただ単にそれが可能なだけの兵站能力がないだけのことであり、東部戦線最優先の結果でしかなかった。

 満州総軍を率いる石原大将も、


「今の我々では奴らには勝てない」


 と作戦の拙さを反省している。

 満州での激戦は、南方作戦の成功で戦争を楽観視していた日本の国内世論に冷水を浴びせるには十分な効果があった。

 雪の中で満州戦線が停滞したが、他の戦線もまた似たような状態だった。

 ワルシャワ陥落後に冬を迎えて止まっていた独ソ戦は、ドイツ軍が雪解けを待って反撃に転じてポーランドからソ連軍を排除しようとしていた。

 ソ連空軍はポーランド東部からベルリンを爆撃圏内にとらえており、ヒトラー総統はソ連軍機の跳梁に怒り心頭だった。

 前年に装甲部隊の多くを失っていたソ連軍はじりじりと戦線を後退させた。

 反撃を転じたドイツ軍の先頭を行くのは、Ⅴ号戦車レオパルドだった。

 挿絵(By みてみん)

 Ⅴ号戦車レオパルドは、中ソ事変で大活躍した九七式中戦車に衝撃を受けたドイツ軍がⅢ号戦車の設計を全面的に改定した戦車で、防御力と火力を改善するため車重は30tまで増えていた。

 Ⅴ号戦車は60mmの傾斜装甲を備え、長砲身75mm砲(43口径)を装備するなど、試作だけで終わったⅢ号戦車よりも大幅に進化した戦車になっていた。

 1941年9月までにドイツ軍はポーランドからソ連軍を排除することに成功した。

 しかし、それは誘いの罠だった。 

 ドイツ軍の消耗を見計らって、ソ連軍は降雪と同時に奇襲反撃に出た。

 作戦名は水星”メルクーリー”

 ソ連軍は突如としてバルト三国へ侵攻。殆ど無防備だったリトアニアを通過して、東プロイセンごとドイツ軍を包囲したのである。

 東部戦線全域を指揮する権限を与えられたエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥(1940年12月に昇進)は包囲された前線部隊に全周防御を命じると共に、戦略予備を投入して東プロイセン解放を試みた。

 ソ連軍を統べるトゥハチェフスキー元帥は前年の戦いから多くを学んで、自軍の弱点を補うために小さな規模の反攻に徹した。

 ソ連軍の泣き所は補給の弱さだった。

 具体的には輸送力が足りなかった。

 武器弾薬の生産量は重工業への傾斜的投資によって飛躍的に増大していたが、それを前線に運ぶ輸送面には隘路があったのである。

 特にトラックの数が一桁足りていなかった。

 ソ連の自動車産業の育成は、そもそも自動車を買えるほどの購買力が民間にないため、上手くいっていなかった。

 もしも1930年代に米ソが接近し、アメリカがソ連の自動車産業にテコ入れしていたらももう少し違う風景があったかもしれない。しかし、満州革命で米ソ関係は極度に悪化したままで、その後の中ソ事変で止めを刺されており、米ソが接近する余地はなかった。

 もちろん、平和の敵であるソ連にレンドリース法が適用されることはない。

 防衛戦ならそうした輸送面の弱さが目立たない(事前に集積しておけるため)が、攻勢に出たときに弱さが露見することになった。

 ソ連軍の戦車部隊は戦車に予備の燃料タンクや規定数以上の砲弾を積み、さらに武器弾薬食料を満載した補給部隊と一緒に行動していた。

 手元の弾薬と燃料を使い切ると戦車部隊はその場で停止して、後ろに続く次の梯団に攻撃をバトンタッチすることで無停止攻撃を行うのがソ連流の機動戦だった。

 トラックが足りなくて継続的な補給ができないのなら、補給部隊を帯同させた攻撃部隊を梯団で突入させ、次々に使い捨てにすればいいというのがソ連流の解決方法だったのである。

 短距離の侵攻作戦なら問題ないのだが、進撃距離が長くなるとアラが目立つことになる。

 その隙を突くのは機動戦の天才(マンシュタイン)にとっては簡単なことで、それが前年の敗北につながったとトゥハチェフスキーは分析した。

 北方戦線で反撃にでたソ連軍は、東プロイセンの狭い戦域で限定的な攻勢にでることで、自軍の弱点を補っていた。

 さらにソ連軍は期待の新兵器を投入した。

 バルト海の怪物こと、ソビエツキー・ソユーズ級戦艦の1番艦ソビエツキー・ソユーズがついにドイツ海軍の前に姿を現した。

 挿絵(By みてみん)

 ケーニヒスベルクに追い込まれたドイツ軍は海上輸送で避難民の輸送と補給を行おうとしたが、ソビエツキー・ソユーズにより制海権はソ連海軍の手に落ちた。

 ドイツ海軍のレーダー提督は戦艦ビスマルクとティルピッツを投入して、ケーニヒスベルクを砲撃するソビエツキー・ソユーズに立ち向かったが、返り討ちに遭って母港に逃げ帰った。

 18インチ砲ですら耐えるソビエツキー・ソユーズに15インチ砲しかないビスマルクやティルピッツでは対抗不能だった。

 バルト海海戦の敗北を受けてヒトラーは対抗艦として、17インチ砲搭載のH級戦艦の建造再開を指示したが、H級が完成するのは1947年のことである。

 ソビエツキー・ソユーズの砲撃はケーニヒスベルク救援に向かうドイツ軍装甲師団を一つまるごと吹き飛ばすなど、水上艦艇による対地砲撃の破壊力を見せつけた。

 マンシュタインは冬の嵐作戦を発動し狭い脱出路を確保して兵員と避難民を救出したが、重装備と東プロイセンは諦めるしかなかった。

 ソ連軍の奇襲攻撃とその後の反撃によって、ドイツ軍はついに死傷数が150万人を超えることになり、軍組織の維持に黄色信号が灯った。

 1940年8月までドイツ陸軍の師団増設は非常に早いペースで進められており、1941年8月までに兵員総数300万になる予定だったが、1941年12月までに東部戦線に配置できた兵力は150万人しかなかった。

 対するソ連軍も凄まじい出血に苦しんでいたが、東部戦線にはなおドイツ軍を数的に上回る250万の兵員を確保していた。

 並行してソ連は満州に74万、中国に100万の兵力を派遣しており、その動員は広大な領土と人口を抱えるソ連にしか不可能なものだった。

 もしも、ソ連軍が中国や満州で日中と向かい合う状況でなければ、独ソの兵力差は3倍に達してベルリンは1941年中に陥落していただろうと言われている。

 ドイツ軍は東プロイセンを失った上に、ポーランドからソ連軍を排除するという当初の目的も結局、果たすことができなかった。

 さらにポーランドとソ連の国境には、トロツキーラインと呼ばれる戦前に建設された要塞線があり、その突破は既に大打撃を受けているドイツ軍にとっては困難だった。

 ヒトラーはソ連の穀倉地帯ウクライナへの侵攻を諦めていなかったが、マンシュタイン元帥の説得と現実に屈してポーランドに東方防壁オストヴァルの建築を命じた。

 東方生存権の確保はナチズムのドグマだったが、ソ連軍の戦闘能力はドイツ軍の想定を遥かに上回っており、逆侵攻など到底覚束なかった。

 幸いなことにポーランドまでは鉄道がドイツと同じ標準軌であるため、軍用列車の運行が容易なことや、ドイツ本国まで距離が近いこともあって東方防壁の建設は順調に進んだ。

 以後、ポーランド正面では独ソ両軍が要塞線を挟んで睨みあうことになる。

 それは1915年の悪夢を各国に思い起こさせるには十分だった。

 1915年の悪夢とは、ベルギーの浜辺からスイスまで延々と続く塹壕線を挟んだ長期持久戦であり、おびただしい人員と資源の浪費であった。

 25年前にその浪費に国家が耐えきれず、帝政の崩壊を経験したドイツとソ連にとって、何よりも避けたい悪夢といえた。

 その悪夢を繰り返さぬために、各国は塹壕を飛び越えてお互いの中枢を破壊する戦略兵器の開発に狂奔することになった。

 その種の戦略兵器開発で先行していたのはイギリスで、ランカスター重爆撃機の生産配備は順調に進んでいた。

 ドイツ戦時生産の中枢であるルール工業地帯はその爆撃圏内に全て収まっており、イギリス空軍はバトル・オブ・ブリテンの借りを返すときが来たと息巻いていた。

 イギリスのウィンストン・チャーチル首相が懸念していたのは、ドイツの戦略兵器であるUボートだけだった。

 イギリス空軍のボマーコマンドがルール工業地帯を焼き尽くす前に、ドイツの海狼達によってイギリス商船団が食い尽くされれば、戦争はイギリスの敗北で終わる。

 イギリスの敗北はドイツに東部戦線終結に全力を尽くさせることになり、ソ連にとっても敗北を意味していた。

 ただし、ドイツは既に包囲されており、戦争遂行に必要な資源のいくつかがその領域内にないため、時間経過で先に息切れするのはドイツの方だった。

 ヒトラーが東方防壁を敗北主義的と拒んだのもある意味正しく、ウクライナとバクー油田への侵攻以外にドイツの戦時経済が自給自足することは不可能だった。

 防壁は時間稼ぎにしかならないのだ。

 ドイツにとって唯一の希望は東から来る者たちであった。

 日本海軍のインド洋侵攻が失敗に終われば、ドイツは封鎖の中で窒息死するしかない。

 ドイツの死は、すなわち日本の敗北を意味していた。

 戦争のキャスティングボートを握ることになった日本海軍連合艦隊が、セイロン島攻略のためにリンガ泊地を出撃したのは、1941年11月26日だった。

 




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― 新着の感想 ―
[気になる点] アメリカからレンドリースを受けるイギリスと日本が闘うとか、両方に武器を売り払って大儲けしているアメリカはまさに死の商人ですな(その内その地に住む民衆の人道的なんちゃらとか何だかんだ理由…
[気になる点] 一式がどう見てもカエルの国の戦後初の重戦車に見えるな。チハたんがカエルの国の重戦車だから仕方ないのかな?
[一言] イギリスもやっぱりレンドリース対象になりましたか、尚更対ソ戦の前にイギリスに宣戦布告したのは(南方油田確保したのもドイツに届けれて無いみたいだしインド取ってもドイツに向かうにはまだ沢山の障害…
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